わが回想記(9) ~東京時代 雌伏4年の思い出
▼1985年は、決して忘れることができない特別な年である。
春に人生初めての海外出張を経験する。米国西海岸で開催されるパソコ
ンフェア(WCCF)を視察した後、ニューヨーク支店へ寄ってコンピューター
のリプレイスの相談に乗るという内容。経理部のK君と2人で赴いた。
シリコンバレーでゼロックス社、アップル社を訪問し、ビットマップディスプレ
ーやアイコン、マウスなどの最先端のパソコン技術に触れた。
丁度、前年アップル社がマッキントッシュを発表し、パソコン業界が熱く沸騰
していた。
8月、日航ジャンボ機が墜落。ビジネスマンが頻繁に利用する東京-大阪
便で発生した大事故により500人以上の乗員乗客が亡くなった。
わが社へ出入りしていた日本IBM社社員も含まれていた。
秋には低迷していた阪神タイガースが21年ぶりに奇跡のリーグ優勝を果
たす。真弓、掛布、バース、岡田の打撃陣とゲイル、中田、池田、中西ら投
手力がうまくかみ合った。勢いを駆って日本シリーズをも制した。
相前後して、私は子会社への転勤辞令を手にする。
パソコン導入に夢中になり、私は調子に乗っていた。上司のいう事をきか
ず、勝手な行動をするようになっていた。そして、睨まれ、放逐された。
▼東京で過ごした4年間は、辛く厳しい冬の時代だった。
新宿にある外食子会社へ出勤し、狭い階段を昇る度に”なんで俺はココにい
るんだ?”と自問した。
会社の幹部はすべて親会社からの出向者であったが、クセのある人物ばか
りだった。雑談ばかりして仕事をしない人、出先から直帰して雀荘へ行く者。
当然のようにプロパーの社員は厳しい目で見ていた。
耐えられない私は、真面目にビジネスオフコンのシステム導入に力を注いだ。
幹部との付き合いは避け、プロパーの若手社員と飲みに出かけた。
メンバーは経理のK君、総務のHさん、社長秘書のAさんに私を加えた4人。
新宿、青山、赤坂などにできた新しいレストランへ出かけた。この時、イタリ
ア・スペイン料理やアジアンエスニック料理などの楽しさに目覚める。
新宿にはジャズ喫茶やJAZZバーが多くあった。中でもライブハウス「PIT I
NN」の存在はひときわ輝いていた。朝の部、昼の部、夜の部と(まるで落語
寄席のように)分かれていて、出演者も前座・二つ目・真打のように進んだ。
▼辛い忍耐の時代であったが、自宅へ戻れば妻と可愛い2人の子供が待っ
ていた。東急東横線元住吉駅から徒歩10分ほどの場所に社宅があった。
4階建てアパートの1階部分。間取りは3LDKほどであったろうか。明るいリ
ビングにはエレクトーンが置かれ、娘が得意な曲を弾いた。
毎週末、家族でドライブをした。等々力緑地、向ケ丘遊園、こどもの国、よみ
うりランド・・。私もまだ若かった。子供たちの笑顔を見ると、イヤな仕事を忘
れることができた。
ゴールデンウィークに出かけた軽井沢旅行は(笑っちゃう程)大変だった。
朝早くクルマで出発した私たちであったが、中央高速に乗った途端、渋滞が
始まる。”連休なんだから当然だ”と思うが、考えが甘かった。結局、貸別荘
に着いた時にはすっかり夜になっていた。
空腹だった私たちはそれからご飯を炊き、カレーを作った。
旅行にはトラブルがつきものだ。トラブった旅行ほどよく覚えている。