02
Cou Le Nae 2
僕は工場にいる。
ラッパ音、サイレンに似た音、それから誰かが作ったそれらしいメロディが流れている。始めのうち、この恐ろしい大音量に僕は心臓が放り出されたような気分がしたけど、今では鳴っていることをほとんど意識さえしなかった。あちこちで人の足音が聴こえる。
工場の廊下は薄暗かった。それから寒かった。ひんやりと冷気が、煙るみたいに染み渡っていた。電気はほとんどどこにもついていない。突き当たりの磨りガラスの向こうで、わずかに冬の日差しが見えているだけで。僕らは明かりを求めちゃいけなかった。ここでは節約が正しくて、明かりは敵だった。事務室にも、トイレにも、廊下にも明かりはない。夜でさえ普通よりも暗く調節された明かりが灯るだけだった。急に音楽が止み、誰かの名前を呼ぶ声がスピーカーから聴こえた。僕の知らない人だ。ここは知らない人だらけだ。しばらくすると、また音楽が鳴り始めた。
「考えてきたか」
すでにトイレの中にいて、用を足しながら黄色い帯を眼で追いかけていたケイスケが言った。
「なにを」と僕。
「なにを、なにを――か」
「僕は知らない。なにも知らない」
「そうやってわからないフリをすればいいさ」
「フリじゃない。わからないんだ、事実として」
「事実として、か」
彼は僕の言葉を信じずに、眉を上げる。
「事実をねつ造したいってわけだ」
「お前が捕まったときにも、俺は警察に同じことを答えるよ。なにも知りませんよ僕は、本当です、なにも知らないんですよ――」
「事実として、ね」
ふざけたような言い方で彼は言う。
「じゃあ俺の計画には乗らないって言うんだな。大金を手に入れた後で後悔するなよ」
それから彼は、作り上げた犯罪の計画について話し始める。よどみなく彼は語る。言葉につまったり、なにかが思い出せなくて考え込んだりしない。すっかり細部まで作り込まれた計画を、始めから終わりまで話してしまう。彼はいつでも犯罪の計画を立てていた。僕はいつでも彼の話を聞いた。彼は主婦が宝くじが当たった後を空想するみたいに、自分の犯罪計画について語り、語るだけで満足感を得た。計画は決して実行しない。ラインの内側で、向こう側を空想するお遊びだ。僕はトイレの壁を見ていた。彼もまたやはり見ていた。これは二人で共有する儀式的なお遊戯だ。彼は計画を話し、僕らは排尿する。煙を立てる。
「それでいいのか」計画を話し終わると、彼が言った。
「それでっていうのは?」
「そのままで良いのかっていう意味だ」
「そのままでっていうのは?」
「人生がこのまま惰性で進んで行くのを、ただ見守るのかっていう意味だ」
「ほかにどうしようもないじゃないか」
「ジャンプするんだよ、遠いどこか、別のところへ」
すっかり尿を出し終えた彼は、僕には見えない位置で性器をぶんぶん振り回すと、ぴちゃぴちゃ音を立てた。ジッパーをあげる音が聞こえ、彼の臓器からわき上がるうめき声がする。銀色の丸いボタンを彼が押すと、遠く海の向こうから水がやってきて、彼の黄色い形跡を流して行く。僕らは身震いする。トイレの水が流れるこの音を聞くと、僕らは足下に地獄が広がっていることを考えなくちゃならなくなった。地獄にもこんな滑らかな陶器があって、みんなが用を足しているんだろうか。
「ジャンプしなかったらーー」
彼は言った。その日の彼はいつもと違った。ただの空想を話しているのとは違う、なにか、決断した跡のようなものが見えた。唇が震えていたのは寒さのせいだけではなかったのかも知れない。
「ジャンプしなかったらーー永久にそのままだ」
彼はいろんことに不満があるみたいだった。今の生活に対して、それからここの工場での勤務について。彼が信じる自分の位置はどこか素晴らしい上流階級だった。現実はここだった。勤務中にときどきズルをしてトイレに行くのさえ喜びに感じる、狭苦しい規律の中だった。彼がどうして、自分をそんなに過大評価しているのかはわからなかった。いつも隣にいる僕がその感覚を考えるには、彼にはどうやら強い確信があるみたいだった。事実や客観的な条件なんかじゃない。ただ確信がある。彼が信じていたのはそれだけだった。身体の中に指を入れて、手探りで真実に触れたみたいに、彼は自分の抱くその確信を強く信じていた。確かに俺はここにいる、何か高い目標があるわけでもない、なにかに恵まれているわけでもない、これまでの人生で誰かを遠く引き離すような素晴らしい結果を残したことがあるわけでもない。けれど俺は確信している。俺はこんなところにいるべき人間じゃない。――彼はそう思っているらしかった。
彼は順応力とでもいうべき、僕の楽観性についてもいらだっていた。僕がここでの生活にすっかり慣れて、とっくに自分を変革させることを諦めていたからだった。彼が言うには、僕もこんなところにいるべき人間じゃないらしかった。こんなところにいるべきじゃない人間が、じたばたもがきもせずに、奴隷のような今の生活に甘んじていることが彼には許せないらしかった。彼の中には不思議な階級意識があった。それを決定づける条件は彼にしかわからない。例えば、部署のまとめ役に僕が怒られたりなんかすると、彼にはそれがひどく気に食わないらしかった。なんだってあんな毛の薄いランクの低いやつに――彼はこんなふうに、人を“低い”か“高い”で語るのだった――いいようにされて平気でいられるんだ。彼は僕に向かってそう言った。「アイツが同級生だったら、きっと俺たちには頭が上がらなかったはずだ」これが彼の口癖だった。僕には彼の持つ確信や、人々を社会とは別の仕組みで再編成する能力が備わっていなかったから、ただその言葉の余波を感じるだけだった。そういう感じ方もあるのかも知れないな、僕はそう思うだけだった。
そういう彼の思考とは無関係に、彼の身体はどうしようもなく工場に順応していった。工場の自虐的な節制と、一秒まで定められたスケジュールと、ランダムに演奏する工場のプレス音に。
「おい――頼む、そんな風に水をたくさん出さないでくれ!」
手を洗う僕に向かって彼は言った。すでに手を洗い終えて、わずかに開いた窓から外の空気を嗅いでいる。彼は自分でも気づかないうちに、必要以上という贅沢が許せなくなっていた。あちこちに張られた工場の張り紙のせいだった。
「出してないよ」
「出し過ぎなくらいだ!」
「手を洗えないよ」僕は笑う。
「少しでいいんだよ、少しで!頼むから――少しに!」彼は言った。「水が大量に出ているのを見ると、ハラハラするんだ!」
トイレからの帰り道、僕らは自分たちの部署に回り道をして帰って行く。一番近い道を選んだりしない。足がすっかり覚えてしまったから、僕らはどちらも無言で、なんのサインもなく並んで道を選択する。小さく泡立った緑色のボードを過ぎ、正門に射し込む陽の光を磨りガラス越しに見つめ、来客用の高い渡り廊下から、すでに部署に戻り働き始めている灰色の彼らを見渡した。彼らは似たように不機嫌で、眠たそうに疲れていた。ひげを毎日剃るのは諦めていた。これが僕らだ。巨大な画面みたいなガラスの前で、僕らはいつも立ち尽くした。
「本当に乗らないんだな……俺の計画に?」
彼は言った。
「乗らない……」僕は一瞬、躊躇した。彼の言葉があまりに真剣だったからだ。「今よりも自分を下げたくないんだ」
「浩二の――浩二の話しは聞いた?」
「いや」
「昇進したよ」
「まさか!」
「本当だよ、信じられないけど本当だ」
ケイスケはずいぶんそのことについて考えてきたみたいだった。僕に話すまえに、さんざん悔しい想いをしてきたみたいだった。僕はテレビを見ながら、映像が頭に入らないケイスケを想像した。狭い部屋と、いつも誰か来客が来そうな雰囲気にびくびくしているケイスケを。
「たった二年でだ」彼は言った。「俺はもう三年だ。なにか特別悪いことをしているわけじゃない。あいつが特別優れているわけじゃない。それどころかわざとらしい愛想がうまいだけで――。クソッ、俺たちは未だにセミ・スタンダードだっていうのに――」
「待ってくれ!」僕は慌てて言う。
「なんだよ?」
彼は顔をしかめて聞いた。
「なあ……」僕は一瞬、言おうか躊躇した。
彼はわからずに僕の言葉を待っている。
迷ったけれど、僕は言うことにする。
「なあ……僕はセミ・スタンダードじゃない。スタンダードだ」
「おい――」彼は笑いかけた。
「待ってくれ!」僕は急いで言う。「くだらないさ、くだらないよ、確かに。けど――」
「スタンダードもセミ・スタンダードも同じじゃないか。給料も、やっている仕事も、扱いも。こんなもの、会社が俺たちを少しでもおだてて、奴隷意識をごまかそうとしているだけの建前じゃないか」彼は笑いながら言った。
「知ってるさ、そんなことはもちろん――」
「勘弁してくれよ……」
彼はおかしそうにそう言う。
「そうだとしても」僕は少し苛立って言う。「そうだとしても、せめてスタンダードになってから言ってくれ」
彼は笑うのをやめて、しばらく僕を眺めた。僕も彼を見ている。
僕は苛立っていた。けれど、彼は怒っているようには見えなかった。彼は悲しそうに見えた。もしかしたら、あれは憐れみだったのかも知れない。まるで遠い夜に浮かぶ火事を見つめているような、そんな顔だった。僕を哀れんでいるとはは思いたくなかった。せめて苛立って欲しかった。彼の瞳は、左右に揺れていた。
「確かにくだらないけど」僕は言った。「ここじゃ数少ない楽しみの一つなんだ。お前の言うように、僕らは知っている。この階級が、工場が用意した子供騙しのエサだってことも、実質上なんの意味もないことも。けど、実際に、僕らはそれを楽しみにしているんだ。プライドを慰めてくれて、惨めさを忘れさせてくれる数少ない――」
「お前がもし本当に、そんな風に自分の境遇がみじめだと思っているなら――」
彼は僕の言葉を遮ってそう言った。それから浩二に対する長い悪口を。彼は僕らを出し抜いて昇進していった浩二が気に食わないらしかった。たしかに、浩二には僕らをいらつかせるなにかがあった。それは突き詰めて言うなら、わざとらしさだったのだと思う。浩二はなにをするにもわざとらしかった。彼が上司におべっかを使うのも、一生懸命働くのも、疲れた表情を浮かべるのも、全部がわざとらしく見えた。けれど、そう思っているのは僕とケイスケだけらしかった。あらゆるここの従業員は、彼のそうしたわざとらしい行為を、額面通りに受け取るのだった。彼は真面目で正しい人間だよ、人がそう言うと僕らは黙るしかなかった。
「――ジャンプするんだよ、遠くに、今いるここではないどこか遠くに」
彼はそう言ったんだった。僕に決断を迫るように、わずかに怯えた調子で。