564.小さな島の小さな幸せ(2)
テルじいの家で遅刻を怒られながらも手早く薪割りを済ませると、もう日は暮れていた。明日もいい天気だと思わせてくれる星の瞬く夜空を見上げながら、ここから程よく離れたところある僕の家へと帰っていく。ようく耳を澄ませば夜鳥の鳴く声が聞こえてくるくらいで、風も凪ぐだけの静かな夜だ。
見慣れた家からは小さな灯りだけが漏れていて、外にまだ家主が起きている事を知らせているサインだった。
家の扉を叩いて入る事を中に知らせてから、僕は簡素な木の扉を開けた。
「ばあちゃん、ただいま」
「おかえり、コニス」
ロッキングチェアに腰掛けたばあちゃんが立とうとするのを手で止めた。ばあちゃんは昔に片腕を無くしていて不自由で、足も弱っているから杖がないと歩くのに支障がある。暇だからという理由で多少の家事をするものの、それでも家から出る時は僕が付き添うのがほとんどだ。
そして料理の腕はそんなに良くないので、食事番はもっぱら僕の仕事だ。
「昨日の残りでいいかい?」
「いいよそれで」
ぶっきらぼうな物言いだけど、テルじいに言わせると昔からこうらしいので、僕もいつしか気にしなくなっていた。
僕は台所の冷暗室――冷却術式を仕込んだ板が入った小さな保管庫で、季節にもよるけど朝から晩までくらいなら涼しく保存出来る便利な道具だ――の戸を開けて中を確認した。
昨日作っていた肉詰めのスープが入った鍋を取り出して、調理台に火を付けて温め直す。くつくつと煮えている間に野菜を漬けてある瓶詰めを開けて、小皿にいくつか入れて先に出した。
ばあちゃんを先にテーブルへと連れていって座らせると、台所へと戻ってバターと小麦粉を混ぜてスープに入れてとろみをつける。ついでに一斤のパンを薄めに切って鍋の下の火で炙って焼き目をつけた。
木製の皿にそれらを取り分けてテーブルに並べると、簡単だけど食べ応えのある食卓になった。
「いただきます」
互いに手を合わせて食事に手をつけ始めた。
ばあちゃんは昔取った杵柄とやら食欲は旺盛なので、左手だけでも器用にご飯を食べれる。
僕は僕で朝から昼過ぎまでみっちり働いたし、お腹は空いていたのでもりもりと食べまくる。
準備にかけた時間と同じ時間で食事も終えてしまうと、僕はさっさと食器を洗って片付けた。後は、ばあちゃんから何かなければその身体を寝床へ移すのが最後の日課になる。
「コニス」
「なんだい?」
ばあちゃんが話したい事がある時は、その隣に椅子を持ってきて腰かけて話を聞く体勢を取る。
なんだろうと待っていても、ばあちゃんは横の木窓を向いたままなかなか話を始めない。ままある事だから気にはしないけど、長くなるならお茶でも淹れたらいいかなあとぼんやりと考え始めた頃、ようやくばあちゃんは咳払いを一つしてから話し出した。
「お前は、やりたい事はあるのかい?」
随分と漠然とした内容に、僕の目はなんだか眉尻が下がってしまった。
普段はこういう普通の、あるいは先の事なんて聞いてこない。口を開けばあれをしろこれをしろ。いつ何かあってもいいようにと、村のあちこちに行って働いてこいと酷使する事ばかり。
村の人の顔を全員覚えていられるほどの小さな村だから、仕事だってそれほど多いわけじゃないから苦ではない……どころか、体力の発散にはいいなあって思ってるくらいだ。
それはばあちゃんにも伝わっているだろうに、どうしてこんな事を聞くのか。
「なんだい急に?」
ばあちゃんもいい歳だからそういうのも気にするのかなあ。
そう口にしたら間違いなく傍らの杖で殴られる。とても痛い。
「お前ももうじき十二だ。そろそろ、将来を考えても良いと思ってね」
普段のぶっきらぼうな様子からは想像出来ないような穏やかな話に、思わず僕の目が丸くなってばあちゃんをまじまじと見つめてしまった。
皺があっても昔は美人だと思わせる整った顔立ちに、切れ長の目元。昔は長かったっていう黒髪や頭の上にある獣の耳も白くなったものの、話しぶりからは耄碌したなんて様子はこれまで全くなかったというのに、本当にどうしちゃったんだろう。
「そうは言ってもなあ……」
僕は、椅子の後ろでぶらぶらしている尻尾に顔を向けた。獣人の持つ尻尾は細いものが多く、僕のような蜥蜴に似た太い尻尾は誰もいない。
誰も見た事がない聞いた事がないという僕の尻尾は、この村では誰もが知ってる僕のコンプレックスだ。
「その尻尾は嫌いかい? 美しい竜の尻尾は珍しいからねえ」
僕の昔からよくあるこの様子に、ばあちゃんはやれやれと笑うだけだ。
「……獣人とは違うんだよ、ね?」
「そうだねぇ。基本的に獣人種は動物の特徴をその肉体に宿して、人間に近い骨格を持つ者を指す言葉だねぇ。一方で、獣の魂と人間の死体が融合したというのが獣人間って言われるねぇ」
学校の先生もかくやというくらい、詳しくばあちゃんは教えてくれる。どこでそういう知識を得たのかいつも聞くんだけど、ばあちゃんがいつも最後に言う言葉は「気にすんな」って言葉で締め括る。今日もまた言われた。
「じゃあ、僕は――」
「――獣人種ではないねえ」
ばあちゃんは笑いながらそう言い、懐から眺めのキセルを取り出した。身体に悪いからという理由で酒か煙草は月に一回と決めているとはいえ、面白がってる時には手元に持って適当に弄ぶようになったらしい。
まあこのやりとりも過去に何度かあるから、ばあちゃんとしてもこの後に続く言葉もわかっているんだろう。
「じゃあワーヒューマン、って事になる?」
「竜は転生しないからねぇ」
喉を鳴らすように笑い、ますます僕を面白がるばあちゃん。
そりゃそうだろう。
もうこの世界に竜は存在しない。
その事実は誰もが知っている話だし、代わりの竜が新たに誕生したという話も聞かない。
「じゃあ死んだ魂があるのなら、誰かに宿ってワーヒューマンになるんじゃないの?」
「竜ってのはね、どうあっても竜にしかならないのさ」
どこか懐かしそうに呟くばあちゃん。
竜を見た事があるのか聞くと笑っていつも誤魔化されたから、多分、会った事はあるんだろうと思っている。
この辺までは、大体何かあるとこういう流れになるので、いつもの事と言えばいつもの事だ。
「それよりは、自分がこれからどうしたいのか。それを考えな」
そして、だいたいはばあちゃんのこの言葉で締め括られ、いつもならこの後にお茶でも要求されて、その準備をしている間に話は終わってしまう。
ここから先の話を続けようにも、僕にはこの村で生きていく以外の道が思い浮かばなかった。
「これからって話なら、やっぱりこの村でみんなと一緒に生きていくのが良いんじゃないかなあ」
結局、僕はまた自分の尻尾へ視線を向けた。椅子の後ろで力無く垂れ下がっているそれは、今の僕の気分を表しているようだ。
「なら、ティアと結ばれるかい?」
「ぶっ!」
唐突にばあちゃんが言った一言に、僕は息を吸うのを間違えて変な声が出た。
しばらくごほごほと咳き込んでしまい、それを見たばあちゃんが明らかにそれとわかるよう喉で笑う。
「いやいや! どうしてそういう話になるのさ!?」
「この村じゃあ同い年の女って言ったらあの子だろう?」
「それはそうだけど!」
「じゃあ決まりだねぇ」
何か良くわからないまま、ばあちゃんの押しの強さに勝手に話が決まっていく。いや、ここでばあちゃんがいいと許可を出しても別にそうなると決まったわけじゃないけど、ばあちゃんはこれと決めたらどんどんと話を進めていけちゃう強さがあるので油断ならない。
「ティアにだって選ぶ権利はあるよ!?」
「選ぶ権利が残っている間にしちまいな。無くしてからじゃ遅いからね」
そう言いながら杖を片手に立ち上がると、そのまま背を向けて自分のベッドへと向かっていく。腰を下ろして杖を横に置き、毛布をはだけてその中へと入るとさっさと横たえて目を閉じてしまった。
このままばあちゃんの側に行って反論しようとしても、杖で殴られるだけだ。
「……ばあちゃん……」
怒った方がいいのか。
それともその心遣いに感謝すべきなのか。
そもそも僕にとってティアはそういう目で見るべき対象なのか。
よくわからないモヤモヤとした感情を抱えながら、居間の照明を消して僕もベッドへと入って目を閉じた。
明日も早く起きるとはいえ、今日はすぐに眠れそうにもなかった。