04
僕らはまだ部屋にいた。みんなぐずぐずと居残っていた。長い会話の跡があった。会話は少しずつ興奮を帯びてきて、今では最高潮を迎えようとしていた。小道に入ったり、開けた丘に出たり、再び小石の散らばった山道を登るみたいに、僕らは少しずつどこかへ向かって行った。村田さんは家庭での自分の居場所について嘆き、僕らは流行りのドラマについてひどい批評をした。浩二は誰にも理解できないセンスで、冗談としか思えないデザインの車を買おうとしているらしかった。その喜びを分かち合えると信じて彼は計画を話した。会話は少しずれては前に進み、新しい歯車を組み込むと、ずれ込むように前に進んだ。
「簡単ことなんだ」
ケイスケは投げ出した右手で、テーブルの上に張り付いたセロハンテープをこすりながら言った。
「たった一歩のことなんだよ」
僕らはケイスケを見ていた。いつの間にか、誰もがみんな。
彼はもうしばらく、熱のこもった演説をしていた。僕らは彼の話に耳を傾け、質問し、再び耳を貸した。夜はずいぶん落ち着いたけど、僕らは帰るそぶりも見せない。浩二はいつの間にか壁にもたれていた。ケイスケの話は僕らには、なにか自分の人生を決定付ける重要な話に思えた。ケイスケが僕らの目の前で、僕らの人生を暴いていくように感じられた。静かだった。誰もが顎に手を添えて、ときどき乾いた指で唇を撫でた。
「人の居場所を決めるのは、そう……たった一歩なんだよ。多くの現象や多くの要因があると言っても、結局は、その一歩なんだ……誰も認めようとしないけど……。誰もが一歩を怖がるんだ。自分のエリアがあって、空間があり、世界がある。そのラインを越えようとするとき、人は凄く臆病になる、自分でも気づかないうちに……。その一歩が重要なんだ……。結局はその一歩がすべてなんだよ……」
誰もほとんど身じろぎもしなかった。これは無意識に行われる共犯だった。僕らはこの空間や、雰囲気を崩さないために、少しも動かない方が良いことを感じている。浩二でさえ理解している。少しだけ開いている窓から、外の風の音が聞こえる。誰かが外で話をしている。建物に声が反射する。パタパタと回る換気扇の音。冷蔵庫の唸り。どこかで稼働する機械音。僕らはケイスケの言葉を聞くために集まったかのようだ。
「いくつも見てきた。いくつもの人々を……。その中には、成功していると言われる連中もいれば、失敗と言われてる連中……例えば俺たちーー」
そう言いかけてケイスケは、”俺たち”を”俺”に訂正する。
「例えばーー俺みたいな落伍者もいる。成功していると言われる人間と、俺みたいな人間になにか違いがあるわけじゃない。才能や、環境や、センスや、考え方に。人間はみんなが思っているよりもずっと、それほど変わらないんだ。こう言うと、傲慢に思われるかも知れないが……一流企業で働くビジネスマンも俺も、それほど大した違いがあるわけじゃない……。違いがあとすれば、たった一つ、勇気なんだよ。無謀さと言い換えてもいい……。彼らはみんな、誰もが怖気づく一歩で、躊躇しないんだ。いやーー躊躇はするかも知れない。けど、結局は越えていく。その一歩なんだよ、重要なのはその一歩なんだ……。その一歩が、俺たちを束縛し、居場所を決定付けるんだ……」
彼は説得するみたいに語った。
やがて、彼の話は自分の立てた犯罪計画にずれ込んでいった。けど、それがわかったのは僕だけだった。相変わらず会話は抽象的で普遍的なことについて話しているかのように見えた。僕以外の誰もが真剣な表情で耳を貸した。彼は言った。「もしも自分の今の現状を変えたいなら、何か無茶に思われる一歩を踏まなくちゃならない。これまでの自分と同じように生きることは、遠まわしに自分の将来を容認することと同じだ」。僕らはすでに、自分の将来を覚悟していた。どう考えても、これ以上うまくいきそうにない自分の環境と、せいぜい結婚して子供を生むぐらいしか変化を持てそうにないことを。ケイスケは未来に落胆していた。自ら前進する椅子に縛り付けられてるみたいだと言った。木製の古びた運命の椅子が僕らを運んでいく。僕らは前方を見ながら憂鬱を膨らませていく。なにか無茶をしなくちゃ、無茶をしなくちゃ変わらないんだ……、彼は震える唇でそう言った。
「だからと言って、犯罪をして良いことにはならない」僕が言った。
「しても良いとは言ってない」
「そんな風に聞こえるけど」
「誤解だよ」
「無茶をすることと犯罪をイコールに考えるのは間違ってる」
「それじゃあ教えてくれ」
「なにを」
「ほかにどんな手段があるか」
僕は何も答えない代わりに手を宙に上げる。
「それを実行するから教えてくれよ」
「例えば……」
何も語らずに僕は上げた手を降ろす。
「金も、才能も、知識も、知識を蓄えるだけの時間もない。そんな俺が出来るなにかがあるんだったらーー教えてくれよ」
工場内のチャイムが鳴って、どこかで扉の開く音が聞こえる。次第に聞こえる足音が大きくなり、とうとう僕らのところまでたどり着くだろう。チャイムはあまりにも大きな音で鳴るから、僕らは話すことも出来ない。その間に、それぞれが飲んだコーヒーのカップを片付け、僕は奥にある小さなキッチンに向かい、マグカップの底に溜まったコーヒーの残りを洗い流した。チャイムはたっぷり三分も鳴ると、僕らの耳の奥に不快な響きを残して消えて行った。部屋ではみんなが立ち上がり、イスを片付けたり、上着を着たりしていた。すっかり遅くなったから、ケイスケも僕も着替えることを諦めていた。作業着の上から防寒具に袖を通した。
「簡単だよ」
廊下に繋がる扉に向かいながら、ケイスケが言った。背後で村田さんが忘れ物のチェックのために指を振っていた。
「簡単だよ、たった一言で良い。『俺に手伝わせてくれ』その一言で、お前は現状を変えられるんだ」
「いったい、なんの話をしているんだ……?」不安そうに村田さんが僕に耳打ちした。
下駄箱は暗くて、湿気った汗の臭いがした。すっかり暗くなった玄関口で、僕らはそこよりは少し明るい外の光を頼りに、自分の靴を探す。工場用の靴を下駄箱にしまうと、砂のザラザラした感触があった。ずっと開けっ放しの玄関の広い扉の向こうで、夜は明るかった。ほとんど何もかもが見えた。門まで続くうねるような道も、花壇も、見栄えのために置かれた岩の表面も。もう外には誰もいない気がした。遠くで、国道を走るトラックの地響きが聞こえなかったら、僕らは自分の吐く白い息すら信じられなかったかも知れない。建物の向こうで、警備員が一人で巡回していた。
みんなと別れると、僕とケイスケは二人で並んで、黙ってバス停までの道を歩いた。バス停に向かう道は暗くて、お互い話すことは何もなかった。その方が心地よかった。僕らは世界に二人しかいない気分だった。
「か、変えたいんだ、今いる自分の場所を、自分の世界を」
だから後ろからスグルがそう話しかけたとき、僕らはお互いに、相手が自分に向かって話かけたんだと思った。
「僕に手伝わせてくれ。か、変えたいんだ、自分の世界を」
僕らが振り返ると、スグルは怯えた目で、なにかにしがみつくみたいにそう言った。