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2月、如月、February

作者: 海

川底に住む、名もない魚が尾ひれを動かすように、深い闇から抜け出した。壁掛けの時計を見る。キッチリ、午前3時だ。

ただ、陳腐な丸い掛け時計は、いつも7分進ませてある。ひんやりとした冷気が漂う。朝だ。一日が始まる。

2月。それは私にとって凝縮された角砂糖ひとつぶんだ。とても疲れて、甘いものが欲しくて、口の中に一粒ほう張る。ガリっと噛んだ瞬間、甘さと噛んだことへの後悔、入り交じった哀しみ。喜び。

まず、電気ポットに水を入れ、お湯を沸かす。慣れた手つきで紙フィルターにコーヒーを三杯分の珈琲を落とす。リビング中に珈琲の香りが流れて行く。



2月8日、それは私にとって人生で一番嬉しい、飛び上がって喜んだ日だ。まるで、網にかかった魚が、漁師から逃れるため、この世の限りと元気良く跳ねるように!

第三子だった。女、女と産み、男の子を嘱望されていた。まさに、イエという家長制度が明治にはあったときく。

義父の母は11人出産し、若くして二十歳前後でなくなったり、生後一年以内になくなったりしている。第二次世界大戦でも亡くなっている。結果、男子はひとり残らず若死し、本家から16歳の時に旧制一高だった義父が養子となった。だから、母とはいえ、義父にしては叔母が母である。

我が家は室町時代から続くと、義父母か聞かされていた。私は、男の子を産みたかった。当時、出産した産婦人科の病院で、男の子を産んであんなに喜んでいた人は初めてだと、取り上げてくれた副院長先生はおっしゃった。

男の子だった。わたしの身体の中を一匹の光り輝く龍が、突き抜けて行った。分娩室の天井の丸い大きな蛍光灯が眩かった。陣痛の痛みの記憶はない。この時から、まるで天国で暮らしているような、満ち足りた甘美な毎日が始まった。

生まれたのだ。男の子が。出産の喜びというものは、おんなという生き物であること、それは自分の生きること、生きとしいけるものの証だった。

当時、私たち夫婦は20代で横浜に越してきた。義父の買ってくれたマンションに長女、次女と四人で、当時はまだキャベツ畑が広がる新横浜だった。長女の幼稚園のお芋掘り遠足の写真は、バブルの新横浜建設ラッシュが写っている。

毎日が夢のようだった。人生の喜びに満ち溢れ、手に触るもの、聴くもの、すべてが命を持ち輝いていた。

ただ、自分がなにを食べて、どうやって日常を暮らしていたか、覚えていない。きっと、三人の子どもたちの世話に追われていたのだろう。現にこの頃の、流行りの歌を、又、後のち数年間全く覚えていない。

シーマ現象という言葉が、バブルの代名詞になっていたが、私たち夫婦もシーマに乗っていた。マンションを一括で買って、シーマに乗り、三人目が誕生したら、案の定、主人の会社から査察が入った。実際、私達夫婦は貧しかった。冷蔵庫には何も入っていなかった。当時は紙おむつの時代だったが友人や、姉から布オムツを調達し、母乳でしのいだ。後先、何も考えずに子どもたちを育てていた。

話を現在に戻そう。朝、3時に起き、珈琲を落としたら、主人が起きるまでにお弁当を作る。主人は三年前に大企業を早期退職し、今は県内で再就職している。後、司法浪人中の娘のお弁当も作る。自分は面倒なので、おにぎり2つだけですますことが多い。

平林寺沿いに野火止用水が流れ、都内から車で10分ほどでマイナスイオンに囲まれた農道を自転車を走らせる。

大手流通のセンターの下請けで働いている。今や、老後破産を免れるため、少しずつ働いている。


以前は、年収2000万あったが、四人の子どもを私立小学校から入れ、中学受験をし、大学受験をさせた。


長女に至っては、法科大学院にも進学したから、明らかな教育費貧乏だ。



さて、職場の倉庫に着いたら、まずは、ゴミを拾ったり勘弁な掃除をする。これはわたしのせめてのお礼で、還暦が近づこうというのに雇っていただいている恩返しと感謝だ。

9時になると、NACK5が入る。書籍の検品のピッピッとなる音。男性の笑い声に混じるフォークリフトの音。すべてが倉庫内の空気を作りあげている。

私は生計を共にするもの、夫と長女がいるが、独身者が多い。男女共に若い頃から独身の者、流行りの熟年離婚の者。又、介護離職した方々。朝食や、お弁当作り、お夕飯の支度が私にはある。又、黒のラブラドールの空ちゃんと言う14才の老犬がいる。私には独身者が羨ましくて仕方ない。

おはようございますと言って、休憩所のテーブルの上を見るとコンビニ弁当が散乱している。私はおにぎり2つを作って行く。ポットに温かいお茶を持っていく。しかし、誰もが、自販機で130円のお茶を買う。ストレス解消に煙草をくわえる。喫煙所は満杯だ。

この歳でパートに雇っていただいて、大変感謝していた。宝くじに当たったと思って、誠意を持って働かせていただいている。同様に、主人も再雇用で、正社員として働かせていただいている。それは、元大企業で同期100人のうちで、13人支店長になった。それから、主人は本社部長まで出世したが、やはり、東大か京大出身者でないと登り詰められないらしい。はじめて、本社に出勤した日、本社取締役に、君は西なの?東なの?と問われ、一瞬戸惑ったらしい。大学名を告げると、珍しい大学だねぇと返されたらしい。中には、ごますりがうまく、私立大学出身者でも子会社取締役まで登り詰める方もいたが、主人は、まず、ゴルフができなかった。本社勤務で、主人は鬱病になり、東日本大震災の際に、高層ビル内で死ぬ思いをしたことから、毎日やめたいやめたいと口癖のように言い、死ぬよりましだからと早期退職をした。

返って運が良かったのだろうか。今の職場は30倍の倍率を越える難関で就職した。大企業の嘱託で働くより給料も良いし、かつての部下に頭を下げるのは嫌だと言っていたから。定年は、72歳だ。推して知るべし、私達年代は年金受給が65歳なのだから。

政治家や、一部の高収入者は、年金も厚いと聞く。20年前までの中流家庭は存在しない。我が家も年収2000万からゼロがひとつ消え、ホワイトカラーから、ブルーカラーになった。ブルーカラーになれて幸せである。

当面、建て売り住宅はローンはない。預金もある。何もローンはなく生活をサイズダウンして暮らしている。まず、外食とコンビニには行かない。ペットボトルは買わない。預金を取り壊さず、65までやりくりすれば、四階建ての年金が待っている。それでも死ぬまで働くつもりだ。健康のために。

少子化という言葉がマスコミに取り沙汰され始めた時代に、私は6年で5人出産した。子育ては楽しかったが、同居の義父母の食事や、用もあったので、寝る時間が取れなかった。

さて、職場に戻る。2月は中学受験が始まる。自分自身も四人の子どもを中学受験させたが、今いる環境、中学受験書籍ネット販売なんて想像もつかなかった。

大手の塾が大量注文するなかで、近頃は個人注文が増えている。

中学受験経験済みの親なら、高い塾代金を払わずして充分に家庭で教えられる。又集団授業が苦手なお子さんも自宅学習に適しているかもしれない。

パートに入って一年。まだまだ、仕事ができない時給900円労働者だ。段ボールひと束、20個を5分で作成がミッションだ。パート社員の中にはだらだらとおしゃべりしながら、段ボールを作成したり、お散歩気分で書籍のピッキングをやる人もいるが、特に注意はされない。人手不足なのだ。私は、宝くじに当たった運の良い人だから、時給900円を目一杯自分なりに働かせていただく。

2月10日。関東に昨日からの雪が積もった。平林寺周辺の雪景色を写メると主人は先ほど5時半に散策に行った。帰りに農家の無人販売で100円のお野菜を買って来てくれるに違いない。

新座市は驚くほど、物価が安い。大手スーパーも激安だけれど、農家の直売は消費税なしで100円だ。ブロッコリー、キャベツ、ネギ、白菜等、何でも売っている。直売は午前7時には売り切れだから、かなり早起きな人向けだろう。

中学受験は、母親の受験と昔は言われていた。しかし、娘たちがトップ校を受験する際に、父親が保護者待合所に多かったのを思い出す。おしなべて、身なりが良く、暮らし向きが良さそうで、英字新聞や、やたら漢字が多い法律書を読んでいた。

長女は言う。子どもの出来不出来は、7割が遺伝、3割が環境と。

中学受験は、池袋にある女子校に進学したが、今や、かなりの人気校である。とにかく、月謝が安い。寄附金はなし。学校見学に行った際に、保護者の母親が紙袋に、靴は運動靴、ヘアスタイルはザンギリのボブヘアーだ。義母にOはお金がかかるわよ、と言われていた。主人の姉たちは、O出身だ。義母は、年中、うちは誰ひとりとして塾なんて行かなかったわ、という。Oにいっており、上板橋に当時は教育大の学生寮があり、地方出身の真面目な学生が家庭教師のアルバイトをしていた。裕福な家庭は、そのアルバイトを頼んでいたから、塾なんて貧しい家の子どもが行くところだと揶揄されただけなのだ。

実際問題、義姉はOの高校三年の進路相談で、私立の医学部を薦められたそうだ。その時に、担任の先生から言われたことは、入学金500万用意出来ますか?との事。

私立医学部の不正等、言われているが、ある程度の成績があれば、準備金があれば私立医学部に進学できることは承知していた。尊敬する義姉のために、申し上げますが、現在も医師として社会奉仕をし、私達出来の悪い長男夫婦にも気を使ってくれている。

池袋の女子校は素晴らしい学校だった。先々代の校長先生がおっしゃった言葉は忘れない。校訓を伺って涙した。かわいこちゃんにおなんなさい。かなり、高齢な校長先生は、この学校を女子お裁縫学校から、超進学女子校に変貌させた。6年間、うちにいらっしゃい。かわいこちゃんにして差し上げますよ。

かわいこちゃん、それは、人間お勉強だけではありませんよ。社会に出て、誰からも愛される女性におなんなさいよ、と。

論語を中学一年で素読する。孔子の教えに、弟子から、先生、世の中で何が一番大切ですか?と聞いたところ、それ、恕か、とお答えになったそうだ。恕、それは、思いやり。ひとには、相手を気遣う心優しさを持ちなさい。私はこころの底から嗚咽した。この学校に娘を入れていただいて良かった。

のちに入学後に、ママ友と話し合った時に、今はさぁ、東大に行けるか、医学部に行けるかなんて話題にしているけど、女の子は、嫁いでも嫁がなくても、周りのひとたちに大切にされる事だよねぇ。良かった、ここに入って❗


先ほど、主人が日曜日の朝は、新座市のボランティア、野火止ホタルの里を作る会に出かけた。年に一度の夏祭り、ホタル祭りのために、所謂、ホタルの養殖をしている。ホタルのドームを作り、人口のせせらぎを作り、カワニナの餌をあげる。今時、少しでも働けば収入になるのに、皆、無報酬でやっている。わたしの職場で話すと、ボランティアなんて信じられないと言う。そうだ、私達夫婦がホタルの会に入ってから8年経つが、2年前に40代会社社長がひとり入っただけなのだ。毎日、ホタルの餌やりや、水替え本当にお疲れさまです。私達は日曜日位しか、参加できない。老後破産しないように働かせていただいているから❗

思えば、29年前に遡る。幸せの絶頂だった。2月は魔の月だ。

25日に義母が、27日に義父が亡くなっている。好機、魔多し。幸せの後には、必ず良くない事が起こる。先人の知恵なのか?

3月21日、長男が泣かないことに気づいたのは、午前3時半だった。ようやく、梅が咲き、桜はその頃は入学式頃に咲く陽気だったと思う。

長男が鼻血を出してベビーベッドに寝ていた。仰向けで。21日、早朝から主人は新横浜駅から、京都に学生団体を引率し、出張に出かける予定だった。

主人は、判じてすぐに課長に電話をして約束を取り付けた。

課長すみません、急でございますが、今回の出張は休ませていただけるでしようか?ただ、団体乗車券をわたくしが持っておりますので、新横浜駅でお渡し致します。その声が、無機質に頭の随の向こうで響いた。

修学旅行添乗員が、主人の勤めだった。娘たちも起き出した。いつもなら、ベビーベッドの脇でぴょんぴょん飛び上がって、弟❗弟❗と喜ぶ次女も、神妙にしている。

暫くしたら、救急車が到着した。消防隊員さんが、その時、不思議にも、お母さん、しっかりして、赤ちゃん抱っこしてあげて。とわたしをうながし、息子を大切に大切に抱え込んだ。

救急車に乗り込む際に、消防隊員さんが、又私にこう言った。いいですか?しっかり抱っこしてあげてくださいね。

私は奇妙だと感じていた。心臓マッサージとか、赤ちゃんの様子見なくて良いのかしら。

病院に着くと、看護師さんから、異常があったら、すぐに来てっていったでしよ。と罵倒されながら、赤ん坊という物体はわたしの胸から引きちぎられた。

心臓マッサージが病院の診察台の上で始まった。ピコン、ピコン、となる音。映画を観る観客のように、その様子を眺めていた。すぐ横で、主人が子どものように目を張らし、泣きじゃくっていた。

消防隊員の方が、奥さん、何があっても大丈夫だから。気持ちをしっかり持ってくださいね。失礼します。と去って行った。


それからは記憶がない。長い長いトンネルに入り込み、私たちが乗った白いバンは、監察病院に向かっていた。あの乗り心地の悪さは生涯忘れない。酷く縦に横に揺れた。午前中だというのに、世界はグレー一色で、彩りが何もなかった。

病院到着後に、すぐに司法解剖が行われ、院内の硬い長椅子で1週間は座って待っていた。

後で主人に聞いたところ15分位だったそうだ。


監察医に説明を受けたが何も覚えてはいない。

ただ、息子が亡くなる時には、脳死が先でそれから内出血したらしいので、本人に痛みはなかったことが幸いだった。

私は自身で殺した。今でも間違いなくそう考えている。

乳幼児突然死症候群。


自宅マンションに戻るとパトカーが、マンション住民駐車禁止と立看板がある場所に、我が者顔で止まっていた。近所のマンションの人たちが集まって小声でなにやら、椋鳥が身体を寄せ合うように固まっていた。

その中を通り抜け、マンション一階の鍵を開けた。正に、土足で部屋に入り、機関銃のように私に質問を、豪雨のように浴びせた。内容は、良く覚えてはいない。ただ、わかっているのは、私の寝ていた位置と、蝋人形が寝ていたベビーベッドの場所。発見した時間。刑事ドラマに出てくるように、赤ん坊のいた場所がロープのようなもので囲われた。


私が手にかけました❗と叫びたかった。

けれど、声が出ずに、私の身体は大きな丸いバルーンとなって、魂がゆらゆらしていた。


恐るべき口頭諮問の後に、警官はこう言った。

赤ちゃん、解剖して綺麗になってるから、見てあげてね。

その方の顔も何も見ていない。ドアが閉まり、私の身体はそれから、左肩が妙に下がった。


その晩に、お通夜をするとなり、練馬から義母が来た。

今朝、剛から電話があって、お母さん悪いけど、沖縄旅行に行くの止めてくれないか、ですって。

お母さんの還暦のお祝いなのよ。この親不孝者❗

罵られながら、いつものように聞き流していた。

そんなことより、マンション内に小さな棺を置き、お通夜が始まった。ありがたいことに、たいしてお付き合いもしていないのに、マンションの住人の方々がお線香をあげに来てくださった。

辛かったのは、いつものように義母が、饒舌に自分が還暦で、沖縄旅行に行くはずだったこと、孫を亡くしどんなに哀しいかを、ひとりひとりに延々と語り、その都度、美紀子さんお茶を出して遊ばせと言う。

背中から、どんよりとしたグレーの低気圧の塊が私に乗っかかり、哀しみの淵に落ちていった。あの時、お茶碗をどう運んだか、覚えてはいない。

同じマンションの年配の女性が、お茶なんか要らないから、奥さんが一番辛いから、横になって、と言われたことは覚えている。

渡る世間に鬼はなし。


それから程なくして、夏に双子を身ごもった。

勿論、出産希望だった。大喜びで、双子の妊娠を告げると、電話口で義母が、堕胎しなさい。健康な身体に健康な子ども。美紀子さんは病人だから。

家に帰り、泣いていると5歳の長女が、お母さんおめでとう❗正ちゃんの生まれ代わりだね。良かったね。とまるで母親のように肩を撫でてくれた。

姉弟が増えるんだね。ともちゃん嬉しいな。


平成3年2月28日、午後1時13分、三女誕生。7分後に次男誕生。

今でも忘れない。

長男を取り上げてくださった、副院長先生が、今から次の子は、オチンチンつけてあげるから。とおっしゃった。


まだ、30になったばかりのパパは、分娩室のガラス張りの外側から、女の子が初めに運ばれて来て、頭の中で4姉妹を想像していたそうだ。


2月、如月、February。


6年で5人の子どもを神さまありがとうございます❗





最後に、お世話になった方々へ、感謝を込めてお礼申し上げます。

お義母さん、剛さんを産んでくれてありがとうございます。明日は、おばあちゃん(2月11日がお命日、お義母さんの、実母)墓参りに剛さんと、練馬に参ります。

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