わが回想記(1)~幼少時代 東社宅の思い出
戦後生まれのベビーブーマーが古希を迎えた。そろそろ「終活」を始めることにする。その一環として「わが回想記」を書くことにした。恥と怒りに満ちたわが生涯の記録だ。
【わが回想記(1) ~幼少時代 東社宅の思い出】
▼表からざわめきと共に、餅をつく音が聞こえる。私はまだ温かい
布団の中に居る。そうか、今日は「もちつきの日」だった。飛び起きた私は
外へ出る。慌ただしく賑やかな風景が目に飛び込んできた。近所のおじさん
が杵を振るい、おばさんが石臼に合いの手を入れる。「ハイヨ、ハイヨ」 テン
ポの良い掛け声。周りにはもち米を蒸す甘い香りが漂っている。
年の瀬になると、よく思い出す幼少時代のシーンである。何事にも器用だっ
た母はあんこ餅を作る名人でもあった。つき立てのやわらかい餅をひっぱり、
丸い餡を乗せてクルッと巻く。マジックのように出来上がるあんこ餅に、大人
も子供も目を丸くした。
▼両親の故郷である九州で私は生まれた。父は神戸の製鉄会社で働いて
いたが、戦況の悪化に伴い止むなく故郷へ戻り、農家を継いだ。
昭和23年秋、3番目の子として生まれた私は早くも人生の分岐点を迎える。
大病で入院した私は医者であった大叔父のお陰で、大きな病室を与えられ
たが生死の間をさまよっていた。同時に入院した子供が同じ病気で亡くなっ
た時、担当医師はこう言ったそうだ。「明日、天候が回復しなければ持たない
かもしれない」
果たして、翌朝両親が目を覚ますと、雲一つない快晴であった。
この話を何度聞かされてきただろう。死に損ないの幸運児。きっと長生きで
きるだろうと自分でそう言い聞かせた。
また、父にとってもこのことが人生の分岐点になった。貧しい農家を続けて
いては家族を満足に救うこともできない。こうして、一家5人は再び神戸へ
移住する。私はまだ3才だった。
▼製鉄会社の家族社宅は木造2階建ての4戸一の棟割り長屋だった。
西側にも社宅があったので、私たちは「東社宅」と呼んでいた。今でいえば、
2Kという間取りであろうか。6畳と4畳半の和室と狭い台所・便所があった。
ここで5人が暮らしていたが、子供にとっては楽しい日々だった。
部屋のタンスの上に大きなラジオが置かれていて、中村メイコの放送を聴
いた。夏になれば、蚊帳を吊った。子供たちは大喜びで、寝転びながら足
先で蚊帳の天井を揺らした。台風で停電した時は、大興奮した。兄弟3人
でロウソクの灯りを頼りに、紙と鉛筆だけでできる(今にして思えば)何でも
ない遊びに興じた。
戦後間もない時期だったので、家の周辺には戦災で焼け落ちた建物跡が
多く残されていた。そこで私たちは鬼ごっこをし、竹やぶで竹を切ってきて
は紙鉄砲を作った。舗装されていない路地でビー玉遊びをした。土に穴を
あけて入れたり、三角形の中に置いた数個のビー玉を手持ちのビー玉で
当てる遊びで興奮した。路地裏に苔が生える湿った場所があり、そこでは
5寸釘で「くぎ刺し」をして遊んだ。おもちゃなどない時代、手じかにある釘
さえ遊び道具になった。
1階隣りに住む竹安さんや向い2階に住む小野さんといつも遊んでいた。
ところが、ある日突然竹安さんとの別れがやって来る。
おじさんがバイクで帰宅中、車との衝突事故で死んだ。跳ねられたおじさ
んは30メートルも飛んだと母から聞いた。
竹安さん一家は、鳥取の田舎へ引っ越して行った。私は何も言えずに、
信子ちゃんとお別れした。