第6回、楽園からの使者
東の空が白み始め、御門市の四方を取り囲む山並みの稜線がはっきりと浮かび上がってくる。霧島葵は暁の街を闇雲に走り続けた。朝日が昇り始め次第に視界は明るくなりだしていたのに、葵は真っ暗で出口の見えないトンネルの中をひた走っているような気がしていた。
通常ならこの時期、葵は陽が昇る前に外出するどころか起床すらしていない。だが今朝はほぼ徹夜で姉と居候の帰りを待ち続け、夜明け前に帰宅していた2人を家の前でこれまで何をしてきたのかを詰問した。
葵の姉と居候の少年が関係を持っていることはこの二ヶ月の共同生活の中で葵の目にも明らかだったが、躾に厳しく融通の利かない彼女たちの父親は何故か姉と居候が夜遊びをしていることを黙認していた。そして葵は姉と父それに居候の少年が自分に何かを隠していることに薄々勘付いていた。
葵は姉たちが不可解な行動をする理由を究明しようとしたが、彼女たちは葵のことを軽んじてまともに話を聞こうとせず、その態度に立腹した葵が姉につい当り散らしてしまった時にその出来事は起きた。
葵に突き飛ばされて転倒し彼女の姉は頬を擦り剥いたが、その傷は瞬く間に治癒してしまって痕跡がなくなってしまったのだ。葵がその怪奇現象を目の当たりにすると、彼女の姉は自分が吸血鬼になってしまったことを暴露した。
表面的にはおざなりに扱っていても実際は姉を誰よりも信頼していた葵は、姉が人の生き血を啜って命を繋ぐ化け物に変貌してしまったという証拠を目撃してしまったショックで家を飛び出してきたのだった。
吸血鬼の姉や彼女に血液を供給している居候が追ってこられないように、葵は住宅地の路地をジグザグに駆け抜けていく。睡眠不足の上に自宅から延々と全力疾走をしてきた疲れがピークに達して、葵は鉄道の線路を跨ぐ幹線道路の陸橋の橋桁の陰に身を潜めて足を止めた。
「なんで姉さんが吸血鬼にならなきゃいけないのよ…トロくて垢抜けなくて、でもお人よしで一緒にいると安心できる姉さんがどうして……?」
葵は息を弾ませながら、本当は深い愛情を感じていた姉が吸血鬼になってしまったことを不条理に感じる。母親代わりに自分の世話を焼いてくれて、不甲斐ない面も多々あっても父親も自分もなんだかんだ言いつつ頼りにしていた姉が人間でなくなってしまったことの悲しみに耐えられず、葵はその場に膝を抱えて蹲り声を殺して泣く。
「…これからどうしよう? 姉さんいいえ、姉さんの姿をしたあの化け物がいる家に父さんを置き去りにはできないし、アレは母さんの所にも出入りしているらしいし」
葵は愛する姉を失ってしまった悲嘆にくれてしばらく涙に打ち震えていたが、姉の姿をした魔物の下から両親が未だに逃げられていないことを思い両親の身を案じる。涙を拭って顔を上げた葵は、淡々とした口調で今後の身の振り様を考え始めた。
部屋着のまま逃げ出してしまった上、財布を置いてきてしまい無一文であることに加えて、連絡手段である携帯電話も持っていない。友人の下に匿ってもらうことも考えたが、それではすぐに姉の姿をした吸血鬼に見つかってしまうだろうし、最悪の場合友人を吸血鬼の毒牙に曝しかねない。
しかし警察に駆け込んだところで、自宅に姉の姿をした吸血鬼が住み着いているから退治して欲しいといっても真面目に取り合ってもらえないだろう。間違いなく警官たちは葵の精神状態を憂慮するだろうし、下手をすれば身柄を拘束されて吸血鬼のいる自宅に連れ戻されかねない。そうすれば秘密を知ってしまった自分を姉の姿をした吸血鬼は生かしてはおかないだろう。
「家を乗っ取った吸血鬼をやっつけてほしいなんてお願い、誰にすればいいのよ?」
「馬鹿ね、そういう時こそ教会に助けを求めるべきでしょう?」
葵が荒唐無稽な自分の悩みを聞いてくれるものなどこの世界に存在するのかと途方に暮れていると、鈴の音がなるような美しい声が聞こえてくる。葵が声のした方を反射的に振り向くと、朝日を後光のように背にして1人の人物が佇んでいた。
「あなたは…安倍先輩?!」
眩しい朝日に目を細めながら葵がその人物の顔を見つめると、それが彼女の通っている芳志社女学院の高等部に在籍している有名人であることに気付いた。
葵は芳志社女学院の生徒の多くから憧憬と羨望の眼差しを向けられている安倍真理亜が自分の前に姿を現したことに驚きつつ、真理亜が縦ロールの髪に縁取られた美貌に優しげな微笑を浮かべるのを地上に光臨した女神を見るような目で見つめていた。
「朝早くからこんな所で泣いているなんてよほど辛い事があったのね、よかったらお話を聞かせてもらえないかしら?」
真理亜は子どもをあやすような優しい声で語りかけながら、葵の傍らに屈んでくる。真理亜の利発そうな大きな目を向けられると、葵は自分の抱えている問題の全てを彼女に打ち明けなければならないような気になった。
「安倍先輩、今からアタシが話すこと笑わないで聞いてくれますか?」
「もちろんよ、私に悩みを話すことで貴女の苦しみが癒されるのなら幾らでもお聞きしますわ」
葵が不安げな顔で訊ねると真理亜はにっこりと微笑み返す。真理亜の美しい微笑みにすっかり魅了されてしまった葵は、夏休み明けから起こっている家族の不審な言動と先ほど彼女が目撃した姉の身に起こった怪異、そして姉が吸血鬼になってしまったことを包み隠さず真理亜に打ち明けた。
「それは大変でしたわね葵さん…でももう大丈夫ですわ、貴女のことは私が責任を持ってお守りいたしますから」
「いえ、安倍先輩にご迷惑をおかけする訳にはいきません。話を聞いてくれたことだけでも充分感謝しています」
真理亜は同情するような眼差しで苦難を体験した葵のことを労わるが、葵は相談に乗ってくれただけでも充分なのに、これ以上天上の存在である真理亜の手を煩わせる訳には行かないと恐縮する。
「遠慮なさらなくてよろしくてよ葵さん、だって私は貴女を保護するためにここに参ったのですから」
「えっ、どういうことですか?」
「葵さん、実をいうとね私たちはしばらく前から貴女のご自宅を監視させていただいてましたの。貴女のお宅に吸血鬼が潜伏しているんじゃないかと目星をつけてね」
「アタシたちの家を監視していた…安倍先輩がどうしてそんなことを?」
「私はね、人を仇なす吸血鬼を殲滅し、平和な世の中を作るために活動している組織に所属しているの。そして組織の情報網が貴女のお宅に吸血鬼が出入りしているかもしれないという情報を察知し、その真偽を確かめるために監視をつけていた。なかなか吸血鬼は尻尾を出してくれなかったけれど、今朝貴女の目撃したことをお聞きしたお陰で誰が吸血鬼なのかを特定できましたわ」
真理亜が自分を保護するために接触してきたと聞いて葵がその理由を問うと、真理亜は高尚な使命のために自分と所属している組織は、葵が気付くよりも先に吸血鬼の存在を察知していてその監視をしていたことを明かす。
「安倍先輩たちが捜していた吸血鬼が、私の姉…だった人ですか」
「葵さん、残念だけど今ご自宅にいるのは貴女のお姉様の丹さんではないわ。丹さんのものだったものの抜け殻、人を襲って生き血を奪う化け物よ」
「化け物…そうですよね、血を吸うために人を襲うなんて、人間のすることじゃないですよね……」
何度も自分の脳裏に思い浮かんでいたことだったのに、尊敬している真理亜だとしても他人に自分の姉だったものを化け物呼ばわりされるのを葵は不快に感じる。しかし真理亜の言っていることは事実であり、葵もそれに首肯する。だが悩みを真理亜に打ち明けて軽くなったはずの胸が再び重くなりだしていた。
「ええ、吸血鬼は1匹残らず始末しなければならない。放っておいてはあの化け物の餌食になる犠牲者が増えるばかりですわ。葵さん、この街に住む人たちの平穏な日々のため、そして貴女のお姉様だった丹さんの魂を解放するために私たちに協力してくださらないかしら?」
「安倍先輩やめてくださいっ、みんなが憧れている先輩がアタシに頭を下げるなんて……」
「ものを頼むのに礼儀を尽くすのは人として当然のことですわ」
真理亜は両膝を地面につけてしゃがんでいる葵よりも更に低い位置に頭を下げる。葵は通学している学園中の生徒の憧れの的が、年齢だけでなく品格も遥かに劣っている自分に頭を下げてくることに戸惑うが、真理亜は自分の些細なプライドへの執着などまるで感じていないように、組織の任務遂行のために葵の助力を請う。
「…分かりました、この街の人の安全と姉の冥福のために喜んで先輩の組織に協力させてもらいます」
しばしの逡巡の後、葵は真理亜の所蔵する組織への協力を承諾する。姉の姿をしたあの怪物をこれ以上野放しにする気にはなれなかったのは、もちろん吸血鬼による被害者を増やしたくないという思いもあったが、それ以上にあの吸血鬼が姉の姿で暴れ回られることが我慢ならなかったからだ。
「ご協力感謝いたしますわ、葵さん。世のため人のために、一刻も早く丹さんの姿をしたあの化け物とその同胞どもを共に駆逐しましょう」
「…はい」
上体を起こした真理亜は葵に握手を求めて手を差し出してくる。葵は真理亜の透き通るように白く、労働を知らないもののように繊細な手を恐る恐る握り返した。葵が握り締めた真理亜の手の感触は同じ人間の肌とは思えないくらい滑らかで、少し冷たく汚れをしらない新雪に触れたようだった。
* * *
葵が脱走した彼女の自宅前、道の両側から戻ってきた父親の斎と居候の来栖を自宅で待機していた葵の姉でウツセミと称する吸血鬼の丹が出迎える。
「お父さん、クーくん、葵は見つかった?」
「いや、こっちでは見つからなかった…来栖お前の方は?」
「すみません、あいつが最初に逃げ出した方なのに見つけられませんでした」
「葵はすばしっこい上に子どもの頃からずっとこの辺で暮らしているからな、土地勘のないお前を出し抜くことなんて造作もないだろう」
葵のことを発見できたかと丹に訊ねられるが、斎からも来栖からも芳しい返事はなかった。来栖は彼女を見つけられる確率は自分の方が高いのに失敗したことを謝罪するが、斎は彼のことを責めなかった。
「丹がウツセミになって約2ヶ月、そろそろ葵も俺たちの行動を不審に感じ始める頃だとは思っていたが、まさかこんな形でばれてしまうとはな……」
斎は自分たちが隠し通してきた事実を意外な形で葵に知られてしまった失態に渋面を浮かべる。
「わたし、もう1回この辺り捜してくる!」
「止めとけよ、お前でも朝日が燦々と照りつけている中を歩き回るのは危険すぎる」
「でも葵に何かあったら……」
「落ち着け、夜中ならともかく朝方に悪さをする奴はそういないだろう。人的なトラブルよりは交通事故に巻き込まれる方が気がかりだ。俺と来栖でもう1回近所を捜してくるから、丹は何か連絡があった時のために家に残っていてくれ」
「…わかった」
葵のことを心配していてもたってもいられなくなった丹は、妹のことを捜しに出かけようとする。しかし通常の吸血鬼よりはかなり日光への耐性があるとはいえ、吸血鬼の丹が日中出歩くことの負担は軽視できず、葵よりも先に丹が参ってしまうことを案じて、来栖は丹の腕を掴んで引き留める。
来栖と斎の2人に説得されると、丹は渋々葵の捜索に自分が出ることを諦めた。
「ったくあのガキは懲りずにまた家出しやがって…自分がいなくなってみんながどんだけ心配するのかまだ分からないのか?」
「わたしは葵の気持ち、なんとなく分かるな。だってお母さんがウツセミになったと知った時、わたしも気が動転しそうだったから」
「俺もそうだった、愛する妻と娘が吸血鬼になったなんて信じたくなかった」
来栖は葵の足取りが掴めないことへの苛立ちと不安を紛らわせるように悪態をつくが、それを聞いた丹と斎が口々に葵が現実を受け容れられず失踪したくなった気持ちに理解を示す発言をする。
「…俺だって自分の家族が人間じゃなくなったと聞いたらびっくりしますよ。でもだからって頭ごなしに存在を否定した挙句、自分から逃げ出したってのは納得いかないっす。家族がウツセミになっても、理解しあえることは斎さんも丹もよく分かってるでしょう?」
「ああ、ウツセミ相手ならちょっと変わった問題を抱えるひととして接するくらいの気持ちで充分だ」
「そうっすよ、理性の吹っ飛んで姿形も人から離れたナレノハテならともかく、自我と姿を維持したウツセミなら分かり合えますよ。なあ丹?」
「本当にそうかな、わたしたちウツセミと人間の間にはどうしても埋められない隔たりがあるんじゃない?」
来栖も丹や斎の発言に同意を示した上で、意思疎通が可能な人とウツセミなら相互理解して共生も可能だと訴える。斎は来栖の言葉に頷き返したが、丹は同意を求められても首を縦に振ろうとしなかった。
「何言ってんだよ丹、お前が人とウツセミが共存できるいい例じゃないか?」
「今はそんなに問題もなく過ごせているけれど、これからもずっとそうだとは思えない。だってクーくんやカンナちゃんはこれから大人になって、結婚したり子どもが生まれたりしていくけれど、わたしはずっとこのまま変わらない。ううん、これから成長することも年老いることもなく延々と誰かの血を啜って生き永らえていくの。他人を犠牲にする前提で長生きして、昔友だちだった人はみんな自分よりも先にいなくなってしまい、結局現世に何も残すこともできない苦しみが人間のクーくんたちには分かる?」
来栖は丹こそ人間とウツセミの世界をバランスよく行き来している存在ではないかと示唆するが、丹は当面は問題の表面化が防げてもいずれ周囲の人間が成長していくにつれて自分が異形の存在であることが顕在化してしまうことを述べる。
更に人間よりも遥かに長い時を永久に変わらない姿で過ごすために、人として生きることも死ぬこともできず、子孫はおろか墓標さえ現世に残せないまま人知れず消えていくのはとても寂しいことだと主張した。吸血鬼と関係は持っているものの、自分は人間の肉体のままである来栖と斎は丹の悲壮な訴えに口を閉ざしてしまう。
「…どれだけ深い仲になっても人間とウツセミは別の存在だから、どうしても違ってしまう所はあるだろう。その違いに互いが苦しむこともきっとある。でもな、今はそんな先の心配をするよりも先にいなくなった葵のことを見つけるのが何よりも大切じゃないのか?」
斎は長女の意見を聞きいれた上で、現状の最優先事項は将来訪れるかもしれない人間とウツセミの擦れ違いを杞憂することではなく、失踪した次女の保護だと訴えた。斎の一言で沈んだ顔をしていた来栖と丹の表情に覇気が戻ってくる。
「そうっすね、先のことはその時になって考えりゃいい。将来の不安に怯えて今を無駄にすることはできないっすよ」
「ごめんなさい、余計なことでお父さんとクーくんの気を悪くしちゃって。今はそんな心配よりも葵のことが一番大事なんだから」
「そうだ、あのお転婆娘をとっちめてやるのが何よりも先決だ」
斎の呼びかけに来栖と丹が応じると、斎は家長の威厳をもってその場を締めた。家族とその同居人が彼女のことを心から心配していることを、親兄弟のことを案じて家を飛び出した葵は知らない。吸血鬼と人間の隔たりほど顕著なものではなくても、お互いに相手のことを想っているために発生した擦れ違いだった。
しかし吸血鬼と化した姉を拒絶した葵とは違い、霧島家に残っている3人は例え相手が別の種族であっても理解できる可能性を信じていた。
* * *
葵は姉の姿をした吸血鬼の始末のために真理亜に助力することを申し出た後、真理亜の呼び寄せたリムジンに乗せられた彼女の邸宅に招かれた。霧島家は裕福とは言い難いもののそれなりの生活水準にあるつもりだったが、真理亜の自宅である豪邸を見せ付けられると、いくつもの企業を経営する一族である安倍家との財力の違いは天地ほど隔たっていると思い知らされる。
「客間を用意させたからゆっくりされるといいわ」
「は、はい……」
真理亜は客分として自分をもてなしてくれるようだったが、葵は屋敷の中を埋め尽くす高価な調度品に囲まれている環境に萎縮してしまっていた。案内役の使用人の後に続いて緊張した足取りで用意してもらって部屋に向かう葵の背中を、真理亜は同じ組織に属する少年と共に見送る。
「真理亜さん、あんな普通の女の子が吸血鬼の討伐の役に立つんですか?」
「勿論よ、今回標的にしている吸血鬼だけでなく奴らと手を結んでいる男を呼び寄せる格好の餌になりますわ」
真理亜たちが所属している吸血鬼を駆逐することを活動目的としている組織ハライソの東京にある本部から御門に派遣されてきた少年、天野聖が訝しげな顔でしてきた問いかけに対し、真理亜は冷笑を浮かべて無力な少女でしかない葵の利用価値を彼に告げる。
「あなたは本当に恐ろしい人ですよ、味方であることにほっとしています」
「吸血鬼を一蹴する使徒の貴方にそうおっしゃっていただけるなんて光栄ですわ」
聖は真理亜の狡猾さに舌を巻くが、彼女は澄ました顔で彼の皮肉に応えた。
「それで真理亜さん、吸血鬼と聖火を使う協力者の人間をどうやって誘き出すんですか?」
「あの子の肉親だった吸血鬼の女を先に呼び出しましょう。聖火を使うあの男と一緒に来られると面倒なことになりそうだから、妹の命が惜しければ独りで来るようにあの女には指示しますわ」
「いくら聖火を使える奴とは言え仲間は吸血鬼1匹ですよ、わざわざそこまでしなくてもいいんじゃないですか?」
「聖さん、ことを仕損じる訳にはいきませんのよ。おまけにあの男は衛兵と使徒を合わせて30人を死傷させた吸血鬼に苦戦したとは言え倒している、いくら貴方が使徒の中でも上位に位置する実力者でもまともにやりあうのは危険ですわ。だからこそ戦いを有利に進めるために、あの男が愛着を示している吸血鬼の女を先に片付けておくことで、彼を精神的に痛めつけておく必要がありますわ」
「そこまでお考えでしたか。まあ僕は闘いに愉悦を覚えるタイプじゃありませんし、楽な仕事になるならそれは歓迎しますよ」
聖が葵の利用法を訊ねると、真理亜は念入りに1人ずつ、しかも戦闘力が低いと思われる丹を先に呼び寄せて始末することで、来栖に精神的な揺さぶりをかけておいてコンディションを悪くさせた上で聖と戦闘させることを告げる。
壁にかけられたレリーフに彫られた女神のように美しい容姿をしておりながら、その奥に悪魔的な姦計を張り巡らせている真理亜の周到さに聖は脱帽した。
「ところで聖さん、御門に巣食う吸血鬼どもを掃討するために近々援軍が寄越されるとお聞きしておりますけど、その人選について何かご存知ないかしら?」
「増援のメンバーが誰なのか詳しいことは僕にも分かりませんけど、作戦を指揮するために天連さんが来てくれるらしいですよ」
「まあ、当代随一の聖火の使い手と名高いあの方にお越しいただけるなんて、本部も掃討作戦に本腰を入れていらっしゃるのね」
丹と来栖を始末するための作戦案を説明し終えると、真理亜は聖に別の話題を訊ねる。聖の口から語られた作戦指揮官として派遣されてくる男の名前を聞いて、真理亜は嬉しい驚きを顔に浮かべた。
「吸血鬼と癒着している聖火の使い手、来栖って言いましたっけ? そいつの一族が江戸時代から吸血鬼の始末を請け負っているっていう触れ込みのおかげでハライソも御門には大々的な作戦を展開できませんでしたけど、真理亜さんの調査報告のおかげでようやく重い腰を上げて御門への介入が決まりましたからね。この街から吸血鬼を一掃するために、本部のお偉方も手抜きはしませんよ」
「聖火の一撃で10匹の吸血鬼を消し飛ばすと噂されるあの方に作戦に参加していただければ、まさに百人力ですわ」
「真理亜さん、天連さんの聖火の威力で消滅する吸血鬼の数は10匹どころじゃないですよ。下等な吸血鬼ならその倍の数は一撃で吹き飛ばします」
「伴天連、お名前からして使徒に相応しい方ね」
「はい、僕も含めて使徒はみんな天連さんのことを目標にしてますから」
御門の街と接点を持つ異空間、紫水小路に隠匿しているウツセミを掃討するために東京から遣わされる鬼神の如き力の持ち主の到来を、真理亜と聖は心待ちにする。
来栖と丹、それに紫水小路のウツセミたちを打倒するために敷かれた包囲網は徐々に狭められており、襲撃のための足掛かりとして葵の身柄を抑えたハライソの尖兵が彼らに襲いかかろうとしていた。
* * *
来栖と斎が付近の捜索に当たり、丹が自宅に残されていた葵の携帯電話のアドレスを元に妹の所在を確かめる電話を続けたものの、葵の行方は杳として知れない。次第に深まりつつある秋の夕暮れは早く、来栖と斎が何の手懸かりも掴めずに自宅に戻ってきた時には太陽が西に沈みかけていた。
「丹、警察から連絡は?」
既に捜索願を出しておいた警察から何か連絡があったかという父親の問いに対し、丹は何の音沙汰もなかったと首を横に振った。
「くそ…本当に警察は真面目に捜査しているのか?」
「オマワリさんの数も限られてますし、全員が人助けをするっていう使命感が強い訳じゃないですよ。しょっちゅう濡れ衣を着せられてますから俺はそれをよく知ってます」
「お前の場合は自業自得だろう、くだらない冗談を言っている暇があるならもう一遍葵のことを探しに……」
「静かにして!」
警察の怠慢を疑っている斎の気を落ち着かせようと来栖は軽口を利くが、それは火に油を注ぐ結果になってしまった。しかし斎が来栖に罵声を浴びせようとするのを、電話が着信音を鳴らすのを聞いて丹が遮る。来栖と斎は丹のいつになく鋭い叱責に呑まれて黙り込んでしまった。
「もしもし?」
『お前は霧島丹か?』
「そうだけど…葵は、妹は無事なの?」
『心配するな、お前の妹のことは丁重に扱っている』
丹が受けた電話の相手は機械的に音声を変換していることが明らかな耳障りな声で話しかけてくる。ノイズが酷く電話をかけてきた相手の性別さえも特定できなかったが、丹が葵の安否を訊ねると、相手は彼女を不当に扱っていないことを伝えてくる。
「それで要求は何、身代金はいくら用意すればいいの?」
『金など要らない、欲しいのは人間の中に紛れている吸血鬼のお前の命だ』
「…それは何の冗談かしら?」
葵の身柄を拘束している相手は身代金には本当に興味がなさそうな様子で、彼女を救いたければ丹の命で贖うことを要求してくる。丹は何故自分が吸血鬼であることをこの誘拐犯は知っているのかと驚愕するが、自制心を発揮してどうにか平静を保つとしらを切り通そうとする。
『惚けるな、お前が吸血鬼である証拠を我々は既に入手している。妹を騙し続けていたことへのせめてもの罪滅ぼしに、自分の命を差し出すことで我々に捕らえられた妹を救ってみてはどうだ?』
「あなたは何者、何のために妹を捕まえたの?」
『闇に隠れて人の生き血を啜る、穢れた存在の貴様たちを滅ぼすためだ。いいか、化け物の貴様に少しでも妹だった娘へ人間的な情愛が残っているのなら、明日の午前6時に北平川の福音教会に独りで来い』
「待って、わたしはまだ葵が無事なことを確かめて……」
『いいな、必ず独りで来るんだぞ。約束を違えたら貴様だけでなく妹の命もないと思え』
相手は葵の引渡し場所と時刻を告げると一方的に電話を切った。丹は葵の安否を確かめられなかったことを悔やみつつ、受話器を本体に戻す。
「丹、誘拐犯はなんて言ってた?」
「…葵のことは預かっているけど酷い目には遭わせていないみたい。葵を引き渡すのに身代金の代わりに吸血鬼のわたしの命で払えって言ってた」
「なんだって?!」
斎が電話の内容を硬い表情で訊ねると、丹はやりとりしたことを包み隠さずに父親と来栖に告げた。葵を助ける代わりに丹の命を奪うという相手の狂的な要求だけでなく、丹が吸血鬼である事を知っていることに来栖と斎は仰天する。
「冗談じゃない、娘を助ける代わりに別の娘の命を差し出すことなど認められるはずないだろう!」
「丹、電話をかけてきた奴は女か?」
「機械で声を変えていたし、雑音が酷くて話がすごく聞き取りづらかったから男の人だったのか女の人だったのかも分からない。でもわたしがウツセミってことを知っているだけじゃなくて、吸血鬼の存在を許さないみたいな話し方をしていた」
斎は1人の娘と引き換えに別の娘を救うことなど承知できず、理不尽な要求をしてきた誘拐犯に憤慨する。来栖は斎とは対照的に落ち着いた声で電話をかけてきた相手の性別を訊ねて来ると、丹は相手の性別すら判別できなかったことを謝罪するような顔で質問に答えた。
「もしかして葵の引き渡し場所に指定してきたのはどっかの教会か?」
「うん、明日の午前6時に北平川の福音教会にわたし独りで来るように言ってきた。でもどうして引き渡しの場所が教会だと分かったの?」
「この街にはウツセミやナレノハテがゴロゴロしてるけど、その存在を知っていてしかも強い嫌悪感を持っている奴なんてごく限られている。この茶番にどの程度関わっているかは分からないけど、安倍さんが一枚咬んでいることは間違いないと思うぜ」
来栖がどうして電話の内容を聞いてもいないのに引き渡し場所に教会を指定してきたことを言い当てたのか丹が疑問に思う。来栖は丹が電話の主と交わした会話の内容から、彼女が初めてナレノハテに襲われた時の現場に居合わせた、吸血鬼を殲滅し人間が住みよい世界を作り出す理念を掲げている組織ハライソに所属する真理亜の影を仄めかした。
「安倍さんって、葵の通っている芳志社女学院のマドンナの……?」
「そうだ、狂信的な教えを盾にウツセミとナレノハテの区別なしに吸血鬼を弾圧しているハライソとかいう組織にいるあのお嬢様だよ」
丹が葵も憧れている学校の先輩である真理亜が妹の誘拐に関与しているとは信じられなかったが、来栖は真理亜がその立場を利用して葵の身柄を確保するのに貢献したことを疑っていない様子だった。
「その安倍とかいう子は確か御門でも指折りの名家の令嬢だろう、どうしてそんな子がわざわざ吸血鬼退治なんて危ない橋を渡っているんだ?」
「さあ、それは安倍さん本人に聞いてみないと分からないっすよ。とにかく教会を母体にしている組織が咬んでいる以上、警察の協力は期待できそうにないっすね」
「俺たち庶民は金持ちの慰み者じゃないんだぞ、こうなったらその安倍という子の家に直接直談判して…」
「俺たちが屋敷に詰め掛けたってまともに取り合ってもらえず、ゴツい警備員に門前払いされるのが関の山っすよ」
「それじゃどうすればいいんだ、俺は葵を助け出すために丹が殺されるのを見過ごすしかないのか?」
社会的な後ろ盾があるからといってこんな暴挙が許されていいのかとやるせない思いに駆られた斎は、怒りで固めた拳を壁に叩きつける。
「そんなことないっすよ斎さん、葵も丹も助けられる方法はあります」
「相手は地元の名士の令嬢で警察の協力も得られないのにどうやって?」
自分の無力さにうちひしがれている斎に来栖は希望の光は未だ残っていると言い聞かせる。斎は半信半疑といった面持ちで来栖に視線を向けた。
「安倍さんは割のいい仕事を斡旋してくれるんでできるなら関係を悪くしたくない人ですけど、ウツセミ絡みのことに無関係な葵を巻き込んだ今回のやり方には俺も納得いきません。人間とウツセミの均衡を先祖代々数百年見守ってきたウワバミとして、人の縄張りに土足で踏み込むような真似をしたハライソの連中にはしっかりとケジメをつけてもらいます」
「まさかクーくん独りで安倍さんの所に殴りこみに行くの?」
「それじゃ俺たちウワバミが紫水小路のウツセミたちと親密に関わっている意味がないだろう? 朱美さんや紅子さんはお前がいなくなったらきっと悲しむし、他のウツセミだって同胞がなぶり殺しにされるのを黙っていられるはずがねぇ。だからお前の命を守るついでに葵の救出にも協力してもらうのさ」
丹が不安げな表情で来栖が独りで真理亜の所属する組織ハライソと一戦構えるのかと問うと、来栖は不敵な笑みを浮かべて首を横に振る。そして単なる吸血鬼の始末人としてではなく、人間の社会と彼らの社会の橋渡しをしてその秩序を保つ、ウツセミの天敵にして守護者であるウワバミの権限を利用し、同胞とその家族の命を守るためにウツセミの助力を請うのだと述べた。
「他のウツセミの人に協力してもらえればすごく心強いけどどうやって連絡するの、わたしもクーくんも朱印符を持ってないから迎えに来てもらわない限り紫水小路には入れないんだよ?」
「大丈夫だ、俺たちが自由に出入りできなくても斎さんならできる」
ウツセミに加勢してもらえれば非常に心強かったが、来栖も丹も異空間にある紫水小路への出入りに必要な通行証である割り札、朱印符を携行しておらず、紫水小路に電話やメールが通じる訳でもなかったので協力を要請する連絡手段がなかった。
しかし丹が妙案があっても実現が叶いそうにないことに落胆しても、来栖は余裕のある態度を崩さなかった。来栖はその自信を裏打ちしてくれる斎のことを横目で一瞥する。
「なるほど紫水小路にいる紅子と契りを結んでいる俺なら、朱印符とかいうものがなくても自由にあそこに出入りできるな」
「そういうこと。ウツセミの紅子さんと契りを結んでいる斎さんたちなら互いの存在に惹かれあって朱印符を使わなくても紫水小路に入れる。斎さん、紅子さんを通してでも源司さんに俺からの頼みを伝えてもらえますか?」
「任せておけ。可愛い娘たちの命がかかっているんだ、何としてでも援軍を寄越すように取り付けてやる」
「お願いします」
紫水小路にいるウツセミの族長に自分の協力要請を伝える役割を斎に来栖は頼むと、斎は二つ返事でその役割を了承した。来栖は下宿先の主で自分の親世代の斎が若輩者の自分の頼みを聞き入れてくれたことに感謝の意を込めて頭を下げる。
「さてと、じゃじゃ馬娘の救出作戦のアイディアが固まったから、斎さんには早速紫水小路に行ってもらって、俺はあの腹黒お嬢様の屋敷に探りを入れてこよう」
「クーくん、わたしは…わたしに何かできることはある?」
「お前は指定された通りに引き渡し場所の教会に行けばいいから、時間に遅れないように注意してここで待機していろ」
葵を救い出す手立てが決まったので、来栖と斎はそれぞれの役割を果たそうと家を出発しようとする。丹は自分にもできることがないかと訊ねると、来栖は指定された通りの行動をするだけでよいと言ってまた自宅待機を命じた。
「わたしも真理亜さんの家の偵察に行っちゃ駄目?」
「ああ駄目だ」
「どうして、やっぱりわたしはクーくんの足手まといになっちゃう?」
「違ぇよ、むしろお前が作戦の要だ。お前が相手の指示通りに動いてもらわなきゃ俺たちの目論見は破綻してしまう、だから俺たちが何事も企んでいないように見せかけるには、お前が家に残ってもらわなきゃならねぇんだよ」
真理亜の屋敷の様子を覗いに行くことへの同行を拒まれて丹は軽く落ち込んだが、丹の行動次第で葵の救出の成否が左右されてしまうと来栖はその理由を説明した。
「そんな不安そうな顔すんなよ。ウワバミとして人間とウツセミの間に保たれている調和を取り戻してやるさ」
「…うん」
来栖が基本的に仏頂面をしている顔をかすかに緩めて笑いかけてくると、妙に安心した気持ちに丹はなった。丹は来栖の言葉を信じ、妹に世話を焼かされたり喧嘩をしたりしても、穏やかで楽しい日々を取り戻せるのだと自分に言い聞かせて彼に頷き返した。
* * *
葵が家を飛び出して一晩空けた明朝、丹は誘拐犯からの指示通り、洛北区の北平川にある福音教会を訪れていた。昨晩家を出て行ったきり父親の斎も居候の来栖も家に戻ってこず、丹は独りで不安な夜を過ごしたが、何としても攫われた妹を取り戻すのだと気持ちを強く持って朝が来るのをじっと待った。
教会の門は開場されていて、丹は自宅からここまで来るのに使用した自転車をその脇に留めると教会の建物に向かっていく。明治期に建立されたという西洋建築の教会の扉もやはり鍵が開いており、丹はその中へと足を踏み入れた。
教壇の上方にあるステンドクラスや開け放たれた両側の壁にある窓ガラスから朝日が差し込んで、照明が点けられていなくても教会の屋内は充分な明るさだった。丹は吸血鬼に深刻な影響を与えるはずの陽光を気にせずに奥へと進んでいく。
「約束通り来たわよ、妹を返して頂戴!」
丹は妹を誘拐した人物に自分の来訪を大声で知らせる。丹の声が天井の高い屋内に反響すると、奥の扉が開いて覆面を被った人物が2人、葵を従えて丹の前に姿を現した。
「こちらが指定した通り独りで来たようだな、化け物にしては感心だ」
「ちゃんとこっちはあなたたちの言ったことを守ったんだから、早く妹を返して!」
覆面を被った人物はどちらも背丈は170cmくらいで丹と同じくらいの高さであり、小柄な葵よりも頭1つ分大きい。それほど肉付きの良い体格をしてはいなかったが、覆面を被っているだけでなく、警察の強行突入部隊や自衛官が身に着けるような厚手のゆったりとしたつくりの黒尽くめの衣装を着ているので性別ははっきりとは分からない。しかし少なくとも会話に応じてきた葵の前に立つ人物は男であるようだった。
「残念だがそれに応じることはできない」
「どうして、約束を破るつもり?!」
「何故なら彼女が生き血を啜る化け物である貴様の下に帰ることを望んでいないからだ、エイメン!」
葵の前方に立っていた人物は長椅子の並べられた床の中央に立つ丹の方に歩み取ってくると、葵の身柄の引き渡しに応じられない旨を告げてくる。誘拐犯が提示してきた条件を自分で反故にしようとする身勝手さに丹は抗議するが、近づいてきた黒尽くめの男は葵自身が帰宅を望んでいないことを告げると怒号をあげた。
黒尽くめの男の周囲が青白い光に包まれたと感じた次の瞬間、丹は視界が真っ白に染まり爆風を叩きつけられたような感覚を覚え、背中から床に転倒する。全身に電気が走ったように体の感覚が麻痺して床から起き上がることも出来なかったが、丹は黒尽くめの男が何をしたのかを察することは出来た。
「今のは剣気…どうしてあなたが?」
「剣気? ああ、この街に昔からいるウワバミとかいう連中は聖火のことをそう呼んでるんだったね。直接聖火を身に受けた気分はどうだ、その身に刻まれた罪業を悔い改める気にでもなったか?」
「人の血を飲まなきゃ生きられない自分に罪がないとは思っていない…それよりも葵がわたしの所に戻りたくないっていうのはどういうこと?」
「言った通りの意味だ、化け物が住んでいる家に戻りたいなんて思う人間がいる訳ないだろう? エイメン!」
「きゃああ!」
黒尽くめの男、ハライソが擁する凄腕のエクソシストである使徒に若くして列席している聖は無様に足元に転がっている吸血鬼に向かって再度聖火を打ち込んだ。聖なる青い光が瞬き、その光で身を痛めつけられた吸血鬼は苦しみのあまり床の上をのたうち回る。
「姉さん!」
「葵さん、あれはあなたのお姉様ではなくてその姿をしているだけの怪物よ」
姉の姿をした吸血鬼が悶え苦しんでいる姿を見ていたたまれず吸血鬼に駆け寄ろうとする葵のことを、覆面を被り男物の衣装を纏って正体を隠している真理亜が後ろから羽交い絞めにして聖の狩りの邪魔をされないようにする。
「違う、やっぱりあれはアタシの姉さんよ。例え体が吸血鬼だったとしても、本物の姉さんじゃなかったらこんな馬鹿正直に相手のいうことを鵜呑みにしたりしない!」
「葵……」
妹の悲痛な叫びを聞いて、魔性の身になった自分のことを姉と認めてくれたことを丹は嬉しく思う。全身を駆け巡る聖火の痛みがその瞬間だけ和らいだような気がした。
「聖さん、この子は私が取り押さえておきますから貴方は早くその吸血鬼に止めを!」
「分かってますよ真理亜さん。人間であればどんな罪人でも懺悔を聞いてやる義理はあるが、化け物の貴様にはそんな情けは必要ない。今すぐ引導を渡してやる」
「止めてぇ、姉さん逃げて!」
真理亜の腕を振り解こうと葵は華奢な体を蠢かせるが、真理亜は長い手足を彼女の体に絡めて離そうとしない。葵の懇願も空しく聖の体は聖火の青白い光に包まれていき、丹は指一本動かせず呆然と聖の聖火で処断されるのを待つしか出来なかった。
「喝!」
丹は覚悟を決めて固く目を閉ざしたが、その瞬間聖の立っている方向の向かいから威勢のいい気合と共に剣気が押し寄せてくるのを肌で感じる。反対方向から飛んできた剣気は丹の体をあまり打ち付けずに彼女の真上を素通りしていった。
「うっ?!」
聖が苦悶の声をあげたのに続いて、誰かが自分の方に駆け寄ってくる足音が丹の耳に聞こえてきた。近づいてきた足音が床を力強く踏み切った音がした直後、拳が肉を叩く重くて鈍い打撃音が教会のホールにこだました。
「どうもてめえらハライソの教義ってのは、みみっちくていけすかねぇ。神様の名を借りてやりたい放題暴れているようにしか思えねぇよ」
鉄拳を横っ面にまともに打ち込まれ、整然と並べられた長椅子の列に突っ込んでいった聖を来栖は唾棄するような眼差しで見下す。不意を突かれて殴打された聖は頬を腫らし、殴られた拍子に切れた口から溢れた血を吐き捨てて闖入してきた来栖を睨みつける。
「貴様はもしや……?」
「俺はこいつとそっちにいるお転婆娘の家の厄介になっているもんだよ。こいつにいなくなられると、まともな飯にありつけなくなって困るんだ」
ようやく乱れた椅子の中から這い出してきた聖の動きに警戒しつつ、来栖は聖の聖火に打ち据えられて憔悴している丹のことを背に庇う。
「遅いよクーくん……」
「悪い、ちょっとここに入るまでに手間取ってな」
来栖がようやく駆けつけてくれたことに安堵すると共に、丹は彼の到着が遅れたせいで自分が酷い目にあった責任を言及する。来栖はもう少し遅れてしまえば丹の命が危うかったことを侘びるが、彼の身に着けているナイロンジャケットやチノパンはあちこち破れ、建物の中に入るまでにひと悶着あったことを示していた。
「安倍さんよ、あんたが捕まえているそのじゃじゃ馬をいい加減離してもらえないか?」
「教会の周囲に配置した衛兵の防衛網を突破してきたことは褒めてやるが、死に損ないの吸血鬼よりも先に貴様を断罪してやる!」
「人の縄張りに土足で入ってきたくせに偉そうな口を利くんじゃねぇ!」
来栖は葵を捕らえている真理亜に視線を向けてその解放を呼びかけるが、不意打ちで負傷させられた怒りに任せて聖が来栖に向かって聖火を叩きつけてくる。来栖も余所者に自分の管理している街で横行されている不満を訴えながら、聖火と同質の能力である剣気を発して迎撃に出た。
第6回、楽園からの使者 了