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2.対決

 6年目は初めて1軍出場なしに終わった。それはもちろん、自分が相も変わらず三振の山を築き上げていることもあったが、一番の理由は2年目のキャッチャー・三瀬の活躍が大きかった。

 三瀬は走攻守そつなくこなせる弱点のないプレイヤーで、右打ちや送りバントなどチームを意識したプレーは、強振一辺倒の自己中心的なプレイングをする自分と対照的に首脳陣から高評価を得ていた。

 だが、6年目のオフシーズンに入ってからも三瀬の活躍に焦ることもなく、俺はタニマチと遊び惚けていた。

 ある時は沖縄の別荘に連れて行ってもらい、またある時は好きな芸能人に会わせてもらい、まさに至れり尽くせりだった。プロ野球選手という肩書きさえあれば、実績がなくても持て囃されるのだ。その心地よさに溺れていた。

 そして今日はタニマチの一人である伊藤と、三重県の伊賀でゴルフの予定だった。

 8時に待ち合わせたゴルフ場へ到着すると、10月下旬とは思えない大雨が降りしきっていた。

「伊藤さん、ゴルフどうします? こんな大雨じゃ満足にホールを回り切れませんよ」

 そう言いながら、私はスマホで雨雲レーダーを見せる。雨が止むのは15時過ぎ。そんな時間からゴルフをするわけにもいかない。伊藤は悩むポーズを見せた後、私に話し出した。

「早めの昼食を摂るために一旦、四日市まで出よう。そして、午後からはうちの野球部を見てくれないか? プロ野球選手に見てもらったら、うちの野球部の面々も喜ぶだろうし」

 その提案に気は乗らなかったが、今から自宅に戻っても惰眠を貪るだけだろうと思い、話を飲んだ。

 四日市で伊藤行きつけの焼肉屋で早めの昼食を取った後、「俺の車についてきて」という伊藤に従い、車を走らせた。窓を叩く雨音が、どこか私の心を不安にさせた。

 着いた先のグラウンドには「東亜製鉄四日市硬式野球部」の文字が掲げられていた。

 車を降りて伊藤に尋ねる。

「伊藤さんって東亜製鉄の人だったんですね」

「ああ、言ってなかったっけ?」

 そんな素っ頓狂な返事を上げた伊藤についていく。伊藤は野球部のクラブハウスに入り、目当ての人物を見つけたのか、こちらに手招きをする。

「紹介するよ。こちらがこの野球部監督の坂田監督だ」

 まだ40代前半に見える肉付きのよい男が帽子を取って、こちらに挨拶する。

「名古屋アウルズの三井です」

 私が軽く頭を下げると、坂田は目を輝かせた。

「ああ、安濃津旋風のね! あの大会は今でも覚えていますよ」

 やはり、まだプロで目立った実績を残せていない自分にとっては、あの7年前の安濃津商業の快進撃のイメージしかないのだろう。居心地の悪さを感じる。

「そういえば、うちのピッチャーに熊野がいるよ」

 坂田がそう言った。

 あの熊野が。そういえば約2年前の同窓会で、あいつは東亜製鉄四日市に入社すると言っていた。まさか高校時代の同期とこんな場所で会えるとは。

 だが、あの同窓会で「社会人からプロを目指す」と宣言した熊野の発言を聞いた時と同じように、自分の中で熊野をくさす考えが巻き起こる。

(所詮は140キロも満足に出せない打ち頃のピッチャー。どうせここでも燻って、いつの間にか引退する年齢になるだろう)

 中学3年生の時、何校もスカウトが来た。その中には、高校3年生の甲子園決勝で対戦した強豪校も混じっていた。しかし私は、「熊野の球を受けたいから」という理由でそのスカウトを蹴って、地元の公立高校である安濃津商業に入学した。中学から知り合いの熊野とは、はっきり言ってまさに親友だった。

 だが、プロに入って熊野以上のピッチャーを何百人も見た成果なのか、それとも自分がプロ入りして悠々自適な生活を送れているせいなのか。俺の心は荒み、親友をいつの間にかこのように見下すようになっていた。

 他愛もない会話を坂田と伊藤が繰り返すうちに、あれよあれよという間に、私が投手陣を見てアドバイスをしてくれないかという話になった。別棟にあるブルペンへ行くため、坂田についていく。

 雨は弱まる気配もなく、トタン屋根のブルペンに激しく降りしきっている。そこにいたのは20代後半のオーバースローのピッチャーと、そして熊野の姿だった。

 久しぶりに見る熊野は、少し痩せたように見えた。

 熊野が投球モーションに入った時、私は驚きを隠せなかった。

 中学時代から好きなプロ野球選手のフォームを真似して、小さなその体躯には似つかわしくないダイナミックなオーバースローだった熊野。だが、今の熊野は肘を柔軟に使い、地面すれすれからボールを放り投げるアンダースローへ転向していた。

 「三井……?」

 ボールを放った後、熊野が私に気づいた。その表情に驚きが浮かぶ。

「久しぶりだな、熊野」

 私は表面的には軽い口調で言ったが、内心では冷笑していた。

「お前、何でここに……」

「タニマチに連れてこられたんだよ。たまたまな」

 熊野はキャッチャーミットを構えていた若い選手にボールを返すよう促し、こちらへ歩いてくる。相変わらず小柄で、プロのスカウトが見向きもしないような体格だ。

「見ての通り、アンダーに転向したんだ」

 熊野が少し照れくさそうに言う。

「140km出ないから、別の武器で勝負しようと思ってさ。この歳だし、最後の挑戦だと思ってる」

 最後の挑戦――馬鹿げている。社会人野球からプロなんて、ドラフトで何人指名されると思っているんだ。しかもアンダースローに転向? 今さら?

「そうか。頑張ってるんだな」

 私は適当に相槌を打つ。坂田監督が期待に満ちた目でこちらを見ている。

「三井選手、どうでしょう? 何かアドバイスを」

 アドバイス? こんな打ち頃のボールに何を言えというのか。

「そうですね……まあ、アンダースローは珍しいから、その……独自性は出てると思いますよ」

 当たり障りのない言葉を並べる。熊野の表情が少し曇った。私の本心を察したのかもしれない。

「もう一球投げてみろよ」

 私は退屈しのぎに言った。

 熊野は頷き、再びマウンドに立つ。アンダースローから繰り出されたボールは球速124kmと古びたスピードガンの表示機に出る。

(こんな遅い球じゃプロでは通用しないな。二軍の打者でも楽に打てる)

「どう? 三井」

 熊野が期待を込めた目で聞いてくる。

「悪くないんじゃないか。社会人のレベルなら」

 その「社会人のレベルなら」という言葉に、わざと棘を含ませた。熊野の表情が強張る。

「……そうか」

「でも、お前も分かってるだろ? プロは甘くないぞ。アンダースローだからって通用するわけじゃない」

 坂田監督が少し困惑した表情を浮かべた。だが私は構わず続ける。

「俺なんか6年やってるけど、まだレギュラーになれないんだから。お前みたいに社会人からじゃ、もっと厳しいと思うぞ」

 その言葉は、熊野を諦めさせるためのものだった。同時に、自分の現状を正当化するための言い訳でもあった。

 熊野は黙って俯いた。

「まあ、でも楽しくやれよ。野球は楽しむもんだろ?」

 私は肩を叩いて、わざとらしく笑った。

 その後、形だけ他の投手も見て、適当なアドバイスをした。早くこの場から離れたかった。熊野の真剣な目が、どこか私を責めているように感じられたからだ。

 ブルペンを出る時、振り返ると熊野が一人で黙々と投球練習を続けていた。雨の中、何かに取り憑かれたように。

(馬鹿だな。もう諦めればいいのに)

 車に戻る途中、伊藤が声をかけてきた。

「三井君、ちょっと冷たかったんじゃないか?」

「いや、現実を教えてやっただけですよ。夢見させて傷つける方が残酷でしょう」

 伊藤は何も言わなかった。

 車を運転しながら、私は熊野のことを考えていた。あいつは何とかプロ野球の舞台に立つため、こだわり抜いたフォームを捨て、一から挑戦している。野球に対して熱心そのものだ。

(高校時代の俺みたいだな)

 ふと、そんな思いが頭をよぎる。だがすぐに打ち消した。

(いや、俺は違う。俺はドラフト1位で入ったんだ。あいつとは格が違う)

 自宅に着いた時には、もう夕方になっていた。シャワーを浴びて、ソファに寝転がる。テレビをつけると、プロ野球のニュースが流れていた。三瀬がインタビューに答えている。

「来年こそは正捕手として、チームを引っ張っていきたいです」

 その言葉を聞いて、私はソファにリモコンを放り投げた。

 スマホが鳴る。タニマチからだ。明日はキャバクラに行こうという誘いだった。

「行きます」

 即答していた。

 窓の外では、まだ雨が降り続いていた。その雨音が、どこか熊野の投球を思い出させて、私は酒を呷った。

(あいつには悪いことをしたかもしれない)

 そんな考えが一瞬頭をよぎったが、すぐに消えた。

(いや、現実を教えてやっただけだ。俺は間違っていない)

 自分にそう言い聞かせながら、俺は床に就く準備をする。

 栄養バランスもへったくれもないコンビニ弁当をかっこみ、その後湯船につかる。そして、歯を磨いて床に就く。

 その間、頭からはずっと熊野のことが離れなかった。



 大学に入れば、今以上に実力を身に付けることができるだろう。そう高をくくって門をくぐった。だが、そんな甘い妄想はすぐに粉々に砕かれた。

 大学に入ってからも球速がぐんと伸びるわけでもなければ、もちろん体格ももう大きくなるわけでもなかった。練習試合に登板すれば、高校野球よりもレベルの上がった大学野球では通用せず、滅多打ちを食らった。いつの間にか背番号は投手らしくない大きな番号が与えられるようになった。まさに伸び悩みの状態だった。

 練習後、ロッカールームで黙々と着替える自分の姿が鏡に映る。周囲の選手たちの明るい声が耳に入るたび、胸の奥が締め付けられた。甲子園で投げたあの日の歓声が、今では遠い幻のように思えた。額に汗が張り付いたまま、俺は自分の顔から目を逸らした。

 大学2年の冬、そんな伸び悩みの泥沼にいた私はアンダースローへ転向した。もちろん転向することに大きな葛藤があった。中学時代からこだわり抜いて作り上げ、このオーバースローのフォームで甲子園決勝の舞台に立った栄光もあった。だが、是が非でもプロに入るため、育成でもよいから引っかかるためには、この手段を取るしかないように思えた。

 アンダースローであれば、オーバースローと比べて低身長のデメリットは少ないし、球速が出ないのも普通だ。ウィークポイントを何とか埋め立てることができるこのフォームに、再起を賭けたかった。

 もちろん一筋縄ではいかなかった。なにしろ初挑戦のフォームだ。最初の数週間は思ったところにボールが行かず、満足に球速も出ない。そんなところからのスタートであった。そして何より周りの目が痛かった。

 甲子園決勝の舞台を経験したにもかかわらず、オーバースロー失格の烙印を押されたに等しいアンダースローへの転向——周囲の人間から見れば「甲子園は三井に連れてもらっただけの人間」や「迷走中のピッチャー」という評価だっただろう。

 そして、三井はプロの舞台に立っているという事実も私の心に重荷を背負わせた。

 グラウンドを歩くたび、チームメイトの視線が背中に突き刺さる。かつて「甲子園投手」と呼ばれた自分が、今では憐れみの対象になっているのだと感じた。夜、寮の部屋で一人になると、何度も投げ出したくなった。それでも翌朝になれば、体が勝手にグラウンドへ向かう自分がいた。

 私はめげなかったのだ。その原動力には、プロの舞台で再び三井とバッテリーを組みたいという思いがあった。その思いを糧に私は研鑽を続けた。監督やコーチに意見を仰ぎ、インターネットを参考にしてフォームを固める日々が続いた。

 そして、フォームだけではなく投球術にも磨きをかけた。

 実力が劣っているならば、データの観点から相手を揺さぶり、どうにかこうにか打ち取ることが必要だ。

 大学の講義で取ったデータ分析の授業を参考に、自分の投げるボールの細かい分析から、対戦する相手大学の選手の研究、はたまたカウント別・左右別で投げるコース・球種の研究など、投球術の研鑽は多岐に渡った。

 深夜、パソコンの画面に向かって打者のスイング軌道を分析する。配球パターンを何十通りも検討する。ノートは数字と図で埋め尽くされていった。誰よりも考え、誰よりも準備した。技術で劣るなら、頭脳で勝負するしかなかった。窓の外が白み始めても、俺はキーボードを叩き続けた。

 それらの努力が実ったのか、大学4年の春には地方リーグではあるものの最優秀選手賞に輝き、チームのリーグ優勝を果たすことができた。

 北陸・東海地区代表として出場した全国大会ではスカウトの目に触れた。実際試合後、アンダースローは球界の中ではかなりのマイノリティだ。そこがストロングポイントになったのだろう、数球団のスカウトから名刺をいただいた。

 胸が高鳴った。あのどん底から這い上がり、ついにここまで来たのだと。三井と再び同じ舞台に立てる——そう確信した。名刺を握りしめる手が震えていた。

 だが、ドラフト会議では本指名どころか育成指名もなかった。2度目の指名漏れであった。

 テレビの前で最後の一人が指名されるのを見届けた瞬間、何かが音を立てて崩れ落ちた。膝から力が抜け、その場に座り込んだ。部屋の隅で、スマートフォンにチームメイトからの「残念だったな」というメッセージが届いていた。返信する気力もなかった。画面が滲んで見えた。

 そんな時、私の元に1本の電話が届いた。それは社会人チームの東亜製鉄四日市監督・坂田からであった。

 電話の内容を要約するとスカウトであった。確かに社会人チームとして野球を続けるという手もあった。だが、私にはどうもその気になれなかった。社会人チームから指名されるのはなかなか鬼門だ。

 ドラフト会議全体で指名される割合は、高卒が約50%、大卒が約30%、そして社卒が約15%ほどだ。データの観点でもなかなか厳しい。そして、それに拍車をかけていたのは東亜製鉄四日市というチームの現状だった。

 東亜製鉄四日市からプロに行った選手は今まで5名いる。だが、最後に選手をプロに送り出したのは7年も前のことであった。そして、チーム状況で言えば、10数年前までは都市対抗の東海地区常連であったが、現在は見る影もない弱小チームへと衰退している。

 大学卒業を機に野球をすっぱりやめるという選択肢もあったし、それを取ろうと思っていた。こんな小さな体格でプロに行こうなんて夢物語なのだと。プロに入った三井と高校時代、バッテリーを組めたのは奇跡なのだと、そう思い込んでこの野球に対する情熱はしまい込んでしまおうと思った。

 就職活動も始めていた。普通の企業の面接を受け、「野球で培った忍耐力を活かして」などと語る自分がいた。面接官は笑顔で頷いたが、その言葉は自分自身にも空虚に響いた。スーツの袖を直しながら、これが俺の人生なのかと思った。

 だが、そうはできなかった。まだ野球に対する情熱は燃えていた。燃えるという言葉では追いつかないほど、滾っていた。

 私はその電話を数日で折り返し、あれよあれよという間に東亜製鉄四日市への入社が決まっていた。

 東亜製鉄四日市という弱小チームに入って若い20代を消費するのは、はたから見ればもったいないかもしれない。さらに、決して取り巻く環境が良いとは、お世辞にも言えなかった。最新鋭の設備はもちろんなく、会社の上層部が知人を連れて突然野球部を見学しに来る。そして何より、午前中は製鉄の業務を行うために練習時間が限られる。

 入社初日、工場の熱気と騒音に圧倒された。グローブを握る手は、すぐに鉄粉で黒く汚れた。昼休みに鏡を見ると、顔には疲労の色が浮かんでいた。それでも午後、グラウンドに立つとき、体の奥底から力が湧いてくるのを感じた。白球を握る感触が、生きている実感を与えてくれた。

 だが、そこにプロ入りのチャンスが一縷でもあれば、そこに全てを賭けたかった。賭けるしかなかったのだ。

 入社して初めて迎えた10月のある日、投げ込みをしていたブルペンの外から2台の車の音が聞こえた。

 上層部が友人を連れてくるいつものことかと思い、気にも留めなかった。だが、監督とともにブルペンに入ってきた人物に覚えがあった。三井だ。去年の野球部の同窓会で会って以来で、恰幅が悪い意味で良くなっていた。

 そして、私に気づいたようなので話しかける。すると三井が私にアドバイスをくれるというのだ。

 ここ最近は1軍で目立った活躍はないとはいえプロ野球選手だ。ここでもらったアドバイスを参考に磨きをかけることができるかもしれない。そう思い、私は渾身の球を放った。

 ボールは捕手のミットに吸い込まれ、鋭い音を立てた。自信のある一球だった。三井の表情を見る。かつてのバッテリーパートナーが、今の自分をどう評価するのか。胸が高鳴った。

 だが、三井の口から飛び出したのは、アンダースローに関する薄っぺらい感想と、「社会人レベルなら通用する」といった私を見下す手ひどい言葉であった。

 その言葉にもちろん悔しさはある。

 自分がプライドをかなぐり捨て、苦労と葛藤の末に作り上げたフォームが薄い感想で片付けられ、果てはあざ笑うかのような言葉を浴びせられた。

 拳を握りしめた。爪が掌に食い込む痛みさえ、心の痛みには及ばなかった。

 だが、そんな悔しさはどうでもよかった。まだまだ自分にも至らない点はあるし、プロに目をやれば、自分以上のピッチャーなんてごまんといる。私が一番ショックを受けたのは、三井の野球に対する姿勢だった。

 かつて甲子園で背中を預け合ったあの三井は、どこへ行ってしまったのか。その答えを求めるように、私は三井の目を見つめた。だが、そこには何の輝きも見えなかった。濁った瞳が、俺を素通りしていくようだった。

 高校時代の三井は口を開けば野球のことばかりで、時間を見つければすぐ練習に打ち込む"野球バカ"であった。

 それほどまでに野球に対して情熱を注ぎこんだ三井であったからこそ、ドラフト1位で指名されるほどの実力を兼ね備えたのだ。

 そんな三井に当てられて私も熱心に野球に打ち込んだ。それが今までプロを切望する私を作り上げたのだろう。私と三井は切磋琢磨して練習を重ねた。

 だが、あの時の三井はひどい有様であった。野球に対する情熱など微塵も感じられない。そんな人間へ成り下がっていた。

 私はここ最近三井がプロで活躍できない理由がわからなかった。体格で言えば高校時代からプロ顔負けで、無名の公立校には似つかわしくない巨漢であり、打棒もひと夏の甲子園でホームランを6発放つ素材の良さもある。それなのにもかかわらず、正捕手の座を奪取できていないのは、プロに入って甘い蜜の味を知ったせいなのか、堕落した。そして、それに伴って野球に対するモチベーションが下落したのだろう。

 そんな姿を見ていて、親友としての悔しさなのか、それとも哀しさなのかわからないが、そんなマイナスの感情が私の中に渦巻いた。

 私の目標は「プロの舞台で再び三井とバッテリーを組むこと」だ。そんな目標を持っているからこそ、三井という存在を知らなければ、自分がこれほどまでに野球にしがみつくことなく、安泰な生活を送れていたのではないか。そんなifの世界を考えてしまう。

 親友として三井の腐った性根をたたき直さなければならない。

 だが、それを実行するにはどうすればよいのかいまいちわからなかった。きっと膝を突き合わせて話し合っても「どうせ俺は終わった選手だ」とでも一歩引いた冷めた発言で私を黙らせるつもりであろう。真面目に取り合ってくれる気がしなかった。

 野球に対する情熱は野球で取り戻すしかない。そう考えた。

 11月下旬、そう思った私は少ない休みを縫って安濃津商業の駐車場に降り立った。

 三井は数年前から安濃津商業の設備を借りて、一人で自主トレをしている。自主トレと言っても春季キャンプ初日にコーチや監督から雷を落とされない程度の最低限の練習しかしないと、あの時の三井からは容易に想像できる。

 その予想通り、まだ日が陰るには早い14時過ぎ、三井がグラウンドから出てきて駐車場に向かってくる。

 すぐに練習を切り上げて地元の仲間と飲みに行く。そして、女の子のいる店に行って、過去の栄光を語ってチヤホヤされる。そんな腐ったプランを立てているのだろう。練習で疲労した顔は見られず、その表情にはむしろ高揚が見られる。

 私に気づこうともせず、古ぼけた安濃津商業には似つかわしくない真っ赤なスポーツカーへと一直線だ。そんな三井を遮るように私は話しかける。

「三井! 話があるんだ。ちょっといいか?」

 私に気づいた三井は訝しげに私を見つめる。

「話? 俺は今から用事があるんだけど」

「10分だけでいいんだ。頼むよ」

 引かない私にいら立ちを隠そうともせず、舌打ちを私に聞こえるようにする。だが、そんな横柄な態度を取るようになったのはいつからなのか。改めて私の胸の内には暗いものが立ち上がる。このままでは私を無視して、車に乗り込みそうなので、本題に入る。

「なあ、三井。お前、野球楽しいか?」

「は?」

 鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべる。予想外の質問といった様子だ。私は続ける。

「この前、俺の投球を見ただろ。確かにお前のアドバイスは冷たかったかもしれない。でもさ、あの時のお前の目を見てて思ったんだ。お前、本当に野球が好きなのかって」

「何が言いたいんだよ」

 苛立ちが声に滲むのが分かる。だが、私はひるまなかった。

「俺はさ、高校の時からずっとお前に憧れてたんだ。あの甲子園での活躍、今でも鮮明に覚えてる。お前のあの輝いてた姿を」

「……」

「でも、この前会ったお前は、高校の時とは全然違ってた。何て言うか……目が死んでたんだ」

 私の正直な感想を打ち上げる。その言葉に三井は怒り心頭といった様子だ。

「お前に何が分かるんだよ。プロの厳しさも知らないくせによ!」

 私の言葉に怒りをあらわにして、言葉を荒げる。だが、それでも私はひるまなかった。三井の性根を正すこと、それが親友としてやらなければならないことだと誰に言われなくともそう感じていた。

「なあ。一打席対決しないか? 俺が抑えたら俺の勝ち。お前がヒット性の当たりを打てたらお前の勝ちだ」

 私が考えたのは三井と真剣勝負することであった。確かに野球に対する情熱を再燃させるためには野球しかないと考えていたが、端から見ればこの勝負は無謀そのものだろう。

 私は社会人チームに所属する一選手で、相手は天下のプロ野球選手様だ。実力差は天と地ほどあるだろう。だが、これほどまでに分の悪い勝負で敗北を味わせなければ、大きな屈辱・ショックを与えなければ、腐った三井を正せないはずだ。

 どうせ今頃三井は片腹痛いと、コテンパンにできるに違いないと思っているのだろう。私を見つめる表情から察せられる。三井はほくそ笑みながら口を開く。

「ああいいぜ。そうでもしないと俺を通さないだろ」

「さすがは中学時代からの親友だ。話が早い」

 私が親友と口にした瞬間、三井は顔をゆがめる。今は外野からやいやい言うお邪魔虫で、かつての親友だと思っているのだろう。

 三井は踵を返し、グラウンドに戻る。私はそれに着いていく。グラウンドには現役の高校球児がアップをしており、マウンドに立った熊野とバッターボックスに立つ三井を怪訝な目で見る。

 18.44m先の三井に向かって投球に入ることを合図する。それに三井はうなずく。さあ真剣勝負の始まりだ。

 初球。地面すれすれからインハイへストレートを繰り出す。

 投球してからスイングまでの一瞬、私は三井の表情をわずかながら捉えた。その表情には慢心が浮かんでいた。

 以前、私の練習を見た三井は私の球が130kmにも届かないことを知っている。だが、それは数値上での話だ。実践では話が違う。

 三井のバットは空を切った。

 三井は驚きを隠せないといった様子で、後ろのバックネットに直撃した白球を見つめる。

 アンダースローのメリットは球が浮き上がってくるように見えることだ。

 地面から数cmしか離れていない低いリリースポイントから放たれる球はライズするかのような軌道を描く。それも高めのコースならばなおさらだ。

 球速上では全国レベルの中学生であれば余裕で投げられるであろう速度でも、這い上がってくるかのような球筋は上手くはまれば、オーバースローの放つ剛速球にも匹敵する。

 唖然とする三井を気にせず、セットポジションに入る。2球目は社会人になってから身に付けたムービングファストを今度はインローへ狙う。

 再び、投球してからスイングまでの一瞬、私は三井の表情をわずかながら捉えた。その顔にはいまだ慢心の表情が浮かんでいたが、かすかに焦燥感の表情が見て取れた。

 再びの空振り。

 私の放ったボールは変化量は小さいながらも三井の手元で鋭く変化しただろう。アンダースローは球速よりもコントロール、そしてキレが生命線だ。

 私が新たに習得したこのボールはアンダースローピッチャーの屋台骨であるキレを象徴するかのようなボールだ。このボールは今のようにカウント球として用いることもできれば、追い込んだ際にストライクゾーンぎりぎりに投げて手を出させる決め球としても使える。

 習得してまだわずかだが、私の投球を組み立てる大きな武器となっている。

 さらにこの球を狙ったコースへ投げられるコントロールの良さもアンダースローというフォームの強みである。

 3球目は再びインハイにストレートを投げ込む。これはボール球になっても良い。勝負は4球目に託す。

 バットはボールを捉える。

 だが、ファール。ボールは大きく三塁側に逸れていく。

 右打ちの三井にとって三塁側へファールボールが飛んでいくということはスイングが早いことを証明する。これは私が次に投げる球種・コースが現状の三井にとって刺さることを明らかにする材料であった。

 4球目はアウトローへのシンカーだ。

 シンカーはアンダースローピッチャーの多くが決め球として利用し、私もその例外ではない。アンダースローのシンカーは浮いてから落ちるような錯覚をバッターに与えられる。このような軌道を描く球は今まで類を見ないだろう。

 そして、インの危険な球を意識させておくことで相手バッターは本能的に腰が引ける。これを利用してアウトコースへ投げ込めば、理想的なスイングはできない。引っかけて内野ゴロ、もしくはバットが届かずに三振だ。

 甲子園の時の三井を思い出させるかのような配球ではあるが、これがバッターにとっては効果的であることは今までのデータ分析からも明らかだ。

 セットポジションに入る。三井の目を見る。その瞳に、ほんのわずかだが、かつて見た光が戻ってきているような気がした。

 腕を振り切る。白球が宙を舞う。

 三井のバットが再三、空を切った。空振り三振。

 ブンと鋭いスイングの音はこの1打席勝負が私の勝ちで終わったことを告げる音色であった。

 「三振!」

 私は拳を握ってそう高らかに叫んでいた。三井はそんな私を見てなのか、それともこの対決を端から見ていた高校球児の嘲笑にも近しい驚いた声になのかショックを受けた様子で、俯いてなにかボソボソとつぶやいている。

 プロ野球選手にもかかわらず、社会人チームに所属する別にプロ注目株でもないピッチャーにコテンパンにされたのはプライドはズタズタであろう。ちょっと可哀そうではあるが、これぐらいしてやらないと三井は正せないのだ。それほどまでの領域にあいつは達しているのだ。

 すると三井はこちらを見据えて、口を開く。

「もう一回! もう一回やらせろ!」

 思わず叫んでいたといった調子であった。少しずつ高校時代の三井の面影が見えてきた。

「ああ、いいぜ」

 私はいつの間にか流れていた汗を拭いながら、再びマウンドに立つ。

 二打席目。

 だが結果は同じだった。三井はファールを連発するも、まともな当たりは一本も出ない。そして最後は外角のカーブに手が出ず、見逃し三振。

 悔しさと屈辱に満ちた声色で再戦を申し出る。だが、3打席目、4打席目、5打席目――。ファールが増えてきたという打席内容は徐々にタイミングがあってきたことを意味していたが、結果は芳しくなかった。

 この勝負は三井がヒット性の当たりを打てるまで続くのだろうと感じさせる。すでに対決は1時間近くになっていて、アップを終えた高校球児たちはグラウンドを占領している私たちの様子をうかがっている。

 「三井、お前まだやるのか?」

 私はそう問いかけると、息も絶え絶えといった様子で返事する。

「当たり前だ……まだ、まだ一本もまともに打ててない……」

 三井の目を見れば、高校時代の真剣さが宿っていた。そうだ、その目だ。私はその真剣さに満ちた目を見たくて、親友として再びその闘志を心に宿してほしくてこの勝負を挑んだのだ。

「三井……お前、今すごくいい目してるぞ」

 私はそう正直に言う。

「何……?」

「高校の時みたいな目だ。本気で野球に向き合ってる時の目だ」

 その言葉にハッとした様子を見せる。

 あいつの頭の中は今、タニマチと遊ぶことも、過去の栄光も全部頭から消えて、ただ、目の前のボールを打つことだけに集中していたはずだ。

「なあ、三井。お前が俺の球を打てないのは、才能がないからじゃない」

 私は続ける。

「お前が野球から逃げてたからだ。本気で向き合ってなかったからだ」

 そう言い放つと三井は黙りこくってしまった。そんなのを気にもせずに私を続ける。

「でも今のお前は違う。さっきから球筋を読む目が、どんどん鋭くなってる。体の動きも良くなってきてる」

 三井はこちらに顔を向ける。

「これが本当のお前なんだよ。俺が一緒にバッテリーを組みたいと思った、あの三井なんだよ」

 すると、三井はバットを地面に置いた。そして、深く息を吐いた。

「……負けたよ、熊野」

 飛び出したその言葉に驚きを隠せない。あの頃の熊野は自分が勝つまで勝負を続けるような負けず嫌いを体現したかのような人間であった。そんな人間から降参を意味するような言葉が飛び出すのは予想外だった。

「何言ってんだ。まだ――」

 私の言葉を遮って、三井は続ける。

「野球に対する姿勢で、お前に完敗した」

 三井は私の目をまっすぐ見た。

「お前は、才能がないからこそ、必死に努力してる。フォームを変えて、一から出直して、それでも諦めずに前を向いてる」

「だが、俺は逆だった。才能にかまけて、努力を怠って、過去の栄光にすがって生きてた」

 すると涙をこらえているのか、上を向いて話し出す。

「ここ数年は努力もせずに結果が出ないのをタニマチとの夜遊びで誤魔化してばかりだ。俺は暗い現実から目を背けるように酒を浴びるように飲んで逃げている。そして、プロであることに胡坐をかいてお前を見下していた。俺は野球人としても一人間としても最底辺だ。」

 私は泣き言をいう三井に近づき、三井の肩を叩いてやった。

「そんな寂しいことを言うな。お前は終わってなんかいない。今だって、1時間ずっと俺の球に食らいついてきたじゃないか」

 その言葉に表情は曇っている。

「プロで結果が出てないのは、才能がないからじゃない。本気で向き合ってなかったからだ。今のお前みたいに、毎日本気で練習すれば、絶対に結果は出る」

「俺はお前のことを、今でも尊敬してるんだ。高校の時、お前がいたから俺は野球を続けられた。お前が俺のボールを受けてくれたから、俺は成長できた」

 私はそう三井の目を見据えて話す。

「だから今度は、俺がお前に言う番だ。諦めるな。お前はまだ終わってない。絶対に一軍で活躍できる」

「……ありがとう」

 三井は堪えきれなくなったのか、両頬に涙が伝う。

「俺、もう一回やり直すよ。本気で野球に向き合う。一軍に戻る。そして――」

 今度は三井が私の目を見据える。

「プロの舞台で、お前と本気でバッテリーを組みたい!」

 私はそれに笑顔で答える。

 周りで見ていた高校球児たちから、拍手が起こった。

 私と三井は恥ずかしそうに頭を掻きながら、グラウンドを後にすることにした。

 三井が車に乗り込む前、もう一度を私の方へ振り返った。

「明日からお前のチームで練習させてくれないか?」

 その言葉に私は面食らった。プロ野球選手が社会人チームで練習? それもシーズンオフとはいえ、球団の許可なしに?

「おい、三井。それって球団に許可取れるのか?」

「自主トレ扱いにしてもらう。どうせ今の俺は球団からも見放されかけてる。ここで何もしなければ来年こそ戦力外だ」

 三井の声には、もう迷いがなかった。

「でも……」

「頼む。お前の球を毎日受けたいんだ。お前のチームメイトとも練習したい。本物の野球を、もう一度取り戻したいんだよ」

 その真剣な眼差しに、私は頷いた。

「わかった。明日、監督に話してみる」

「ありがとう、熊野」

 三井は深く頭を下げた。かつての親友が、ようやく戻ってきた。

 三井が東亜製鉄四日市へ練習しに来る旨を坂田への説明した。すると予想外にも練習の許可はすんなり取ることができた。

 やはりプロ野球選手が間近で練習するということはうちの選手にとっても大きな刺激となりうるだろう。私を含めたチームと、三井本人の実力向上という相乗効果を生み出すことができればよいのだが。

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