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 Cou Le Nae 5






 僕は彼女について考えている。Cou Le Naeについて。

 彼女はいつでも僕の思考の中で完璧だったから、ほかのあらゆることを超越して僕に誘いかけた。

 彼女は笑っている。いつでも笑っている。 

 髪の毛が揺れて、僕は彼女の性器を考える。太ももを考え、陶器みたいに滑らかな足を考え、親指と中指について考える。マニキュアの剥がれかけた親指の爪について考える。彼女が振り返った後に見せる、腰のくぼみについて考える。彼女の首筋を考え、関節の皺について考える。

 僕は彼女のすべてを思い出せた。



 降りかけの雨が停滞した土曜日の長い夜に、僕は再び彼女に会った。彼女はそこにいた。いつものあの場所に。ほかにどこにいるというんだろう。僕には想像もつかない。

 彼女はステージにいた。僕は下から見上げていた。珍しく彼女は歌を歌い、僕らは珍しく彼女の歌を聴いた。集まった僕らは彼女の前で、誰でもない誰かになった。彼女にとって、僕らが個人であろうが、誰か知らない人であろうが、樹木であろうが、煙であろうが同じだった。僕らは前方から眩しい光を感じ、揺れながら薄まってゆく煙になることを選んだ。彼女を見に来る人は少しずつ増えていく気がした。ここに来る人は、格好も顔も、性格も職業も人生も全然違ったけど、来てしまえば同じだった。僕らはただ見上げている。彼女は僕らの誰一人も特別視しない。心地よい匿名性の中で、僕らは煙になり揺れている。彼女に憧れの視線を投げ続ける。僕らは何もせず、彼女は行動する。彼女が歌い、僕らはそれを見守る。僕らの理想として彼女が存在するみたいだった。

 そんな日の最後に、彼女はピアスを落とした。

 一片のキラキラ光る、小さなピアス。僕がそのピアスに腕を伸ばしたとき、ほかに三人の男が同じように手を伸ばした。けれど、ピアスを手に入れたのは僕だった。さっきまで彼女の柔らかな耳たぶについていたピアスだ。彼女の身体の一部だったピアスだ。僕はそのピアスを手に入れたことで、彼女と急に親密になった気がした。僕は彼女と口を聞いても良い権利を得たようにさえ思った。僕は彼女の落としたピアスを持っていて、ここにいるほかの男たちは持っていない。僕は彼女の友人になった気がした。

 「僕が手に入れたんだ」

 物欲しそうに腕を伸ばしたままの三人に、僕は興奮して言った。

 「僕のピアスだ」

 彼女は振り向きもしなかった。音もなくステージから去っていった。

 彼女がつけていたピアスを手に入れたんだ。僕はこれまで抱いたことのない、家族のように親密な気持ちで、彼女の背中を見送った。揺れる長い後ろ髪は、僕には手を振る合図に見えた。



 冬は深まっていった。そして工場の廊下はどんどん薄暗くなっていった。タバコを吸い終えた僕が休憩室に戻ると、薄暗い部屋の中に、ケイスケとスグルがいた。二人はあれ以来、急に仲良くなったみたいだった。部屋の中は暖房がついていなくて、すごく寒かった。ほかに誰もいなくて、どこにだって座れたのに、二人はパイプイスを並べて、身を寄せるみたいにして隣り合って座っていた。

 僕は彼らの背中を見た。

 笑いながら震える背中を。僕の知らない話題について親密に語る、二人の背中を。

 僕は声をかけることがうまくできなくて、そのまま二人を過ぎて、奥の台所に入っていった。彼らを過ぎる瞬間に、ケイスケが僕に気づいたのがわかった。けれど、僕は立ち止まらずに、奥までやってきた。

 「本当に、やらないのか」追いかけてきたケイスケが後ろからそう言った。

 「ん?」

 たった今、ケイスケの存在に気づいたみたいに僕は言った。ケイスケの方を向かずに。僕は棚からコップを取り出して、水を汲んだ。

 「本当にやらないのか?」

 「なにを」

 「なにをってお前」ケイスケは笑った。

 「ああ」僕は水を飲んだ。それから意味もなくシンクに水を捨て、それからまたコップに水を溜めた。

 「スグルはすごく乗り気なんだ」

 「そうなんだ」僕は笑った。

 「あいつはああ見えて、すごくよく考えているやつなんだ」

 「ふうん」

 「俺たちと同じだよ」

 「なにが?」

 「人間が」彼は言った。「人種が」

 ここにいるべき人間じゃないというところが。彼はそう言った。

 僕はコップに溜めた水をごくごく飲んで、それからケイスケの顔を見つめた。嬉しそうな、満ち足りた表情をしていた。ケイスケは僕の言葉を待っていたけれど、僕はなにも言わなかった。ただ、僕らが思っているほど、今二人のいる場所は近くないのだと僕は感じた。ケイスケは今や僕の分身ではなかった。かつてはそうだったのに。曇り空に向けて気球船が飛んでいくのを眺めている気がした。

 翌日、勤務を交代する忙しい移動の時間になると、僕はその日同じシフトだった浩二と村田さんと一緒に移動する集団の中にいた。僕らは目の前の同じ色をした靴に合わせて、急いで歩き、廊下から廊下、階段から階段へと移動した。二階の渡り廊下は電球が切れていて、じいじいと音を立てながら、壁のポスターを照らしたり隠したりした。浩二は僕の隣で額に汗を浮かべながら歩き、深刻そうな顔で忘れ物をしたと僕に耳打ちした。

 「すぐ戻るから!」彼は人波を割って進み、やがて見えなくなった。

 浩二が生み出した人波の亀裂が、なにもなかったみたいに戻っていくのを眺めていると、遠い廊下の突き当りで、二つの人影がふざけあっているのに気づいた。すごく遠かったけど、それはケイスケとスグルだった。目の前をいくつかの顔が過ぎた。二人の背後で、トイレのドアがゆっくり閉まった。僕とケイスケがいつも集まっていたトイレだ。僕らがいつもそうしたように、彼らは時間を示し合わせて、勤務中に抜けだして来たらしかった。今はスグルがケイスケの話を聞いていた。彼の興奮した演説を、いつも言いたいことをうまく言えずに、ジェスチャーで表そうとするその手が語ることを、耳元で囁くように語る、彼の笑い話を。彼らは親友みたいだった。笑いながら肩を突き合って歩いていた。あまりにも二人は仲が良さそうに見えたから、僕はもしそうできたとしても、彼らに駆け寄ったりしなかったと思う。そうしたとして、最初にかけるべき言葉が思い付けなかった。

 そして、誰かが僕の背中を押した。

 ケイスケもスグルも、僕には気づかずに、僕の視界から消えた。人波に押されながら、僕が無理やり前に進んでいくと、後ろで彼らの笑い声が廊下に響いた気がした。けれど、笑い声も僕も、すぐに薄暗い階下へ消えた。ここではなにもかもが、冬の暗闇に消えていくみたいだ。

 夜が来て、二人きりで帰り道を歩いているとケイスケが言った。

 「なあ、本当にやらないのか」

 「うん」

 「どうしたんだよ?」

 「どうしたって?なにが?」

 彼は何も言わなかった。けれど、僕には彼が言いたいことはわかった。そして、彼には僕がわかったことがわかっていた。

 「なあ……」彼は心配するように、本当のことを言って欲しそうにそう言った。

 「本当にやるの?」僕が聞いた。

 「本当に、やるよ」

 「本当に?」

 「本当に」

 僕はケイスケの顔を見た。彼はやろうとしていることを考えると、緊張するみたいだった。まばたきの回数が急に多くなった。僕はもう止めることは出来ないのだろうと思った。それに、始めのうちケイスケを心配して止めていた僕は、今では別の理由で彼らに止めさせようとしていた。そのことは自分でもわかっていた。僕の中の、ケイスケの計画に対する反発心は、ケイスケとスグルの二人が仲良くなればなるほど強まっていった。これは嫉妬だと思う。

 「本当にやらないのか?」僕らの横をゆっくり走る大型トラックが砂を踏む音を立てながら過ぎていった。

 「やるわけないだろ」必要以上に笑って、僕はそう言った。「犯罪だよ?」

 彼らは本当に実行するんだろうか。そう考えると僕はドキッとした。これは彼らが一線を越えようとすることに対する恐怖だろうか。それとも、僕が置いていかれそうになることに対する不安だろうか。どちらにしても、僕にはもう参加するという選択肢はなかった。ケイスケとスグルの関係が深まれば深まるほど、僕は参加を拒むだろう。今では、僕は彼らの計画を嘲笑することで、最後の抵抗をしている。

 「もし」僕が言った。「失敗したらどうする」

 「失敗って?」

 「警察に捕まったらどうする?」

 「どうするって?」

 「刑務所に入れらたらどうする?」

 「懺悔して、決められた日数をそこで過ごして、それで、出てくる」

 「その後は?」

 「その後?」彼はニヤニヤ笑ってそう言った。「工場ででも働くさ!」

 変わらないじゃないか、どうせ!すでに底辺に生きてるのに、これ以上どうなるって言うんだ、捕まって、時が過ぎて、結局同じところに戻ってくる、俺たちがすでに底辺に生きてるって、忘れたのか?彼はそう叫んだ。

 狂ったような笑い声を立てながら、彼は埃臭いバスの中に乗り込んでいった。赤い座席シート、脂っぽい手すり、うとうとした老人。

 バスは左右に大きく揺れながら、暗闇をかきわけて行った。



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