第一話 佳乃
いつからだろう。
高原佳乃が暗闇やお化けや幽霊や、そういった類の話に全く恐怖心を抱かなくなったのは。
もちろん映像や音響などの視聴覚に訴えてくるものは別だが、テレビやラジオやネットで話題になる本当にあった怪談話や体験談、果ては心霊スポットやお化け屋敷へ行っても佳乃の肝が冷えたためしはなかった。
子供の頃は、かなりの怖がり屋だったのにと振り返る。怖い話は聞くのも見るのも嫌いだった。
小学校五年生の林間学校での肝試しは、キャンプ場から宿舎へ帰るだけの夜道でチビリそうになったし、夜中は天井のシミが人の顔に見えたり、何か物音がしただけで恐怖のあまり心拍数が急上昇した。怖いのでいちど頭から布団をかぶると汗だくになろうが息苦しくなろうが布団の外にいる(であろう)邪悪なものと目が合うのではと怖くて出られず危うく窒息しかけたことが何度もあった。
その頃、佳乃は祖母と暮らしていた。
大正生まれの祖母は和服の似合う絵に描いたような「おばあちゃん」だった。その祖母からはいろいろ不思議な話を聞かされた。
亡くなった夫の遺骨を納骨しに行く時、汽車から降り立ったとたん下ろしたての下駄が粉々に砕け散ったというのだ。
「本当に、ぱさぱさぱさ―――――っていう感じやったんよ」と、祖母は言った。
後で聞いた話によると、納骨は一人で行ってはいけないものらしい。
またある日、一枚の写真をじっと見つめている祖母にどうしたのか尋ねると、写真の中に若くして亡くなった弟の顔が写っているのだという。見るとそれは墓地の写真だった。それは何が被写体なのかわからない風景写真で、墓地の真ん中に立つ一本の松の枝に弟の顔があるというのだ。
だが、祖母が指示したところを見ても佳乃にはただの松の枝にしか見えない。
佳乃がそう言っても祖母は「見える見える」の一点張りだった。今にして思えば、祖母には確かに弟の顔が見えていたのかも知れない。
ちなみに、佳乃に霊感は無い。なぜ言いきれるのかわからないが、なんとなく自分には無いようか気がするからだ。
ただ一度だけ、不思議な体験をしたことはあったが怖い体験というわけではない。
小学校一年生の時、二階の部屋でテレビを観ていたら遠くの空からゴ――――――ッというジェット機のエンジン音が聞こえてきた。佳乃の家族が当時住んでいた家は国際空港を持つ市にあったので、ジェット機の爆音には慣れっこだ。
その時も「あ~、またテレビの音が聞こえなくなるじゃん」くらいの気持ちで通過するのを待っていたのだが、エンジン音は遠ざかるどころか次第に大きくなり、ついには家をガタガタと揺らすほどの大音響と化したのだ。佳乃は耳をふさいだまま恐怖で動くことができず、こたつの足をつかんで爆音が通り過ぎることだけを祈っていた。
しばらくするとエンジン音は頭上を北へ向かって通り過ぎ家の揺れもおさまった。佳乃は震える足で階下にいた両親に「今のなに!? すごい音だったけど! 家ゆれて怖かった~!」と言うと、両親は不思議そうな顔で、そんな音など聞こえなかったし家が揺れることなど無かったと言った。
佳乃にすれば、そんなバカな…で、ある。
そういえば、こんなこともあった。
小学六年の時、祖母が狭心症の心臓発作を起こし入院した。
共働きの両親にかわり、佳乃を育ててくれたのは祖母だと言っても過言ではない。今度は自分がその恩返しをする番だと思い、病室に寝泊まりし看病に精を出した。個室ということもあり他の入院患者に気を使わなくてもすむのが助かった。
だが、祖母の容体は一向に良くなる気配を見せない。食欲も落ち日に日に痩せていくばかりだ。
突然真夜中に目を覚ましたかと思うと、ベッドの周りに大勢の人がいて自分を見下ろしていると言い出すこともあり、こうなると次第に佳乃にも疲れが出てきた。
ある日、毎日のように通っている院内売店で顔見知りになった年配の女性に心配された佳乃は事情を話すと、その女性から思いも寄らない言葉が返ってきたのだ。
「あの病室はダメよ。すぐに替えてもらいなさい」
女性が言うには、祖母が今いる病室は「出る」らしい。しかも院内では有名な話だと。
現に数年前、女性自身がその病室に入院していた時、悲しげな顔の女が天井から覆いかぶさるように浮かんでいるのを毎晩のように目撃したという。
「部屋替えが無理なら、毎日コップ一杯の水を窓辺にお供えするのよ。わかった?」
「は、はい!」
その頃はまだ怖がりの佳乃だったので、女性の言う通りさっそくコップに水を満たすと窓辺に供えた。
するとどうだろう、その日から少しづつ祖母に食欲が戻ってきたのだ! もちろん夜中に幻覚を見ることも無くなった。
そして数日後、やっと相部屋のベッドが空いたというので病室を移動した日の夕食を祖母はみごとに完食すると、溜まっていたストレスを発散するかのように同室の患者同士で話に花を咲かせ佳乃を驚かせた。
本当に女性の言うように、あの病室に「何か」いたのかはわからない。佳乃は一度も部屋に浮かんだ女の姿を見てはいないのだから。
退院後、大病すること無く九十歳で大往生を迎えた祖母が生前、歳を重ねるにつれ幽霊やお化けといったもののけに対する恐怖心は無くなるかわりに生きた人間の方が怖いということがわかってくると言っていたのを思い出す。
佳乃は今年十六歳になった。祖母の言葉を借りればまだまだ若いので、もののけが怖くなくなる歳ではない。
幼い佳乃が何よりも憂鬱だったことがある。
毎年夏休みに墓参りを兼ねて行く母方の親戚の家は県中央の山中にある小さな集落で、かろうじて携帯の電波が届くというような俗世間から切り離された辺境地に加え、このIT文明の現代にあって数々の不思議話に満ち溢れている村でもあった。
狐や狸に化かされて同じ場所をグルグル回り、なかなか家に帰ることができなかっただとか、湯船に浸かったつもりが水田だったなんてことは日常茶飯事。山中のどこかにあると言われていながら辿り着いた人は数人しかいないという夕焼けに染まるススキの原、ご馳走と歌や踊りでもてなしてくれるキジバトの里や野良仕事をしていると森の中からひょっこり現れて世間話をしていく身長二十センチほどのお爺さんなどなど。
そんな昔話のようなものばかりでもない。村祭りの帰りに車に撥ねられて亡くなった五歳の幼女の霊が、事故現場の前の駄菓子屋に今でも駄菓子を買いに来るとか、下村を流れる川にかかる橋の上から姑のいじめを苦に飛び降り自殺をした若嫁の霊が橋のたもとに立っているのを見かけるといったリアルな話まであったりする。
佳乃は怖いというよりも、そんな話が普通に語られる村の空気に恐怖を感じるのだった。
さて、佳乃と六つ離れた十歳になる妹に「幽霊とかお化けって、やっぱり怖い?」と、聞いたら「あたりまえじゃん!」と、怒られた。さすがに若いな、と思っていたらまさかの伏兵が現れた。
佳乃の母である。
家族が誰もいない夜、ひとりで過ごすのが怖いと言うのだ。母は今年四十八歳になる。祖母が言ったように「怖い」はどうやら歳に関係ないらしい。それとも四十代はまだ若いということか。
友達が言うには「恐怖」とは人間が生きていくための防衛本能の一部らしい。なので恐怖心が強い人間ほど生命力が強いのだという。反対に恐怖心が弱いと危険感知レベルが下がり淘汰されやすくなるというのだ。
では自分は淘汰されるのか、と佳乃は思った。
よくよく考えてみると、佳乃に霊的なものに対する恐怖心が無くなったのは昨年危うく死にかけた経験以降かも知れない。
昨年二月、佳乃は交通事故に遭い生死の境をさまよった。そして今思えばあれが臨死体験というものなのか、ひどくリアルな夢を見たのだ。
こんな夢だった。
佳乃はひとりでバスに乗っていた。車内には他に数人の乗客がいたが皆それぞれ離れた席に座っている。佳乃は次のバス停で降りなくてはならないと思い席を立つ。
降りた場所は一寸先も見えないほど激しい砂嵐が吹き荒れ、まともに立っていられない状態だ。
しばらく歩くと砂嵐の向こうに、ぼんやりと大きな建造物が見えてきた。
廃工場のようで壊れたシャッターから中へ入った。建物の中は錆びた機械が散乱し荒れ放題だ。強風が避けられるだけありがたいと思いしばらくじっとしていたが、このままここに留まっていても仕方がないと思いバス停まで戻って次のバスを待つことにした。そう思ってみたものの、この砂嵐の中を迷わず進む自信がない。自信がないままいつまでもここにいてはいけないという気持ちだけで廃工場を後にする。
どれくらい歩いただろうか、風の音で耳が痛い。もうどうにでもなれと自棄になりかけた時、佳乃の目の前に一台のバスが停まっていた。それは、まるで佳乃が来るのを待っていたかのようだった。
乗車すると運転手は笑顔で佳乃を迎えてくれた。窓際の席に座った佳乃が走り出したバスの車窓から見た景色は、加速しながら上昇していく車体の下方に遠ざかる灰色の荒れた地面。次の瞬間、その地面がめくれ上がり剥がれ出したかと思うと、その下から現れたのは新緑に輝く水田だった。
次第に視界を覆っていゆく水田の緑に、佳乃は世界に色があることの素晴らしさを実感し感動に打ち震えながら病院のベッドで目を覚ましたのだ。
あの時「死」というものを強く意識した。どうもそれ以来、霊的なものに関して恐怖心が無くなったのだと思う。と同時に物欲もまたどこかへ行ってしまった。
大切なもの、失いたくないものは家族と健康。有機物であるとすれば祖母の形見の指輪くらいか。
恐怖心と物欲が無くなった代わりに大きな代償を受け取った。佳乃は事故の後遺症で右足が不自由になり松葉杖を使うほどではないものの、足をひきずらなければ歩けなくなってしまった。アスファルトに強打した顔面には裂傷による酷い傷跡が残ったので、とりあえずマスクで隠している。モデル張りの美人というわけではなかったが、色白で整った顔立ちの佳乃は同性からよく羨ましいと言われることがあっただけにちょっと残念だ。
全治三カ月の入院生活は54キロあった体重を43キロにまで落としてくれたが、身長が165センチの佳乃にしては平均体重よりかなり痩せ過ぎた感は否めない。
その年の夏、佳乃は日本一怖いと評判のお化け屋敷を新米女子アナが体験レポートするテレビ番組を妹と見ていた。全館お化け屋敷に改装した閉鎖病棟で、役者が幽霊に扮し客を怖がらせるという人気のアトラクションだった。女子アナは恐怖のあまり号泣し腰を抜かしてしまい、とてもレポートどころではない。
一緒にテレビを見ていた妹も「ここヤバすぎ! マジ怖い!」と、女子アナに負けじとキャーキャー騒いでいる。
佳乃は自分が客として行ったら反対に幽霊役の人達に怖がられる自信があった。薄暗い閉鎖病棟の廊下を足をひきずって歩くマスク姿の少女…。あまりにもしっくりハマり過ぎている。
その証拠に先日行った遊園地のお化け屋敷で、佳乃は客同士にお化けと間違われ騒ぎになったのだ。佳乃の容姿に加え、あまりにも冷静で悠然とした態度があちら側のモノに見えたのかも知れない。
今の佳乃ならホラースポットと呼ばれる場所で一晩過ごせと言われても、たぶん朝飯前だろう。
そんな佳乃が「?」と、あることに気付いたのは、いつからか目の端に一人の少年の姿が映るようになったからだ。歳の頃は妹と同じ十歳かもう少し下くらい。半そでの黄色いポロシャツにカーゴパンツ姿で、どこかの球団の野球帽を被っている。
最初は遠くから佳乃をじっと見ているだけだったので、少年の存在に気付くまでしばらくかかった。やっと気付いたのは服の色が目立つということもあったが、次第に少年が佳乃の方へ近づいて来るようになったのだ。さらに少年が佳乃以外の人に見えていないとわかったのは、通行人が少年の体をすり抜けて行くのを目撃したからだ。
どうやら生まれて初めて幽霊というものに遭遇したらしいと佳乃は思った。
少年は佳乃に何かしてほしいと頼むでもなく、ただ傍にいるだけだった。表情は悲しそうでもなければ恨みつらみを抱えているようにも見えない。生きていれば本当にどこにでもいる小学生といった感じだ。
家の近くの河川敷で佳乃がぼーっと座っていると、いつの間にか現れて傍らで一人遊びをしたりする。そんな時は笑顔を見せて楽しそうだった。
時々同い年くらいの少年たちが野球をしている中に混じって、ボールを追いかけたりバッターボックスに立ってボールを打つ真似をしたり盗塁したりと忙い。
周りに人がいない時、一度だけ少年に声をかけてみたが何も答えてはくれなかった。名前を聞いた佳乃の声が聞こえなかったわけではなく、忘れてしまったというようなリアクションだった。名前の他にどこで誰と暮らしていたのか、どういう理由で死んでしまったのか聞きたいことはたくさんあった。
そして、なぜ佳乃なのか。佳乃なら怖がらないと知って現れたのか。でも、それならお寺の住職や他にも成仏させてくれる能力を持った人はたくさんいるはずだ。見ていることしかできない自分では少年にとって何の力にもなれないのに。
また、相手が幽霊だからという以外に妹しか知らない佳乃にとって男の子とのコミュニケーションがいまいちよくわからないというか男の子が苦手だった。理由は物心ついた時から「おまえが男だったらよかったのに」と、両親から呪文のように言われ続けて育ったことがトラウマになっていたからだ。
ただひとり、祖母だけが「女の子でよかった」と言ってくれた。それだけが心の救いだった。
だから自分がもし女の子を産んだとしたら絶対に「女の子でよかった」と言って育てようと決めていた。こんな容姿の自分と結婚してくれる相手がいれば、の話だが。
妹の華乃子は佳乃とは真逆の性格で友達も多く、小学五年生になった今ではクラスの女子からファッションリーダー的存在として一目置かれているという。確かに佳乃から見ても小五にしてはお洒落だと思う。見るからに利発そうにくるくる動く父親似の大きな瞳は長い睫毛に縁どられ、よく舌が回る口元はいつも薄桃色のリップクリームで色付いていた。歳のわりに出るところは出て締まるところは締まった体型も自分でよく理解しており、小遣いのほとんどを最先端の服とファッション雑誌につぎ込んでいた。
そんなわけで男子への接し方がわからない佳乃は無理に少年の相手をするでもなく、時には少年の存在を忘れていることすらあった。
これが映画やテレビドラマのシナリオだったら少年の身元や死因を調べたりするのだろうが、あいにく佳乃には手分けして調査する仲間もいなければ体力も無い。それに今のところ見えている幽霊は少年だけのようだし、とり憑いて悪さをするわけでもないので慣れてしまったと言えばそれまでだが。
佳乃は事故の後遺症で痛む右足の治療のため週二回、大学病院のペインクリニックへ脊髄麻酔に通っている。麻酔は痛みを取るだけの他に血液の流れを活発化して傷の早期治癒を促す効果もあった。佳乃の場合は前者だが、脊髄に針を差し込まれる瞬間は一年経った今でも緊張する。
麻酔治療にもいろいろあるが、施術してもらうのは腰部硬膜外ブロックという下半身麻酔だ。麻酔の効果は一時間から二時間くらいで切れる。その間は眠るか安静にして横になっていなければならない。
今日も静かなクラシック音楽が流れる処置室で睡眠から目覚めた佳乃だったが、まだ右足に力が入らないでいた。病院側は完全に麻酔が切れるまで帰してくれないのだが、来週から定期テストが始まるということもあり佳乃は急いでいた。ただでさえ事故で休学している間に勉強が遅れてしまったのだ。
引きずった右足をいつも以上に慎重に移動させながら、心配顔の看護師に「大丈夫、大丈夫」と、笑顔で手を振り麻酔科を後にした。
院内は手すりがあるので歩きやすいが、問題は病院を出たところにある駐車場へ向かう階段だった。ほんの数段降りるだけだが、今日は夕方まで降っていた雨で濡れていたため滑らないように注意しながら右足を下ろしたところ、ガクンと右ひざの力が抜けて「あっ!」と思った瞬間、右肩から転げ落ち………るはずが、何かに支えられた体は寸でのところで持ちこたえた。
佳乃の体を支えていたのは、あの少年だった。
「あ…」
ありがとう、と言いたかったが何より驚いたのは、少年が初めて病院に現れたということと、佳乃を助けてくれた…というより、少年に触れたということに驚いて言葉が出なかったのだ。
あらためてお礼を言おうとした時には少年の姿は消えていた。ひどく冷たい体の感触だけを残して。
帰宅した佳乃は少しばかりの菓子と水を自分の部屋の窓辺に供えて、静かに手を合わせた。
「お姉ちゃーん、これ読んで読んで!」
妹の華乃子が持って来たのは毎月購読しているファッション雑誌の中のコーナーにある「怖い話」のページだ。謳い文句に実話とあるが、そういうやつに限って案外怖くない。華乃子もひとりで読むのが怖いのなら読まなければいいのにといつも思う。毎月読み手にさせられる佳乃からすれば、話の内容よりも挿絵の方がよほど不気味だ。視覚で来られるとさすがに気味が悪いと感じる。
いつも華乃子の反応を見るのが楽しくて、わざとらしい演技口調で読んでやるのだが、どうも今日は笑いがこみあげてきて苦労する。華乃子に「まじめに読んでよ!」と、怒られたが無理。
だって彼女の隣には、怖い話にドキドキ顔の少年が座って聞いているのだから。
少年は華乃子と一緒になって驚き、怖がった。幽霊にも感情があるんだとこの時わかった。
しかし、少年の態度が一変したのは三話目を読んでいる時だった。何かを思い出したように遠い目をすると、そのままフッと消えてしまったのだ。
話の内容は、母親に虐待されて死んだ女の子が夜な夜な獄中の母親に会いに来ては生前と同じように甘えるという、なんとも悲しい話だった。
その時、佳乃は何かを思い出しかけたが一瞬開きかけた記憶の扉は細い光が漏れただけで再び固く閉ざされてしまった。
物語の少女のように、少年も親に虐待されたことが原因で亡くなったのだろうか?
この日から、毎晩のように佳乃は同じ夢を見るようになった。
場所は決まっていつもの散歩コースになっている河川敷である。
このM川は佳乃が住むA市と隣のN市の間を流れる二級河川の支流ということもあり、ここまで下流になると川幅はかなり広くなっていた。河川敷にはサイクリングコースやグラウンドが整備され、休日になると野球やサッカー少年たちで賑わった。
夢の中で佳乃は少年と手をつないでいる。
夕焼けに染まった空が美しい日暮れ時で、二人は堤防に座って川面を見ている。突然、少年は立ち上がると川面に向かって土手を駆け下りて行くのだが、手をつないでいるため佳乃も立ち上がり引きずられるように走り出すことになる。
夢の中で佳乃の足は健康そのものだった。少年と草の匂いをかぎながら飛ぶように走る感覚が、こんなに自由で心地よいのかと思わずにはいられなかった。
グラウンドを越えサイクリングコースを突っ切って川辺まで来ると、少年が川の中州を指差すところでいつも目が覚めるのだった。
この感じは以前にもどこかで経験したことがある。何かを読んで? 何かを見て? 何かを聞いて? デジャヴに記憶の引き出しをあさってみるが、どうしてもそれを思い出せない。
ここへきて少年は佳乃に何かを伝えたがっているのに。少年が指差した中州にいったい何が隠されているというのだ。
少年が姿を現さなくなって数週間が過ぎた頃、そのヒントは思いもよらないところから訪れた。
佳乃が麻酔科で眠っている時だった。お線香の匂いと体の右側に冷気を感じて目を開けると、そこは麻酔科の処置室ではなく隣の寝台で寝ているはずの女性患者の姿も無かった。かわりに横たわっていたのは、白い布をかけられた………死体だった。
ああ、ここは霊安室だ。
これが夢だということはわかっている。そう自分に言い聞かせながら頬や手をつねってみたが、一向に夢から覚める様子はない。
ベッドから降りると、隣のご遺体に手を合わせた。
布をめくるまでもなく、佳乃にはそれが少年だとわかったからだ。
「思い出してあげられなくて、ごめんね」
佳乃への、少年からの最終手段。きっとこんな姿は見せたくなかったに違いない。
枕元のタイマーの音で今度は本当に麻酔から目覚めると、佳乃は看護師にM川で溺れてこの病院に運び込まれた十歳くらいの男の子はいなかったかと尋ねた。
看護師は少し考えてから、もしかしてあの事件のことではないかと教えてくれた。
それは昨年、佳乃が事故に遭いこの病院に入院していた時、病室のテレビで見た殺人事件のニュースだった。
殺されたのは十歳の男の子。
犯人は、実の母親。
事件の内容は、母親が愛人と暮らすため邪魔になった息子を殺して川へ捨てたという非道極まりないものだったが、このニュースにはまだ続きがあった。
殺された少年は出生届が出されていなかったのだ。つまり戸籍が無い子供。言い換えれば存在しない存在。
そのため十歳になるにもかかわらず、小学校に通わせてもらえなかったという。
自分を産んだ母親に生まれたことを認めてもらえず、学校にも通えず、遊び相手のいない平日の昼間はどれほど寂しかったことだろう。もしかしたら学校の外から校内をのぞいては、なぜ自分はあそこへ行けないのかと思ったかも知れない。
そして最期は母親に殺され川に捨てられ………。
少年は、何のために生まれてきたのだろう。佳乃は病室のベッドの上で号泣した。あまりにも少年が哀れで、可哀相で泣きながら少年のために祈った。あれほど胸が張り裂けそうなくらい悲しい事件を後にも先にも佳乃は知らない。
佳乃が入院していたあの時、この病院の地下霊安室に少年が安置されていたのだという。
きっと自分のために泣いてくれた佳乃に会うため、少年は現れたに違いない。今の佳乃なら自分を受け入れてくれるだろうと信じて。
佳乃がすべてを思い出した日から、少年は現れなくなった。想いは果たせたということなのだろうか。
時々、夢の中で少年が指差した中州に向けて花を捧げる。お供えの水は今も欠かしたことはない。
自分から進んでホラー本を読むことはないが、妹にせがまれて読んでやる怪談話はやはり怖いとは思わない。
むしろ怖いのは「死」そのものだ。なかでも人の記憶から消え去る「死」にくらべたら、それ以外のものなど………怖くない。
第一話 終わり