わが回想記(11) ~広島時代 ジミヘン誕生の思い出
▼1999年、新たな勤務地・広島で、私の新しいステージが幕開く。
初めての単身赴任は、生涯初めての「ひとり暮らし」でもあった。
広島支店は広島市の中心・八丁堀にあり、単身マンションは京橋川沿い
の幟町にあった。10階建てマンションの最上階が私の部屋で、
ワンルームだが広いロフトがあった。
毎朝、同じルートを歩いて通勤した。途中、地元で人気のうどん店「ちか
ら」のセントラルキッチンがあって、かつお出汁の甘い香りが漂っていた。
帰りは会社近くにある「三越」デパートの地階食料品売り場を覗き、魚や
野菜を買って帰る。マンションの部屋には申し訳程度の狭いキッチンが
ついていた。今にして思えば、このキッチンでおやじ料理家ジミヘンが誕
生する。
ヒマを持て余していた私は、ホームページを開設することを思いつく。
タイトルは「おやじのための自炊講座」とし、自らの食体験や手料理の
紹介をすることに決めた。ハンドルネームは、「知足亭ジミヘン」とした。
アイドルであった天才ギタリスト、ジミ・ヘンドリクスを地味で変な自分に
重ね合わせて付けた。そして、愛読書であった「清貧の思想」から「知足
」の2文字を加えた。
メールマガジン第1号配信は、1999年12月12日。サブタイトルは「道
具は少ないほど良い」であった。
▼仕事は相変わらずだった。地元の物流会社の協力を得て、製品を配
備し、顧客へ配送するという地味な業務である。
物流会社を訪れる度に、社長室へ顔を出し、老社長と色んな話をした。
印象的だったのは、私の前任者が赴任した時、無遠慮に「広島に放射能
は残っていないのか」と尋ねたそうだ。何とも幼稚で、配慮に欠けた発言
だった。私はそれを聞き、恥ずかしくていたたまれなかった。戦災や被爆
者に寄り添えない無関心な発言が、どれだけ相手を傷つけるか。
8月6日の原爆記念日を迎えると、社長はこの町から姿を消した。
首相や来賓の白々しい非戦の誓いの挨拶を聴くのが耐えられないからだ
と専務から聞いた。社長には人に言えない壮絶な歴史があったのだろう。
その社長も、数年後亡くなられた。
▼広島には美味しいものがたくさんあった。海産物では「牡蠣」が有名だ
が、私のお気に入りは「小いわしの刺身」だった。
新鮮な小いわしの身を生姜醤油でいただくと、至福の味わいだった。合わ
せる酒は銘酒「賀茂鶴」。東広島市西条を訪れた時は、鶏肉を酒だけで煮
る「美酒鍋」に舌鼓を打ち、また竹原市へ旅した時は、竹鶴酒造(ニッカ創
業者の実家)の清酒「竹鶴」を堪能した。
あっさりとした「すずめ」「めじろ」の中華そば(小鳥系と呼ばれた)や、肉そ
ばとおにぎりのセットが絶妙なうどんチェーン「ちから」。会社近くにあった
精肉店「ますゐ」へもよく立ち寄り、大好物のトンカツを食べた。
また、新天地にあった「痴唐人」の”かんずり(赤い柚子胡椒)”を付ける一
口餃子も忘れられない。
お好み焼きは意外にハマらなかった。神戸では頻繁に食べていたお好み
焼きだが、広島ではあまり食べなかった。
一人前がボリューミー過ぎる。平気で皿に乗せてサーブする。どの店で
食べても画一的で、バラエティがなかった。
数ヶ月に一度、妻が広島へやって来た。
縮景園を案内し、宮島へ連れて行った。下関からSLに乗って津和野まで
旅し、金子みすゞの仙崎でしみじみとした。帰りは萩から秋芳洞を経由し
て広島へ戻った。新婚時代に戻ったようで、新鮮な気分になった。
広島で過ごした3年間は、新しい自分に出会えた日々だった。実に思い
出深い。




