第四話 華乃子
いつもより三十分早い六時にセットしていた目覚まし時計のけたたましいベルを止めると、高原華乃子は眠い目をこすりながら身支度を整えてキッチンへ向かった。
今日は日直なのでいつもより早く学校へ行かなければならない。教室の鍵を開け、すべての窓を全開にし朝の空気を室内に入れるのが日直の最初の仕事だった。
日直は男女二人一組が決まりなのだが、華乃子とペアを組む泉裕樹は何かと当てにならないヤツなので、最初から今日の仕事は華乃子ひとりでこなす覚悟をしていた。
「おはよう。今日は早いね」
ダイニングにはすでに姉の佳乃がいて登校の準備に取り掛かっている。
姉の通う高校は家からさほど遠くない。普通に歩けば二十分もかからない道のりだが、足が悪い姉は時間をかけて歩くため早く起きなければならないのだ。
なので普段こうして朝から姉と顔を合わせることはほとんどなかった。
「お母さん、あたしパンだけでいい。牛乳いらなーい」
「またそんなこと言って。朝からちゃんとカルシウム取らなきゃダメでしょ」
「だって牛乳嫌いなんだもん」
「大きくなれないわよ、あんたモデルになりたいんでしょ? ……ちょっと華乃子、小学生が口紅なんか塗って学校行っちゃダメだって言ったでしょ!」
「口紅じゃないもん。色付きリップクリームだし!」
母親の小言を聞くのは毎朝のことなのでいちいち気にする華乃子ではないが、今朝は姉の手前もあって返す言葉に剣が刺さる。姉はそんな華乃子と母の言い争いを気にするでもなく、いつもの動作でいつもの時間にいつもの抑揚で「いってきます」と言うと、静かに家を出て行くのだ。
六つ違いの姉佳乃と妹華乃子は、何もかもがまるで正反対だった。おっとりした性格で物静かな姉と違い華乃子は良く言えば活発、悪く言えばガサツでよくしゃべる。勉強も苦手なので成績がトップクラスの姉と比べればいつも下の方をウロウロだ。開く本はファッション雑誌か漫画ばかり。
そんな姉妹が周りから比較されないわけがない。
華乃子が特に姉に対してコンプレックスを抱いていたのが容姿だった。長身ですらりとしたプロポーションと色白で整った顔立ちに絹糸のような漆黒のロングヘアがよく似合う姉は、幼い頃から街を歩いていると芸能プロダクションにスカウトされるほどの美少女だ。
それに比べて自分は……と、鏡を見るたび憂鬱になるのは父親似のギョロリとした目と団子っ鼻、無駄に色白のため四角い顔が余計に膨張して見える輪郭に不健康そうな色の薄い唇も嫌だった。体型も小五のわりにはちゃんと凹凸があるので子供服を着ると、かえって艶めいて見える。また、薄着の季節になるとブラジャーの線に注がれる男子の視線がたまらなく嫌だった。
だが華乃子を最もイラつかせたのは、当の姉が自身の美しさに気付いていないという点だった。流行など無視した地味な服装は、時に母からのお下がりというのもありえない。絹糸のストレートヘアはいつも後ろできっちり束ねてあるばかりか、自分で適当に切りそろえているのだ。
そして姉は事あるごとに華乃子を可愛いと言う。それが嫌味でもなければお世辞でもなく、心からそう思っているのだからたちが悪い。姉は一度眼科で精密検査を受けた方がいいと思う華乃子だった。
その美しい姉が昨年、交通事故に遭った。
幸い命に別状はなかったものの、肋骨と右足首を複雑骨折し顔面には深い裂傷を負うという大怪我だった。医師は整形手術を重ねれば目立たなくなる傷だと勧めたが、なぜか姉は断り続け今日に至っている。
以来、姉は右足を引きずり顔はマスクで隠すようになったのだ。
思い出したくもない、あの忌まわしい事故!
華乃子は通学路途中の事故現場を通るたびに胸が締め付けられ速足になるのだった。
「のこ~、『ポップミント』の今月号貸してくんない?」
「吉田さん、学校はニックネーム禁止だよ」
「いいじゃん、友達同士なのに堅っ苦しいなー」
近頃では名前に「さん」付けで呼ばなければならない小学校が増えているらしい。ニックネームを付けることがイジメの原因になるからというのが理由らしい。そんなの華乃子たちからすれば全く意味不明。バカバカしいにもほどがある。ニックネームを付けようが付けまいが、実際この学校でイジメは行われているにもかかわらず見て見ぬふりをしている教師の方に問題があると思っている華乃子は、心の中で先生たちにあだ名を付けて軽蔑していた。
イジメの対象となっているのは今日、華乃子と一緒に日直になっている泉裕樹だ。
裕樹は夏休み前という中途半端な時期に転校してきた。理由は知らないが、両親と離れて祖父のもとで暮らすことになったらしい。
最初はいわゆる転校生イジメくらいに華乃子は思っていた。それなら長くは続かないだろう。せいぜい一学期が終わるまでの辛抱だ。
だが裕樹に対するイジメは二学期が始まってからも続き、最近では言葉による暴力に加え顔や手足に青あざを作っていることが多くなった。さすがに見かねた華乃子が首謀者の男子に注意すると、この日から華乃子に対するクラスメイトの態度が一変し仲良しだった女子からもあからさまに無視されるようになった。
ここで普通の女子なら泣いて登校拒否になるところだが、あいにく華乃子には何の効果も期待できなかった。
自分はイジメなんかよりもっと深くて辛い傷を負っているのだ。いや、罪を背負っていると言うべきか。その罪の痛みに比べたら、イジメられることなどカスリ傷程度のダメージに過ぎない。
クラス全員から無視される中、淡々と日々を過ごす華乃子に何日かすると仲の良かった子がひとりふたりと声を掛けてくるようになった。やがて華乃子の周りに女子達が集まり始め、今では何事も無かったかのようなクラスに戻ったが、華乃子は不満だった。
そう、裕樹に対するイジメは続いていたからだ。
「高原さん、教えてあげよっか。あいつがなんでイジメられてるのか」
そう言ってきたのは裕樹の家の近所に住んでいる友達だった。彼女は華乃子の返事を待たずに顔を寄せると小声でこう言った。
「あいつ気持ち悪いんだ……ってか、みんな怖がってる」
「怖がる? なんで?」
「なんか時々変なこと言うんだってさ」
「変なことって?」
「なんか……よくわかんないけど、言われたくないこと言うから腹立ってイジメたくなるんだって。だからあいつにも責任あるんだよ」
今の話、あたしから聞いたって言わないでね。それだけ言うと行ってしまった友達の後姿を見ながら、華乃子は彼女の言葉の意味が理解できず胸の中のモヤモヤが大きくなっただけだった。
みんな怖がってる? 裕樹を?
小五にしては小柄で貧弱な体つきの裕樹は、いつもおどおどして下ばかり向いている。できるだけ視線を外して誰とも目を合わそうとはしない。目が合えばイジメられる確率が上がるとでも思っているかのように。
華乃子にしてみれば、そういう態度がイジメてくださいオーラを出していることが裕樹にはわからないのかと思う。一度まっすぐ目を見て忠告してやろう。
放課後、日誌を書き終えた華乃子が教室を出ようとした時、裕樹の机にランドセルが掛っていることに気がついた。裕樹はまだ校内に残っているということか。となると鍵をかけて帰ってしまうわけにはいかない。
そういえば、昼休みの清掃が終わったあたりから裕樹の姿を見ていない。そうだ、午後からの授業にも出ていなかった。
今になって思い出す華乃子も華乃子だが、終礼時に担任にさえ気付かれない裕樹も裕樹だ。日直当番でなければ華乃子も気付かないまま帰っていたかも知れない。
だがこれ以上裕樹に迷惑をかけられる筋合いはない。結局、今日は華乃子ひとりで日直の仕事をこなしたのだ。日誌を職員室へ届けたら鍵は担任に任せてさっさと帰ろう。
「キャ!」
そうと決めた華乃子が後ろの戸口から出て行こうとした時、突然足が滑って危うく転倒しそうになった。足元を見ると何やら床が濡れている。
「もう、だれよ! こんなとこに水こぼしたのは。危ないじゃん!」
華乃子はせっかく背負ったランドセルを置くと、清掃用具が入っているロッカーの扉を勢いよく開けた。
「!!!!」
モップがあるとばかり思っていた華乃子の目の前に裕樹の顔があったので、人間心底驚いた時には叫び声も出ないのだということを初めて知った。
裕樹はモップと箒の間に挟まれ身を縮めて立っていた。きっと無理やり押し込められたのだろう。床に広がる水たまりを辿ると、裕樹の濡れてシミになったズボンへとつながっていた。
「あんた……じゃなくて泉くん、もしかして昼休みからずっとここにいたの?」
「……」
裕樹はうつむいたまま華乃子の問いかけには答えず、かといって狭いロッカーから出てくるでもなく肩をすぼめて佇んでいる。
「早く出なさいよ。もう教室にはあたししかいないから。ほらー、早く保健室に行って替えの下着借りてこないと保健の先生帰っちゃうよ」
「……」
「みんな帰ったのになんで出てこなかったの? あたしがいたから?」
「……」
「だって仕方ないじゃん、日直なんだから。だいたいあんたがなんにも仕事しないのが悪いんだからね!」
「……」
「ほら、さっさと出てきなさいよ!」
何を言っても無反応な裕樹にしびれを切らした華乃子が力づくでロッカーから引きずり出そうと手を伸ばした時、ふいに裕樹が顔を上げ真っすぐ華乃子を見返した。もはやその目に怯えた色はなく落ち着きさえ感じさせる瞳は、慈悲深く、臭くて狭いロッカーの中で失禁した少年のそれではなかった。
思わず華乃子はハッと息をのんだ。ああ、あたしはこれと同じ目をした人を知っている……。
「お姉さんは恨んでないよ」
「え」
一瞬、裕樹が何を言ったのかわからなかった。ずっとだんまりのままだった彼が口を開いたことにも驚いたが、ほとんど会話を交わしたことのない裕樹が華乃子の姉を知っていたことに驚いた。
しかも裕樹は、華乃子の心臓をえぐり取る言葉を発したのだ。
「え、それ……どういう……」
「昨年の事故、高原さんは気にしなくていいって言ったの」
なぜ裕樹は姉の事故のことを知っているのだ。そうか、この辺ではかなり大きな事故だったから、きっと祖父から聞いたのかも知れない。
だが、華乃子がずっと隠し続けてきた真実、事故の本当の原因……今でも華乃子を苦しめているあの出来事は姉以外誰も知らないはずだ。
「あんた、なに知ってるの? 誰から聞いたの!?」
「誰にも聞いてないよ。でも僕にはわかるんだ」
今日、友達から聞いた言葉が華乃子の頭をよぎった。
――あいつ、気持ち悪いんだ。
――言われたくないこと言うから、イジメたくなるんだって。
――みんな怖がってる。
こういうことなのか。
「手、離してくれる? 帰るから」
気付くと華乃子は裕樹の胸ぐらをつかんで震えていた。思わずとった行動に、みっともないくらい動揺している自分が恥ずかしくて惨めだった。
「下着、替えないで帰るの?」
「うん、慣れてるからこのままでいい」
「ちょ、待ちなさいよ! 床、拭かなきゃダメじゃん。だいたいあんたも日直なんだからそれくらいしてよね!」
何事もなかったかのように帰ろうとする裕樹を引き止め、ふたりで床を磨いた。裕樹が姉の事故について華乃子の何をどれだけ知っているのか確かめなければならない。もしこのまま帰したら、二度とそれを裕樹から聞くことはないと思ったからだ。
「高原さん、前に僕をかばってくれたよね」
あの後おかげで華乃子までイジメられることになった一件だ。感謝の言葉でも述べてくれるつもりなのだろうか。
「あれは単に卑怯なことするヤツらに腹が立っただけで」
べつにあんたをかばったわけじゃ……。
「あの時のお礼をするよ。高原さん、ずっと苦しんでるみたいだから。お姉さんの気持ちを教えてあげる」
「あんた……お姉ちゃんといつ知り合ったの」
華乃子が信じようが信じまいが、事の真相を明かしてくれると言うので、二人は裕樹の家の近くにある神社の境内へと向かった。さすがに秋の夕暮れは早く、東の空には宵の明星が輝いている。
裕樹の背中を見ながら、なぜ付いて来てしまったのだろうと華乃子は後悔した。もし裕樹の話すことが真実なら華乃子が守ってきた秘密はすでに秘密ではないことになる。それを知るのが怖かった。
やっぱり帰る、と言いかけた時、裕樹が振り向いてこう言った。
「今から話すことは誰も知らない。だから安心していいよ。どうする? 聞くのが怖い?」
「……怖くない」
もう引き返せないという思いと、まだ逃げられるという思いが華乃子の体を足元から冷やしていく。
「時間がないから手っ取り早く言うけど、僕は人の心の中がわかるんだ。何を考えているか、ね」
何を言い出すのかと思ったら、真剣な気持ちで付いてきた華乃子は思わず腰が砕けそうになった。裕樹の言葉に怒りを通り越してあきれた華乃子は、そっちがその気ならとことん電波くんに付き合ってやろうと思った。
「えーと、それ超能力ってやつ?」
「たぶんね。物心ついた頃には自然とわかるようになってた。だからみんなも同じだと思ってたんだ」
みんな自分と同じ能力があると思っていた裕樹は、飛び込んでくる他人の思考を悪気なく言葉に出しては周りを驚かせた。やがて裕樹に話しかけてくる者はいなくなり、会うとにこやかに接してくれていた大人たちも遠巻きに裕樹を奇異の目で見るようになった。
ある日、仲良しだった友達から「裕樹くん気持ち悪い」と言われ遊んでもらえなくなり、気付いた時には一人ぼっちになっていた。
もちろん自分がなぜ気持ち悪がられるのか、仲間はずれにされるのか理由がわからなかった裕樹は、離れていった友達を恨み両親に当たり散らすしかなかった。
だが、この能力は自分だけが持つ特殊なものだと知ったのは小学校に入学する時、両親からきつく言われたことだった。
「裕樹、絶対に人の心を覗いてはいけないよ。それは、とてもとても悪いことなんだ。もし何か見えても決してそれを口に出してはだめだ。もう小学生なんだから父さんの言ってることがわかるな? いいかい、約束だよ」
人は誰しも知られたくない秘密や想いの部屋を心の中に持っている。そこは自分だけで形成され守られている場所だからこそ精神のバランスが保たれているのだ。知らなかったとはいえ、裕樹はその部屋へ土足で上がって踏み荒らしただけでなく、相手の許可なくすべてを引きずり出す行為は決して許されるものではなかった。
だがそれに気付いた時はすでに遅く、同じ校区から通っている児童が裕樹のことを言いふらしたせいで噂は校内に広がっていた。
(泉裕樹は気味が悪い)
(泉裕樹としゃべるな)
(泉裕樹に近づくな)
そして、裕樹に対するイジメが始まったのだ。
「僕だって人間だからね。イジメられれば腹も立つし悔しいから相手の中の弱い部分が見えた時、つい言っちゃうんだ。それで相手がどれだけ傷つくかなんて考えてる余裕なんかない。で、結果はイジメがエスカレートするだけなんだけど」
裕樹は自分がどうしてイジメの対象になるのかちゃんとわかっていたのだ。
彼の話は聞けば聞くほど突拍子もなく不思議でSF小説か漫画のように思えたが、なぜか華乃子には裕樹が真実を話していると感じるのだった。
そして五年生になった今年の春、事件は起きた。
学校で飼育していたウサギが全羽、何者かによって殺されたのだ。残虐な手口は野犬ではなく明らかに人間によるものだとわかった。そしてあろうことか飼育小屋の中に裕樹の名札が落ちていたことで、同校の生徒による犯行というニュースは瞬く間に広がった。
全く身に覚えのない裕樹がいくら潔白を訴えても誰ひとり耳を傾ける者がいないばかりか、飼育小屋の中でウサギを追い回している裕樹を目撃したという証言まで飛び出し、ついに担任までもが裕樹を犯人と決め付け両親を呼び出したあげく保護者の責任能力を問いただしたのだ。
「ひっどーい! なにそれ、マジむかつく!」
「学校側も僕に対するイジメを黙認していたこともあって警察沙汰にはしなかったよ。けど、僕には真犯人がわかっていたから絶対に認めるわけにはいかなかったんだ。なにより両親が僕を信じてくれたことが一番うれしかった。だから話し合って転校することに決めたんだ」
仕事を持つ親に代わって祖父と暮らすことになった裕樹。両親との別れはさぞつらかっただろう。
「それで……お姉ちゃんのことだけど……」
裕樹の告白とも言える話を聞き終わった華乃子は、次にいちばん聞かなければならない話題を自ら切り出した。
「うん。街ですれ違った時、すぐに高原さんのお姉さんだってわかった。きみのお姉さんってスゴイよ! もう悟りを開いちゃったっていうか、事故に遭ったことをむしろ感謝してるみたいだ」
まさか! 姉はまだ高校生で、しかもみんなから美しい子だと言われて育ってきたのだ。たとえ姉でなくても顔面に傷を負うということが女性にとってどれだけ残酷なことか裕樹にはわかっていないのだ。
「だからお姉さんは誰も恨んでいないし、世間に背を向けているわけでもないってこと。あれは本当に事故だったんだ。だから……」
「あんたになにがわかるって言うのよ! あたしの心の中見たんでしょ? だったらあたしのせいだって言えばいいじゃん!」
美しくて賢いだけではなく、優しくて妹想いの姉が華乃子は大好きだった。喧嘩など一度もしたことがない仲良し姉妹だと近所でも評判だったのだ。事故が起こるまでは。
あの日は冬だというのに暖かな陽の光が降り注ぐ、まるで春のような陽気だった。
学校の帰り道、華乃子が角を曲がると友人と立ち話をしている姉を見つけた。自転車の前カゴに参考書でパンパンに膨らんだ鞄が乗っているのを見て、定期テスト中の姉が学校帰りに図書館へ行くと言っていたのを思い出した。一緒に行きたくなった華乃子が姉に声を掛けようとしてやめたのは、ほんの小さないたずら心が芽生えたからだった。
(お姉ちゃんを驚かしちゃお)
今になって思えば、なぜそんなことを思いついたのかわからない。本当に、ただ本当にちょっとびっくりさせるだけだったのに。
友達と別れて、華乃子が隠れている角の方へ自転車に乗った姉が近づいて来た。何も知らない姉を乗せた自転車が華乃子の前を通り過ぎようとした。その時、
「わっ!」
今でもその瞬間を華乃子は鮮明に覚えている。
突然、物陰から飛び出してきた華乃子に向けられた姉の恐怖に引きつった顔。
車道へ向かって倒れる自転車。
自動車の急ブレーキの音。
衝撃音。
飴のように曲がった自転車と血溜まりの中に倒れている姉。
悲鳴。
救急車のサイレン。
近くにいた人が華乃子に声を掛けてくれたが、ただ茫然と立ち尽くす華乃子の耳には誰の声も聞こえなかった。
あの日から華乃子の贖罪の日々が始まったのだ。
あの時、華乃子の犯した罪を見ていた者がいなかったのと、加害者の運転手が携帯電話を使用していたとのことで、誰ひとり華乃子を責める者がいないまま今日に至っている。
それは被害者の姉も同じだった。
入院中も退院してからも姉は華乃子を責めなかった。もう以前とは違う体になってしまったにもかかわらず、姉は今までと変わらない態度で接してくれる。それがかえって華乃子を苦しめた。いっそのことお前のせいだとなじられた方がどれだけましか。
裕樹の前だというのに華乃子は嗚咽して泣いた。あふれて頬を濡らしていく涙を拭うこともせずに……。
「泣くことないよ。お姉さんは事故に遭って臨死体験したことで、すべてを受け入れる広くて深い心を手に入れたんだ。それはとっても穏やかで、恨んだり憎んだり嫌ったり否定したり拒絶したりする世界とは無縁のものなんだ。でも残念なのは、お姉さんはそんなすばらしいものを手に入れたことにまだ気が付いてない。もしかしたら一生気付かないままかも知れないけど」
裕樹の言うことはとても難しくて半分も華乃子には理解できなかったが、姉が自分を許してくれているのだということはわかった。
「僕、お姉さんみたいな魂の綺麗な人に会ったの初めてだったから震えちゃったよ! あぁ、僕にもあんな精神力があったらいいのになぁ」
「……あんたの言うこと、信じてもいいの?」
「だから、信じる信じないは高原さん次第さ。僕が高原さんに伝えたかったのはそれだけ」
「あたしのこと、卑怯で嫌なヤツだと思ったでしょ」
「そんなこと言ったら僕の方が卑怯で嫌なヤツだよ。だって他人の心の中を勝手に覗いちゃうんだから」
へへへっと笑って裕樹は帰って行った。暗くなったので華乃子を家まで送りたいが、そんなところをクラスの誰かに見られたら大変なことになるから「ごめん」と言って。
そんな裕樹の方が自分の運命を受け入れ悟りを開いているように華乃子には思えた。
帰宅するなり無性に姉の顔が見たくなった華乃子は、遅く帰ってきたことへの小言を言う母の横をすり抜けリビングへ向かった。
姉の佳乃はいつものようにリビングの一角に移した勉強机で本を読んでいた。
「お姉ちゃん!」
姉がなにかを言うより早く、華乃子は佳乃の背中に飛びついた。
「な、なに? どうしたの華乃子?」
「あたし、お姉ちゃんのこと大大大好きだから! お姉ちゃんのためだったらなんだってするから!」
あたしを許してくれてありがとう。
「いきなりどうしたの? 華乃子は元気な華乃子のままでいてくれれば、お姉ちゃんそれだけで嬉しいんだから……そっか、やっとわかってくれたみたいね」
え? もしかしてお姉ちゃんはあたしの気持ち、ずっと知ってたの?
考えてみれば、姉の方から「華乃子は悪くない」と言ってくれたとしても、妹を気遣う慰めの言葉としか受け止れなかったと思う。そして、さらに姉妹の溝は深くなっていただろう。
裕樹のことを姉になんて話そうか。姉はきっと信じてくれるに違いない。そしたら裕樹を家に招待して姉と三人でいろいろな話をしよう。
週明け、学校へ行くと裕樹が登校してくるのを待った。だが朝礼が始まっても裕樹は現れず、担任から転校したことを知らされたのだった。
裕樹の両親が彼を呼び戻し、地元のフリースクールへ通わせることにしたという。裕樹らしい選択かも知れないと華乃子は思った。
数日後、華乃子宛てに手紙が届いた。
『 高原さんへ
高原さんを怖がらせたまま、さよならしちゃってごめんなさい。でも、信じてくれてありがとう。
お姉さんにもよろしく。
泉裕樹 』
住所の書かれていない、短い手紙だった。
「バッカじゃない! 住所がわかんなきゃ返事出せないじゃん。それに人の心が読めるんだったら、あたしがあんたのこと怖がったりしてないことくらいわかるでしょーが!」
あぁもう、泣いたらマスカラ取れちゃうじゃん。今日はこれから姉の高校の文化祭に行く予定なのに。
裕樹がいなくなっても気にする者はいないけど、華乃子は時々思い出す。
夕暮れの神社の境内で、人の心が読める少年と二人きりのシュチュエーションなんてゾッとしないでもないのに、思い出すたび胸がキュッとなるのはなぜだろう……。
「怖くないから」
裕樹に向けて言ったのか、自分に向けて言ったのか。
華乃子は履きかけていたパンプスを脱いでスニーカーに足を入れると、姉の待つ高校へ駆け出した。
第四話 終わり