9〈了〉
※
彼に会えた。ようやく彼と出会えた。
家を出てから今まで、何だかやたらと長かったような気がする。普段ならあっという間に感じる筈の距離なのに、歩きながら様々なことを考え過ぎていたからか、何だか時間軸がずれてしまったかのように長かった。
ようやく会えた彼は、笑っていた。とびきりの笑顔で私を出迎えてくれた。
私達はクラスメイトで、一日の大半を同じ教室で過ごしていて、かなりの時間を共有してきた筈なのに、彼のこんな無垢な笑顔を見るのは初めてだった。
「遅くなって、ごめんね」
謝る私に、彼は何も答えなかった。相変わらず無垢な笑みを浮かべるばかりだった。当然だ。私が話しかけているのは、彼の写真なのだから。
祭壇に飾られた写真。黒いフレームに縁取られた写真。つまりは、遺影。ここは、今から通夜が行われる葬儀場。
彼の肉体は今、綺麗な花々で飾られた祭壇の下に置かれている棺の中に収められている。彼の魂が今、何処に在るのかは分からない。少なくとも、あの遺影の中にはいないように私には思われる。それでも、彼の生き生きとした写真があるから、つい私は話しかけてしまう。
「ようやく会えたね」
と、会話ではなく、独り言を呟いてしまう。多分それは、本能みたいなものだ、と私は思う。
彼は死んだ。死んでしまった。呆気なく、息絶えてしまった。右足の骨が、くっつく前に。私が本を、渡す前に。
交通事故。急に飛び出してきた子供達を避けた車がハンドル操作を誤り彼の方に突っ込んできた。即死だった。私はそのことを学校の朝礼で聞かされた。勿論、驚いたし、悲しかった。だけど、泣き崩れる人や嗚咽を漏らす人達がいる中で、涙を流さなかった私は、もしかしたら、冷たい人間なのかもしれないなと、自分で思った。
私と彼は、恋人関係ではなかった。友人関係でもなかった。ただのクラスメイトだった。二、三の言葉を交わし、一つの約束を交わしただけだった。だから私の瞼からは涙がこぼれなかったのかな。
私は事故の様子を詳しく聞こうとは思わなかった。例えば車に撥ねられた時に、彼が瞬間的に宙を舞ったのか、崩れ落ちるようにその場に倒れ込んだのか、とか、例えば彼は何処へ向かう道中で命を絶たれたのかとか、そんなことを知ろうとは思わなかった。出歯亀をするのは嫌だったし、さして親しくもなかった私に死後だからといって色々詮索されるのは決して喜びはしないだろうと思ったからだ。
だから私は、客観的事実として在る、彼が事故に合い死んでしまった、という情報だけをもって今日の葬儀に参加していた。
葬儀は滞りなく進む。夭折した彼を偲び沈痛な面持ちの参列者や、涙を通り過ぎ憔悴し切った親族達を置き去りにして式は進行する。制服を着込んでいる私もクラスメイト達も、ただそれを茫洋として見送るしかなかった。
そしてお別れの時が来る。
参列者達は席を立ち、棺に納められた彼に最後の挨拶をするよう司会者に促される。前の席に座る人達から順に、最後の時を迎えている。
やがて私の順番がくる。周りに座っていたクラスメイト達と共に前に進む。恭しく立っている葬儀社の人から真っ白な菊を一輪受け取った私は棺の横へと促される。一足先に彼と最後の対面を果たしたクラスメイト達の啜り泣く声が館内に静かに響いている。男子も女子も泣いている。誰もが彼の死を悲しんでいる。そこへ、私も足を踏み入れる。開かれている棺の中を、取り囲むクラスメイト達の間を縫って、覗き込むように見る。
彼が、いた。
当たり前だけれど、そこには、彼が、いた。
遺影ではなく、記憶の中のものでもなく、本当の、今現在の彼がいた。この彼に会う為に、私は今日、様々なことを思い巡らせながら、ここに来たんだ。そして、会った。彼に、会った。ようやく、会えたんだ。
彼の顔は至って普通だった。教室で会っていた時と同じ、「面白い本ないか?」と尋ねてきた時と変わらない、そのままの彼だった。色味は微かに薄いようにも思うけれど、何処も欠損していない私の知る彼の顔だった。
私はホッとした。と同時に、それ故に現実感が遠のくような感じがした。何時もと変わらぬ彼が死んだ、と言われても、それは即座に受け入れ難かった。意識がふっと薄らぐような気がした。両足が踏みしめている地面の平衡が揺らぐ感じがした。私がたった今在る世界が果たして現実なのか、怪しく思えた。彼の遺体を見て、私は、そう思った。
私は彼の死に直面しても、遺体と対面しても、自分の感情に振り回されるばかりだった。
自分の事しか考えないんだな、私って。こんな時でも。何だかね。本当に、何だかねぇ。
私は棺のすぐ横に着き、彼の顔の傍らに菊をそっと置いた。そしてスカートのポケットに手を伸ばす。すぐに指先が文庫本に触れる。私はこの本を、彼に渡そうと思って持って来た。彼の為に選んだ本。彼の為に持ってきた本。生きている内に手渡す事は出来なかったけれど、せめて、彼に贈ろうと思って持ってきた。棺に入れて一緒に燃えてしまえば、もしかしたら、彼が読むことが出来るかもしれない。そう思って持ってきた。そして、今がまさに、彼に本を渡すことの出来る、最初で最後のチャンスだった。
私は指先でポケットの中の本を掴む。手が汗ばんでいるのが分かる。本を持ち上げる。意識して呼吸をしなければ酸素を取り入れる事が出来そうにない。もう少しで本がポケットから出てくる。
その時だった。
私の横から腕が伸びてきて、棺の中に何かをそっと置いた。
それは、寄せ書きだった。
私はそれを入れた主を見る。私の、彼の、クラスメイトの女の子だった。微かな記憶を手繰ると、彼女はよく彼と談笑していたように思う。私は見るともなく寄せ書きに視線を落とす。そこには約二十名程の寄せ書きが書かれている。私の知らない名前が沢山ある。クラスメイト以外の名前も沢山ある。色紙の端っこには『友人一同より』と記されていた。学年や、クラスや、部活や、性別等関係なく、彼との親交が深かった人物を選りすぐって作られたのであろうその寄せ書き。当然だか、そこに私の名前はない。つまり私は、彼の友人ではない、ということだ。寄せ書きの発起人がわざわざ意地悪で私をのけ者にする筈もなく、客観的にも主観的にも、私は、彼の友人ですらないのだ。
その瞬間、私は我に返ったような気がした。希薄だった現実感が即座に戻ってきた。私は掴んでいた本を離した。私が彼に本を渡すなんて、彼にも、本当の友人達にも迷惑な行為なんじゃないか。そう思えた。たった一度の会話で舞い上がった挙句に葬式に本まで持ってくる。私は急に自分が恥ずかしく思えてきた。きっと彼だって、あの会話なんて覚えていなかっただろう。友人が二十人以上もいる彼にとってあの会話は何でもない、記憶にすら残らないもので、それを友人が極めて少ない私が真に受けて一人で右往左往していただけ。この話のオチは、きっとそんなもんなんだろうな。私は目を伏せる。彼にそっと一礼をする。口の中で小さく「ごめんね、バイバイ」と呟く。棺を離れ、自分の席に戻る。相変わらず館内には数多くの啜り泣きが響いていた。私は小さく息を吐き出した。
それからの私はだだ淡々と、粛々と進行される式を見届けていた。最後に棺を乗せた車を見送って式が終わった。あちらこちらで同級生達が輪になって話しているのを横目に私は自分の気配を消してすぐに葬儀場から姿を消した。きっと、私が早々に岐路に着いたことに気が付いた人は一人もいないだろう。それどころか、私が参列していたことを記憶している人物がいるかどうかすら怪しいけれど。
帰路の私は河原を歩いていた。夕方に差し掛かった今、沈みかけている夕陽が放つ橙色を川面が反射してキラキラと光っていた。その横を制服の私は歩く。事情を知らない第三者から見れば私はただの下校途中の女子高校生としか認識されなくて、最初で最後のプレゼントを渡すことを諦めたしょうもない性根の持ち主には見えない筈だ。他人から見れば私はただの女子高生Aでしかない。橙色で染まった世界の中を伏し目がちに歩いている女子高生。それ以上にもそれ以下にもなり得ない。当然のことなのだけれど。
だからきっと、他人に私の気持ちは分からない。私の気持ちを知り得るのは私しか存在しない。私がたった今、重たい気持ちを引きずりながら歩いているのを気が付く人なんて一人も存在しない。だから今のこの気持には私自身が向き合う他ないのだ。だから私は、思考を巡らせてみるんだ。それしか方法がないのだから。
彼が私をどう思っていたのか、どのように認識していたのか、それは彼が亡くなった今、知る術は全くない。では、私が彼をどう思っていたのか。実はそれも、今の私には知る術を持たない。結局、整理がつかないのだ、彼に対しての思いが。
だけど、と私は思う。夕焼けの河原を歩きながらフッと息を吐き出して思う。結局これも、日常なのだな、と。
例えば恋人や親友が事故死してしまうのは如何にも劇的で小説のネタにでもなりそうな話だけれど、実際として、私の主観として起こったのは、ただのクラスメイトの事故死、というものに他ならない。残念だけれど、客観的に分析してみれば、私と彼とはただのクラスメイトでしかない。ただのクラスメイトの死なんて、日常とまでは言わないけれど、それ程特異なものでもない。特別でもなんでもない。だから結局、私は、同じ言葉に行き着いてしまう。
『事実は小説より奇なり』そんな言葉、嘘っぱちだ、って。
今回の一連の出来事は小説になんて成り得ないし、仮になったとしても、私は主役でもなんでもなくて、ただのモブでしかない。主役は、彼であり、彼の周辺の人々だ。今回の一件だって、私にとっては、小説を現実が乗り越える要素には成り得なかった。それは、正直な私の感想だ。
私はスカートのポケットから文庫本を取り出した。彼に渡そうと思って持ってきた本。彼に渡せなかった本。私には渡す資格なんて初めからなかった本。私はそいつの表紙を立ち止まってじっと見詰める。夕暮れが全てを橙に染めている。すぐ横の川面がキラキラと光っている。ゆったりと川が一定の速度で流れている。
刹那の間。
そして私は、大きく振りかぶってその本をぶん投げた。もう必要のなくなった、何にも使い道のなくなった本を捨ててしまおうと思った。
本当は川に投げ捨ててしまおうと思ったのだけれど、普段運動なんてしない私は物を投げるコツが分からなくて、投げている最中にすっぽ抜けてしまった本は怠惰にゆっくりと弧を描いて、川面には届かずにその手前にパサリと落ちた。野良犬がいた。茶色の毛が、日に焼けて赤茶けている中型犬。そいつは本が地面に落下すると同時に走り寄り、限りなく鼻を近付けてクンクンと臭いを嗅いだ。そして、本を、食い出した。右の前足で本をしっかりと押さえ、端を噛んで引っ張って食い千切ってモグモグと咀嚼をした。咥えて、噛んで、飲み込む。それを繰り返す。あっという間に本は全て犬の胃の中に収まった。私が持っていた本は、彼に渡そうと思った本は、たった今、この世界から消え失せて、犬の体内へと吸収されてしまった。私は笑った。それは紛うことなき苦笑いだった。空腹を満たした犬はさっさと歩き出し何処かへ姿を消した。しょうがないので私も歩き出す。再び帰路を進む。苦笑いを浮かべたまま、トボトボと歩く私は思う。
ああ、やっぱり『事実は小説より奇なり』そんな言葉、嘘っぱちだ。私は達観した気になって、またそう思ってみた。嫌でも目に入る夕焼けが、やけに滲んで見えた。私はただ、家に帰る。その為にのみ、今、歩いている。
〈了〉