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第四のループ、第十九章 : 忘れられた命の断片

街は静まり返っていた。歩を進めるたびに、靴音がかすかに舗道に響く。頭上のネオンが濡れた路面に万華鏡のような色彩を映し出していたが、ほとんど気にも留めなかった。


脳裏には、断片的な記憶が絡まり合っていた。映像、感情、ささやき声… それらはまるで一つに繋がることを拒むかのように、まとまりを持たなかった。


どれほど歩き続けたのか分からない。街はどこまでも広がっているように思えたが、なぜかこの道には馴染みのある感覚があった。


そして、ある通りの前で足を止めた瞬間、息が詰まった。


レンガ造りの家々が並び、窓辺には花の鉢植えが置かれている。冷たい夜の空気には、焼きたてのパンのかすかな香りが漂っていた。


胸の奥で、何かが強く共鳴するのを感じた。


ぞくりと、背筋を駆け抜ける冷たい感覚。


──知っている。この場所を。


けれど、なぜ?


意識が追いつく前に、足が勝手に動き出していた。まるで見えない何かに引かれるように、名前も分からない目的地へと進んでいく。


心拍が速まる。空気が重く、拭い去れない既視感が広がっていった。


そして、目の前に現れた──


通りの角に佇む、一軒の家。


近くの街灯の光に照らされ、静かに佇んでいた。淡い黄色の外壁、小さな玄関ポーチ、そして年季の入った木製の柵。


ただの平凡な家のはずなのに、胸が締めつけられるほど苦しくなった。


ゴクリと喉を鳴らす。心臓の鼓動がやけに大きく響き、静寂をかき消していく。


「……ここは、俺の……昔住んでいた場所?」


かすれた声で、誰にともなく呟いた。


震える手で、短い階段を上がる。


玄関の前で立ち止まり、指先がノッカーの上で宙を彷徨った。


もし、誰もいなかったら?

もし、これがただの夢だったら?


迷う間もなく、ドアが勢いよく開いた。


「大地! なんでこんなに遅いの? いなくなったのかと思ったわ!」


雷に打たれたような衝撃が全身を走る。


目を見開き、息を呑んだ。


ドアの向こうに立っていたのは、一人の女性だった。腰に手を当て、エプロンには薄っすらと小麦粉の跡がついている。


整えられた髪をきっちりと束ねたその顔は、懐かしくもあり、どこか遠い存在のようでもあった。


何年も見ていなかったはずの──


「……か、母さん?」


思わず、息を詰まらせる。


彼女は怪訝そうに眉をひそめた。


「何言ってるの? 私があんたの母親に決まってるでしょう?」


「それより、大地、顔色が悪いわよ。本当に大丈夫?」


温かく優しい声が、心の奥底を解きほぐしていく。


目の奥が熱くなり、こみ上げる涙を必死に堪えた。


こんなこと、あるはずがない。


ここにいるはずがない。


それでも──


彼女は目の前にいた。


拳を握りしめる。もしこれが幻なら、あまりにも残酷なものだ。


「何ぼーっとしてるの? さっさと買い物袋を持ってきてちょうだい!」


母の声が、思考を現実に引き戻す。


「お父さんも、弟も妹ももうすぐ帰ってくるのに、まだ夕飯の準備も終わってないのよ!」


「……ああ」


ぎこちなく頷き、家の中へと足を踏み入れた。


その瞬間、懐かしい香りが身体を包み込んだ。


温かい料理の匂い。


まるで、ずっと忘れていた優しい抱擁のように──


ゆっくりと視線を巡らせる。壁に掛けられた小さな時計、少しほつれたリビングのカーペット、棚に並んだ家族写真。


すべてが、あの頃のまま。


……七年前のまま。


震える手で、買い物袋をキッチンのカウンターに置く。


母は鍋をかき混ぜながら、ちらりとこちらを見た。


「大地、本当に大丈夫? 帰ってきてから、ずっと様子が変よ?」


「……平気だよ。ただ、少し疲れてるだけ。」


無理に声を絞り出すと、母は小さく頷いた。


「なら、部屋で少し休みなさい。夕飯ができたら呼ぶわ。」


部屋──


俺の部屋は……まだ、あのままなのか?


ぎこちなく頷き、私は階段を上がった。一歩進むごとに足が重くなる。手すりに指を滑らせながら、小さな傷や欠けた部分を無意識に確かめていた。そして、廊下の端にたどり着いたとき、息を呑んだ。


目の前の扉には、木製のプレートが掛かっている。


「大地」


手が震えながらも、私はゆっくりとノブを回した。


扉がきしむ音とともに開いた瞬間――私の心臓が止まった。


すべてが…そのままだった。


整えられたベッド。壁に貼られたポスター。棚に並ぶお気に入りの小説や小さな雑貨たち。ノートやペン、描きかけのスケッチが散らばる、あの頃のままの机。


まるで、時間が止まっていたかのように。


私は静かに部屋へ踏み入り、指先で机の表面をなぞった。ふと目に留まったのは、小さなロボットのオモチャ。何年も見ていなかったものなのに、その重みは驚くほど馴染んでいた。


「これは…俺の人生だったんだ…」


かすれた声で、私はそう呟いた。


机の引き出しを開けると、古いメモや紙切れが溢れ出した。震える指でノートをめくる。そこには、幼い頃の自分が書き殴った文字が残されていた。


そして、私は気づいてしまった。


「ヴァニッシング… 泉… 俺のアンドロイドとしての人生…」


歯を食いしばる。これはただの夢なんかじゃない。俺は確かに生きた。だけど、今…俺は、あるはずのない過去にいる。


すぐさま、空のノートを掴み、ペンを走らせた。バラバラの記憶を繋ぎ合わせるように、考えを整理していく。


鍵はヴァニッシングを解決するものじゃない。

俺を過去へと飛ばし、幼い自分と魂を融合させるものだ。

時間旅行は、必ずしも未来を変えられるわけじゃない。


ペンを握る手に力がこもる。


「すべては繋がっている… でも、どうやって?」


泉の言葉が脳裏に響く。


「記憶を取り戻せる保証はない。」


奥歯を噛み締める。答えが必要だった。


だが、その時――


「大地! 夕飯ができたわよ!」


母の声が階下から響く。


私は震える息を吐き、ノートを閉じた。


今は… 普通に振る舞わなければ。


私は食堂へ向かった。そこには父と弟、そして妹の花が座っていた。彼らの笑顔と笑い声を目にした瞬間、胸が痛んだ。


「お兄ちゃん、一緒に食べよ!」


花が小さな手で私の袖を引く。


喉の奥が詰まるのを感じながら、無理に笑顔を作った。


「…ああ、食べよう。」


夕食は、温かく、そして幸せな時間のはずだった。母が父を小言でたしなめ、弟の大輔が無邪気に食べ続ける。花は屈託なく笑い、私を見上げる。


…すべてが痛いほど、リアルだった。


食事の後、部屋へ戻ろうとしたとき――


「大地、大丈夫? なんだか疲れてるみたいだけど。」


母が心配そうに問いかけた。


振り返り、なんとか表情を保ちながら微笑む。


「心配いらないよ、母さん。ただ…ちょっと疲れてるだけ。」


そう言って、扉を閉めた瞬間――私は崩れ落ちた。


ベッドの端に座り、顔を手で覆う。胸が締めつけられ、こらえていた感情が堰を切ったように溢れ出す。


「俺は… 俺は、確かに持っていたんだ… 家族を… 家を…」


涙が頬を伝い、止めどなく落ちていく。


一度失ったもの。


そして――今、再び失うかもしれないという恐怖。


過去の重みが、容赦なく押し寄せる。沈み、沈み、闇の中へと引きずり込まれるように――


私は泣き続けた。身体が限界を迎え、ついに眠りへと落ちるまで。


しかし、眠りは安らぎをもたらさなかった。


私は夢の中へと呑み込まれた。現実としか思えないほど、鮮明な夢の世界へ。


――一面に広がる、白い霧。


足元は水面のように揺らめくが、しっかりとした感触がある。空も地平線もなく、ただ光と影が絡み合い、絶えず形を変えている。


不思議な風が吹いた。暖かさと冷たさが同時に肌を撫で、身震いする。


「…ここは?」


かすれるような声は、広大な空間に吸い込まれた。


その時――


遠くから、微かな音が聞こえた。足音か? それとも囁き声か?


振り向くが、何もない。ただ静寂だけが広がっている。


次の瞬間、霧が揺らぎ、映像が次々と現れた。


崩れ落ちる廃墟の街。焼け焦げた大地。 泉の涙に濡れた顔。 そして、あの光る欠片。


すべてが私の記憶を突き刺し、逃れようとしていた痛みを無理やり蘇らせる。


息を呑む間もなく、景色が消え去った。


そして――


そこに、ひとりの男が立っていた。


動かず、ただ存在しているだけなのに、背筋が凍るほどの威圧感を放っていた。


顔はぼやけ、輪郭すらはっきりしない。けれど、その存在感は否応なしに私を圧倒する。


やがて、彼が口を開いた。


「目的を忘れるな、大地。」


低く響く声は、まるで水底から届いたかのようにくぐもっていた。


私は息を詰まらせた。心臓が激しく脈打つ。足を動かそうとするが、まるで鉛のように重い。


「お前は…誰だ?」


彼は答えなかった。ただ静かに、私の背後を指さした。


振り返ると、霧が晴れていく。


そこに浮かんでいたのは――


砕けた鍵。


淡く光るその鍵は、静かに鼓動しながら、波紋のようなエネルギーを放っていた。


「…これは…!」


私は声を震わせながら問いかける。しかし、男の姿は霧に溶け、消えていった。


最後に残ったのは、彼の声だけだった。


「人類を… そして自分自身を救え。」


その瞬間、鍵が砕けた。


眩い光が空間を飲み込み、私の視界を白く染める。


灼けつくような熱が肌を刺し――


私は、落ちていった。


永遠にも思える、暗闇の中へ――


そして、目が覚めた


私の体は跳ね起き、鋭い息が喉から引き裂かれるように漏れた。


柔らかな朝の光がカーテン越しに差し込み、壁に黄金の筋を描いていた。しかし、その温もりは、胸に突き刺さる氷のような感覚を和らげることはなかった。


息は乱れ、手を震わせながら濡れた髪をかき上げた。肌にまとわりつく汗が、朝の冷たい空気に触れてなおさら冷たく感じられる。


夢の感覚はまだ消えず、まるで本当にそこにいたかのように鮮明に残っていた。


あの男の声が、何度も頭の中でこだました。


「自分の使命を忘れるな…」


喉を鳴らし、拳を固く握りしめる。


彼が誰なのかも、なぜあの夢があれほど恐ろしく現実味を帯びていたのかも分からない。だが、一つだけ確かなことがあった——これは、決して無視できるものではない。


私はベッドから足を下ろし、立ち上がった。窓の外に広がる穏やかな街並みを見つめる。


すべてが…あまりにも普通に見えた。何も乱されていないかのように。


しかし、私は知っている。


静寂の裏で、目に見えない何かがすでに動き出していることを——。


そして、それが手遅れになる前に、自分の役割を見つけなければならないことを。


机の上の淡いランプの光がちらつく中、私は乱雑に書き散らされたメモや図、断片的な思考の上に身をかがめた。


書き込む一行一行が、まるで石に刻むような感覚だった——指の隙間から零れ落ちる真実を、必死に掴み取ろうとしているかのように。


私を苛むイメージ——輝く遺物、涙に濡れたイズミの顔、崩壊する世界の暗闇。


ペンを強く握りしめ、白くなるほど力を込めながら、それらの間に繋がりを見出そうとする。


「犠牲…船…異変…すべて同じパズルの一部…」小さくつぶやく。「でも、どうやって繋がる…?」


テレビの音が背景に流れ、政治の話題や天気予報、取るに足らない街のニュースが部屋の静寂を埋めていた。


ただの雑音だった。


彼らは何も知らない。


だが、私は知っている。


ふと画面に目をやる。


「……静かすぎる。」


日々はぼやけ、夜は果てしなく続いた。睡眠は、もはや贅沢なものだった。


そして、五日目の夜——


ひとつの記憶が蘇る。


鋭く、鮮やかに、疑いようのない確信を持って。


森の中の空き地。異様な静寂。


そして、地中に半ば埋もれた巨大な船。


息をのむ。鼓動が一気に速くなる。


「…そうか。」私は小さく呟き、机から身を離した。「そこから始まり…そこに終わる。」


その夜、リビングで何気なくニュースを眺めていた。


無意味な話題が流れ続ける中——


胸の奥で、得体の知れない違和感が渦巻いていた。


何かがおかしい。


ソファの肘掛けに指を食い込ませるように握る。


「……静かすぎる。」


その時、小さな声が思考を遮った。


「何が静かすぎるの、お兄ちゃん?」


驚いて振り向く。


ハナが隣にちょこんと座り、色鉛筆を握りしめながら絵を描いていた。小首をかしげ、好奇心に満ちた大きな瞳で私を見つめている。


ぎこちなく笑みを作る。「ああ、何でもないよ、ハナ。ただの独り言さ。」


彼女はくすくすと笑った。「お兄ちゃん、時々変だよね。」


無邪気な笑い声が、胸の奥に重くのしかかる。


この世界…この時間軸——


私は、同じ運命を辿らせるわけにはいかない。


何としてでも、守らなければならない。

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