表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/9

5

 ※


 私は、相も変わらず、彼に会う為に歩を進めている。夏の終わり、死期を見極めることの出来なかった蝉の残党が発する自覚無き断末魔を日常の一部分として特に気に留めることすらもなく聞き流しながら私は歩いている。

 私は、私が読む本に対して、特にこだわりがあるわけではない。突拍子もないトリックを用いた推理小説だって楽しいし、史実のみで綴られた歴史を啓蒙する本だって興味深く読み進める。どんなジャンルだって構わない。如何なる方向性だって気にはしない。私が本の優劣を決定する判断基準は一つしかない。たった一つ。

 その本が、私の存在する現実世界よりも面白いか否か。ただ、それだけ。

この世界よりも面白い本ならば、私は心の底から胸をときめかせて目を輝かせるし、この現実よりも劣る本ならばまっさらで真っ白な紙切れよりも価値がないと判断する。それはもう、機械的とでも呼んでいい程に正確に判断を下すことが出来る。何故ならばそれは、私にとってその本が死ぬべきか生きるべきかを分かつ唯一の基準であるし、私がその本を読破するに要した時間が生きていたか死んでいたかを決めるたった一つだけの基準なのだから、それを間違う筈がないし、間違う訳にはいかないのだ。

 だから、というべきか、だけど、というべきか、私は悔いている。あの日、彼が私に話しかけてきた瞬間、何か面白い本がないかと尋ねられた刹那、私は何も答えることが出来なかった。鉤括弧を用いることが出来なかった。それは私にとって痛恨の出来事であった。何故ならば、私は、その瞬間を、何時だって待ち望んでいたのだから。

 私は積極的に他人と接するタイプではない。厭世的だとか排他的だとか、そこまで極端ではないつもりだけれど、本の中に登場するキャラクターよりも面白い言動をする人物なんて当然の如く皆無だったから、現実世界で息をしている彼ら彼女らに対して私は触れ合う理由も存在価値も見出せなかった。だから、私は、現実に存在する他人よりも、紙に印刷された架空の、虚構の他人と触れ合うことを優先していた。本を読んでいた。話すよりも触れ合うよりも、ただただ読んでいた。

 そんな私だったけれど、実は、心の奥底では、待っていたんだ。

 お前の薦める本は何だ? お前が最も感情移入する、お前が真実に住まう世界はどの本の中に在るんだ?

 そう尋ねられるのを、何時だって、どの瞬間だって待っていた。

 それはまさに、私と同じく思春期の真只中を生きる少女が白馬に乗った王子の登場を真剣に待ち焦がれるのと寸分違わぬ心持ちで心待ちにしていた。

 だけど、だからこそ、私は心の中の端っこで、そんな日は訪れないだろうと醒めた自分をも飼っていた。私が、私の夢想の中で設えるような人物の登場。そんな展開が、現実に起こり得る筈がない。寓話が寓話であるように、寓話が実話ではないように、私にとって都合の良いように現実が廻る筈がない。

 切望に満ちた胸の隅っこで諦念を飼っていた。だから、私は油断をしていたのだ。

「なあ、面白い本ないか?」

 という一秒にも満たない問い。待ち焦がれていた乞い。千載一遇の時。その瞬間に生まれてしまった私の隙。コンマ一秒にも満たない合間に私はどんな言葉も用いることが出来なかった。それは痛恨だった。悔恨だった。後悔の塊だった。

 ど真ん中のストレートのみをフルスイングしようとしていたのに、正にその球が来た瞬間に虚をつかれ見逃してしまったように、私はあたかも唖のように何にも言うことが出来なかった。

 悲しかった。残念だった。みっともなかった。

 だから、私は、彼に会いに行こうと思った。

 あの日の後悔を少しでも打ち消す為に、そして、彼の要望に今更ながらでも応える為に、彼に会いに行こうと思ったんだ。

私は、スカートのポケットの所に彼へ贈る文庫本を入れ込んでいる。滲む汗が染みて本がふやけないか心配だけれど、他に都合のいい所が思い付かないので、私は仕方なく文庫本をそこに入れて歩いている。

 私の身体に限りなく密着している一冊の本、それを私が今まで触れ合ってきた数多の本の中から選び出すのは本当に困難を極めた。

 私は今まで沢山の本を読んで来た。だけれどそれは、誰かの為ではなく、私自身の為にのみ読んで来たものだ。極端な物言いになってしまうし、誰か、私以外の、全人類が聞いたなら失笑を禁じ得ないのかもしれないけれど、私は私の為に、この糞ったれな日常をどうにか生き延びる為だけに読書を嗜んでいのだ。そんな私が、私以外の誰かの為に一冊の本を選ぶ。その時の私は多分、とても実直だったと思う。この上なく素直だったと思う。それほどまでに真剣だったと思う。その瞬間の私はまるで、高鳴る鼓動と一直線な双眸はまるで――。十代の後半に差し掛かっている女子である私が抱くには余りにも有り触れた感情、それはきっと――。

 いや、ここで、あの比喩を用いるのはよそう。だって、それは、この上ない程に不毛な行為なのだから。

 ともかく、私は今まで触れ合ってきた、数多の本の中から、私の生きる糧の中から、ただの一冊を、たったの一冊を、どうにか選び出したのだ。そして、それを携えて、歩いている。何故かと言えば、その理由は一つしかない。

 私が歩を進める理由。それは一つだけ。それは、彼に、会いに行く為。ただ、それだけなんだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ