564.小さな島の小さな幸せ(5)
頬に何か当たる感触がある。
それはひんやりと冷たく、僕の眠りを解こうとしているように思えた。
身体を撫でる風も優しく、顔の周りを漂って前髪を揺らしてくすぐってくる。
「……んあぁ……」
どうしてかうつ伏せになっていた身体をぎこちなく動く腕を叱咤して仰向けると、空は今にも泣き出しそうな曇り模様だった。
いや、地面がうっすらと濡れているところからすると、もうひと雨降ったのかもしれない。
「……生きて、る……」
そう、生きていた。
刺されたはずの身体はその証拠として服は破れているものの、恐る恐る傷口に手を触れれば跡一つ残さずに消えている。
「よお、起きたか」
僕の顔の上に、見知らぬ男が顔を覗かせた。風に弄られたようなボサボサの髪に、影でわかりにくいけど日焼けした褐色の肌と顎の回りに無精髭がある。目を丸くしている僕の横へ右手に持っていた古びたコップを置くと、腕を伸ばしても僅かに届かないような距離に腰を下ろして左手のコップに口をつけた。
身体を起こそうとすると、一日じゅう働いた時よりも酷い筋肉の軋みで、全然言う事が効かない。
「ああ、無理するな。術式で強引に身体を治療したんだろう。暫くは負荷でまともに動けないはずだ」
男の声には、こちらを気遣うような優しさが滲んでいた。
それでも相手と顔を付き合わせて話したい僕は痛む身体を無理矢理に起こし、右手で身体を支えながら左手でコップを手に取った。中身は無色透明で匂いもしない。少し温められたそれを口に含むと、飲み水を温めただけのものだった。
それでも喉の渇きを洗い流してくれるそれが有り難く、少しずつ飲むつもりが気づくと飲み干してしまっていた。
ようやく一息付いた僕は、改めて見知らぬ男へと顔を向ける。
「貴方が、助けてくれたんですか?」
「敵対していた男から、って意味ならそうだな」
含みを持たせたような言い方は気になったけど、助けられた事には代わりがなさそうだ。
ありがとうございますと礼を口にすると、気にするなと手を振られた。その声と横顔に何処か寂しさが見受けられたのはどうしてなのか。
いや、それよりも聞く事は他にもある。
「……ばあちゃんは……」
「お前を助けて亡くなった、と思う」
男に見えていた雰囲気は瞬く間に消え失せ、困惑を含んだ声で返事が返ってきた。
「……思う?」
「俺がここに辿り着いた時には、お前にトドメを刺そうとした男がいただけで、お……ばあさんの姿は見えなかった」
「そう、ですか」
そうだとわかってはいた。
しかし、それならどうして亡骸がないのか。
「お前が助かったのは、もしかしたらおばあさんの力かもな」
唐突に男が告げると、僕の興味の視線に話を続けた。
「おばあさんが魔術を使えるなら、術式で君の身体を治療したという推測は成り立つ。ただ、竜もいなくなってからの術式は術を扱う負担が増していて、魔術補助器のない術は老体には厳しいだろう。死に瀕していた君を助けるべく、自身の命を用いたんじゃないか」
努めて整然と話す内容は、僕の中にすとんと落ちた。
ばあちゃんを死なせたのは、僕のせいなのか。
僕の頬を一つ、二つ、と滴が滑り落ちていく。
声は出ない。泣き言なんて口に出来ない。
しばしの間、僕と男の間に無言の時間が流れる。
空はまだその身から涙を流さないが、荒ぶる気を示すように遠くで雷が一つ落ちた。
男が小さくため息を吐くと、服の誇りを落としながらゆっくりと立ち上がった。
「村は通り雨のおかげでどうにか鎮火した。だが、生きてる人は誰一人として見つからなかった」
男の言葉通りなら、僕はこの小さな島でひとりぼっちになったのか。
ティアと未来について話してたのが、結果はこんな結末なのか。
胸の中にあった何かが抜け落ち、身体の痛みなどなかったかのようにひとりでに小さく蹲っていった。
「少年、名前は?」
「コニス、です」
消え入りそうな声が自分の口から出た事で、尚更に気持ちが落ちていく。
男は一歩一歩確かな足取りで近づいてくるのを耳にする。
僕の手が届くその距離まで寄ると、頭に手を当てられて乱暴になで回された。
「コニス。君はどうする?」
「……どうする……」
多分、僕の気持ちを立たせたいのだろう。
そういう理由だと頭の片隅でわかっても、気力の生まれない僕はぼんやりと返事を返すしか出来ない。
「誰か頼れる親類はいるのか?」
黙って顔を横に小さく振る。
「もし君が望むなら、この島からほど近い街へと送り届けよう。あるいは、俺の旅団の一員となって仕事をしても良い」
この島から出て行かない、という選択肢は男にないようだ。
「選べ。このまま見知らぬ土地へ行くか。それとも俺と共に復讐しに行くか」
男の声に秘められた熱が、僕に顔を上げさせた。
口を真一文字に結び、真摯に見つめ返してくる男は手を俺に差し出したまま、僕の答えを待っていた。
「……僕は……」
自分の中に相手を憎む気持ちがあるんだろうか。
出会ったあの男の顔を思い出しても、復讐の意思より恐怖心の方が沸き上がってくる。
それでも僕は、震える手を抑え付けて差し出されたその手を取った。