01
Cou Le Nae
彼女はそこにいた。ほかにどこにいるというんだろう。僕には想像もつかない。
時間はもう過ぎていた。もう始まっているはずだった。立ち尽くす人々の前に、彼女はいるはずだった。白い肌と、くすぐったい長い髪の毛と、赤ん坊の指みたいな肩と、それから生きることに対する上目づかない嘲笑と、からかうような小さな鼻と、あざけりと、ゆるやかな時を持って。雨が降りそうだった。西からやってきた、都会を腐らせる古びたスモッグだった。夜はアルコールの湿気を含み、明かりの助けを借りて狂騒的に波打っていた。ここは静かだ。まだ誰もいない。もう少ししたら、彼女を見終えた人々がここに溢れるだろう。それまではひんやりと静かだ。
クラブの中に入ると、停滞したざわめきを感じた。暗さはいつも通りだった。ごつごつした機械じみた天井から降りてくる暗闇は不潔で生温かったし、集まった人々が互いに必要とする、わずかな肩と肩の隙間は敏感な苛立ちを含んでいた。足下にすでに吸い殻が散らばっている。暗闇は雪だった。ゆっくりと、誰にも気づかれないように――その点で雪と違ったけれど――人々の肩や、襟の隙間や、スニーカーの編み目や、僕の爪の上へと、積もって行った。静かで確かな移り変わり。僕らは気づかないほどゆっくりと色あせて行く被写体みたいだった。雪の中、遠ざかる船を見送りに来た村人みたいだった。けれど、何かが違った。いつもと少しだけ。少し壁紙がはがれかけている壁も、人々の手あかでペンキの欠けたポールも、足跡だらけのスピーカも同じだったけど、何かが。それはここにいる人々の意識だった。柔らかくもろい、感情の部分だった。彼らはそわそわとなにかを伺っていた。なにをだろう。この人ごみの向こうには、彼らをつま先立ちさせ、ふらふらと肩越しに首を振らせる何かがあった。ほとんどすべての人は黙っていたけれど、人が集まると必ずそうなるように、どこかで数人のグループが囁いていた。彼らは自分たちのささやきがほかの黙っている人々の耳に入ることをどこかで期待していた。囁きは大きくなり、くすぐったような笑い声とともに注意があり、それから再び小さくなった。僕は人と人の隙間を無理に抜けて行く。ダウンを着たままの男の脇腹を抜けると、服の擦れる素早い音が聞こえた。それからグラスが合わさる音。人ごみは密接に関係し、それぞれがつながりあっていた。僕が起こした波紋は遠くに波及し、フロアの隅にいる暗闇に舌打ちを引き起こした。彼らは影だった。僕は異邦人だった。彼らは正面の光を背景に、ぼんやりと揺れる、意思を持たない黒い煙だった。なにも始まらないこの景色と反対に、光はいくつもあった。白い光も、赤い光も、ときどきは紫や緑の光も。だからと言って僕は少しも満たされなかった。ただ光は、そのときどきで、僕らの気持ちと無関係に大きく跳ねたり、集まったり、散らばったりした。光はそれだけで一つの情景のようだった。遠い牧草地で行われる、静かな感情の繊細なやり取りのようだった。僕は少しずつ人の間を抜けて行く。足と足の隙間を飛び越えて行く。
彼女はステージにいるみたいだった。姿は見えない。近づくに連れて声が少しずつ大きく聴こえた。まだ幼さの残る詰まったような甘い声だった。
「……それじゃあ、広島から……?」
声は僕にまで届ききらなかった。僕と彼女の間にある暗い床に落ちてしまった。それらを拾い集めるみたいにして、僕はもっと前進しなくちゃならなかった。
「……広島の……から……?」
「……じゃない……に……それで、東京に……」
「……は?……に行ったっきり…………たしか……」
「……知ってる、そう、あいつはあれっきり……」
「……そう……あのときは……」
「…………も無理は…………わけじゃ…………」
「……ええ…………かも…………」
彼女の声が聴けて僕は嬉しかった。子供の頃に好きだった缶詰の特別なクッキーを思い出した。今は名前も思い出せない、海外の言葉で書かれたうす茶色い缶詰。彼女はもうすぐそばだった。もうすぐ彼女の甘い鼻にかかった声を、ひとつ残らず聴くことが出来る。僕は速まる鼓動とは反対に、人を越える速度をゆるめ、フロアの先頭に辿り着こうとしていた。人々の垣根の向こうに、彼女がいて何かを喋っている。彼女の声だけが聴こえる。姿は見えないけど、声だけが。
「……知ってる、そう、あいつはあれっきり……」
二人は声を立てて笑った。
「知ってる?」
これは彼女の声。
越えられない最後の一群があって、僕は彼らを迂回しなくちゃならなかった。僕は人々が作る、波のように歪んでいる背中の壁に沿って、急いでフロアを横切っていく。人々の頭の影が途切れるところで、何度も彼女を振り返った。その度に、彼女の溢れる髪や、白い指や、爪や、微笑みが見えた。僕は爪先立ちになり、ゾンビみたいに左右に揺れる。それから名残り惜しそうにその場を去り、また急いで歩き始める。振り返るたびに、彼女の姿は少しだけ遠のいた。
「――嘘でしょ?」
僕が人ごみをかき分けて最後の一群を越えたとき、彼女はそう言った。それから笑った。彼女は暖かなオレンジ色の膨張した光の中にいた。ステージのポールに腰掛け、見上げる一人の男と話しをしていた。いつもと同じ彼女だった。気怠そうで、長くたっぷりとした髪のあいだで、眠気と戯れているみたいな、いつもの彼女だった。
「ホントにそう、子供の頃は――」
彼女の声。なんの障害もなく僕に届く、完璧な彼女の声だ。
「そう、あめ玉で泣き出しちまうような――」
「キャンディ・ローズ!」
彼らは笑った。
「よく覚えてるな」嬉しそうに男が言う。
「なにしてるのかしら」
「二年前に会ったときは、なにか販売を――」
「販売?」彼女は垂れた髪を後ろへやる。「怪しい」
「怪しくない」
「なんの?」
「たしか、そのときは――コピー機って言ってたかな」
「今は?」
「今も販売。ただし怪しい」
彼女は笑う。「何を売ってるの?」
「怪しい水」
二人は笑った。そして静かに微笑み合った。彼女は手を差し出すと男と親しみのこもった握手をした。
立ち上がった彼女は光の中で、輪郭を淡く瞬かせ、光の中に消えていこうとしているみたいだった。彼女は眠たそうに微笑んだまま、しばらく男を眺めていた。ここに集まった僕らは身じろぎも出来なかった。彼女は立ち上がっただけだった。長くたっぷりとした髪を、ただ少し溢れるように揺らせただけだった。髪の毛の一本一本や、胸のあたりにある小さな骨のくぼみや、ドレスの腰の曲線に沿って光をちらつかせただけだった。それだけだった。それだけで僕らは動けなくなった。
彼女は腰の辺りで小さく手を振る。
それから、ようやく――ステージの中央に向かって歩き始める。僕らがここで待ち続けていることは、彼女の心配の種にはならない。多くの熱っぽい視線も急かしも、彼女には気にならない。僕らだったらつい考えてしまう、嫌われるという恐れも、彼女は抱かない。ゆったりとした、酔ったような歩き方をする。足音が鳴る。しとしとと濡れる、湿っぽい足音。彼女がかかとを床につき、つまさきを離すたびに僕は柔らかな彼女の性器について考えた。つるつるとした、陶器のように美しい滑らかな性器を。肉付きの良い女ではなかった。胸や尻に男を魅了するような脂肪がついているわけでなかった。ただ、向こうが透けるほど薄く白い耳と、そこから胸元まで続く乱れのない一本の美しい線があった。皺の一つもない長い首筋と、ひんやりと冷たい広い胸元があった。僕らはみな彼女を見ていた。彼女は誰もみていなかった。僕らを誰一人も。彼女にとっては僕らはみな同じで、僕らにとって彼女は、たった一人だけの存在だった。
その日、彼女は長いむかし話をした。それは夢の出来事のような不思議な話だった。彼女は子供のころの生意気な彼女について話し、意地悪だった友人について、それから街にあるいくつもの坂について話した。彼女は思い出すために話しているみたいだった。僕らは必要だったのかさえわからない。やがて話しが終わると、彼女は話しにオチをつけるみたいに、たった一曲だけ歌った。その日、彼女が歌ったのはその一曲だけだった。
これが彼女だ。Cou Le Naeだ。