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3.再起

 三井が東亜製鉄四日市へ練習しに来る旨を坂田への説明した。すると予想外にも練習の許可はすんなり取ることができた。

 やはりプロ野球選手が間近で練習するということはうちの選手にとっても大きな刺激となりうるだろう。

 許可が取れたことを三井にさっそく連絡すると、電話口で一瞬の沈黙があった。そして、震える声で「本当にいいのか?」と聞き返してきた。「もちろんだ。いつからでも来い」と答えると、「明日から行く。いや、今すぐにでも」という返事が返ってきた。その声には、長い間失っていた何かを取り戻そうとする必死さが滲んでいた。

 翌朝、東亜製鉄四日市のグラウンドに三井が現れた時、チームメイトたちは驚きを隠せなかった。グラウンドに隣接する駐車場に停まった真っ赤なスポーツカーから降りてきた三井を見て、練習の手が止まった。

「マジでプロが来るのか……」

「名古屋アウルズの三井だろ? ドラフト1位の」

「でも、だいぶ太ったな……」

 ざわめきが広がる中、三井は誰に対しても丁寧に頭を下げた。まずは監督に、次にコーチ陣に、そして選手一人一人に挨拶して回る。その謙虚な態度には、かつてのプロ野球選手としてのプライドは微塵も感じられなかった。むしろ、どこか必死で、藁にもすがる思いが伝わってきた。

「三井要です。プロでは成績を残せていませんが、ここで一から出直したいと思っています。迷惑をかけるかもしれませんが、よろしくお願いします」

 その言葉に、選手たちの警戒心は徐々に解けていった。ベテラン選手が中心となって最初に歩み寄り、「プロの選手が来てくれるなんて光栄だ。こっちこそよろしく」と手を差し出した。それを皮切りに、他の選手たちも次々と三井に声をかけていった。

 朝の軽い練習の後に午前中の製鉄業務に入り、それを終えた午後、私たちは本格的な練習に入った。三井は持参した練習着に着替えると、まず基礎練習から始めた。キャッチボール、素振り、ランニング。プロ野球選手としては地味すぎる内容だったが、三井の表情には真剣さが満ちていた。

 キャッチボールでは、私が相手を務めた。最初のうちは固さが目立ち、ボールが安定しなかった。三井の投げるボールは時折暴投気味になり、大きく動いてカバーする瞬間もあった。

「すまん、感覚が戻らなくて」

 三井が謝る。だが、私はそれに笑って返す。

「大丈夫だ。みんな午前中の作業で体が固まってる」

 そんなやり取りを見て、グラウンドの空気が少しずつ和んでいくのが分かった。

 素振りでは、三井の動きの鈍さが顕著だった。かつては鋭く、力強かったであろうスイングは、明らかにキレを欠いていた。体重の増加が、動きの俊敏性を奪っているのが一目瞭然だった。それでも、三井は黙々とバットを振り続けた。その姿は、どこか哀愁を帯びていたが、同時に何かを取り戻そうとする気概も感じられた。

「熊野、フリーバッティング付き合ってくれ」

 素振りを終えた三井が、汗を拭いながら声をかけてきた。他の選手たちの視線が一斉に私たちに集まる。プロの打者との対決を見たいという好奇心が、グラウンドに満ちていた。

 私はマウンドに立ち、昨日と同じように軽くウォーミングアップを始めた。三井はバッターボックスに入り、深呼吸をして構えた。その背中には、かつての栄光と現在の苦悩が同居しているように見えた。

 初球、インハイのストレート。

 三井のスイングは昨日よりも鋭いように見えたが、やはり空振り。バットが空を切る音が、静まり返ったグラウンドに響いた。

「くそっ……」

 三井が小さく呟く。その表情には悔しさが滲んでいた。

 二球目、インローのムービングファスト。

 これも空振り。三井のバットは明らかにボールの下を通っていた。タイミングは合っているのに、軌道の読みが甘い。

「もう一回!」

 三井が構え直す。その目には、諦めない強い意志が宿っていた。

 三球目。アウトローのシンカー。

 今度は三井の目がボールをしっかりと捉えていた。バットが鋭くボールに向かって振り抜かれる。木製バットから球を捉える乾いた音が響き、打球はレフト方向へ鋭いライナーで飛んでいく。防球ネットにあったことを示す軽い音がグラウンドに静かに響く。

「よし!」

 三井が小さくガッツポーツをする。その瞬間、周りで見ていた選手たちから拍手が起こった。その姿を見て、私の胸が熱くなった。これだ。これが本来の三井なんだ。肉体はまだ研ぎ澄まされてはいないが、野球に向き合う精神はあの頃の三井が戻ってきている。

 まだ、あの才能は消えていない。この才能は消えてはならないのだ。

 フリーバッティングは続いた。十球、二十球と投げ込むうちに、三井の調子は徐々に上がってきた。空振りは減り、ファウルが増え、そしてヒット性の当たりが出始めた。最後の方では、私のアウトコースのスライダーを逆方向にしっかりと運ぶシーンもあった。

「まだまだだな」

 練習を終えた三井が、苦笑いしながら言った。

「でも、感覚は少しずつ戻ってる気がする。お前の球、やっぱり面白いな」

「どういう意味で?」

 三井の言葉に疑問を覚えた私は真っ直ぐ問い返す。

「予測がつかない。同じように見えて、微妙に違う。アンダースローの独特な軌道も厄介だが、コース選びが上手い」

 三井の言葉に、私は少し驚いた。確かに人一倍、コースの選択は確かにこだわっている。アンダースローは独特の球筋を描くが、それに慣れてしまえばただの遅球だ。アンダースローに目が慣れた後、痛打されないためにも相手打者の特徴やカウント・左右別などを吟味して投球している。アンダースローピッチャーは頭脳派でなければならないというのが持論だ。

 やはり三井は鈍っているとはいえ、やはりプロの目を持っている。

 練習後、ロッカールームで三井がチームメイトたちと話し込んでいた。シャワーを浴びた後、選手たちは自然と三井の周りに集まっていた。曲がりなりにもプロ野球選手であることを実感する。

「社会人野球のレベル、思ってた以上に高いですね。特に午前中仕事してからこれだけ動けるのは尋常じゃない」

 チームメイトに淡々と語る三井の言葉に、そのうちの1人がが答える。

「プロと違って設備も整ってないし、練習時間も限られてる。でも、だからこそ一球一球に集中するしかないんです。無駄な練習をしてる時間はないのでね」

「そうか……」

 三井は何かを噛みしめるように頷いた。その表情には、自分がプロでいかに恵まれた環境にいたか、そしてそれをいかに無駄にしてきたかという後悔が浮かんでいるようだった。

「プロでは、トレーニング施設も最高級だし、専属のトレーナーもいる。食事も栄養士が管理してくれる。でも、俺はそれを当たり前だと思ってました。いや、それ以前に、野球を楽しむことを忘れてたのを痛感してます」

 三井の告白に、選手たちは静かに耳を傾けた。

「ここでの野球を見て、今日思い出したんです。俺が最初に野球を始めた時の気持ちを。あの頃は死に物狂いで野球に縋り付いてた」

 そんな言葉に三井が生まれ変わっているのを感じた。堕落しきった人間が再び再起をかけて立ち上がる姿は、親友としてこれほど胸打たれることはないだろう。



 その日から、三井の東亜製鉄四日市での練習が本格的に始まった。最初の一週間は、三井自身が自分の体の鈍りに驚き、そして絶望していた。

「くそっ、全然体が動かん……」

 ランニング中、三井が膝に手をついて息を切らせる。かつての巨漢は贅肉に覆われ、俊敏性を失っていた。グラウンド10周のランニングで、三井は他の選手たちから大きく遅れを取った。最後尾でヨロヨロと走る姿は、かつてのドラフト一位の面影はどこにもなかった。

「三井、無理すんなよ。最初から飛ばしすぎると怪我するぞ」

 私が声をかけると、三井は首を横に振った。

「いや、これが今の俺の現実だ。ここから這い上がらないと。お前らの練習についていけないようじゃ、1軍で活躍するなんて夢のまた夢だ」

 その言葉には、怠惰を積み重ねた自分への怒りと、同時に強い決意が込められていた。

 三井は、私たちが仕事をする午前中には必ず個人トレーニングの時間を設けた。またそれだけではなく、朝は誰よりも早くグラウンドに来て、ストレッチとジョギングを始めた。練習後も、他の選手たちが帰った後、一人黙々と素振りを続けた。

 そんな三井を見て、チームメイトたちも刺激を受けていた。特に若手の選手たちは、プロ野球選手が必死に基礎から積み上げる姿に感銘を受けているようだった。

「あの三井さんが、あんなに必死に練習してるんだから、俺らももっと頑張らないと」

 そんな声がどこからともなく聞こえるようになり、三井に当てられてか多くの選手が自主練習の時間を増やし始めた。その影響は徐々にチーム全体に広がっていった。三井とこのチームはwin-winの関係になっていることを示していた。

 2週間が過ぎた頃、三井の体調管理にも変化が現れた。食事を見直し、夜の暴飲暴食をやめた。代わりに、タンパク質を中心とした食事を心がけ、夜は早めに寝るようにしたそうだ。

「昔は練習後に飲みに行くのが当たり前だったんだけどな。今は、早く寝て体を回復させることが何より大事だって分かった」

 三井は自嘲気味に笑いながら、そう言った。

 3週間が過ぎた頃、三井の体つきが明らかに変わってきた。無駄な贅肉が落ち、筋肉の輪郭が浮き出てくる。顔つきもシャープになり、目の輝きが増していた。スイングのキレも増し、私の球を捉える確率が格段に上がってきた。

「熊野、お前の球、だんだん見えてきたぞ」

 フリーバッティング中、三井が自信に満ちた表情で言う。

「アンダースローは最初こそ独特な軌道に戸惑うけど、慣れてくると対応できる。でも、お前の球が厄介なのは、同じ軌道に見えて微妙に変化することだ。リリースポイントは同じなのに、球速、変化量、変化のタイミングが毎回違う」

「よく気づいたな」

 私は感心した。三井の野球に対する感覚が、着実に確実に戻ってきている。いや、戻っているだけでなく、以前よりも鋭くなっているようにさえ感じられた。

「それに、お前の配球は理詰めだ。カウントごと、状況ごとに最適な球を選んでる。だから打者としては読みづらい。感覚だけで勝負してたら、絶対に打てない」

「大学で勉強したからな。データ分析とか、配球理論とか。アンダースローは球速で勝負できないから、頭を使うしかなかった」

「そうか……俺もそういうの、ちゃんと勉強すべきだったな」

 三井が自嘲気味に笑う。

「プロに入ってすぐは、才能だけで何とかなると思ってた。体が大きくて、パワーもあって、プロのスカウトに見初められて。だから、努力することの本当の意味を理解してなかった。いや、理解しようともしなかった」

 三井の言葉には、深い後悔が滲んでいた。

「でも、今は違う。才能だけじゃダメだって分かった。努力の仕方、考え方、全部が大事なんだ。お前を見てると、それがよく分かる」

「俺も、まだまだだよ」

 私は謙遜したが、三井は首を横に振った。

「いや、お前はすごいよ。才能だけじゃなくて、努力と工夫の賜物だ」

 その言葉に、私は何も言えなかった。三井の目は真剣で、お世辞や社交辞令ではないことが分かったからだ。

 4週間目に入ると、三井の動きは別人のようになっていた。ランニングでは中位集団についていけるようになり、スイングは以前の鋭さを取り戻しつつあった。そして何より、三井の表情が変わった。以前の虚ろな目は消え、生き生きとした輝きが戻っていた。

「熊野、ありがとうな」

 ある日の練習後、三井が私に声をかけてきた。

「何が?」

「こんな俺を受け入れてくれて。正直、最初は断られると思ってた。プロで失敗した奴なんて、どこも欲しがらないだろうって」

 こんな自分を卑下する三井なんて、勝負を挑んだ時の三井からは想像できなかった。

「それは違うよ。お前には才能がある。それは今でも変わってない」

「才能か……でも、才能だけじゃダメなんだよな。それを、ここに来てようやく理解できた」

 三井の言葉には、確かな手応えが感じられた。こいつは、本当の意味で野球と向き合い始めている。そして、その姿は、かつてプロで挫折した男ではなく、新たな目標に向かって進む一人の野球選手のものだった。



 三井は一年最後の練習の後の年末年始、私を含めた東亜製鉄四日市の有志数人と自主トレーニングを行った。

 その成果あってか三井はプロ野球選手らしい肉体へと変化を遂げ、私たちが全力で放るボールなどいともたやすく打ち返すようになった。三井は1か月ほどの短期間で身も心も生まれ変わったのだ。

 年明け初めての練習。白息を上げてウォーミングアップのランニングをこなしている私たちを見慣れない人物が坂田と軽く談笑しながらこちらをうかがっている。年は50を過ぎたころだろうと何となく推測されるその人物は、遠く離れた私たちにも聞こえるほどの大きな声量で一方的に坂田へ話しかけている様子がうかがえる。

 チームメイト数名が怪訝な目でその人物を見つめる一方、三井は慣れた様子といった感じで気にも留めていなかった。するとほどなくしてしびれを切らしたチームメイトの一人が三井に尋ねる。

「三井さん。あの人って何者なんですか?」

 すると三井はけだるげそうにその質問を返す。

「ああ。あの人は名古屋アウルズの番記者・堀田だ。」

 番記者。さすがはプロ野球選手といったところか、オフシーズンにもかかわらず、取材が付くのかという驚きからかチームメイトからは感嘆の声が上がる。そんなチームメイトを尻目に三井は言いにくそうに口を開く。

 「……ただ、業界内からの評判は良くない。何しろ選手に強い言葉を捲し立てて、嵐のように去っていく。記者というよりはアクの強いファンみたいなもんだな」

 そんな言葉を聞いた後だと今、堀田に付き合わされている坂田の表情には軽い疲労と、困惑が読み取れるような気がした。

「だけど、記者をして長い。だから、重鎮として名古屋アウルズの取材陣を牛耳っている。でも、選手からも他の記者からも厄介者扱いされてるな」

 するとほどなくして堀田が坂田を伴ってこちらへ近づいてきた。その足取りは妙に軽快で、まるで獲物を見つけた猟犬のようだった。

「三井!三井要!」

 堀田は大声で妙になれ馴れ馴れしく三井の名を呼びながら、グラウンドを横切ってきた。その声は朝の静けさを破るように響き渡り、練習中の選手たちが一斉に足を止めた。

「ちょっと!まだ取材の許可は降ろしてませんよ!」

 坂田は堀田をそう一喝するが、その張本人は気にも留めない様子で三井にくぎ付けだ。

「三井選手、ここで何してるんですか?天下のプロ野球選手様が、こんな町工場のチームで!」

 堀田の言葉には、明らかな侮蔑の響きが含まれていた。私は思わず眉をひそめたが、三井は冷静な表情を崩さなかった。

「自主トレです。ここのチームの厚意で練習させてもらってます」

「自主トレ?冗談言わないで下さいよ!」

 堀田は下衆な笑いを静かなこのグラウンドに響かせながら、続ける。

「プロのキャンプが始まるまであと一週間しかないんですよ。こんなところでちんたら練習してる場合ですか?もうチームでの立場も崖っぷちなのに」

 堀田の言葉に、周囲の空気が凍りついた。チームメイトたちの顔に、明らかな不快感が浮かんでいる。私も拳を握りしめた。この男は、私たちのチームを、私たちの野球を、そして三井を馬鹿にしている。

「堀田さん」

 三井が静かに、しかし毅然とした声で言った。

「ここでの練習は、俺にとって必要不可欠なものです。むしろ、ここに来なければ、俺は野球選手として終わっていた」

 三井の言葉に堀田の頭には疑問符が浮かんでいるようだった。

「俺はここで野球の本質を思い出したんです。プロに入って、いつの間にか忘れていた、野球の楽しさを。そして、努力することの意味を。俺はここで再びルーキーになったんです」

 堀田は笑いをこらえきれないといった様子で三井を見つめる。その顔には三井を馬鹿にしていることが読み取れる。

「あんたは今年爪痕を残せなきゃクビだろう。なのに呑気にこんなところで練習して、挙句の果てには”綺麗事”を吐く。もう三井要のプロ野球選手生命は今年で終わりですね」

 そう吐き捨てて踵を返す堀田の背中に私は憤りを覚えた。三井は確かにクビ寸前のがけっぷちに立たされている。それは事実だ。だが、この男がそうやすやすと無抵抗でプロ野球界を去るとは思えない。いや思いたくもない。

 それはこの1か月間練習してきて実力を思い知ったのもそうだが、高校時代、野球に対する情熱を燃え滾らせ、あの頃の安濃津商業の大黒柱だったあの背中をチームメイトとして、バッテリーの相方として、そして親友として一番知っているからだ。

 私は思わず口を挟んでいた。自分でも驚くほど、感情が高ぶっていた。

「失礼ですが、あなたは野球をしたことがあるんですか?」

 堀田は私を見た。その目には、明らかな軽蔑の色が浮かんでいた。

「何だあんたは?選手か?」

「熊野といいます。このチームの投手です」

 私の返答に熊野は鼻で笑う。

「投手?ふん、社会人野球の投手が何を言うんだ?」

「三井は、ここで変わりました。完全に腐敗する寸前で三井は再び野球の本質に気づいたんです。生まれ変わろうともがいているんです。そんな必死な姿を見てないあなたに三井を馬鹿にする権利などない。今すぐ帰ってくれ」

 堀田は顔を真っ赤にする。

「あんたも綺麗事か。友情ごっこはさぞ楽しいだろうな!」

「綺麗事じゃありません」

 そんな怒りをあらわにする堀田に割って入ったのは坂田であった。

 「うちの選手は、午前中は製鉄所で汗を流し、午後にグラウンドに立つ。プロのような恵まれた環境は全くもってない。でも、だからこそ、一球一球に全力を注ぐ。それが、三井君の心に火をつけたんです」

 堀田は言葉を失った。その目には、明らかな動揺が浮かんでいた。

「三井君」

 坂田が三井に向き直った。

「君は、鳴り物入りのルーキーとしてプロに入った。周囲の期待は大きかった。でも、その期待に押しつぶされて、本当の自分を見失った部分もあるんじゃないか。違うか?」

 三井は黙って頷いた。

「だが、君はここで、もう一度ルーキーになった。野球を愛する、純粋な一人のルーキーに。それは、君にとって何よりも大きな財産になるはずだ」

 三井は無言で深く頭を下げた。その姿を見て、私の胸も熱くなった。

 「……勝手にしろ。だが、キャンプで結果が出なかったら、容赦なく書くからな」

 そう言い残して、堀田はグラウンドを去っていった。その背中は、どこか寂しげに見えた。

 静寂が戻ったグラウンドで、三井がゆっくりと顔を上げた。その目には、もう迷いはなかった。

「熊野、坂田監督、みんな……本当にありがとう」

 三井は改めて深く頭を下げた。

「俺は、ルーキーとしてもう一度やり直す。いや、ルーキー以下からだ。ここで学んだことを胸に、プロの世界でもう一度挑戦する」

 その言葉には、確かな覚悟が込められていた。

「だから、最後まで付き合ってくれ。お前の球を、もっと打ちたい。お前から学べることが、まだたくさんあるはずだ」

 私は笑って答えた。

「当たり前だ。お前が納得するまで、何球でも投げてやる」

 三井も笑った。その笑顔は、再会したときの虚ろな笑みとは全く違う、生き生きとしたものだった。

「じゃあ、行くぞ!」

 私たちはウォーミングアップを再開した。冬の冷たい空気の中、白い息を吐きながら、私たちは黙々と練習を続けた。


 

 三井が春季キャンプ地の沖縄へ旅立つ前日、私は三井を喫茶店に呼び出した。

 練習が終わって2時間以上たつのにも関わらず、三井からは「いまグラウンドにいるからちょっと遅れる」のメッセージ。これは今の時間まで練習をしていたことを示していた。

 この2か月間、三井は誰よりも早くグラウンドに現れ、だれよりもグラウンドに遅く残った。

 マメだらけで痛ましい手のひらや急激に痩せたことによる肉割れの後、びっしり書き込まれたノートが努力を静かに語っていた。

 三井が喫茶店に現れたのは、私が三井を呼び出す連絡をしてから30分以上過ぎた頃だった。ドアを開けて入ってきた三井の姿は、2か月前とは別人のようだった。引き締まった体、鋭い目つき、そして何より、その背中から漂う気迫が違っていた。

「悪い、遅くなった」

 そう軽く謝りを入れた後、ほどなくして三井は店員を呼び、ブレンドコーヒーを手短に頼んだ。夜8時過ぎの喫茶店は客もまばらだ。それもあってか注文の品が素早く届く。三井はそれを一口すすった後、私は口を開ける。

「三井、お前この2か月で変われたな」

 三井の目が少し驚いたように見開かれた。そして、ゆっくりとコーヒーカップをテーブルに置く。

 「ああ……自分でも信じられないくらいだ」

 三井は窓の外を見つめながら、静かに続けた。

 「最初にここに来た時、俺は終わってた。いや、終わりかけてたんじゃなくて、もう完全に終わってたんだ。野球への情熱も、努力する気力も、全部失ってた」

 その言葉には、過去の自分への率直な評価が込められていた。

 「でも、お前や坂田監督、チームのみんなを見て……俺は思い出したんだ。野球って、こんなに楽しいものだったんだって。こんなに必死になれるものだったんだって」

 「三井……」

 「お前たちは、午前中は製鉄所で働いて、午後にグラウンドに立つ。時間も限られてる。設備も整ってない。でも、その一球一球に込められた思いは、プロの誰よりも重かった」

 三井の声が少し震えた。

 「俺は恵まれた環境にいながら、それを当たり前だと思って、努力を怠った。才能があるから大丈夫だって、高を括ってた。でも、才能なんて、努力しなければただの幻想なんだよな」

 私は黙って三井の言葉を聞いていた。

「ここでの2か月間は、俺の人生で一番苦しくて、一番充実してた。毎朝、体が悲鳴を上げてた。夜は筋肉痛で眠れない日もあった。でも、不思議と楽しかったんだ」

 三井は私を真っ直ぐ見つめた。

「熊野、お前のおかげだ。お前がいなかったら、俺は今頃プロを辞めて、どこかで腐ってた」

「そんなことない。変わったのは、お前自身の力だ」

「いや、お前がいたから変われたんだ」

 三井は強く首を横に振った。

「お前の投球を見て、お前の野球への姿勢を見て、俺は自分が恥ずかしくなった。お前は、俺よりも才能がないかもしれない。でも、お前の野球に対する真摯な姿勢は、俺なんかよりずっと上だった」

 その言葉に、私は何も言えなかった。

「だから、俺は変わろうと思った。いや、変わらなきゃいけないと思った」

 三井はコーヒーを一口飲んでから、続けた。

「明日、沖縄に発つ。春季キャンプが始まる。正直、不安だよ。2か月間、ここで必死に練習したけど、それがプロで通用するかどうかは分からない」

「通用する」

 私は即座に答えた。

「お前の今の動きなら、絶対に通用する。いや、通用させてみせろ」

 三井は少し驚いたような顔をした後、静かに笑った。

「ありがとう。その言葉、嬉しいよ」

 しばらく沈黙が流れた。窓の外を、冬の冷たい風が吹き抜けていく。

「熊野」

 三井が口を開いた。

「俺、キャンプで結果を出す。絶対に1軍に上がる。そして……」

 三井は真剣な表情で私を見つめた。

「お前を待ってる。プロの世界で、お前を待ってる」

 その言葉に、私の胸が熱くなった。

「ああ、分かってる」

 照れくさくなった私たちは口を互いに閉ざす。そして、一瞬の静寂を破るかのように私は口を開ける。

「でも、三井。俺にも、お前に伝えておきたいことがある」

「何だ?」

 先ほどまで緩んでいた表情を引き締め直す。そんな私を見てか三井も真剣な表情で私を見つめた。

「俺は来年度を以て、必ず東亜製鉄四日市を辞める」

 その言葉に、三井の目が大きく見開かれた。

「何を言って……」

「最後まで聞いてくれ」

 私は三井の言葉を遮り、続けた。

「今年のドラフトで指名されなかったら、野球を辞めるということだ。この決心は固い」

「どうしてだ!お前には才能があるじゃないか!」

 三井が身を乗り出す。その目には、明らかな動揺が浮かんでいた。

「年齢の問題もある。来年になれば26歳だ。社会人野球の選手としては、もう若くないし、プロで活躍することを考えれば、そろそろ潮時だ。それに……」

 私は一度言葉を切り、窓の外を見た。夜の闇が街を静かに包み込んでいた。

「自分を追い込むためでもある。期限を決めないと、人間はどこまでも甘えてしまう。『来年こそ』『もう一年だけ』って、そうやってずるずる続けていくうちに、気がついたら取り返しのつかない年齢になってしまう」

 三井は黙って私の言葉を聞いていた。

「お前を見ていて、それがよく分かったんだ。お前は、崖っぷちに立たされて初めて本気になった。俺も同じだ。背水の陣を敷かないと、本当の意味で全力を出し切れない」

「熊野……」

「それに、もし今年ダメだったら、それは俺の実力がそこまでだったってことだ。プロに行けるだけの力がなかったってことだ。それなら、きっぱり諦めて、次の人生を歩む。中途半端に続けるよりも、その方がいい」

 私の言葉に、三井は深く息を吐いた。

「お前らしいな……でも、寂しいよ」

「寂しい?」

「ああ。お前と、もっと長く野球がしたかった。高校の時みたいに、バッテリーを組んで。あの頃は、お前が投げて、俺が打つ。それだけで楽しかった」

 三井の言葉に、私の胸が熱くなった。

「だからこそだ、三井」

 私は真っ直ぐに三井を見つめた。

「俺たちは、 私の声は、かすれていた。喉が渇き、言葉がうまく紡げない。

「そうだ。君にはスコアラーとして、名古屋アウルズを陰から支えてもらいたい。君の配球術、試合運び、そして投手としての経験は、若い選手たちにとって貴重な財産になる」

 私の頭の中が、真っ白になった。これは、夢を諦めるということなのか。それとも、別の形で夢を追い続けるということなのか。

「もちろん、すぐに返事をしてくれとは言わない。じっくり考えてほしい。ただ、我々は君の野球に対する情熱と知識を高く評価している。それだけは、忘れないでくれ」

 電話は、そこで切れた。受話器を持ったまま、私はしばらく動けなかった。窓の外では、秋の冷たい風が木々を揺らしている。

 スコアラー。

 対戦相手のデータや味方選手の特徴を踏まえて分析を行い、首脳陣や選手一人ひとりに毎試合の作戦を立案する職業で、影の暗躍者とも称され、現代のデータ野球には欠かせない人材だ。

 選手としての夢は昨日潰えた。だが、野球という世界から離れるのか、それとも別の形で関わり続けるのか。その選択は、私の人生を大きく左右するだろう。

 この話を飲むことは野球の世界に留まることを意味する。東亜製鉄四日市では来年から主任の役職を貰うことを決定づけられている。野球で培ったひたむきな姿勢が評価されたようだ。

 この道はきっと安定そのものだ。東亜製鉄は日本でトップシェアを誇る製鉄会社だ。そう簡単に自分のクビが切られる危機は訪れないだろう。東亜製鉄に老後まで勤め上げて地元・三重で暮らし続けるのも悪くないだろう。

 だが、プロの世界。それも親友である三井のいる名古屋アウルズでチームの勝利のために暗躍する。それもまた、一つの道ではないのか。

 三井とバッテリーを組むという約束は、もう叶わない。だが、三井が投げる球を、ベンチから見守ることはできる。彼の成功を、最も近くで支えることができる。

 私は、久慈賞の盾をバッグから取り出し、じっと見つめた。この盾は、私の全てを賭けた戦いの証だ。そして、この盾が示す「野球への情熱」は、まだ私の中で燃え続けている。

「熊野、どうする?」

 坂田監督が、静かに問いかけた。

 私は、ゆっくりと顔を上げた。窓の外の空は、どこまでも青く澄んでいた。

「監督...もう少し、考えさせてください」

 もしスコアラーの職に就くことになれば、それは夢の終わりなのか。それとも、新たな夢の始まりなのか。

 安定の道を取るか新たな道を取るか私の心は揺れ動いていた。

 私の答えは、すぐに出せそうになかった。。お前が1軍に上がって、俺がドラフトで指名されて。そして、プロの舞台で、お前に投げて、お前が打つ。それが、俺たちの目標だ」

 三井の目が、驚きに見開かれた。

「本気で言ってるのか?」

「当たり前だ。お前は必ず1軍に上がる。そして、俺は必ずドラフトで指名される。それが、俺たちの約束だ」

 私は右手を差し出した。

「約束しよう。プロの舞台で、もう一度バッテリーを組むって」

 三井は一瞬躊躇したが、やがて力強く私の手を握り返した。

「……ああ、約束だ」

 その握手には、高校時代とは違う、重みがあった。夢や希望だけではない、覚悟と決意が込められた握手だった。

「お前は必ずプロへ行ける」

 三井の努力がプロでも通用すると太鼓判を押した先ほどの私ように三井は私を認める。その言葉にあっけにとられた私は何も言えず呆然としていた。そんな私を気にも留めず、三井は続ける。

「お前の球をプロの打者たちに見せてやりたいんだ。あの独特な軌道、理詰めの配球、全部だ。お前の野球は、絶対にプロでも通用する」

 プロ野球選手にこれほどまで言われると自身が湧いてくる。そして、この期待にこたえたいという思いを渦巻いた。

「そこまで言ってくれるなら……俺も、お前の期待に応えないとな」

 私は笑った。三井も笑った。その笑顔には、かつての親友同士の絆と、これから共に目指す未来への希望が溢れていた。

「じゃあ、改めて約束だ」

 私は再び手を差し出した。

「俺たちは、プロの舞台でバッテリーを組む。お前が1軍に上がって、俺がプロに行く。そして、二人でプロ野球の歴史に名を刻む」

「ああ、約束だ」

 三井が力強く握手を返す。

「熊野、お前は最高の親友だ。そして、最高のバッテリーパートナーだ」

「お前もな、三井」

 私たちは、しばらく無言で握手を続けた。言葉にならない思いが、その手の温もりを通じて伝わってくるようだった。

 やがて三井が手を離し、立ち上がった。

「そろそろ行かないと。明日は早朝のフライトだからな」

「ああ。気をつけてな」

「お前も、体に気をつけて練習しろよ。無理はするな」

「お前に言われたくないな」

 私たちは笑い合った。

 喫茶店を出ると、冬の冷たい夜風が吹いていた。駐車場に停まった三井の赤いスポーツカーが、街灯の光を反射して鈍く輝いていた。

「じゃあな、熊野」

 三井が車のドアを開けながら言った。

「ああ、またな」

「いや、『またな』じゃない」

 三井が振り返った。その目には、確かな決意が宿っていた。

「プロで会おう」

 その言葉に、私は力強く頷いた。

「ああ、プロで会おう」

 三井はエンジンをかけ、ゆっくりと車を発進させた。テールランプが遠ざかっていくのを見送りながら、私は心の中で誓った。

 必ず、プロに行く。そして、三井とバッテリーを組む。それが、俺たちの約束だ。

 赤いスポーツカーが夜の闇に消えていった後も、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。冷たい風が頬を撫でていく。だが、不思議と寒さは感じなかった。胸の奥に、熱いものが燃え上がっているのを感じた。

 これが、俺の最後の勝負だ。

 全てを賭けて、プロの扉を叩く。

 三井、お前が1軍に上がるまでに、俺は必ずプロに行く。

 そう心に誓いながら、私は夜道を歩き始めた。明日からまた、厳しい練習が待っている。だが、今の俺には、それが楽しみでならなかった。

 三井との約束が、俺を突き動かしていた。

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