聖は何が為にあるか?~神の遣いの悪役令嬢と漆黒の貴公子は虚無の深淵を覗く~
エルの一族はかつて天使と呼ばれていた。
神の遣いとして地に降り、迷える人々を神のもとへと導いた。
天使の翼を有したまま人の体を得た種族が「エルの一族」と呼ばれるようになり、すでに数百年が経過する。
救いを求める者のために建てられたのが「聖エル・アストラ魔法学院」だ。
迷える人の子に正しい教育を与えるための魔法学校で、老若男女問わず救いを求める者なら誰でも受け入れる。
講師や生徒の中にエルの一族が存在し、望む者を神の領域である「神界」へと送り込む。そうすることで、エルの一族も高みへ昇ることができるのだ。
エル・ミコ・ラクリマ・ウィンクルム侯爵令嬢も、エルの一族のひとりであった。
ラクリマが望んでいなかったとしても。
「ラクリマ・ウィンクルム! お前との婚約を破棄させてもらう!」
聖エル・アストラ魔法学院の大聖堂にそんな声が響く。エルの一族の王太子ガウディウムが、ラクリマ・ウィンクルム侯爵令嬢に放った言葉だ。大聖堂に集ったエルの一族も人の子も、困惑と興奮の視線を輪の中心に注ぐ。そんな中、ラクリマはいつも通り、しゃんと背筋を伸ばしていた。
「お前は神の遣いとして相応しくない行動を取り続けている。その罪は重い!」
ラクリマは、ガウディウム王太子の背に庇われる少女を見遣る。確か、グロリアという名の平民だ。ただの平民ではないのだが。
「わたくしの何が罪だと仰るのですか?」
扇で口元を隠しつつ言う。笑みが零れるのを悟られないために。
「お前は清く正しい魂を『虚無』へ送り込んだ」
「何が問題なのですか?」
ラクリマの反応は思惑と違っていたのだろう。ガウディウム王太子は忌々しく顔をしかめ、人差し指を突き立てる。
「我々は神の遣いとして、罪なき魂は『神界』に送るべきだ」
ラクリマは溜め息を落とした。わざとらしく、大袈裟に。
「彼らは虚無へ逝くことを望んだのです。何が問題なのか、わたくしには分かり兼ねます」
「迷える魂を神界に送るのがエルの一族の使命だ!」
「わたくしはその限りではないと思いますわ」
大聖堂にざわめきが広がる。ウィンクルム侯爵家は昔から由緒あるエルの一族で、迷える人の子を正しく神界へと送り届けてきた。その正反対の地である虚無は、罪を犯した魂が堕ちる地点。エルの一族が導く場所ではない。ラクリマとしては、望む者を望む地へ送っただけであるのだが。
「それだけではない。お前はこの聖女であるグロリアを害した!」
ガウディウムの背後で震えていた少女に視線が集まる。人の子であるグロリアは平民でありながら聖なる力を持ち、稀有な「聖女」としてエルの一族に認められている。この聖エル・アストラ魔法学院を守護する存在なのだとか。ラクリマには関係のない話だ。
「わたくしが何をしたと仰るのですか?」
「とぼけるな! お前はグロリアの聖なる力を奪うため、他のエルの一族の者を使いグロリアを傷付けた。彼女の『星の証』を破壊しようとしたのもお前だろう!」
聖女のみが有する「星の証」は、神が人の子を正しく導く者として選んだ少女の心核が形となったものだ。聖遺物とされ、この大聖堂に保管されていた。先日、何者かが破壊を試みたらしい。ラクリマの耳に届くほどの大騒ぎになり、エルの一族は犯人探しに躍起になっていた。
「聖なる力がなんだと仰るのですか? 彼女は神の遣いではありません」
「彼女は特別な存在だ。彼女を傷付けるのはエルの一族であろうと人の子であろうと、許されることではない」
「さようでございますか」
ラクリマは軽く肩をすくめる。彼女を傷付けようとした者たちは、いまごろ心臓が落ち着かず、呼吸を荒くしていることだろう。
「我々、エルの一族は正しく在らねばならない。罪なき魂を神界に導くための存在だ」
「望まぬ者を神のもとへ送る意義とはなんでしょう」
ガウディウムがぴくりと眉を震わせる。彼はエルの一族としての誇りを胸に、未来の王として自らを律している。ラクリマはその婚約者として選ばれたが、その肩書は邪魔でしかなかった。
「救われぬ魂を神のもとへ導き浄化する。我々の力はそのためのものだ」
「それはどうだろう」
また別の声が登場し、大聖堂のざわめきはさらに広がっていく。ラクリマの隣に並んだ青年に、ガウディウムは目を見開いた。彼はレイヴン・エルドール公爵。この国の一端を支える、歴史あるエルドール公爵家の若き当主だ。
「浄化を望まぬ魂を虚無へ送ることこそ救いではありませんか」
ラクリマとしては全面的に同意できる。だが、正義感の強いガウディウムにとっては到底、受け入れられないことのようだ。
「それは神の意思に背く行為だ。エルドール公爵家もかつてエルの一族だったはずだ」
エルドール公爵家の祖先はエルの一族であった。その功績を認められて叙勲し、誉れ高き貴族として国を支えている。若きエルドール公爵にとって、その過去は意味を成さないものなのだ。
「神の意思……」ラクリマは呟く。「それは神の意思であって、人の子の意思ではありませんわ」
「エルの一族は人の子の魂を神界に送ることで高みを目指せる」と、レイヴン。「現在では競うように人の子の魂を奪い合っているそうではありませんか」
ガウディウムが言葉に詰まる。エルの一族がより高みを目指すため、功績を立てるために人の子を奪い合っている現状は否定しようがない。その事実に、ラクリマは溜め息が漏れるばかりである。
「特に、聖女ともなれば、多くの迷える人の子が頼って来るでしょう」レイデンは続ける。「ですが、中には神のもとへ逝くことを望まぬ者もいたのではありませんか」
グロリアの表情が強張る。ガウディウムも否定する言葉がないようだ。
「人の子の望みを叶えてこそのエルの一族」ラクリマは胸を張る。「エルの一族は人の子のために在る。わたくしは間違っていますでしょうか」
「この力をなんのためだと思っているんだ」
ラクリマは扇を閉じる。真っ直ぐにガウディウムの蒼天の瞳を見つめた。
「もちろん、人の子のためですわ」
そのとき、大聖堂の鐘が風を受けたように揺れ、腹の底に響くような音を打ち鳴らした。感じ得ない不協和音が耳の奥を劈く。聖なる力を表すはずの響きは、エルの一族に恐怖を与えていた。
「なぜ鐘が……」と、ガウディウム。「まさか、聖像に何かしたのか!」
「さあ」ラクリマは微笑む。「グロリア嬢、あなたは聖女でしたわね。この学院が地に墜ちたとしても、あなたなら救うことができますわね?」
グロリアの顔は青褪めている。この鐘の音の意味は、聖女である彼女にもよくわかるはずだ。ラクリマがそれについて言及する必要はない。
「これは罪だ」と、ガウディウム。「地に堕ちるのはお前だ!」
「ああ、最初に申し上げるべきでしたわね」
ラクリマは再び扇で口元を隠す。目元に微笑みを湛えたまま。ウィンクルム侯爵家の者として、あの聖女のように背中を丸めるわけにはいかない。
「わたくし、翼はもう神に還しておりますの」
「なんだと……!」
「この学院にも、もう用はありませんわ」
ラクリマは踵を返す。レイヴンもわざとらしく恭しい辞儀をしてそれに続く。
「ごきげんよう、皆様。神のご加護があらんことを」
もうこの場に留まる必要はない。鐘の音すらラクリマには意味を成さない。ただ、差し出された腕に手を添えるのみだ。
学院の正門のそばに馬車が停まっている。そばに控えていた初老の執事が、ふたりに恭しく辞儀をした。
「お待ちしておりました」
執事が馬車の戸を開く。ラクリマにとって、新しい聖なる日々の始まりだ。
「さあ、ラクリマ。逝こうか」
「ええ。どこまでもお供いたしますわ」