06
揺れる濃紺の景色、その中に僕らはいた。滑稽なほど背筋を伸ばした浩二がハンドルを握っている。浩二はもうずいぶんまえから、終わらないおしゃべりを続けている。彼の批判はとりとめが無く、要点が掴みづらく、次第に抽象性を高めていく。消え行く伝統みたいだ。バックミラーを利用して彼は僕らに不安を投げかける。なにか反応が欲しいのだ。かわりばんこに僕らは相槌を打った。シートに身を沈めて、前方の広がり続ける光景に身体を照らしている村田さんは、恍惚として見えた。ときどき、車が揺れた。そして景色が崩れる。
「どこへ向かうんだろうか」村田さんが言った。
「どこへでもーー、どこへでもです」浩二が答える。
「月が見えれば良い。わしは月を見るのが好きでーー」
「月にかかる雲は屋上に干したベッドカバーみたいですよ、ほら」
「月は昔からあんなに大きかったかな」
「本当ですね、僕はちっとも気づきませんでした」
「変わったんだろう、きっと……」
「どうして月は大きくなったんでしょう」
「わからんよ、浩二くん。きっとみんなが見上げるからだろう……」
浩二はドライブに行きたがった。彼は宣言通り車を買い、工場の前までやってきた。地球上で誰も知らないメーカーの車を見て、僕らは沈黙しなくちゃならなかった。彼はドライブに行きたがった。僕らを乗せて、どこかへ向かっていく。目的地は誰も知らない。僕らは黙り、目を合わせ、それから外を見た。もう長い間、ケイスケは外を向いてなにも話していない。彼の鼻先で、液体みたいな外の景色が流れ、看板に書かれた文字が瞬き、僕らのはるか背後でようやく意味を持ち始めた。浩二と村田さんの会話は遠いどこかで行われているみたいだった。ここではない、どこか遠く。後部座席には薄緑色をした沈黙が溜まっていて、僕らはフィンランドの湖の底にいるような気分がした。ときどき車が揺れ、そして景色が崩れた。
誰もいない深夜の広場へやってきた。
浩二は車を止め、トランクからグローブとボールを取り出す。寒い日だった。冬の空気は乾燥して、星が良く見えた。広場を囲むようにマンションが立っていたけれど、誰一人いなかった。子供を連れた主婦も、ブランコに腰掛けた小学生も、タバコを指に挟んだ背広を着た男もいなかった。水飲み場で一匹の野良犬が泥水を舐めていたけれど、すぐに消えた。車の向かう向きに合わせて、その犬が背中を弾ませるのが遠くに見えた。それっきり。誰もいなくなって、僕らはキャッチボールをした。
ケイスケはなにも言わなかった。僕も何も言わなかった。村田さんは腰が痛そうに慎重に走り、浩二は最後までずっとしゃべりっぱなしだった。僕ら四人の間をボールが弾んでいく。広場を照らしている照明はあったけれど、ボールはうまく目で追えなかった。誰もうまくキャッチできなかった。ボールを投げ、拾いに行き、それからまた投げた。僕らはそのことについてなにも言わなかったけれど、すぐにでも失われかねない貴重な時間を共有していると感じた。なにかのきっかけで、簡単に崩れるものを今僕らは奇跡的に保持しているのだと感じた。ボールが飛び、拾いに行き、再び投げた。誰もいなかった。ただ、僕らだけがいた。夜はボールが飛ぶのに合わせて深まっていくような気がした。投げるたびに、ボールは背後に転がっていった。最後にはどこかに紛れて消えた。
交差する照明の隙間にまだボールが飛んでいる気がした。
Cou Le Naeの楽屋へ続く道は物置みたいに雑然としていて、すごく寒かった。壁に沿っていろんな荷物が置かれていて、誰かのレコードバッグや、リュック、スニーカーが並べれられていた。ここには誰もいなくて、静かで薄暗かった。明かりはあったかも知れないけど、ほとんど意味をなさなかった。前へ進みながら僕は、こんなに簡単に入れてしまうんだと驚いた。誰も僕を止める人間はいなかった。男一人、立っていなかった。
彼女は鏡の前にいた。
小さな鏡だ。大きな鏡じゃない。飾りがたくさんついていて、宮殿や映画の中みたいな鏡なんかじゃ全然ない。どこにでもあるような、ちっぽけな鏡で、古びていて、擦れて色が失われていた。彼女は長い後ろ髪に手を入れて、髪を持ち上げたり、丸めてみたりしていた。狭い部屋だった。何人かが部屋の隅で荷物を整理していた。彼らは僕と目が合っても、驚きもしなければ、声をかけたりもしなかった。僕のすぐ横を白いシャツを着た細身の男が過ぎたけど、彼は忙しそうに誰かの名前を叫んで消えた。彼女の服が擦れる音が聴こえた。
「入ってもいい?」僕は言った。
彼女は鏡から目を離して、それから僕を見上げたけど、何も言いはしなかった。
「こんなに簡単に入れてしまうんだね……」
「うん」彼女は言った。「ええ、そう?」
「僕のこと、わかる?」
「どういう意味?」
「僕のこと見たことあるかと思って。よく見に来るから」
「ふうん……」
「危ないよ、こんなに簡単に入れてしまうのは。座ってもいい?」
彼女は何も言わなかった。頷きもなく、目を向けることさえなかった。僕は彼女の隣に腰掛けた。
「誰かがここにやってきて、なにか悪さをするかも知れない。セキュリティのことをもうちょっと考えた方が良い。何かことが起きてからじゃ遅いから」
彼女が目の前にいる、僕は思った。あの彼女だ。Cou Le Naeだ。ステージから降りて、僕の目の前に座っている彼女は普通の女の子に見えた。肌の質感も、鼻の油も、乾燥した唇も見ることが出来た。目の前の彼女にはリアリティがあった。ずっと無かったのに。誰の手にも届かず、まるで頭の中の美女みたいな存在だった彼女は、今は僕の目の前でリアリティを纏って鏡に向かっている。化粧をしている。もしかしたら、リアリティを隠すために化粧をしているのかも知れない。
「よく見に来たよ」
「ええ、そう?」
「いつも前の方から見てた」
「ええ、ありがと」
「今日はーー」
「おとしもの?」彼女は言った。
「どうしてそれを?」
「しょっちゅうくるから」彼女は身を屈めてバッグに手を伸ばす。歪んだ彼女の同体に合わせて声が歪む。彼女は鏡の前に小さなテーブルに何かを置く。いろんな色のピアスが転がる。「6人目。あなたみたいにそんな風にしゃべる人が、6人。ここに入ってくる態度も、私のことを見る目もそっくり。その声のボリュムーも」
「……え?」
「なにか期待してここに来たの?」
彼女は笑う。僕を見ずに。
「もしかして、ここにやってきて、落としものを私に届けたら私に気に入ってもらえると思った?それともがっかりしたのかしら。部屋が思ったよりも寒々としていて、人もそれほどいなかったから。自分がこれまでせっせとこしらえてきた幻想と私が一致しなかったから。ここに来るとみんなそういう顔をするのよ。ねえ、落胆したの?」
彼女は鏡に向かってひとりごとを言うみたいに話した。
「きっと思ったでしょうね……多いのよ、そういう人……。やめてくれ、そんな風に動かないでくれ、イメージが崩れるから、とか……みんなそう思うのよ……私を眺めている表情を見ればすぐにわかる……あなたはこんな風じゃなくちゃならない、やめてくれ、そんな風に動かないでくれ……いつもそう……私はいつも落胆されることを怯えていなくちゃならない……きっと気づかないうちに武器にしてるのね、落胆するぞ、俺たちのイメージに合わせて動け……そんな風に……対等じゃないのよね……最初から……それに期待してるのがわかっちゃう……落とし物を拾って、私のもとに届けたら、もしかしたら俺に惚れてくれるかも知れないと期待しているのが……そういう人って誰もが私が言い寄るのを待っていて……」
ピアスは置いて行こうと思ったけど、結局、握りしめたまま出て行った。彼女は鏡に囁きを与え続け、忙しく人が出たり入ったりした。廊下ですれ違った男は亡霊のように荷物を動かしていたけれど、僕に気がつくと自分を取り戻してトイレへ消えた。誰かが静かに流している音楽があったけれど、もう客はいなかったし、夜は終わりかけていた。このまま静かに夜は消えていくだろう。階段を上り、外へ向かう。かすかに中より明るくて、ドアに四角く切り取られた外があって、僕のことを知らない人々が歩いていて、狭い道をタクシーが無理矢理進んで行った。
出てみると外は僕が思っているよりもずっとまだ暗かった。