第4回、暗闘の大儀
御門市の上空を覆っていた雲が晴れ、月光が繁華街の片隅に屹立するビルの谷間にも差し込んでいく。月明かりに照らされた路地裏で2人の男、厳密には1人と1匹の吸血鬼が今まさに拳を交えようとしていた。
「シャァァッ!」
「喝!」
獲物に飛び掛ろうとする蛇のような声と共に高速で疾駆してくる他所からこの街に流れてきた吸血鬼の義仲を、先祖代々御門の平和のために吸血鬼と戦ってきたウワバミと呼ばれる存在の末裔である来栖託人は威勢のいい掛け声を発して迎え撃つ。
来栖の全身が青白い光に包まれた後、活動のため生物が自給している精気を攻撃用に転換した剣気が義仲に向かって放たれ青白い光が同心円状に周囲に広がっていく。
物理的な破壊力はないものの、剣気は銃弾を撃ち込まれても鋭利な刃物で斬りつけても通常の武器で受けた傷は瞬く間に回復してしまう吸血鬼にも確実にダメージを与えられるものである。
来栖がこれまで始末してきたナレノハテと呼ばれる海老茶色の肌をして理性を失った異形の吸血鬼には剣気を1、2発当てれば充分にその動きを封じることができたが、現在戦闘状態に陥ろうとしている理性と人間だった時の姿を保ったままのウツセミと呼ばれる吸血鬼に分類される義仲には2発ではあまりダメージを与えられなかったらしい。
吸血鬼に対して有効な対抗手段を持つ来栖と戦うことになっても義仲は物怖じするどころか、むしろ捕食者としての闘争本能を駆り立てられ、生存競争にも血沸き肉踊っている嬉々とした表情で望んでいるようだった。
打ち寄せてくる波のように来栖の発した剣気が迫ってくると、義仲は迫りくる剣気を遮るように左の掌を前に突き出す。
「ハァァッ!」
義仲が精悍な顔を険しくして気合を叫んだ瞬間、大きく開かれた彼の掌に、夜の闇よりも暗く奥底の知れない影が30cmほどの直径の円を描いて広がる。義仲の掌に展開された円形の影の中に来栖の放った剣気は残らず吸い込まれていく。
義仲を牽制して自分の間合いの中に踏み込ませないように放ったはずの剣気を無効化されて来栖は一瞬動揺するが、剣気に足止めされずに進撃してきた義仲がコマ送りしたように自分の眼前に現れると反射的に右肩を軸にして半身を捻る。その刹那、来栖の鼻先を唸りを上げて義仲の振るった右の拳が掠めていった。
来栖は義仲の繰り出してきた拳をかわすために後方に仰け反って不安定になった姿勢を立て直そうとするが、義仲は吸血鬼の強靭な足腰の筋肉を駆使して強引にその場に踏み止まると、無造作に左腕を前方に振るって来栖の顔面を殴りつけようとする。
来栖は尻餅をつくように姿勢を低くして、直撃すれば顔面の陥没は免れない義仲の剛腕の一撃をやり過ごす。急激な動きをした軌跡を示すように宙に広がった来栖の髪の先が、義仲の腕に触れたことで舞い散った。
「喝!」
来栖はバランスを取るために地面に着いた左手と両足のバネを使って、大きく後ろに飛び退きながら再度義仲に向かって剣気を放つ。大振りの攻撃を外してできた隙をつかれ、義仲は先ほど来栖の発した剣気を捌いた円盤状の黒い影を展開できず、今度は剣気でその身を打ち据えられる。
来栖は退避した先で即座に立ち上がり義仲の様子を覗うが、三度剣気を当てられても義仲には大きなダメージはないようで、攻撃を仕損じて反撃されたことを憎々しく思っていそうな顔ですぐに来栖の方に向き直ってきた。
「紫水小路の出身じゃなくてもやっぱり蝕の具現化はできるのか……」
来栖は御門以外の土地に生息しているウツセミも、その肉体に内包している精気の真空地帯であり吸血鬼にとっての魂に相当する蝕を外部に具現化して、精気の変質したものである剣気を取り込む術を会得していることに軽い驚きを示す。
「当たりまえだろ、一撃のダメージは大したことなくても聖火は確実に俺たちを消耗させるからな。これが使えなきゃ教会の弾圧を切り抜けられねぇ」
義仲は深刻なダメージを受けてはいなくても、やはり人間が持つ自分たちへの対抗手段である教会のエクソシストたちの間では聖火と呼ばれている剣気の警戒しているようで、蝕の具現化を出来るか否かが教会からの迫害を乗り越えられるかどうかの条件になっていると苦笑を浮かべた。
「いくら聖火が俺に通用するからって自惚れるなよ、その威力じゃ当たってもダメージはどうってことねぇ。さっきはたまたま逃げられたが、俺をダウンさせられるほどの手数を打ち込む前にてめえは俺の拳でお陀仏さ」
「ふん、蝕で剣気を捌けてもお前の戦い方はウツセミのスバ抜けた身体能力に頼っているだけだ。いくら速く動けて重い一撃が打てるからって、お前の単純な攻め方を見切るのはそんなに難しいことじゃねぇよ」
「抜かせ、人間の小僧が!」
来栖と義仲は互いに啖呵を切って自分の実力を誇張し合うと、再び臨戦態勢を取る。しばし互いの隙を覗いながら視線を交錯させた後、次こそは紙一重で逃げ回る来栖を拳で捕らえようと義仲が先手を打ってきた。
「ウワバミを舐めんなよ、余所者にこの街の礼儀を教えてやるぜ!」
来栖は数世紀にわたり御門の人々の暮らしを陰から守ってきた一族の矜持を口にすると、全身を淡く発光させる。そして突進してくる義仲を迎撃するために来栖が剣気を放つと、周囲が雷光に包まれたようにぱっと明るくなった。
* * *
「獣同然に本能だけで動くナレノハテよりは知性がある分ウツセミは手強いみたいね。使徒と衛兵合わせて30人近くの死傷者を出し、ハライソの追跡を振り切って御門までやってこられた吸血鬼の面目躍如といったところかしら?」
真理亜は寝室の隅にあるデスクトップ型のパソコンのモニターに映し出された、来栖と義仲の戦闘の様子を楽しげな顔で眺めてその感想を述べる。
東京にある組織の本部から派遣されてきた使徒と呼ばれる腕利きのエクソシストの少年、聖をもてなした後、真理亜は湯浴みをして1日の疲れを流してきた。バスローブを羽織っただけの姿でベッドに寝転び、湯上りの安らぎの一時と過ごしていた真理亜に、パソコンが発信音でモニターを見るように合図をしてくる。
真理亜は合図が聞こえてくると共に即座にベッドから飛び起きてパソコンの前に駆け寄ると、彼女の家が出資した観測衛星へのアクセスを開始する。真理亜が観測衛星の捉えた映像を確認すると、彼女が吸血鬼の駆除を依頼した来栖が意外なほどの早さで標的に接触し交戦を始めていたのだった。
来栖が現在使用している携帯電話は、彼が御門市の北部に聳える鞍田山の祖父の元から街に出てきた際、真理亜が当時携帯電話を保有していなかった彼に贈答したもので、常に携帯電話のGPS情報の常時配信と、来栖が吸血鬼との戦闘に突入したと推定される急激な体の振動を感知したら真理亜のパソコンに情報を伝えるような細工がされていた。
来栖の携帯電話から送られてきた情報を元に真理亜が観測衛星を使って来栖の現状を確認すると、予想通り来栖は吸血鬼と戦闘を始めていた。
「衛星軌道上からの撮影では素早い攻防を繰り広げる来栖さんと吸血鬼の動きを捉えきることは出来ないわね…この荒い映像じゃはっきりしたことは分からないけれど、来栖さんの聖火はあまり吸血鬼に利いていないようね」
モニターに表示されている衛星からの映像の画面は粗く、更に来栖と義仲が高速で動き回っているため時折その姿がぶれてしまい真理亜には詳しい状況は分からない。だが不十分な映像からでも来栖が義仲の超人的な身体能力に圧倒されて、劣勢であることは覗えた。
「来栖さんのことを買い被るつもりはないけれど、この吸血鬼は厄介な奴みたいね。仮に来栖さんが敗れた場合、聖さんだけで仕留めるのは難しいかもしれないわ」
幾度か来栖の仕事振りを見ていたので、真理亜は来栖の戦闘力をある程度理解しているつもりだった。そしてその情報に基づいて考えると来栖が義仲に負けた場合、義仲を討伐するのは現在彼女の屋敷に逗留している使徒の聖だけでは心許ないというのが真理亜の抱いた感想だった。
「負けるにしても手傷を負わせるくらいの貢献はしてほしいところですわ……」
真理亜は義仲の扱いに関して今後の対応を思案しながら、来栖と義仲の決闘の行く末を見届けようとする。吸血鬼の義仲も吸血鬼の存在を黙認し続けてきた一族の末裔である来栖も、彼女としては神の教えに反するものとしていずれ抹殺しなければならない存在であった。
しかし通常兵器だけでなく剣気にさえ耐性を持つ強力な吸血鬼の義仲に生き残られるよりは、銃で撃たれれば傷を負い毒を盛れば悶える人間の来栖の方が始末をつけやすいと考えて、真理亜はできるならば来栖の勝利を願った。
* * *
真理亜が自分たちの戦いを観察しているとは露知らず、来栖と義仲は互いに一歩も引かない気迫を発して戦いを続けていた。
風を切って繰り出してくる義仲の拳骨の雨を前後左右、小刻みに体を揺らして来栖は避け続けていたが、一瞬も気を抜けない状況に神経をすり減らして的確に体捌きをしなければならない状態が延々と続いていると、次第に息があがり始めてきた。
一方吸血鬼の義仲は精気を自分の体内で発生させられずに他者から摂取しなければならない精気の渇きがあるものの、人間の肉体のように疲労の蓄積や息切れは起きないので鋭いパンチをいつまでも打つことが出来る。無尽蔵のスタミナを持つ義仲が、人間である以上避けられない心身の消耗を抱える来栖を押し始めていた。
「喝!」
「無駄だ!」
来栖は少しでも息をつく余裕を作ろうと剣気を発して義仲を牽制し、義仲と間合いを取ろうとする。だが来栖の動きを見越して蝕を具現化する準備をしていた義仲は、来栖が剣気を放つタイミングに合わせて掌に円盤状の蝕を展開すると、威嚇のために打たれた剣気を自分の蝕に吸収させて来栖の攻撃を打ち消した。
「ラァァッ!」
「くっ!」
義仲は蝕を具現化させた左腕を引き戻し、その反動で右の拳を来栖の顔面に突き出してくる。来栖は咄嗟に身を反らして砲弾のような拳を回避するが、完全には避けきれず頬に掠った義仲の拳の衝撃に顔をしかめる。
だが来栖も一方的に打ち込まれる状況を打開しようと、伸ばされた義仲の右腕に両肘を絡めて挟み込んで彼の腕の関節を極めようとする。来栖が全身の体重と腕の筋肉を振り絞って義仲の突き出されたままの右腕を下方に引き付けると、強固な骨格と柔軟な関節をしている吸血鬼の義仲の腕が軋んだ音を立てた。
「小賢しい!」
義仲は力任せに関節を極められかけた右腕を振り上げ、その勢いで腕にしがみついてきた来栖の180cmを越える屈強な体躯を宙に舞わせる。絶対的な筋力の差になす術もなく振り払われた来栖の体は放物線を描き、背中から地表へ落下していった。
「目障りなんだよ、今すぐ踏み潰してやる!」
義仲が先の尖った革靴を履いた足を持ち上げて、地面に転がった来栖の顔を踏みつけようとしてくる。着地の受身は取ったものの全身を強かに地面に打ちつけられた衝撃をまだ引き摺って、身動きが満足にできない来栖は迫り来る義仲の足を避けられそうにない。
「あああっ!」
来栖はやけくそ気味に絶叫をあげて剣気を放出した。頭に血が上っていた義仲はまともに来栖から撃ち出された剣気を喰らってしまい、その衝撃に押されて体のバランスを崩し尻餅をつく。
「だぁぁっ!」
来栖は自分の眼前に転倒した義仲にもう一撃剣気を撃ち込むと、地面を転がりながら義仲との距離をとって体を起こす。続けざまに剣気を叩き込まれたダメージは軽くなかったようで、地面に転んだ義仲が立ち上がるのに少し時間がかかった。
「この野郎、よくも俺様を土につけやがったな……」
剣気あるいは聖火という異名を持つ対抗手段を持っているとは言え、高い身体能力と鋭敏化された感覚機能により自分の優位は不動のものであるはずなのに、ただの人間でしかない来栖に意外なほどてこずってしまっていることに義仲は歯茎を剥き出しにして歯軋りをする。
「どうした、絶対的な捕食者である吸血鬼が餌の人間に随分苦戦してるじゃねぇか?」
「黙れ、人間ごときが吸血鬼に歯向かうなんて生意気なんだよ!」
来栖は弾んだ息を整えながら虚勢を張って義仲を挑発すると、義仲は精悍な顔のこめかみに青筋を立てて怒りを露にする。食物連鎖のピラミッドで自分たちの下位にあるはずの人間に侮蔑されたことが吸血鬼としてのプライドを逆撫でし、義仲は真正面から来栖に飛び掛っていく。
「はぁぁっ!」
来栖も腹の底から気合を響かせて、右の拳を振り被りながら義仲に突進していく。
「そんなもの打ち消してやる!」
来栖の突き出してきた右の拳が剣気の青白い光に包まれていることに気付いて、義仲は来栖が放つ剣気を相殺するために左の掌に蝕を具現化させる。来栖の剣気の光に輝く右の拳を義仲の伸ばした左の掌に展開された円形の蝕が包み込んだ。
「喝!」
来栖の拳と義仲の蝕が衝突した瞬間、来栖は拳を相手の掌に押し込むように雄叫びをあげる。だがいくら来栖が意気込んでも掌にある蝕が彼の剣気を吸収してしまい、ダメージを与えられないまま来栖は自分のカウンターパンチを食らうのだと義仲は勝ち誇った笑みを浮かべる。
「ぐっ?!」
しかし来栖の叫びと共に拳が振り抜かれその周囲が爆発的に輝くと、義仲は蝕を展開している左の掌に猛烈な痛みを覚えた。まるで掌の中で爆弾が破裂したような衝撃を感じると、義仲の左腕が頭上に跳ね上げられる。来栖の拳の一撃を喰らった衝撃はそれだけに留まらず、義仲は左腕どころか体ごと後方に跳ね飛ばされた。
「てめえ、一体何をしやがった? うっ……」
来栖の剣気に包まれた拳を受けた義仲は全身を痙攣させながら、幽鬼のように地面から起き上がって来栖に怨嗟の視線を向ける。左腕にまた激痛を覚えて義仲は反射的に右手を添えるが、左腕が指先から崩れ始めていることに気付き驚愕で目を見開く。
「マジかよ、斂を叩き込んだのにまだ生きてやがる……」
義仲はさっき受けた攻撃で自分の体が崩壊しだしていることに驚いていたが、来栖もこれまで相手にしてきたナレノハテは全て一撃で葬ってきた、剣気を一箇所に凝縮させて一極集中的にエネルギーを相手に叩き込む斂を使ってもまだ義仲を仕留められないことに衝撃を受けているようだった。
「なんだその目は…人間の攻撃に吸血鬼が耐えられんのがそんなに不思議か?」
義仲の肉体の瓦解は進んでおり、左腕だけでなく肩から胸にかけても彼の体は失われつつあった。瀕死の状況にありながら、義仲は自分がまだ消滅しないことを不思議そうに思っている来栖への恨みを述べて、怨念の炎を燃え滾らせた目を彼に向ける。
「餌の分際で、俺たちよりもずっと弱っちい生き物の分際で、吸血鬼を見下したような目をするんじゃねぇぇっ!」
「喝!」
義仲は左の上半身は完全に崩れ去り、右腕も肘から先は欠損した状態にも関わらず牙を剥き出しにして来栖に飛び掛ってくる。来栖は義仲がしぶとく姿を保ち続けていることを見て、念のため右の拳に凝縮し斂が発動できるようにしておいた剣気を放ち、頭上に飛び上がった義仲の鳩尾を射抜く。
「こんな聖火を使える奴がいるなんて聞いてないぞ、平輔ぇぇっ!」
来栖の右の拳から伸びる光の槍に貫かれた義仲は、この場にいない第三者を叱責しながら断末魔をあげてその身を粉々に爆発させる。外殻となっている肉体が消滅し、義仲の蝕が来栖の目に曝された。義仲の蝕は彼の体内に納まっていたとは思えないほど巨大な黒い球体あったが、これまで来栖が倒してきたナレノハテの蝕と同じようにその場に留まることなく煙のように消えてしまった。
来栖は剣気の連打に耐え切れず義仲の肉体が消し飛び、注入されたエネルギーが許容量を越えたせいでパンクした蝕も消失したことを見届けると、全身を弛緩させて重々しく緊張から開放されたことを安堵する息を吐き出した。
「撥でダウンを奪えない上に、源司さんみたく蝕で剣気を相殺されるとはな…正直しんどい相手だったぜ」
来栖は上半身を屈めて荒い呼吸をしながら、額に滲んだ汗を腕で拭う。こめかみを擦った時にやけにぬるっとした感覚がしたのを怪訝に感じで来栖が自分の腕に視線を向けると、手の甲に血が広がっていた。
「そうか、あいつに放り出されて地面に叩きつけられた時に……」
来栖は義仲の腕を極めようとして、逆に振り飛ばされて地面に叩きつけられた時に受身を上手く取りきれずこめかみを切ったのだと判断する。ウツセミと戦ったのは初めてとはいえ、攻め方だけでなく守り方にも課題が残る辛勝だったと来栖は苦々しい顔をした。
こめかみの出血はそれほど酷くなかったが、来栖はズボンのポケットからハンカチを取り出すと傷口に押し当てて血止めする。こめかみを覆った薄手のハンカチは滲む血を吸って赤く染まっていった。
「これまでも他所からウツセミが来たことってあったのかな? 後で先代か源司さんに訊いてみよう」
浅いとはいえ顔の傍で流血が続くのは気がかりであり手当をしたいことや、義仲との死闘を制したものの心身ともに重い疲労感を覚えていたので、来栖は義仲が御門市にやってきた理由の考察をひとまず棚上げして帰路に就くことにした。
初めて経験するウツセミとの戦闘だったことに加え、剣気の効き目が普段相手にしているナレノハテよりも軽く、剣気を多用しなければ義仲を倒せなかったことによって来栖はかつてないほど気力も体力も消耗していた。義仲の出現に関しての考察をする余力は残っておらず、来栖は踵を返して下宿へと戻るために暗い路地裏の奥からネオンの灯りが眩しい表通りへと足を踏み出していく。
「クーくん大丈夫?!」
来栖が表通りの手前までやってくると、彼の安否を訊ねてくる甲高い声が聞こえてきた。薄暗いビルの谷間にいたせいで表通りに煌く電飾や路上を走行する自動車のヘッドライトの光で目が眩み、はっきりと相手の顔を見ることはできなかったが来栖はこちらに駆け寄ってくる人影が誰なのかを即座に察する。
「ああ、心配ねぇよ」
来栖は見栄を張って背筋を伸ばして自分が健在なことを、息を弾ませてこちらにやってきた下宿先の次女葵にアピールした。
「クーくん頭から血を流れてるよ、あいつにやられたの?」
「まぁな、でもやられた分は倍返しにして追い払ってやった」
葵は来栖がこめかみに当てているハンカチに血が滲んでいるのを見てあっと声をあげるが、来栖は彼女に余計な心配をさせないように気丈な笑みを見せる。頭を負傷しても来栖がまともに受け答えをしてきた安心から、葵は来栖をトラブルに巻き込んでしまった罪悪感で強張らせていた表情を少し和らげた。
「お前、来栖じゃないか。今度は誰とやらかしたんだ?」
互いの無事を確かめ合った来栖と葵の間に和んだ雰囲気が漂い出すと、葵の後ろに控えていた男が来栖の顔に見覚えがあるらしく、彼が今晩誰と乱闘になったのかを問い質してきた。
「あんたは少年指導委員の…どうしてこいつと一緒に?」
「こんな遅くに街を出歩いていたこの子に注意しようとしたら、喧嘩を止めてほしいと強引にここまで連れてこられたんだ」
ナレノハテを捜して深夜の繁華街を歩いている時に何度か補導させたことがある少年指導委員の中年男性がどうして葵と一緒にいるのか来栖が疑問に思うと、指導委員の男性は補導しようとした葵に来栖と義仲の戦いを止めるように頼まれたと理由を明かした。
「なるほど、そういうことっすか」
「なあ来栖、すぐかっとなって喧嘩をするのはいい加減に止めたらどうだ。こんなことを繰り返したってお前自身にも何の得もないし、妹さんも心配するだろう?」
「妹?!」
葵と指導委員の男性が一緒にいる理由に合点がいった来栖に、指導委員の男性は来栖自身のためだけでなく葵を彼の妹と誤解して家族のことを考えて喧嘩を控えるように呼びかけた。来栖と葵は同時に指導委員の男性の誤解に対して素っ頓狂な叫びをあげる。
「派手な格好をしてこんな時間まで遊びまわっているのは関心しないが、兄さん思いのいい子じゃないか。怪我もしているんだし、今夜は早く家に帰れ」
「ちょっとオジサン?!」
「それじゃあな来栖と可愛い妹さん、仲良く帰るんだぞ」
葵の反論に耳を貸さず、指導委員の男性は最後まで彼女と来栖を兄妹と誤解したまま夜回りの続きに戻っていってしまった。
「冗談じゃないわよ、なんでアタシがアンタの妹に見られなきゃいけないのよ?!」
「いくら化粧したって背伸びしてる中坊にしか見えないんだから仕方ねぇだろ、それとも彼女に見られる方がよかったか?」
「それはもっとイヤ!」
葵が指導委員の男性に来栖の妹扱いされたことに憤慨するが、来栖の冷やかしに対して彼の恋人に見られるよりはマシだと言い返す。あからさまに恋人と見られることを葵に否定されて、少し来栖は渋い顔を浮かべた。
「下手に関係を勘繰られるよりは兄妹に見られた方がマシかもな、さてと傷の手当もしなきゃねらねぇし丹も心配しているだろうからさっさと帰ろうぜ」
現在居候している葵の自宅に戻ろうと来栖は促してくるが、葵はその場に立ち尽くしたまま動こうとしない。葵の血を吸おうとした義仲に路地裏に連れ込まれ、危うい所を来栖に逃してもらったが、助けられっぱなしでは寝覚めが悪いとちょうど自分を注意しようとしてきた指導委員を連れてこの場に戻ってきたが、事態に収拾がつくと自分を子ども扱いして隠し事をしている姉に反抗して家を飛び出してきたことを思い出した。
全身埃まみれで頭から出血している来栖ほどではなかったが、葵自身も先日買ったばかりのベロアジャケットはその下に来ているカットソーごと引き裂かれて肩からずり落ちそうになっている無残な姿をしている。こんなみっともない格好で出歩き続けるのは気が引けたし、義仲に自分の体を蹂躙されかけた恐怖が今になって沸き起こってきて姉や父親に縋りつきたいくらい心細い気持ちになっていた。
だが姉の丹や父親の斎を愛おしく思うと同時に、10年近くの失踪後に姿を現した母親に関して隠し事をされていることを思うと彼女たちに対しての不信感も込み上げてきた。家族の下に戻って心の安らぎを得たいという思いと自分を除け者にしている家族に対する不満がせめぎあって、葵は葛藤するあまり頭を抱え込んでその場にしゃがみ込みたい衝動を覚える。
「どうした霧島妹?」
「ダメ、アタシ家に帰れない……」
「はぁ、何言ってんだよ。自分の家に帰るのがいけない理由なんてあるのか?」
「だって姉さんも父さんもアタシのことを信用していないみたいだし…だから母さんが今どうしているのかを詳しく教えてくれないんだ。自分のことを信じてくれてない家族のトコになんか帰りたくないよ」
家に帰れないという葵の発言に来栖は首を傾げるが、彼女が10年ぶりに自分たちの前に姿を見せた母親の件で姉や父親が詳細を語ってくれないことを理由に帰宅を拒んでいるのだと知ると来栖は少し困惑した顔になる。
「ウチに帰るならクーくん独りで帰れば? 姉さんたちが大人だって認めて隠していることを全部話す気になってくれるまで、アタシは帰らないから」
葵は項垂れていた顔を上げると、来栖に対して独りよがりで子どもっぽい理屈を言い放ち、姉や父親が自分に対する態度を改めるまでは家に戻る意思はないと宣言する。
来栖は自分の視線から30cmほど低い位置にある葵の顔を見つけていたが、やがて目を閉じると呆れたような溜息を吐き出した。
「な、何よその溜息は?」
「そういう屁理屈ばっか並べてるから斎さんも丹もいつまで経ってもお前のことをガキ扱いするんだよ」
「指導委員のオジサンに顔を覚えられるような不良のアンタがアタシにお説教するつもり?」
「説教する気なんかねぇよ、俺は事実を言っているだけだ」
素行の悪さが街中に広まっているような問題児の来栖に、成績優秀で数え切れないほどの賞状をもらっている優等生の自分が説教されることが気に食わず、葵は彼のことを睨み返すが、来栖は葵の剣幕など意に返さず、完全に目下の人間を扱うように憐れみの籠もった眼差しを向けながら彼女に歩み寄っていった。
「こないで、それ以上近寄ったら悲鳴をあげるわよ?」
「つべこべうるせぇガキだな、いいから家に帰るぞ」
葵は来栖が目前に迫ってくると人を呼んで彼を困らせると脅しをかけるが、来栖は葵の脅迫を聞き流すと左手で葵の右手を掴み、強引に自分の隣に引き寄せた。
「離しなさいよ!」
「指導委員のおっさんにさっき言われたろう、いつまでも遊んでないでさっさと家に戻れってな」
葵は喚きながら激しく右手を振るって来栖の手を振り解こうとするが、彼女の手首を来栖の手は万力のような力で掴んで離さない。葵は眉間に皺を寄せて不服そうな顔で来栖のことを見上げてくるが、来栖は彼女の棘のある視線を受け流しつつ幼い妹を宥める兄のように優しげな目を向けた。
「…分かったわよ、今日は大人しく家に帰ってあげる。どうせアンタの馬鹿力には敵いそうにないし、それに服も酷いことになっているから着替えないと」
「そうそう、子どもは聞き分けがいい方が可愛げがあるぜ?」
「アンタまで子ども扱いしないでよ、お情けで居候させてやっている不良のくせに!」
来栖が初めて見せた優しい眼差しを受けて葵は従順な態度を示すが、来栖に再び子ども扱いされると、葵は細い脚を振り上げて彼の尻に強烈なキックをお見舞いした。
「葵てめえ、人が下手にでりゃ付け上がりやがって!」
「アタシのこと呼び捨てにしないでよ、クーくん!」
葵の脚が来栖の尻を蹴りつけると小気味いい音が鳴り響く。来栖はいきなり暴行を受けたことを非難するが、葵はその際に馴れ馴れしく名前を呼び捨てにされたことに抗議してきた。
「クーくんじゃねぇ、来栖さんだ!」
来栖も葵に呼ばれたくない渾名を使われたことに感じた不満を露にして言い返してくる。その後、来栖は相手が2歳年下の中学生であるにも関わらず、情けや遠慮は無用で葵と罵倒しあった。両者とも感情を包み隠さないまま言い合う姿を見かけた人の多くが、彼らを兄妹と思ったのは言うまでもなかった。
* * *
義仲と一戦を繰り広げた翌日、来栖はこめかみにガーゼを貼って登校した。来栖のこめかみに貼られたガーゼは多くのクラスメイトの目を引いていたが、しょっちゅう他校の生徒と殴り合いをしては生傷をこさえたり包帯を巻いたりして彼が登校してくること珍しくなかったので特に気に留める者はいなかった。
「見てよ丹、あの人また喧嘩したみたいだよ~?」
「そんなこと言うのはよくないよカンナちゃん……」
声を潜めて喋りかけながら友人の天満カンナが来栖の横顔を指差すと、丹はカンナの振る舞いに遺憾の意を示す。
「いつも不思議なんだけどさ、丹はどうしてあの人の弁護をしたりたまにお弁当を渡したりしてあげるの? 絶対あんな人と付き合わないほうがいいよ~」
「みんなクーくんのことを誤解してるよ。ちょっと見かけは怖いかもしれないし、たまに喧嘩をしているけれど、本当のクーくんは責任感が強くて思いやりのある、真っ直ぐないい人なんだから」
毎日のように生徒指導の教員に注意をされている来栖と付き合わない方がいいというカンナの発言は自分に対する善意によるものだとは分かっていても、丹は悪し様に来栖が悪く言われるのが我慢ならなかった。少し眦を吊り上げた厳しい顔で丹は一言多い友人の顔を見つめる。
「ごめん丹…自分でもちょっと言い過ぎたと反省している」
温厚な性格をしている丹の怒った顔を初めて目の当たりにした驚きと共に、自分の軽率な発言が彼女の気を損ねてしまったとカンナは反省の念を示した。
「わたしに謝る必要はないよ。でももう少しクーくんのことをちゃんと見てあげて、カンナちゃん」
「…分かった。丹がそう言うんなら、少しあの人の見方を変えてみるように努力する」
親友がここまで熱心に肩入れすることを受けて、カンナは来栖に対する見解を改めてみるように努力することを丹に約束する。
「ありがとう、きっとカンナちゃんもクーくんのことを見直すようになるよ!」
「丹がそんなに嬉しそうな顔をするなんて…よっぽど来栖くんのことが大事なんだね」
「うん、だってクーくんはわたしの恩人だから」
カンナが来栖への態度を改善することを約束してくると、丹は満面の笑みを浮かべて喜びを表現しながら彼女の手を掴む。穏やかな気質はしているものの、丹がここまで明確に感情表現をすることが少ないので理由は定かではないが、丹にとって来栖はかけがえのない存在なのだとカンナが察すると、丹は首を大きく縦に振って頷き返す。
「おい丹…あんまり人前でその名前を使わないでくれ」
「ご、ごめん…あれ、どこか行くの?」
「保健室、頭の傷がまた開いちまったみたいだから消毒してもらってくる」
視界に陰が差したと感じると、丹にあまり口外して欲しくない渾名を連呼されて気恥ずかしそうな顔をした来栖が彼女たちの席の前に立っていた。丹が謝罪をしつつ、休憩時間は日頃の睡眠不足を補うために眠っている来栖が珍しく席を離れていることを気にかけると、彼はこめかみのガーゼを指差して保健室に治療を受けにいくのだと答えた。
来栖のこめかみにある傷口を覆っているガーゼに意識が向くと、丹はかすかに塞がっていない傷口から漂う血臭を嗅ぎ取った。血の臭いを感じると丹は急に血の味を思い返してしまい、精気を欲して彼女の体が疼き始める。
「丹、妙にそわそわしているけどトイレにでも行きたいの?」
「う、うん…ごめん、ちょっと席外すね」
「いいよ、我慢してちゃ体に悪いし」
カンナが落ち着きのなくなった丹の態度に違和感を覚えると、丹は適当な相槌を打って席を立つ。結果的に丹は来栖と連れ立って教室を出て行く格好になった。
「渇きを感じたんだな、丹?」
来栖が小声で問いかけてくると丹は恥らうように小さく首肯する。昨晩自分が手にかけた義仲と同じく、丹は自我と人間であった時の姿を留めている吸血鬼の一員であった。人間を凌駕する吸血鬼として能力の大半を喪失する代わりに、鈍化した感覚神経のおかげで日光の影響も受けにくくなったため日中の活動も可能になった丹だったが、精気を自給出来ずに他人から摂取する必要があることは変わらなかった。
丹は夏休みに吸血鬼に転化して以降、来栖から血液を提供されて精気の枯渇を癒していた。来栖の精力に満ちた健康な血を美味しいと思いつつ、他人の血を啜って命を繋いでいる自分に丹は嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
そういった事情から丹は積極的に血を求めようとせずぎりぎりの状態まで血の渇きを我慢して、来栖が彼女の異変を感じ取ってようやく摂取するということが毎回のシチュエーションであった。
「天満の言った通りあんまり我慢すんなよ、無理した挙句に暴走される方がよっぽど迷惑なんだからな?」
「うん、いつもごめんねクーくん……」
「まったくだ、毎度毎度こっちから訊くまで飲もうとしないのにもうんざりだぜ。すまないと思うなら、自分から言い出してきてくれよ」
来栖がカンナの言葉を復唱すると丹はすまなそうな顔で足元を俯く。だが来栖が丹から血の催促をするように言うのを聞いて、丹は意外そうな顔で彼の顔を覗き込んだ。
「そんな顔してどうした、俺なんか変なこと言ったか?」
「ううん、でも本当にいいの?」
「なあ丹、あんたは俺に気を使ってるつもりなんだろうけどさ、あんまり遠慮し過ぎると逆に鬱陶しくて失礼に思われるぞ? 欲しいものならはっきりとそう言った方が、相手もすっきりするぜ」
来栖の発言を丹は嬉しく思うものの、本当に彼の言葉を信用していいのかと念入りに聞き返す。しかし来栖は何度も同じ質問を繰り返すのは時間を浪費することになってしまうので相手を苛立たせかねないし、中途半端に遠慮をして結論を引き延ばすよりは意思表示をはっきりした方が、双方気持ちがいいと丹に言い聞かせた。
来栖の言葉は丹の胸に響いたものの、彼の血が欲しいと要求することで自分の作り上げてきた人間性が崩壊してしまうような恐れを抱かずにはいられなかった。生き血への渇望は次第に強まっていく一方で丹が話を切り出せないまま歩いているうちに、彼女たちは保健室の前へとやってくる。
「赤城センセー、頭の傷が開いちゃったんで消毒してほしいんすけど~」
保健室の扉をノックすると、校医にするものにしてはぞんざいな口調で来栖は入室していく。もっとも来栖が生意気な口を利くのは校医の赤城に限ったことではなく、担任の盛田だろうが学年主任の教諭だろうが関係のない話だった。
「あれセンセーいないみたいだな。仕方ない、道具だけ借りて自分でやるか」
来栖が保健室の内部を見渡しても校医の姿は見当たらず、来栖は自分で傷の手当を行うことにする。サージカルテープで貼り付けたガーゼを傷口から剥がすと、来栖は校医の執務用の机の脇にあるゴミ箱にガーゼを投げ捨てた。来栖の右のこめかみは若干腫れあがっていて、膨らみの頂点に開いた傷口から血が滴っていた。
瘡蓋でところどころ塞がれている傷口は見ていて気色のいいものではないのに、丹は黒ずんで凝固した箇所と薄紅色の肉が覗き血が滲んでいる箇所が入り混じった来栖のこめかみの傷を見て、自分の口腔に唾液が分泌されて食欲をそそられていることを自覚した。
「クーくん……」
「なんだ? ぼうっと突っ立ってるならお前も一緒に消毒液を探してくれよ」
「わたし…クーくんの血が欲しい」
傷口に塗布する消毒液を探して壁際の棚を漁っていた来栖は、入り口の傍で立ち尽くしている丹に自分の手伝いをするように呼びかける。丹は来栖が物色している棚の方に進んでいったが、その理由は彼の助力をするためではなくて自分の渇きを癒すためだった。
丹は爪先立ちをして来栖の右肩に手を添えて伸び上がると、来栖のこめかみに開いた傷口に向かって舌を伸ばしていく。丹の舌が傷口をなぞると、来栖は内皮に触れられた痛みと同時にこそばゆい快感を覚える。丹の舌は何度も来栖の傷口の上を往復していき、その度に来栖は痛覚が敏感になった剥き出しになった肉を弄ばれる痛みと快感で体の力が抜けていきそうになるのをどうにか堪えていた。
来栖のこめかみの傷から零れる血の量は微々たるものであり、丹の渇きを満たせるだけの量を摂取するのには結構な時間を要した。だが来栖は時間の流れを忘れて、丹の舌に傷口を舐められる快感に身を委ね続ける。
「あなたたち、こんな所で何をやっているの?!」
丹の血の渇きがようやく納まりかけた頃、保健室に戻ってきた校医の赤城が来栖と丹が倒錯的な行いをしている場面を目撃して驚きの声をあげる。
「赤城先生?! これは、その……」
来栖の血を堪能した余韻に浸っていた丹は、赤城の声を聞くなり我に返ると慌てて来栖の体から飛び退く。丹の舌の愛撫で惚けていた来栖は、表情を引き締め直して素知らぬ顔でその場に佇んでいた。
「霧島さん、動物じゃないんだし傷口を舐めちゃ駄目よ。空気中の細菌だけじゃなくてあなたの唾液に含まれている細菌からも感染症を起こすかもしれないんだから」
「す、すみません……」
「こっちにいらっしゃい来栖くん、すぐに消毒をしてあげるから」
赤城は来栖と丹の背徳的な交感について深く詮索せずに、目の前にいる来栖の手当てを優先することにする。丹と来栖は赤城が他人の交際関係に対してドライな性格でかつ仕事熱心なおかげで、彼女が不在中に自分たちが保健室でしていたことに言及されなかったことに内心胸を撫で下ろした。
* * *
来栖が保健室で丹に傷口から血を舐め取られた日の夜、真理亜は自室の肘掛椅子に腰掛けながら、高校の校医を勤めている親戚の女性から久々にかかってきた電話に応対していた。
母方の親類に当たるその女性とは幼い頃から妙にウマがあって会話も弾みやすかったので真理亜は彼女のことを慕っていたし、彼女もまた真理亜を可愛がってくれていたので、真理亜は打算抜きにその電話を楽しんでいた。
『そういえば真理亜、今の高校生って好きな人に噛み付いたり傷を舐めたりするのが流行の愛情表現なの?』
「紗英子さん、ご冗談はよしてください。今も昔もそんな凶暴な愛情表現が主流になるはずございませんわ」
『そうよねぇ、じゃあやっぱりあの子たちのスキンシップは変わっているんだわ』
「くいな橋高校には紗英子さんがさっきおっしゃられたようなことをしていた生徒さんがいらっしゃるの?」
『ええ、しかもそのカップルっていうのが構内でも指折りの問題児と大人しい感じの優等生で通っている女の子なのよ』
「まあ、性質の悪い不良に誑かされた上、変質的な仕打ちまでされているなんてその女子生徒には同情致しますわ」
『違うのよ、大人しそうな性格の彼女が不良の彼氏の腕に噛み付いたり今日は喧嘩で作ったらしい傷を舐めたりしているの』
「その女子生徒は何か精神的な疾患でも抱えられていらっしゃるのかしらね?」
『どうやらその子は小さい時に母親が蒸発しちゃって、それ以来ずっといなくなった母親の変わりに妹の面倒や炊事洗濯を引き受けさせられていたらしいのよ。しかも夏休み中に10日くらい行方不明になっていたらしくて、学校でもちょっとした騒ぎになっていたわ』
「…紗英子さん、そのおかしなことをしているカップルについて詳しい話をお聞かせいただけないかしら?」
真理亜は紗英子の話を始めは面白半分で聞いていたが、徐々に紗英子の話に出てきたカップルの奇行やその素性を聞いているうちに気がかりな点を感じ始める。紗英子は何度か保健室で過激なスキンシップを繰り返しているそのカップルの扱いに少々悩んでいたらしく、愚痴を聞いてもらう感覚で真理亜に詳細を打ち明け始めた。
真理亜は奇行をするカップルの名前や家庭事情、最近の学校生活での様子をこと細かく伺っていき、紗英子は胸の裡に抱えていた悩みを真理亜に洗いざらい吐き出したことで互いに充実したやり取りをすることができた。真理亜は激務に追われている紗英子に養生するように労いの言葉をかけると電話を切った。
「やっぱり私の予想通り、そのおかしな振る舞いをされているカップルとは来栖さんと丹さんのことでしたのね。しかも夏休みに失踪されてからの丹さんの行動は、まるで吸血鬼のようじゃない?」
真理亜はくいな橋高校の校医を勤めている親類の赤城紗英子から聞き及んだ情報を統合して、丹が日光を避けるように厚着をしたり極力ひなたに出ないようにしていることや、彼女が何度も来栖の血を啜っているような行為をしたりしていることで、丹が吸血鬼なのではないかという疑惑を抱き始める。
「あの化け物どもの中には稀に人間並みの身体能力しか持たない代わりに、日中でも外を歩ける個体が存在するらしいですし、裏で奴らと結託している来栖さんと行動を共にして居候までさせていることも怪しいですわ。丹さんの身辺にも探りを入れてみる必要がありそうね」
真理亜は縦ロールの髪を指に絡めながら、面識のある少女の正体が吸血鬼ではないかという証拠を掴むための手立てに思考を巡らせ始める。ウワバミとしての自分を知られないために極力人付き合いを避けている来栖が、他人の丹の家に下宿するようになった時点で何かおかしいと思うべきだったと真理亜は自分の迂闊さを歯痒く思う。
「来栖さんも丹さんも一緒に化けの皮を剥いでやりますわ」
真理亜は自分が犯してしまったかもしれない失態を取り返すためにも、確実に来栖と丹が隠している事実の手懸かりを掴もうと自分を鼓舞して、その秀麗な顔に不敵な笑みを浮かべた。
第4回、暗闘の大儀 了