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うつせみ血風録  作者: 三畳紀
序ノ段
8/21

第8回、たゆたう ちのみご

 紫水小路に迷い込んだ人間およびそこの住民であるウツセミ相手に商売をしている飲食店が立ち並ぶ区画『花街』にある酒場『林檎の樹』の店内で黒服の男やキャストたちが開店準備を進めていた。


「族長の屋敷で開かれる会合に行くから今日は店には戻ってこない、俺がいないからってサボるんじゃないぞ」


「分かってますよぉ、いってらっしゃーい忠将ただまささん♪」


 自分が不在でもしっかり仕事をするように従業員のウツセミたちに釘を刺して、この店だけでなく花街全体を統括するマネージャーの忠将は代永の族長源司の屋敷で開催される会合に参加するため店を出発する。売れっ子キャストの緋奈がいつも以上に弾んだ声で送り出されながら、忠将は出口のドアノブに手をかけた。


「ただまさ~」


 ぱたぱたという足音が聞こえてくると、店の裏に続いているカウンターの奥から小さな陰が飛び出してくる。フロアに駆け込んできたその陰は入り口の扉の前にいる忠将に向かって突進してくると、彼の皺1つないスラックスを履いた脚に飛びついてきた。


「ただまさお出かけするの、だったらわたしも一緒に連れてって!」


「残念だけど遊びに行くんじゃなくて源司の所に難しい話をしに行くんだ。ついてきても面白くないからウチで留守番しろ蘇芳すおう


「やだ~わたしもたまには外に行きたい。ずっと家の中にいるのは飽きた!」


 忠将は自分の脚にしがみついている幼女を店の上にある自室に戻そうとするが、幼女は彼の足をしっかりと掴んで離れそうとしない。


「蘇芳ちゃんも一緒につれていけばいいじゃないですか。子どもを部屋の中に閉じ込めておくのはよくないですよ~」


「うん、よくないよ!」


 蘇芳と呼んだ幼女の扱いに忠将が困惑している姿を楽しげに見つめながら、緋奈は忠将に蘇芳を外出させるべきだと訴える。緋奈の言葉に続いて蘇芳も自分を外に出すように主張した。


「子どもは外で遊ばせるべきだと俺も思うさ、でも他にこいつと同じくらいの子どもがいないんだから仕方ないだろう?」


「理屈は分かりますけどぉ、ぶっちゃけ蘇芳ちゃんに店の中うろちょろされると仕事しづらいんですよねぇ。売り上げが伸びなくて周りのお偉方から文句を言われるのは忠将さんじゃないんですかぁ?」


「ベビーシッターを捜している暇もないし、面倒を看させるほどキャストや黒服にも余裕がある訳でもないし、かといって一度だだをこね始めたらなかなか大人しく引き下がる蘇芳でもないし…結局俺が連れて行くしかないみたいだな」


 人間よりも長い寿命を持ち、転化した年齢からほとんど加齢しないウツセミが住民の大半を占める紫水小路には見た目が成人に達していないものはそう多くはない。更に成人の姿をしていないウツセミでもまことや富士見氏族の悠久はるひさのように中高生くらいにはなっているので、思春期も迎えていない幼児は紫水小路全体を見ても蘇芳しかいなかった。


 同じくらいの年齢の遊び相手がいない蘇芳はもっぱら『林檎の樹』の2階にある自室で独り遊びをして過ごしていたが、時折暇を持て余しては店のフロアに降りてきて店員たちを困らせている。蘇芳がフロアに出てくると忠将が彼女を宥めて部屋に戻らせていたが、彼が不在となると彼女をうまく手懐けられるものは他にいなかった。


 店の売り上げを落ち込ませないためには蘇芳をフロアに出させる訳にはいかず、かといって不在の自分に代わり面倒を看させる相手を捜している暇もないので忠将は渋々彼女を同行させることにした。


「そうですよ。ヒトをあてにしてばかりいないでちゃんと娘の世話をしてくださいね、お父さん♪」


「…ちゃかすな、俺はこいつの親の代わりに面倒を看ているだけだ」


「それって親以外の何者でもないですよ。それじゃ蘇芳ちゃんもいってらっしゃーい」


「いってきまーす」


 緋奈に冷やかされて忠将は苦笑を浮かべるが、緋奈の見送りに蘇芳は無垢な笑みを浮かべて手を振って応えた。


「いいか蘇芳、源司の家に着いたら大人しくしているんだぞ?」


「わかった、わたしいい子にしているよ」


「よしよしお前は賢い子だな、それじゃ行こうか」


「うん!」


 忠将は扉を開いて蘇芳を先に外に出させると、続いて自分も店の外に出て行った。


「ね~緋奈、前から気になってるんだけどなんであの子の世話をマネージャーがしているの? いくら力があってもマネージャーだってウツセミなんだから、子どもが作れるはずないわよね?」


「ん~詳しいことはあたしも知らないけれど、忠将さんにも色々あるみたいよ」


「わたしがこの店に来てからも大きくなっているんだから、蘇芳ちゃんはウツセミじゃなくて普通の人間よね。どうして人間の子をマネージャーが預かっているのかしら? まさかマネージャーってロリコン?」


「そーそーあたしも前からそう思ってたんだ。マネージャーは顔もいいし、仕事も出来て気遣いもできるんだからオンナの1人や2人簡単に落とせそうなのに、全然愛人を作ろうとしないんだもん。精気はいつも酒蔵からチンタを取り寄せて摂っているみたいだし、どうしてあの人が人間の愛人を持たないのか不思議だったんだ」


「え~もしロリコンがホントのことだったら、あたしマネージャーに幻滅~」


「さ、お喋りはこのくらいにして店開けるわよ。みんな今日も気合入れていこー!」


 緋奈の同僚たちは店のマネージャーを勤める忠将が精気を提供してくれる愛人を何人もはべらしていてもおかしくないのに、全く女人の気配がないことを訝しげに思って噂話に花を咲かす。しかし緋奈は手を叩いて音を鳴らし、同僚たちの歓談に水を差すと開店させることを宣言した。


「緋奈どうしたの、今日は珍しく気合入ってんじゃん?」


「別にぃ、欲しいものがあるからそのために稼がなきゃいけないのよ。だからお客さんの指名をバンバン取らなきゃ!」


「これ以上緋奈に指名入れられたらあたしたちの仕事がなくなっちゃうよぉ」


 稼ぎ頭の緋奈にこれ以上客が集中してしまうと自分たちの給料が右肩下がりになってしまうので、キャストの女性たちは気を引き締めて仕事に向かうことにした。


しばらくすると本日最初の客が店内に入ってくる。店の人ならざる遊女たちは、男心を鷲掴みにする魔性の笑みで自分たちに金と血を与えてくれる客を出迎えた。


* * *


 紫水小路の支配に双璧をなす代永氏族の族長源司の屋敷の一室。最近頻繁に開かれる会合の会場に使われている屋敷の一室には、紫水小路の有力者と共に2人の若い娘が同席していた。有力者たちと同じくウツセミの姉丹とその妹で人間の葵の姉妹だ。


「ウツセミに続いて今度は教会の刺客か…このところ余所者が御門に流れ込んできては、騒ぎを起こすばかりだな」


 代永と富士見の両氏族のウツセミで組織が構成される、生き血の代わりになるウツセミたちの嗜好品チンタの醸造を行っている『酒蔵』の長で森永屋という屋号を持つうしおが直近の出来事を憂慮して唸り声をあげる。優男の多いウツセミの男性にしては珍しく、潮は口髭を生やした厳つい顔をした親方の風格を漂わせる恰幅のいい男だった。


「もしかしたらそのハライソという組織と一戦交えることになるかもしれない、みんなも配下のものたちにも注意を呼びかけておいてくれ」


「おうさ。だが万が一のことがあってもウチの男たちが教会の連中を追い払ってやるぜ!」


「あんたんトコの若い衆はどいつもこいつも血気盛んだからね、普段街で暴れている分、荒事が起こった時にはしっかり働いてもらわないと」


 源司が各組織の代表たちに教会からの迫害の可能性があることを部下たちに伝達するように呼びかけると、潮は丸太のような腕を掲げて威勢のいい返事をした。その荒っぽい気質から商売の妨げになることがある酒蔵のウツセミたちであったが、勇猛果敢で場慣れした連中が揃っており、商取引を管轄する『置屋』の女主人茜は片えくぼを浮かべつつそれを頼もしく思う。


「他人事ではないぞ茜、次世代を担う若者の盾になることもわしらの務めじゃ」


「ウチら代永のモンと森永屋の親方は心配ないですけどね、富士見の連中は少々あてにならないかもしれませんね」


 紫水小路でウツセミたちが生活する上で必要な庶務を担当する部署『政所』の長で、代永の先代族長だった朱美が茜にひとの上に立つものの心構えを説くと、茜はテーブルの向かいに座っている富士見氏族の代表者たちに不審な目を向けた。


「私たち富士見氏族は野蛮な代永とは違って繊細な感性の持っているの。そんなに人間と喧嘩をしたければ勝手にすればいいわ」


茜の嫌味に対して富士見氏族の族長を務める艶やかな髪をした幽玄とした風情の美女千歳は僅かにその秀麗な眉を不快そうにひそめる。


「そうだねぇ、私も自分の創作に使う道具よりも重いものを二百年くらい持ってないなぁ」


「そっちのお嬢様はともかく染物屋、あんたは無駄に長生きしてるんだからやろうと思えば人間の10人や20人簡単に蹴散らせるだろう?」


「どうかなぁ? 百年くらい前なら自信をもって頷けるけど、歳をとったからいきなり無理をしたら体が悲鳴をあげそうだ」


「まったく富士見のウツセミは本当に自分勝手な連中だよ」


 富士見氏族のウツセミの中では最年長で染色家を生業としているわたるは、年少の茜の非難をのらりくらりと掴みどころのない態度でかわす。一族全体に影響する危機が迫っているかもしれないのに、それに対して無関心な協調性の乏しい富士見氏族に茜は呆れた。


「ウワバミと和議を交わして以降、数百年ぶりに人間と衝突するかもしれない状況になっている。この危機を乗り越えるためにウツセミ全体で一致団結しておく必要があることを肝に銘じておいてほしい。それじゃみんな忙しい中集まってくれてありがとう、お疲れ様」


 源司は今一度仲間同士の結束を固めておく必然性を出席者たちに呼びかけると、会合を閉会させた。会議が終わると組織を統括する多忙な身である有力者たちは、残してきた仕事を片付けるために早々に立ち去っていった。


「葵、どうしたの?」


「みんな真面目な顔で難しい話をしているんだもん、なんか疲れた……」


 丹はテーブルの上に突っ伏している妹に声をかけると、葵は疲れた声で自分の何倍も生きているものたちが繰り広げた議論の流れについていけず、翻弄されるばかりだったと感想を呟いた。


「葵も大変だったね。いきなりウツセミの偉いひとたちの会議に呼ばれて、ハライソについて知っていることをみんなに話さなきゃならなかったんだから」


「あれこれ質問攻めにさせてもうヘトヘトよ…アタシだってハライソのことを詳しい訳じゃないんだから、知りもしないことを訊くのはいい加減にしてほしかったわ……」


 ハライソの組織の概要を説明し終えると、葵は源司と茜を中心に根掘り葉掘り詮索された。1日ほどハライソの構成員である安倍真理亜の邸宅に軟禁されていただけの葵がハライソの実態について明るいはずがなかったが、一族の存亡に関わる事なので源司たちは些細な手懸かりでも掴もうと躍起になっていた。


 特に口調も厳しい茜の質問攻めから解放された葵は、すっかり精魂使い果たした様子でぐったりとテーブルの上に身を投げ出している。


「私も疲れたわ。人間の世界とは別の空間にある紫水小路に教会の殺し屋が攻めてこられるはずないのに、よくそんな無駄な議論を延々と続けられる神経が理解できないわ」


「ち、千歳さん……」


 丹は妹に労わりの眼差しを向けていると、千歳も自分と同じように葵のことを見つめていることに気付く。しかし千歳の目は慣れないことを経験した葵に対する気遣いは浮かんでおらず、獲物を狙う狩人のものであることを丹は察した。


「丹さんの妹の葵さんだったかしら? 疲れているのなら私の所で休んでいかない、心を尽くしておもてなしさせてもらうわよ?」


「だ、駄目ですよ千歳さん、葵はわたしの大切な家族なんですからこの子には手を出さないで下さい!」


「あら、ここはウワバミに人間を狩ることを認められた場所よ。気に入った人間を捕まえて何が悪いの?」


「あんたには可愛い召人めしうどがいるだろう、精気の供給に困っていないんなら自重したほうがいいんじゃないか?」


 丹は千歳の毒牙に妹をかけさせないように試みるが、千歳の硝子球のような目をした氷のような美貌を見ていると、次第に彼女の凄みに圧倒され始めてしまう。力ずくで葵を攫っていこうとする千歳の横暴に丹が屈しかけた時、彼女たちのやりとりに横から口を挟んでくるものが現れた。


「可愛いと思うものを積極的に捕らえようとする姿勢はウツセミとしては歓迎することじゃないかしら、女日照りの花街の支配人さん?」


「それでも理性的な存在である俺たちには一定の慎みを持つことが美徳だろう、特に優雅さを売りにしている富士見氏族の族長を務めるあんたにはな。丹、妹を部屋に連れて行って休ませてやれ」


「は、はい…起きて葵、行くよ」


 外見だけでなく実際の年齢も忠将の方が千歳よりも遥かに上だったが、別の氏族のものとはいえ族長の自分に口答えしてきた彼に千歳は不愉快そうな目を向ける。


 忠将は千歳の棘のある言葉を聞き流し、風流さゆえに争いの場に出る必要がないと訴えた彼女の言葉を貸りてさらりと切り替えした。千歳が忠将に反論できずに口を噤んでいるうちに、彼は丹に葵を別室に移動させるように指示を出す。


 丹は妹を無理矢理椅子から立ち上がらせると、その背中を押しながら会議の開かれた応接室から退場していった。


「嫌味な置屋の守銭奴といい、水商売をしているくせに綺麗事ばかり並べるあなたといい、本当に代永のウツセミは気に食わないひとばかりだわ」


 千歳は悔し紛れに鋭い剣幕を向けて忠将の顔を見上げると、身を翻して会議室から退出していった。年頃の娘のように苛立ちを包み隠さずにドアを荒っぽく開いて、千歳は叩きつけるように扉を閉めていくと部屋に残った源司と忠将は苦笑いをする。


「やれやれ…富士見のお嬢様はホントに気難しいひとだ」


「お前もひとのことをとやかく言えないと思うがな、公私混同しないだけ一日の長があるってもんだな源司」


「お褒めに預かって光栄だよ。ところで忠将、早く蘇芳ちゃんの迎えに行った方がいいんじゃないか。年下好みの千歳お嬢様の食指が彼女に動いたら、君としては面倒なんじゃないか?」


「…悪い、ちょっと外すぞ」


「いってらっしゃい、保護者ならしっかり子どもの世話はしないとね」


「…他人事だと思って勝手な事を」


 忠将は源司の冷やかしを聞いて眉間に皺を刻みながら、千歳の従者を務める悠久に預けた蘇芳の迎えにいった。


「良識的なようで忠将も随分変わり者だよねぇ、ウツセミが人間の子どもを育てるなんて話、彼の他には一度しか聞いたことがないよ」


 源司は愉快そうに独り言を呟いたが、やがて育児に奮闘している自分の右腕の男の苦労を思って苦々しい顔になる。


「そのもう一つの例の子が成長したのがあのお嬢様か…あの子を見ていると人間は人間が育てるべきなんじゃないかと思わずにはいられないよ」


 源司は椅子の背凭れに身を預けると、長い時を生きてきてもどうにもならない問題はあるものだというような苦笑を浮かべて天上を仰いだ。


* * *


 ハライソの追っ手から逃れるために紫水小路に逃げ込んだ丹たちは、当面源司の屋敷に逗留することになった。源司が貸してくれた部屋に行く途中、廊下の角から幼稚園児くらいの女の子が飛び出してくる。


「はるひさ、できるものならわたしを捕まえてみなさい!」


「蘇芳ちゃん、走っちゃ危ないよ!」


 蘇芳に送れて廊下の角を曲がってきたのは富士見氏族の少年の姿をしたウツセミ悠久だった。悠久の不安は的中し、余所見をしていたせいで自分の進路を葵が塞いでいるのに蘇芳は気付かずに回避行動が遅れてしまう。心身ともに疲弊していた葵の反応も遅れてしまって、蘇芳と葵は正面からぶつかった。葵は後ろによろけるだけで済んだが、蘇芳は彼女に衝突した反動で床の上に転んでしまう。


「あなた大丈夫?!」


 丹は板張りの廊下に転倒した蘇芳の前に跪き、彼女を抱き起こして安否を気遣う。蘇芳は背中を床にぶつけた痛みで泣き出しそうになっていたが、抱き起こされて丹の太腿の上に寝かされると幾分痛みが緩和したようで泣き喚くのを堪えた。


「うん、平気だよ」


「姉さんアタシの心配は、ぶつかって来たのはその子だよ?!」


「えっと…葵は大丈夫そうね」


「なによそのテキトーな言い方は!」


 蘇芳が自分の顔を見上げて微笑んでくると、丹も彼女の屈託のない笑顔につられて笑い返した。蘇芳が泣かなかった代わりに、丹の後ろで葵がおざなりに扱われた不平を喚いていた。


「やあ丹、教会の刺客に襲われたとは災難だったね」


「ちょっと痛い思いはしたけれど、クーくんと源司さんのおかげでみんな無事だったのは不幸中の幸いだった。ところで悠久くん、この子は誰?」


「忠将さんの所にいる子だよ。会議の間ベビーシッターを頼まれていたんだけど、元気がよくて振り回されっぱなしだった……」


 蘇芳の素性を丹に教えると、悠久は中性的な美貌に疲労の色を浮かばせて肩を竦める。


「どうして忠将さんの所にこんな小さい子がいるんだろう? まさか『林檎の樹』で働いている訳ないし……」


「ねえ丹さん、その子もあなたの妹なのかしら?」


 小学生になるかならないかくらいの幼女の蘇芳を何故酒場のマネージャーをしている忠将が預かっているのか丹は合点がいかずに首を傾げる。悠久や蘇芳本人からその理由を教えられるよりも先に、丹の背後から千歳が好奇の眼差しを蘇芳に注いでいた。


「違いますよお嬢様、この子は丹の妹じゃなくて忠将さんが世話している子です」


「へぇ、あのひと堅物そうなくせに意外と変わった趣味をしているのね」


 丹に代わり悠久が蘇芳の素性について千歳に伝えると、千歳は皮肉めいた一言を口にする。何故か千歳の顔には不快感が浮かんでいて、蘇芳を見つめる目には彼女への憐憫が含まれているように見えた。


「俺が蘇芳の面倒を看ているのは趣味や道楽ではないんだがね、富士見のお嬢様」


「ただまさ、お帰り!」


 千歳の背後から忠将が姿を現して彼女の皮肉に言葉を返す。蘇芳は満面の笑みを浮かべて丹の太腿から飛び起き、丹の脇をすり抜けて忠将の足元に駆け寄っていった。


「ただいま、いい子にしていたか?」


「うん、はるひさにいっぱい遊んでもらったよ!」


 忠将は膝を屈めて蘇芳の目線に顔の位置を合わせると彼女の頭をなでてあやす。蘇芳は忠将に頭をなでられて嬉しそうな顔で悠久に遊んでもらったことを忠将に伝えた。


「それはよかったな。悠久、こいつの面倒を看てくれてありがとうな」


「いえ、お安い御用ですよ」


 建前上は造作もないことと答えたものの、その強張った笑顔から内心悠久は二度と蘇芳の相手をしたくないと思っているのが丹や葵の目には明らかだった。


「保護者が引き取りに来たのならベビーシッターの役目はもう終わったでしょうし、帰るわよ悠久」


「はい、喜んで」


 千歳が踵を返して玄関に向かい始めると、悠久はようやく蘇芳から解放される喜びに満ちた顔でその後に続いた。


「…子どものうちから自分に従順な奴隷にするために手懐けておこうというその魂胆、浅ましくて汚らわしいわ」


 千歳は擦れ違いざま、忠将の耳元に辛辣な一言を言い捨てていく。


「勘違いするな、俺はそのうちこいつを陽の当たる場所に返すつもりだ」


「その子のためにもそうであることを願うわよ」


 忠将は横目で千歳に振り返り、蘇芳を自分の召人めしうどにするつもりはないことを言って彼女の無礼な発言に反論する。千歳は忠将の顔を見向きもせず、歩みも止めないまま彼の言葉が事実であることを祈る旨の発言をするが、その口調は微塵もそれが本音だとは思っていないようだった。


 千歳の吐いた毒舌の余韻は忠将と霧島姉妹の胸に残り、彼らの周囲は重い空気に包まれてしまった。


「ただまさ~わたしお腹ぺこぺこ~ご飯まだ~?」


 辺りに立ち込めた沈黙を破ったものは蘇芳の大きな腹時計だった。蘇芳の胃袋が切なげに音を鳴らすと、葵の腹も連鎖的に鳴る。しかし素直に空腹を訴えてきた蘇芳とは対照的に葵は決まりの悪そうな顔を浮かべていた。


「丹の妹も蘇芳と一緒に飯を食うか?」


「べ、別にお腹なんか空いてないわよ…それよりも早くお風呂に入ってぐっすり眠りたいわ」


 忠将は蘇芳に食事を与えるついでに葵も食事を摂らないかと誘うが、葵は施しを受けるのがプライドに障ったようで意地を張ってその申し出を拒む。しかし気持ちとは裏腹に体は正直なもので、葵の腹の虫がまた鳴り響いた。


「葵、我慢しないほうがいいよ?」


「…わかったわ、その子どもと一緒にご飯を食べてあげようじゃないの」


「ただまさがいればいいんだから、来たくないのなら来なくていいよ~だ」


「生意気なガキね、今のうちにちゃんと躾けておかないと大きくなってからろくでもない奴になるわよ?」


 葵が恥ずかしそうな顔で忠将たちに目を背けたまま食事に付き合うことを申し出ると、蘇芳は嫌々来るのなら来なくてもいいと葵にあかんべえをする。年下の蘇芳に馬鹿にされたものの、怒鳴り散らすのは大人気ないと自重して葵は忠将に早期のうちに厳しく躾をしていく必要を説いた。


「何がおかしいのよ姉さん、アタシなんか間違ったことを言った?」


「ううん、別に……」


 言うことを聞かない子どもをそのままにしておくとどうなるかといういい例が自分だということに気付いていない葵の姿を滑稽に感じて、丹は思わず噴き出し笑いをしてしまう。葵は姉の態度に不服そうな顔を浮かべるが、丹は適当にお茶を濁した。


* * *


 忠将は源司に蘇芳と葵に食事を与えるため外出する旨を伝えると、花街にある食堂『ティダ・アパアパ』に彼女たちを連れて行く。ティダ・アパアパは置屋に商品として幽閉されている人間やウツセミに仕えている召人のための弁当も作っていた。


メニューはその日仕入れた食材によってまちまちではあったが、店の料理人は古今東西大抵のものを作れるウツセミだった。丹も家事が得意なことを買われて、何度か手伝いに駆り出されたことがあり店員たちとも顔見知りだった。


「おいしい…てっきり生肉とか硬くなったパンでも出されるのかと思っていた」


 葵は吸血鬼が調理を担当する店のメニューなどまともなものではないと思い込んでいたが、揚げたての唐揚に副菜として千切りキャベツとポテトサラダが添えられている定食が出てくると感嘆の声を挙げる。


「血を分けてもらう人間には健康でいてもらわないとな。病気になった奴の血は誰も飲みたくはないさ」


「温かいご飯を出してくれるのは結局自分たちのためなんだ…まあいいや、動機はともかく作ってもらったご飯には何の問題もないんだし、ありがたくいただくわよ」


 葵はつまるところ吸血鬼が生き血を美味しくいただくために人間に与える食事に気を使っているという事情を知って幻滅したようだったが、提供される理由はともかく食事自体には問題はないと割り切って半日ぶりの食事を掻きこんで行く。


「蘇芳、唐揚だけじゃなくて野菜も食べろよ」


「だってキャベツおいしくないんだもん……」


 忠将は葵が遠慮なく食事を平らげているのを好意的に感じるが、彼女とは対照的に蘇芳の箸が進んでいないことに気を留める。蘇芳は唐揚と白米ばかり手をつけて、野菜類は殆ど口にしていなかった。


「ちょっとアンタ、出されたものは全部食べなさいよ。残したらキャベツがアンタのことを恨んで顔が緑色になっちゃう呪いをかけちゃうし、ポテトサラダを食べなかったら体がポテトサラダみたいになっちゃうんだからね」


 葵は口の中で唐揚とキャベツを咀嚼しながら、蘇芳が避けているおかずを残すとそれらのおかずが彼女に呪いをかけてくると嘘をつく。蘇芳は葵の脅しを真に受けて、顔を青くさせた後、呪いをかけられないために手をつけなかったおかずにも箸を伸ばすようになった。


「嫌なものは別々で食べるよりも一緒に食べちゃったほうがいいでしょう?」


「う、うん…あれ、一緒に食べるとあんまり不味くない?」


「ほらね、やっぱりまとめて食べた方が楽じゃない」


「うん、これならキャベツもポテトサラダも食べられる。おねーちゃん、ありがとう!」


 キャベツを口に運ぶようにはなったものの、蘇芳はその青臭さが苦手なようであまり箸が進まない。葵はキャベツの青臭さをポテトサラダのマイルドさで中和すれば食べやすくなると蘇芳に教える。葵に教えられた食べ方を半信半疑で蘇芳は試してみると、ポテトサラダの味付けに使われたマヨネーズがキャベツの苦味を掻き消して蘇芳にも食べやすくなったようだった。


「お姉ちゃん…ふふん、このくらい大人のアタシにかかればどうってことないわ!」


 葵は蘇芳から尊敬の眼差しを向けられると得意になって薄い胸を張る。


「うまいもんだな、俺はこいつの野菜嫌いを直そうと何度やっても駄目だったのに」


「子どもって単純だからね、適当な嘘を並べて濃い味付けでごまかせば大抵のものは食べられるようになるのよ」


「あんた、意外と子どもが好きなのか?」


「まさか、自分が子どもの時に姉さんに言われたことを思い出しただけよ」


 忠将は葵が巧みに蘇芳に野菜を食べさせるように仕向けたことに感心する。忠将は葵が蘇芳のことを手玉に取れた理由を彼女が子ども好きだからかと訊ねたが、葵は肩を竦めて自分が幼少期に丹に教わった受け売りだと明かした。


「ねえ、子育てに悩んでいるのならウチの母さんにでも相談すれば? 一応二児の母親でそれなりに育児の経験があるんだし」


「紅子にもいろいろ聞いてはいるんだがな、なかなか上手くいかないものさ。それと紅子以上にあんたの親父さんに相談をしてみたいことがあるんだ」


忠将が蘇芳の養育に苦労しているのだと察して、葵はウツセミになってこの街で暮らしている自分の母親に相談することを提案する。だが既に忠将は育児の先輩として葵の産みの親である紅子から何度も助言をもらっているらしく、父親としての立場から彼女の父親であるいつきの意見を聞きたいようだった。


「父さんに何を、娘を抱えたやもめの親父同士で愚痴でも語り合いたい訳?」


「お前の親父さんはやもめじゃないだろう、同居していないとはいえ紅子はこの街で生きているんだから」


「そうだったわね、母さんはいなくなってからずっとここで暮らしているんだった」


 少々皮肉めいた葵の発言に語弊があることを忠将が指摘すると、葵は照れ笑いをして自分の頭を軽く小突いた。


 店の入り口の扉が開いて客が入店してくる。空いている席を捜してその客は店内を見渡し始めると、葵たちの座っているテーブルに目を留めた。


「葵じゃないか、こんな所にどうした?」


「父さんこそここに何の用よ?」


「何って腹が減ったから飯を食いに来たに決まっているだろう?」


 入店してきたのは話に出たばかりの霧島姉妹の父親斎だった。彼もハライソに狙われる可能性があったので、トラブルを避けるために紫水小路に身を寄せていた。お互いに相手のことに気付いた霧島親子は何故この店にいるのかという理由を訊ねあう。


「霧島斎、よかったら俺たちのテーブルに来ないか?」


「あんた、忠将さんと言ったな。花街の管理人がこんな所で油を売っていていいのか?」


「はは、俺は源司みたいに上手く仕事をサボれるほど器用じゃないんでね。仕事半分でこの子とあんたの娘に飯を食わせに来たんだ」


「そいつはすまなかったな、このお転婆娘が何か迷惑をかけなかったか?」


「いいや、むしろこの子の偏食を矯正するのにいいアドバイスをもらえて助けられたよ」


 忠将に彼らのテーブルに招かれると、斎は忠将の向かいで葵の隣の空いている椅子に腰掛けた。斎は娘が迷惑をかけなかったかと問いかけると、忠将は葵に蘇芳の好き嫌いを克服させるのに助力してもらった感謝の意を表した。


「そうか、たまにはこいつも他人の役に立つことがあるんだな」


「たまにはってのが余計よ、アタシはいつだって他人から必要とされているんだから!」


「ところで忠将さん、そっちの子は一体誰なんだ?」


 斎は葵の発言を聞き流して、忠将の隣でポテトサラダの最後の一口を飲み込んだ蘇芳のことを一瞥する。


「この子は蘇芳ちゃんって言って、忠将さんが預かっている人間の子どもなんだって」


「人間の子どもをどうしてウツセミのあんたが?」


「…霧島斎、この子のことであんたに相談したいことがある」


 斎からの問いに忠将が答えられずにいると、彼らの会話に葵が割り込んできた。斎も蘇芳の素性を聞いたものが抱く疑問を感じてその理由を忠将に問うと、忠将は真面目な顔で斎のことを見返した。


「相談? まあ俺が答えられる範囲でよければ聞かせてもらおうか」


「単刀直入に言う。霧島斎、こいつをあんたの家の娘にしてくれないか?」


「ええっ、それどういうこと?!」


 唐突に忠将が切り出してきた相談に斎がどう反応すべきか戸惑っていると、斎に代わって葵が驚きの声を張り上げる。


「紅子が世話になっているとはいえ、俺はあんたとまともに話すのはこれが初めてだ。初対面の人間にその子を養子に迎えるように頼もうと思った理由を教えてくれ」


「分かった。なぜウツセミの俺が人間の娘を預かっているか、そしてこの子をどうして普段現世で生活しているあんたの娘にして欲しいかという理由を話そう」


 互いに面識はあっても忠将と斎がまともに会話をするのは今日が初めてだった。個人的な関係は皆無だったのに、どうして斎に蘇芳の養子縁組を頼んだのかという動機を忠将は説明することにする。斎と葵は固唾を呑んで忠将の話に耳を傾けた。


「当然のことだが蘇芳は生殖能力のないウツセミである俺の子どもじゃない。しかし蘇芳の母親だった女、真実まみと俺はかつて恋仲だった。どれほど純愛を貫こうともウツセミが人間の女と付き合う目的には必ず精気の供給源を獲得するという打算もあり、真実のことは真剣に愛してはいたが彼女をていよく利用していたことも確かだ。そして真実から精気を摂取していたことが、俺の蘇芳に対する負い目になっている」


「あんたが精気を吸い過ぎたせいで、その子の母親が早死にしたということか?」


「そうでもあり違うとも言える。真実の死期を早めたのは俺が彼女から精気を摂取していたことが原因だ。しかし単に精気を吸い過ぎたからという訳ではない。俺はいや真実自身も恋仲になった時点では、真実が蘇芳のことを妊娠しているとは気付いていなかった。俺が真実の腹の中に蘇芳がいることに気付かずに、普通の女に接するように彼女から精気を吸ってしまったせいで子どもを身籠っている真実を憔悴させただけでなく、蘇芳の生育さえも大幅に遅らせてしまったんだ……」


 忠将が告白した彼の蘇芳に対する原罪を聞いて、斎も葵も残酷な事実に絶句した。大人たちが話している内容を理解できない蘇芳だけが、暢気な顔でグラスに注がれた麦茶を飲んでいる。


「…あんたが恋人のお腹に子どもがいることに気付いたのはいつ頃なんだ?」


「真実が紫水小路に迷い込んだのは、源司が紅子をここに連れてきて間もない頃だった。道端で行き倒れていた真実の介抱を俺がしたことがきっかけで、そのままなし崩し的に俺たちは恋人関係になったよ。ちょうどその頃、俺は精気を提供してくれる新しい女を捜していたし、行き場のない真実は自分を置いてくれる家を探していたから、お互いの利害が一致したというのが関係の始まりだな。だが付き合っていくうちに、俺は真実に本気で惚れ込んでいった。あいつから精気を分けてもらう交感の一時に至福の幸せを感じていた。でもそんな幸せは長くは続かなかった。恋仲になって2年くらい経った時、妙に真実の腹が膨れてきたことであいつが蘇芳を身籠っていることに俺たちはようやく気付いた」


「結局その子は誰の子なんだ?」


「相手の男の詳しい素性は分からないが、蘇芳の父親は真実が俺と出会う以前に付き合っていた男らしい。真実はそいつと同棲していたらしいが、関係が拗れて家を追い出されて街を彷徨った末に紫水小路に流れ着いたそうだ。この街に来た時には既に蘇芳は真実の腹の中にいたはずだが、間抜けなウツセミが真実と蘇芳の2人分の精気を吸っていたせいで母胎内での蘇芳の成長が通常よりも遅れたせいでその事実に気付くのがだいぶ後になったって訳だ」


 忠将は付き合っている女が妊娠しているということに気付かなかった自分の迂闊さを自嘲して、自分のせいで蘇芳と母親の真実に迷惑をかけたことを霧島親子に告げる。


「…忠将さん、あんたは自分に全ての非があるように言っているが、あんたの恋人だって自分の体の変化に気付かなかったのも問題じゃないか?」


「ウツセミに精気を抜かれること自体、自然の法則に背いていることなんだ。そんな体験をしたら他の体調の変化に気が回らなくなってもおかしくはない、まして出会った頃の真実は心神喪失に近い状態だった。母体と自分の精気を抜かれて成長が抑制されていた蘇芳が真実の体調に大きく影響するようになるのに時間がかかっても不思議ではない」


「…それでその子が母胎にいることが分かった後、あんたたちはどうしたんだ?」


「真実の腹に蘇芳がいることに気付いてから、今更手遅れかもしれないと不安に思いながら俺は真実から精気を摂取するのを止めた。そこから出産までに1年近くかかったが、どうにか蘇芳は無事に生まれてきてこうして健康に育ってくれている。しかし母親の真実は蘇芳の命と引き換えに産後間もなく亡くなってしまった。ただでさえ妊婦の体調管理は難しいのに、俺が真美の体のことに気付かず考えなしに精気を吸ったせいで真実は死んだようなものだ。自分の過失で殺してしまった真実への償いに、俺はあいつに代わって蘇芳の世話をすることに決めたんだ」


 蘇芳の出生とウツセミの忠将が人間の彼女を育てるようになった経緯を語り終えると、忠将は重々しく溜息をついて項垂れる。蘇芳の誕生にまつわる悲哀は一概に忠将が悪いと言い切れなかったが、彼の過失が真実と蘇芳の運命を狂わせてしまったことは否定できなかった。


「ただまさ元気ないよ、お腹空いてるの?」


「心配するな、ちょっと疲れているだけさ」


 肩を落として頭を垂れている忠将に蘇芳が気遣い心配そうな顔を向けると、忠将は精一杯の作り笑いを作って彼女を安心させようとする。


「…その子はさっきの話を知っているのか?」


蘇芳が忠将を実の父親のように慕っている姿に斎は切なさを感じて、蘇芳が自分の出生の秘密を知っているのかと訊ねる。


「まだ小さいから全ての事情を理解できるはずがないが、俺がもう帰ってこない母親の代わりだということは伝えてある。しかし住民のほとんどが大人の紫水小路で生まれ育った蘇芳には家族や親子の概念すら理解できていないようで、自分が悲しい境遇にあることすら感じられないんだ。だがそれも無理もない、自分の置かれている環境との比較の対象になる家族や子どもが生まれた時からいないんだからな」


 忠将は自分が蘇芳の親ではないことを彼女に教えていることを斎に明かした。だが紅子と丹という特異な例を除外すれば、蘇芳が生まれてからずっと過ごしている紫水小路は住民の間に親子関係が存在せず全員が独立した個人であるという状況である。更に周りに自分の境遇と比べられる子どもは1人もいないので、蘇芳が実の親ではなく赤の他人である忠将に育てられているということの異質さに気付けるはずもなかった。


「人間の常識とは異なるウツセミの社会しか知らないまま、この子が大人になるのはあんたとしても由々しき事態なんじゃないか?」


 無邪気な顔で床に届かない自分の足を椅子の上からぶらつかせている蘇芳の置かれている環境が人間の常識で考えれば異常なものである感じ、斎は彼女の将来の人格形成において一抹の不安を抱かずにはいられなかった。


「ああ、だからこそ俺は蘇芳をあんたの養女にしてもらいたい。蘇芳が育ってきた世界とそこの住民の異質さが分かっている上で、ウツセミの妻と娘を受け容れられたあんたならこの子をちゃんと理解してくれると信じられる。そして蘇芳を人間として育ててやってほしい」


 忠将は斎の問いかけに首肯する。そして紫水小路とそこに住むウツセミの存在を肯定的に捉えている斎だからこそ、蘇芳の生まれ育った状況を理解してもらえるという期待を込めた眼差しを忠将は斎に向けた。


「忠将さん、あんたの言い分はもっともだし、その子を大事に思っているからこそ俺に預けて人の世に戻そうとしている気持ちも理解できる。だがな、譲られた犬や猫だって育てるのは難しいのに、まして人間を育てるなんて二つ返事で答えられるものではないことはウツセミのあんたも分かるだろう?」


「今すぐ結論を出してもらわなくても構わない、だが時間がかかっても俺はあんたからいい返事をもらえることを望んでいる」


 斎はペットをもらうことでさえ容易ではないのに、まして養子を取るとなると大変な苦労があることを述べて忠将の申し出に難色を示す。しかし忠将も責任を途中で放棄するのではなく、斎の人物を見込んだからこそ蘇芳の養育を託したいのだと引き下がらない。


 斎と忠将が互いに真剣な顔で視線を交錯させていると、横から何かが軽快なリズムで打ち鳴らされる音が聞こえてくる。


「ちょっとアンタ、お皿で遊ぶんじゃないよ!」


「だって退屈なんだもん~じゃあおねーちゃん遊んでよ」


 蘇芳が空になった皿を箸で叩いているのを葵が注意すると、蘇芳は頬を膨らませてそれに抗議した。食事は終わったのに忠将が店を出ようとしないことで覚えた退屈を紛らわそうとして皿を叩き出したのだから、それを止めさせたいのなら自分と遊ぶように蘇芳は葵に要求する。


「ハァ、なんでアタシがアンタみたいな子どもと遊ばなくちゃいけないのよ?」


「え~おねーちゃん遊ぼうよ~」


「葵、どうせ紫水小路にいてもやることないんだろう、それならその子のベビーシッターでもしたらどうだ?」


 葵はこれ以上蘇芳に付きまとわれることを嫌がるが、斎はハライソの一件が沈静化するまでの間、紫水小路にいるのだから暇を持て余すくらいなら蘇芳の面倒を看ることを提案する。


「冗談じゃないわよ、そんなの姉さんにしてもらえばいいじゃない!」


「残念だが紫水小路にいる間、丹には政所の仕事をしてもらうから手が埋まっている。この店についてこなかったのも朱美姐さんに政所の仕事で呼び出されたからだ」


「じゃあいつも通り忠将さんがこの子の世話をすればいいじゃない?」


「生憎と俺は源司とハライソの対策を詰めなきゃならん。同胞たちのために万全の態勢を整えなければならないから蘇芳に構っている余裕はない。バイト代は払うから、ここにいる間蘇芳と一緒にいてやってくれないか?」


「そうやってウチにこの子を押し付けやすくするつもりね?」


 忠将も手の空いている葵に蘇芳の世話を任せようとするが、葵は断固としてその意見に反発する。


「おねーちゃん遊ぼ!」


「いきなり危ないじゃない、分かったからそんなに強く手を引っ張らないでよ!」


 葵が蘇芳のベビーシッターを引き受けるのを渋っていると、とうとうじっとしていられなくなった蘇芳が強引に葵を外に連れ出そうとして彼女の腕を力任せに引っ張る。危うく椅子から転げ落ちそうになった葵は、半ば自棄になって蘇芳のいうことに従う旨を彼女に告げた。


「ほんとう?! それじゃ外に先に行ってるね!」


「こっちから頼むまでもなく蘇芳が懐いちまったみたいだな?」


「ホント子どもは我儘でイヤになるわ…バイト代は弾んでもらうからね、忠将さん」


 蘇芳が葵に外で待っていることを伝えて店の外に駆け出していくと、忠将は薄ら笑いを浮かべて葵に目を向けた。葵は何故か蘇芳に懐かれてしまったことに苦々しい顔をしながら、彼女のベビーシッターを引き受けることを了承する。


「おねーちゃん、早く~」


「今行くから少しは大人しくしてなさい!」


「あの子は生まれて初めて歳の近い子どもに会って、はしゃいでいるみたいだな」


「おいおい丹の妹は中学生だろう、歳が近いとは言えないんじゃないか?」


「実年齢が100歳以上の人間と比べれば、あれくらいの歳の差なんて些細なものだろう?」


「そうだな、蘇芳の倍くらいしか生きていない人間なんてあいつが初めてだ」


 蘇芳に急かされて店を出て行く葵の背中を見つめながら斎が呟いた皮肉に、忠将は思わず頬を崩して笑った。葵がやや振り回され気味に蘇芳と戯れる姿を見て、斎が彼女を養女に迎え入れるかどうかはともかく、彼女たちの相性は悪くなさそうだと忠将は思った。



第8回、たゆたう ちのみご 了


 割とほのぼのしたムードで第1部を締めることができました。個人的には戦闘描写が得意でないし気乗りもしないので、こういった日常ドラマを綴る方が好みです。展開がベタで盛り上がりに欠けることが否定できませんが……

 第9回から始まる第2部からは戦闘シーンの描写が増します。戦闘が白熱すると共に展開も盛り上がっていけばなぁと思っております。

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