0.エピローグ
甲子園のスタンドは、夏の太陽に焼かれた観客たちの熱気で溢れていた。
「安濃津!安濃津!」
無名の公立高校・安濃津商業を応援する声が、巨大なスタジアムに響き渡る。誰もが予想しなかった快進撃。地方大会を勝ち上がり、甲子園でも強豪校を次々と撃破してきた安濃津商業は、今、決勝の舞台に立っていた。
きっと今頃、民放の実況は感動めいたドラマチックな物語を仕立て上げているに違いない。「奇跡の公立校」「無名校の快進撃」といった決まり文句を並べているだろう。こんな緊迫した状況でもそう冷静に考えてしまう自分がいた。
「三井!頼むぞ!」
三塁側のダグアウトから、うちのエースである熊野の声が響く。全力プレーを体現したかのような鬼気迫る姿。胸に掲げるANOTSUの文字は泥まみれだ。あいつはいつもこうだった。誰よりも泥にまみれ、誰よりも必死に戦う。
俺は汗を拭い、ヘルメットを被り直した。相手は優勝候補筆頭の私立強豪校。ここまでの大会で無失点を続けてきた鉄壁の守備と、150キロ超の速球を誇るエース。だが、不思議と自分の心には恐れはなかった。
9回表、2点を追う場面。2アウト。ランナー1塁。相手はここまで投げ抜いてきた背番号1のエース。バックスクリーンには投球数120の文字が見える。疲れは見せていないが、8回から球速が若干落ちている。145キロ前後に収まっているのを、俺は見逃していなかった。
ここで4番の自分に求められているプレーは、後ろの打者に託す軽打ではない。この場面で中途半端な仕事をすれば、チームは終わる。
カウントは2ストライク2ボールの平行カウント。ここで空振りすれば、ここまで紡いできた俺たちの物語は準優勝で終わってしまう。それだけは嫌だった。熊野が投げ続けてきた130球以上。チームメイトが繋いできた一本一本のヒット。そのすべてを無駄にするわけにはいかない。
相手の得意球は150キロに迫る剛速球だ。きっとこれをウイニングボールにしてくるだろう。そう思い、バットを再び握りなおし、相手の方を鋭く睨む。
マウンド上で、エースが投球モーションに入る。
ボールが手を離れた瞬間、俺の身体は自然と反応していた。中学時代から何千回、何万回と繰り返してきた素振りの軌道。熊野との自主練で磨き上げた眼力。すべてがこの一瞬のためにあった。
速い球であるのに、今の俺にとってはスローモーションにしか見えなかった。
鋭いバットの金属音が、静寂に包まれた甲子園へ響き渡る。
打球は高く、高く舞い上がり、レフトスタンドへ吸い込まれた。
大会記録タイとなる6本目のホームラン。
これで3対3。同点。まだ優勝を目指すことができる。
一縷の安堵が胸に広がった。ベースを踏みながら、三塁側のベンチを見る。熊野がダグアウトから飛び出し、両手を高く上げていた。あいつの泣きそうな笑顔が、俺の胸を熱くした。
10回の裏。タイブレークに突入した甲子園決勝は、異様な熱気に包まれていた。一塁側のアルプススタンドは相手高校を象徴する、高校野球ファンにとってはおなじみのチャンステーマを流す。ブラスバンドの音が、まるで勝利を確信しているかのように響く。
「熊野、お前の球を俺が受ける。それだけで勝てる」
そうマウンドに上がる前、三井から言われたのを思い出す。
三井の配球に導かれ、自分の投球は冴え渡った。甲子園優勝を3度達成しているこの強豪校相手に9回投げ抜いて3失点。これまでの自分を褒めてやりたい。140キロに満たない直球。170センチに満たないこの小柄な体躯。それでも、自分の投げる一球一球には、魂を込めた。それがこの結果に繋がっているのではないか。
打席に立つ3番打者へ目をやりながら、思考を巡らす。ここで求められるのはゲッツー、内野フライ、三振のどれかだ。外野に飛ばしてしまえば、俊足の2塁ランナーは帰ってくる可能性大だ。そう思い、三井のサインに目をやる。
三井も私と同様の思考なのか、外野に飛ぶリスクを極限まで排除した、低め低めのサインを出す。
1球目。105キロのフォークをアウトローに決める。1-0。打者の膝が若干崩れる。いい球だ。
2球目。95キロのカーブがわずかに外れる。これで1-1。三井が軽く頷く。問題ない、という合図だ。
ここで三井のサインが一気に転換する。インハイ高めのストレート。
きっと意図としてはこれで相手の腰を引かせて、次のアウトコースの変化球でひっかけさせる。そんな作戦だろう。だからここは無理に、自分の弱みであるストレートを、ストライクゾーンに入れなくていい。ボール球でいい。見せ球でいい。
そう思い、3球目を投じる。
自分の好きなプロ野球選手にインスパイアされたこのオーバースローのフォーム。中学時代、テレビで観たあの投手のように投げたくて、何度も鏡の前で真似をした。三井はそんな私を見て「お前、本当に野球が好きなんだな」と笑っていた。
しかし、リリースの瞬間、指先の感触が違った。
ボールはインハイ高めではなく、真ん中高めに吸い込まれていく。
まずいと思った瞬間には、もう遅かった。
カキンと金属バットの冴えた音が鳴れば、打球はみるみるうちに伸びていく。センターが必死に追うが、届かない。打球は伸び続け、そして、ボスンという鈍い音がバックスクリーン手前の空間から響く。
その音は、安濃津商業が6-3で敗れたことを意味する音色であった。
甲子園全体から響く歓声、悲鳴、その他もろもろが耳に入ってくる。一塁側スタンドからは勝利の雄叫びが。三塁側からは悲嘆の声が。
私はマウンドに崩れ落ちる。
視界が涙で満ちる。これまで全員で築き上げてきた物語を、自分の一球で台無しにしてしまった。140kmに満たない直球しか投げられない自分の限界が、こんな形で露呈してしまった。
マウンドに三井が駆け寄ってくる。
私が打たれても、三井の圧倒的な打棒で取り返してくれた。まさにこのチームの大黒柱だ。どんな言葉をかけてくるのか、気が気でなかった。やはり私を罵倒するような声だろうか。それともこんな私を慰める声だろうか。悔しさをぶつけてくるのだろうか。
だが、そんな予想とは正反対の言葉がかけられた。
「熊野!俺たち、最高だったな」
負けたにもかかわらず、あっけらかんとしたその言動に私は驚いた。その表情には「やり切った」という感情が読み取れる。悲観的にも感情的にもならない三井。大黒柱は、負けたこの瞬間も大黒柱然としていた。
「ああ……最高だった」
私は何とか、そんな頼りない声を絞り出す。喉が詰まって、それ以上の言葉が出てこなかった。
すると、三井の目にも涙が見えた。
「お前の球、最高だったぞ。あの打者も必死だっただけだ」
三井はそう言って、私の頭を軽く叩いた。
周りを見れば、チームメイト全員が泣いていた。だが、誰一人として私を責める目で見ていなかった。みんな、精一杯戦った者だけが見せる、清々しい表情をしていた。
準優勝。確かに悔しい。だが、この夏を全力で駆け抜けた充実感が、確かに胸にあった。
「第1回希望選択選手。名古屋。三井要。捕手。安濃津商業。」
テレビ中継からそんな音声が流れた瞬間、体育館に特設された記者会見場に、一層フラッシュの音がけたたましく響く。
「これで三井要、4球団競合となりました!」という見馴染みのあるアナウンサーが、カメラに向かって興奮気味に叫ぶ。
隣にいる熊野は、居心地悪そうに前を見据える。
スポットライトは完全に自分に当たっている。当然だ。甲子園での打撃成績は圧倒的だった。6本塁打、打率.461。決勝で放った同点の2ランホームランは、負けたにもかかわらず大会のハイライトとして何度も放送された。
全球団の1位指名が終わると、くじ引きの用意が手早くされる。壇上に立ったのは4球団。それぞれが順番に箱に入った封筒を取っていく。
「それでは、開けてください」
アナウンスが流れた瞬間、会場から遠く離れたこの体育館にも、緊張が伝播する。俺の心臓は早鐘を打っていた。自分の人生が、ある意味ではこの瞬間に決まる。
そして、手を挙げたのは右端の球団。名古屋アウルズであった。
地元・三重には名古屋アウルズのファンが多く、自分もその一員だった。小さなころからテレビ中継で観戦していた、あの青と白のユニフォームに自分が身を包む。想像するだけで胸が熱くなった。
その瞬間、先ほどとは比べられないほどのシャッター音とフラッシュが体育館を包む。記者たちが一斉に自分へ詰め寄る。
テレビに目をやると、GMと思わしき白髪の男性が、会場に詰めかけたファンへ「どうだ」と自慢するかのように、何度もガッツポーズを披露している。そして、テレビ中継は名古屋アウルズの監督に詰め寄る。自分も現役時代を知る、あの監督だ。50代後半の精悍な顔つき。現役時代は強打の捕手として活躍した人物だ。
紋切りな質問をいくつも重ね、その質問に対して取るに足らないような回答を重ねていく。「即戦力として期待しています」「守備も打撃も素晴らしい」そんな当たり障りのない言葉が並ぶ。
そして、会場にいるアナウンサーが、渾身の質問といった様子で最後に質問を投げかける。
「三井選手に一言、お願いします!」
監督は一瞬カメラから目を離し、どこか遠くを見るような表情を浮かべた。そして、力強く言った。
「えー、三井君。君は絶対にプロで成功する!きっとそうに違いない!あなたと優勝できることを楽しみにしています!」
その瞬間、胸に張り詰めていた何かの糸が、ぷつんと切れたような感覚を味わった。そして同時に、甲子園と同様にプロでも活躍できるだろうという、慢心にも近いような自惚れの感情が胸を占めた。
1時間半前までは記者陣でごった返していたこの体育館も、人がまばらになった。
それほど自分の注目度は低いのだと、否が応でも分からされた。自分は所詮、甲子園に現れた天才バッターで安濃津旋風を引き起こした三井のバーター。あくまで自分は、安濃津旋風を彩った脇役に過ぎないのだと、まざまざと実感させられた。
三井が1位指名された瞬間、自分への注目は一気に薄れた。「三井のバッテリーパートナー」という肩書きだけで、ここまで記者が集まっていたに過ぎない。それが現実だった。
「第5巡選択希望選手。名古屋。選択終了。」
最後まで育成ドラフトに参加していた名古屋アウルズの指名も終わった。これが意味するのは、自分が指名漏れを食らったということだ。
まばらになった数人の記者陣が、私に質問を投げかける。
「残念ながら指名漏れとなりましたが、これからの進路はどうお考えですか?」
回答は決まっていた。というより、この結果を予想して、すでに大学へ進学することを決めていた。
「大学に進学して、4年後のドラフト会議で指名がかかるように頑張ります」
そう答えた瞬間、記者のうちの一人が、意地の悪い質問を投げかけてきた。
「三井選手とはお別れになる形ですね」
「三井とは……」
思わず言葉が詰まる。その記者会見場にいる誰もが、自分と三井の関係性を知っている。甲子園での快進撃の立役者は、中学からのバッテリーであり、親友だ。
三井は他県からの強豪校からのスカウトがあったにもかかわらず、「熊野の球を受けたいから」という理由で、この無名の公立校・安濃津商業に入学した。本来であれば、三井はこの高校にいるべき存在ではないのだ。県外の強豪私立に進んでいれば、もっと早くから注目され、もっと多くの経験を積めたはずだ。
そんな存在が自分のために入学したことを、誇りに思うと同時に、焦燥感が募った。だから、毎日毎日自主練を欠かさず行った。それも三井と一緒に。朝練の前、練習後、休日。野球漬けの日々だった。
だが、現実はそう甘くなかった。
三井は練習すればするほど実力が伸びていくのに対して、自分はいくら練習をしても、現代野球において最重視されている球速は、140キロの壁を破ることはできなかった。自分の天井を強制的に知らされているようで、苦しかった。
自分は指名漏れ。三井はプロの道へ。
ふと、甲子園の決勝戦、マウンドで崩れ落ちた自分に、三井がかけてくれた言葉を思い出す。
「熊野!俺たち、最高だったな」
あの時、三井は負けた悔しさよりも、やり切った充実感を滲ませていた。そして今、三井はプロの世界へ進む。
私と三井の野球人生の物語は、ここで一旦、別のページへ綴られることになる。だが、これで終わるわけではない。絶対に終わらせない。
「……三井の活躍は、もちろん楽しみです。あいつは絶対に成功する。でも、私は私の道を行きます。4年後、プロの舞台で三井と再会する。それが私の目標です」
絞り出した声は、少し震えていたかもしれない。だが、視線は力強く、まっすぐ前を見据えていた。
記者たちが去った後、体育館には静寂が戻った。
窓の外を見ると、いつの間にか日は沈んでいた。夏の甲子園が終わり、季節は確実に移り変わっている。三井はプロへ。私は大学へ。
それでも、いつか必ず。そう心に誓いながら、私は体育館を後にした。




