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003




 夜が来た。外の喫煙所は寒い。僕は地震に怯える鶏みたいに首を振って震えながら、しょっちゅう両足のかかとを突き合わせなくちゃならなかった。風が吹くたびに、冷たさが服に手を入れてきた。喫煙所というのは名ばかりで、もうずっと洗ってない古びたバケツがひとつ置いてあるだけだった。中に張られた尖った氷は、ニコチンに茶色く染められていた。バケツは吸殻を一本ほうられるたびに、自分の身体が黄色かったことを忘れていくらしかった。いまでは凍ったニコチンの茶色とそれほど変わらない色をしている。薄く、かき氷にかけるキャラメルみたいな茶色。


 ここはとっくに真っ暗だ。工場の建物は暗闇の中だとあまりにも大きくて、誰か遠くを見ている人の背中みたいだった。もう人が帰り始めていた。多くの人が玄関の前で靴のかかとに指を入れていた。建物のところどころにはオレンジ色っぽい明かりが灯っていて、それが地面に四角く反射して、きれいに並んでいた。反射した光の中に人が入るたびに、暗闇の中で影だった人々が一瞬浮かびあがる。彼らは過去の記憶だ。僕がすれ違った名もない通行人だ。明かりの中で一瞬、色付けされるたびに彼らはそれぞれの独特な顔を見せた。汗ばんだ黒い顔、尖った鼻、消えない隈をつけた目、潰れた前髪、小銭を握りしめた油の染みた手。彼らは反射した明かりの外に出ると、色を失い、再び暗闇の凹凸に戻っていった。彼らの頭上に、すでに畳まれた企業の旗が垂れていた。遠くでエンジンをつけっぱなしにした、白みを失った軽トラックがあった。いつまでもウィンカーが暗闇に浮かんでいた。


 みんな、どこに帰るんだろうーー僕は思った。彼らがみんな、僕らと同じように生活しているというのが信じられなかった。


 それどころか僕は、工場の近所を流れている国道の向こうさえ想像できなかった。片側二車線のその国道には、いつも銀色のトラックが流れていて、僕らはそこを鉄の川と呼んだ。トラックは生きの良い魚だった。排気ガスは水だった。あまりにも多く流れるトラックと、空気中に膨らもうとする粉っぽい排気ガスに追い立てられて、僕らは国道を越えることが出来なかった。ときどき、足をくすぐる冒険心が湧いてこのあたりを散策するたびに、僕とケイスケはその道の前で呆然とさせられた。立ちすくむ僕らの前で、次々とやってくる輝く銀色のトラックは地面を震わせ、黄色い砂埃を巻き上げ、国道の向こうの景色を蜃気楼みたいにぼやかせた。列はいっこうに途切れなかった。僕らはただ見ているだけだった。狭苦しい更衣室に入るたびに、僕とケイスケはあの道の向こうを空想した。はじめ、僕らにとってあの道の向こうは空白だった。建物も地面も、砂も道路もない。ただどこまでも広がる白い地面。やがて僕らはそこに人を住ませ、戦争を起こさせた。最新の兵器やレーザーの飛びかう近未来の戦争。その戦争は少しずつ深刻化して、今では僕らの将来を決定する最も重要な要因となっていた。人は狭いところにいると、かえって空想を広げるのかも知れない。


 僕はときどき、ひどく驚かされた。自分が想像しているよりも、はるかに自分が歳を取っていたからだった。僕はいつの間にか20代も半ばまで来ていて、あっという間に30代になりそうだった。そんなはずはないのにーー僕はそう感じた。ここでは体感する時の速度よりも、実際に身に降りかかる速度の方がずっと多かった。それは工場での綿密に仕組まれた同じリズムのせいだと僕は思った。ここでは外の世界よりも速く時が進むんだ、僕はそう考えた。そういう想いを、みんなが集まったときなんかに口にしてみることがあった。すると、とっくに悟った先輩の従業員がこんな風に返してきた。


 「時間が速いんじゃない。自分であることを忘れるんだ」


 これは一種の信奉だった。この説の真偽も、出所も、科学的な根拠もなにもわからなかったけれど、この工場で働く誰もがこの説を信じていた。”僕らは速い時の中を生きているんじゃない、いつも自分であることを忘れて生きているんだ”。そのせいで僕らは、ときどき、朝目が覚めるときに、あまりにも歳を取った自分に気づいて、ドキドキしながら冷や汗をかかなくちゃならなかった。どれだけ窓の向こうの灰色の朝を眺めても、自分を忘れていた期間は戻ってきそうもなかった。あるときーーこの説に対して、ケイスケが僕にこう言ったのを僕は覚えている。


 「けど、この工場に、俺たちに自分であることを忘れさせるなにがあるんだろう?」






 「そこにはこう書いてあるんだよ」


 僕が休憩室に戻ると、脱ぎかけた作業着を肩にかけたままケイスケがそう言った。


 「警告、警告、決して許せないマナー違反に対して警告。いったい、誰がここにこんなものを詰めたのか。警告する。火曜日に捨てて良いのは、燃えるゴミと生ゴミだけ。ほかのものは一切、絶対に、どんなことがあろうと、捨ててはならない。これは警告。そのルールが守れない者は、ここにゴミを置いて行ってはならない。このゴミの持ち主はすぐに持ち帰るように、バカが。ーーバカがってところは、ほかのところよりも大きく書かれていて、ものすごく憎しみがこもってるんだ」


 「なんのはなし?」パイプイスを僕は引っ張り出す。


 「現代で最も難解で、かつ身近な問題の一つについて」


 「というと?」


 「ゴミ捨てに関するはなし」


 「燃えるゴミの日に置いた自分のゴミを、回収してくれなかったらしい」


 「代わりにその地区の管理者が痛烈な警告を貼っていったんだ」


 「捨てようとしたものは?」


 「たいしたものじゃないよ」


 「というと?」


 「漬物石」


 「無理ですよ」浩二が笑った。「それは持っていってくれないでしょう。なにしろ燃えませんから」


 浩二は帰りかけの姿勢でいる。もうずっとその姿勢でいる。僕がタバコを吸いに外に出ていく前からこの姿勢だった。彼はこの部屋で唯一、きちんと着替えを済ませ、髪も綺麗に水でとかし、文句一つない姿でそこに立っている。身体は出口を向き、誰か知らない人が見たら、彼が帰りかけに呼び止められたんだと思うだろう。実際は誰も呼び止めたりしなかったし、彼は帰りかけでもなかった。彼は帰らない。僕とケイスケはそのことを知っている。その姿勢のまま、浩二は何時間だって話し込むだろう。ケイスケにはそのことが気に入らないらしく、僕しか気づかないレベルで浩二を苛めている。


 「そんなことは馬鹿でもわかる」


 ケイスケはだらしなくイスに深く腰掛けている。


 「そんなことは、馬鹿でもわかるんだよ、バカ。それとも、わからないと思ったのか?」


 浩二が何か言い出そうと口を開くと、ケイスケはそれを遮って言った、身を起こしながら。


 「漬物石が燃えないってことはーー、そりゃあすぐわかる。誰にだってわかることだ。どんな人間にも、漬物石が燃えている姿を想像することは出来ない。猿にも出来ない。俺がいきなり燃えるゴミの日に漬物石を置いていったと思うのか?違う違うーーそうじゃない。それに、よく考えてみれば良い。漬物石というのは、いつの日に捨てるのが正しいんだろう?燃えないゴミの日か、資源ごみの日、それとも粗大ゴミ、どれだろう?お前の台所に貼ってあるゴミの日カレンダーを眺めてみれば良い。裏までじっくりとね。恐らく、どこにも書いちゃいないだろう。漬物石を捨てる日なんてのはね」


 部屋には僕らしかいない。後は大量生産されたプラスチックみたいな木のテーブルと、真ん中に穴の開いた白いイス、それからいつも取り合いになる緑色をしたパイプイスーー今日はみんなの気づかないところに一脚残っていたので幸運だったーーあとは、淀んだ空気だけ。僕のとなりには新人のスグルがいた。彼はかすかにまだ緊張していて、なにも話さない。僕の向かいに村田さんがいて、ヘルニア用のバンドを慎重に剥がしている。まるで地肌を剥がしていくみたいに、苦痛に満ちている。彼は背筋を伸ばす。息をつく。額に汗をかき、再び剥がし始める。


 「それは……どんなふうな、えー、見た目なんだね?」


 「そこなんですよ、村田さん」


 「重要に思われるねえ……」


 「よくあるでしょう、プラスチックで作られたような漬物石というものが」


 「把手がついていて、つるつるした表面の……」


 「ああいうんじゃないんですよ、ああいうんじゃ全然!」


 「ということはつまり……」


 「そう、まるっきり石ですよ!」


 窓の暗闇の向こうで、ずっと遠くで、小さな車が過ぎていくのが見えた。明かりが小さく建物と建物の間を過ぎていく。ケイスケは興奮して叫ぶと、宙に手を振って石を再現しようとした。彼は背筋を伸ばす。手を振る。テーブルの上にざらついた大きな石が現れ、僕らはそれを見た気分になる。彼は再び椅子に深くもたれる。


 「燃えないゴミの日に出すべきだった。もしくは、別の日に」


 必要以上に大きな声で浩二が言った。


 「馬鹿だなあ」一瞬、驚いてケイスケが言う。「お前は」


 「どうしてです?」


 「さっきも言っただろ。すでにそんなことはやってんだよ」


 「結果は?」


 「そんなことはもちろん試してるさ」


 「どうなったんです?」


 「あー、誰か」村田さんが立ち上がった。それから茶色く粘ついた眼でみんなを眺める。彼の眼はいつも古い黄金の蜜みたいな色をしていて、その眼で情けなく人の機嫌をうかがってばかりいた。僕らは彼の視線に判を押されていく。ゆっくりとした立ち上がりだった。時計の秒針が一周するよりも遅い、月の移動のような緩やかな変化。


 「あー、誰か……。コーヒーを飲みたい人はいるかね……」


 誰も返事をしなかった。スグルがわずかにお辞儀したのを僕は感じた。


 「あー……、自分で入れるか……。来週、腰の手術なんだがな……」


 奥の狭いキッチンに姿を消しながら、彼は振り返ってそう付け足した。


 スグルは、僕の隣に座って、かすかに微笑みながらみんなの話を聞いている。そうするのが新人の義務だと思い込んでいるみたいだった。彼が新人研修をうけている姿を何度か見たことがある。中年太りした毛の薄い上司に怒鳴られている姿を見たこともある。彼は今と変わらない微かな笑みを浮かべて、上司の説教を聞いていた。その姿はまるで、自分とは関係の無い出来事に関する上司の小言を、優しさで聞いてあげているみたいだった。ほとんど話さない人間だった。怒ることがあるようにも見えなかった。白い肌と、少年みたいな顔をしたおとなしい人間だった。


 「どうなったんです?」まだ浩二が聞いている。辛抱強く笑顔を保っている。


 「そんなことはとっくにーー」


 「どうなったんだよ?」僕はみかねて、笑ってそう言った。


 「驚くなよ」嬉しそうにケイスケは僕の方に向かって身を屈めた。


 「どうだろう」


 「それがな」


 「うん」


 「誰も気づかなかったんだ!」


 ケイスケはテーブルを叩いて叫んだ。


 「誰もだよ!俺が置いていった漬物石は、俺に置かれたその日からずっと、誰にも気付かれずにそこに置いておかれたんだ!いつからいつまでだと思う?一週間だよ!おかげで、俺の漬物石はすっかり苔が生えちまった。何度、回収車がやってきたと思う。それから何人がそこを過ぎたと思う。誰も気づかなかったんだ、誰も!漬物石はそこに、”そのへんに落ちてる石”だと思われたまま、一週間もそこでじっとしてたんだ!」


 窓には半分ブラインドが降りている。埃をたっぷり背負った、元は白のブラインドが。ケイスケは喉の奥から狂ったような笑い声を立てた。何度もテーブルを叩き、それから何かを叫ぼうとして窓を開いた。すると外の冷気が一瞬顔に吹きかかり、彼に昔行った海の街を思い出させる。我に返った彼は、腹をさすりながら、笑えるよ……と呟いた。笑えるよ、ホントに……。出てもいない涙を彼は拭いた。


 「それ、面白いですね」


 採点するみたいに浩二がそう言ったから、僕らは笑うのをやめた。


 「気に入りましたよ」


 ここではどうしてなにもかもが灰色なんだろう、と僕は思う。ブラインドも、僕らの着ている服も、人々の眼も、将来も、なにもかもが。僕は窓の外で離れた棟の一室に明かりが灯るのを見つめ、それから誰かが廊下を足音で満たすのを聞いた。何かが転がる音がとなりの部屋で響いた。時計はかかっていたけれど、時間が合っている保証はなかった。


 「なあ」


 奥から出てきた村田さんが情けなく尋ねた。


 「なあ付け方はわかったんだ。止め方がわからないんだよ。今気づいたんだ、沸騰したらどうするんだって……」


 「なにがです?」


 「コンロだよ、コンロ、火の付け方はわかったんだ、ホントだよ……」


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