わが回想記(8) ~新婚時代 テクニトーン教室の思い出
▼新婚生活は西宮の社宅でスタートした。神戸の実家を使うこともできた
が、気分を一新したかった。
阪神電車鳴尾駅近くにあった社宅は、鉄筋造のテラス式市営住宅を1棟
だけ会社が借りて社宅として使っていた。1階部は1DK+風呂・トイレ、
2階にも和室があり、更に芝生の庭と物置小屋があった。
相変わらず仕事に身が入らない私は、近所に「テクニトーン教室」を見つ
けて妻と一緒に通うことにした。梅田のヤマハ・ショールームで見たエレ
クトーンのデモ演奏に魅せられて頭から離れなかった。右手でメロディー、
左手でリズムを刻み、脚鍵盤でベースを弾く演奏がこの上なくカッコよく見
えた。
教室の代表はボサボサ髪のおじさんであったが、変拍子ジャズのテイクフ
ァイブをいとも容易く(見事に)演奏して、我々夫婦を驚かせた。
1年間、真面目に教室へ通ったが、二人共一向に上達せず、私は好きな
「MORE モア」ばかり弾いていた。
▼総務部から情報システム部へ異動になり、大いに困惑した。当時、汎用
コンピューター発展期に当たり、すべての業務がシステム化されようとして
いたとはいえ、25才を過ぎてからプログラムの勉強をするのは堪え
た。紙カードにパンチ穴を空けてJCLを作成し、プログラムをテストした。本
社ビルの中に鎮座するIBM社製大型コンピューターS/370の実装メモリ
は、多分現在のパソコンよりも圧倒的に小さなものだった。
巨大で手に負えない汎用コンピューターとの闘いから逃れられる日がやっ
て来た。ビジネス用パソコンとの出会いである。
IBM社がマルチステーション5550を発売し、富士通も追随してFACOM
9450を発表する。それらは、スタンドアロンで表計算やワープロ、グラフ
作成などが可能な”OA オフィス・オートメーション マシン”であった。
1983年、わが社にもビジネスパソコンF9450が導入され、私はその担
当者になった。単独で動くので、何をしても他のメンバーに迷惑をかけるこ
とはない。その自由さに感動した。(コンパイルが必要ない)インタープリタ
ーであるBASIC言語を画面に打ち込むと、即座に図形やグラフを描写した。
その素晴らしさに魅了された私は、パソコン普及リーダーとして全国の支店
を飛び回り、導入していった。
▼結婚をして2年後、長女が生まれた。その頃は、親の留守宅で暮らしてい
た。父は退職後、請われてモロッコの鉄鋼会社へ赴任し、母親も帯同した。
子の親になり、思っていた以上にしみじみと感動した。自分の血を引いた存
在が生き残ってゆく。それを想像しただけで胸がいっぱいになった。妻に感
謝した。
30歳の時にマイホームを購入した。孔子曰く、「三十にして建つ」、正しくは
「三十にして立つ」であろうが、兎にも角にも30歳でマイホームを持つという
願いを実現した。
海岸の埋め立て地に立つ高層マンションを購入した。24階建ての20階部分。
ちょっと怖い気もしたが、窓から見える圧倒的な眺望に惹かれた。
間取りは3LDKで、充分な余裕を感じた。ACTUSの北欧風ソファーを並べ、
壁にはオカムラの組み立て式ラックを巡らせた。
マンションに住んで間もなく、長男が誕生。すべてがうまく回り始めたように
思えたが、数年後予期せぬ異動を命じられる。