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うつせみ血風録  作者: 三畳紀
序ノ段
2/21

第2回、不死身の一族

 金色の月が秋の夜空から柔らかな光を地上に降り注がせる夜更け、霧島葵は姉の寝室の前に立っていた。


 友人と交流を深めるためのメールに勤しみネットやテレビで流行のチェックに余念がない葵が遅くまで自分磨きに精を出しているとは対照的に、まだ高校生だというのに所帯じみた雰囲気を纏い早寝早起きを徹底して若さを棒に振っている彼女の姉はまもなく日付が変わろうとするこの時間帯にはとっくに就寝している。


 しかし葵はどうしても姉に頼みたいことがあるため、断腸の思いで姉の穏やかな眠りを妨げることにしたのだった。ちなみに葵が姉の眠りを妨げてまで頼もうとしていることは、明日友人と遊びに行くから姉の小遣いを少しばかり貸してほしいという催促である。


「姉さん起きてる?」


 葵は姉が奇跡的に起きている可能性を考慮して部屋の戸をノックするが、案の定姉は夢の中にいるらしく返事はない。


「入るわよ、姉さん」


 眠っている人間の返事を期待しても無駄なので、葵は問答無用で戸を開けて姉の部屋の中に押し入った。入り口の脇にある電灯のスイッチを点けて、強引に惰眠を貪っている姉のことを叩き起こそうとする。


 だが電灯に照らされて部屋の中が明るくなると、葵は姉の部屋で異変が起こっていることに気付いた。葵は空になっている姉のベッドを見るなり顔を蒼白にすると、身を翻して姉の部屋の中から駆け出していく。


「父さん大変、姉さんが部屋にいないの!」


深夜の静寂を引き裂くような大声と共に葵はリビングに駆け込んでいく。深夜の報道番組を受信している液晶テレビから目を逸らして、一家の主のいつきは取り乱した様子の次女の方を振り向いた。


「コンビニにでも行ってるんじゃないか?」


「少しでも出費を抑えようとしている姉さんがスーパーに比べて割高になるコンビニで買い物をすること自体珍しいし、こんな夜中に出かけるなんてありえないわよ!」


「心配するな、そのうち帰ってくるだろう」


 姉の姿が見当たらないことに動揺している葵とは対照的に、普段は姉のことを過保護なまでに心配しているくせに斎は妙に落ち着き払った様子で娘の応対をする。まるで姉がどこに行っていていつ戻ってくるか知り尽くしているようなほど余裕のある態度を見せると、斎はテレビの画面に視線を戻した。


「今度こそ姉さんが戻ってこないかもしれないのにそんなことを言うなんて…父さんの薄情者、もういいわ姉さんのことはアタシ独りで探すから!」


「帰ってくるなりぎゃあぎゃあうるせぇな、近所迷惑も考えろ」


 姉がまた失踪したかもしれないのに冷淡な態度の父親のことを見限って、葵が姉を探しに出かけようとすると玄関の外から家の中に居候の少年が入ってきた。


「クーくん、アンタ姉さんがどこ行ったか知らない?」


「おい霧島妹、クーくんじゃなくて来栖くるすさんって呼べ」


「男のくせに細かいことを気にするんじゃないわよ、そんなことよりもアタシの質問に答えなさいよ」


 玄関と座敷の段差は30cm近くあったが、長身の居候来栖と小柄な葵の視線はほぼ同じ高さにあった。葵は姉と同級生の来栖に対し、薄い胸を反らして居丈高な態度で姉の行方を知らないか訊ねる。


「ただの居候の俺が、まことがどこに行ったかなんて知る訳ないだろう?」


「図体がでかいだけでアンタってホントに使えないのね…もういいわ、ぼさっと突っ立ってられると邪魔だからそこどいてよ」


 丹の同級生で二学期が始める頃からこの家に居候をし始めた来栖ならば姉の行方を知っているかもしれないと葵は淡い期待を抱くが、彼の答えを聞いて葵は嘆息する。身長だけでなく肩幅も広い来栖がいるだけで狭いこの家の玄関は塞がってしまっているので、葵は自分が外に出るために彼に玄関からどくよう命じた。


「斎さーん、じゃじゃ馬娘が夜歩きしようとしてますけど止めた方がいいっすよね?」


「ああ、子どもは夜更かししてないでさっさと寝ろ」


 来栖が玄関の扉と葵の前に立ち塞がったまま奥のリビングにいる斎に葵の扱いについて指示を求めると、斎は来栖の発言に相槌を打った。


「いつも11時にはベッドに入っている姉さんが家にいないって言うのに、アタシが安穏と眠れる訳ないでしょ?!」


「あいつのことなら心配ねぇよ、それに寝る子は育つっていうだろ?」


「ちょっとクーくん離しなさいよ、こら!」


 来栖は履いている大きなスニーカーを脱いで行儀正しく玄関の脇に並べると、行く手を塞いでいる葵の体を軽々と持ち上げて座敷に上がった。来栖の幅広の両手に肩を掴まれて子どものように宙に浮かされた葵は足をじたばたさせながら抗議するが、来栖はそのまま彼女をリビングまで連れて行く。


「斎さん、その姉離れができてない妹の面倒頼みますね」


「分かった、お勤めご苦労だったな」


「誰が姉離れ出来ていない妹よ!」


 葵は来栖の手から乱雑に投げ出されて転がった床の上から飛び起きると、入り口から顔を覗かせて来栖の背中を睨む。しかし来栖は葵の剣幕を無視して入浴のため洗面所に入ってしまった。


「父さんもクーくんも冷たすぎるんじゃない、姉さんのことが心配じゃないの?」


「そんな訳ないだろう、あいつも俺もちゃんと丹のことを想っている」


「だったらテレビなんか見てないで姉さんを探しに行くのが普通じゃない?」


 来栖が風呂場に逃げ込んでしまったため鬱積を彼にぶつけることが出来ず、葵は行き場のない怒りの矛先を父親に向けて八つ当たりをする。しかし斎は変わらず突然家からいなくなった姉の身を案じていないようだった。


「本当に丹がいなくなったのならな、しかし今は大丈夫だ」


「どうしてそう言い切れるの?」


「それは子どものお前が知る必要はない。明日朝から友だちと遊びに行くんだろ、だったら早く寝た方がいいんじゃないか?」


 父親と恐らく来栖は姉の丹が今どこにいて何をしているか知っているようだったが、葵にそれを伝えるつもりはないらしい。葵は隠し事をされただけでなく、子ども扱いされたことで一層機嫌を悪くする。


「いつまでも子ども扱いしないでよ、姉さんに何かあったら父さんとクーくんのせいだからね!」


 葵は金切り声で父親とこの場にいない居候のことを罵倒すると、力いっぱいドアノブを強く引いてリビングのドアを閉めた。ドアを留めている蝶番ちょうつがいが壊れたのではないかと斎が懸念を抱くくらい大きな音を立てて扉が閉まり、足音を立てながら葵は階上の自室へと引き上げていく。


「さすがにいつまでも隠し通せはしないか、しかし本当のことを言ったところであのひねくれ者が素直に信じる訳もないし……」


 斎はソファの背もたれに凭れかかりながら彼と丹それに来栖の3人が共通している秘密を、葵にも打ち明けるべきかどうか逡巡する。丹が今晩何の目的でどこに出かけているのかを話すのは簡単だったが、その内容は到底中学生の葵が信じられるようなものではなかった。


「無理もないか、丹と紅子が吸血鬼になってこの世界とは別の空間で仲間と一緒に暮らしていると聞いた時、実物を見るまで俺も信じる気にはなれなかったもんな」


 自分自身が作り話とした思えない事実を受け容れるまでに時間を要したことを思い出して斎は苦笑を浮かべる向こうで、液晶画面に映るタレントたちは台本に記された通りの馬鹿笑いをしていた。


* * *


 薄紫からオレンジへ変化していくコントラストが彩る黄昏の空の下、癖のある髪をショートカットにした女性が手元の地図と辺りの風景を見比べながら慎重な足取りで歩いている。灰色のウールで織られたカーディガンにデニムパンツを履いたその女性は日本人にしては比較的長身で体の線も女性的な膨らみがあるが、化粧っ気のないその顔の表情はどこか頼りなげであり高校生くらいに見える。


「あぅち…ここ来るの初めてだから自分が今どこにいるのかはっきり分からない。やっぱり誰かについてきてもらえばよかったなぁ……」


 見知らぬ通りを見回して困惑した表情をしているのは、紫水小路しすいこうじに住む吸血鬼の一族ウツセミの庶務全般を担当する部署の政所まんどころに所属している若いウツセミ丹である。彼女は同僚に使いを頼まれてこの地区にやってきたが、人間からウツセミに転化して2ヶ月余りの上、普段はウツセミの安住の地である紫水小路ではなく現世で人間だった時の家族と生活しているため未だに土地勘が覚束ない場所がいくつかあった。


 使いに出された目的地であり、紫水小路に住まう吸血鬼の嗜好品である血液の代用品チンタの醸造と流通を一括して担っている酒蔵さかぐらのあるこの辺りも丹に馴染みのない地区の一つだった。


 紫水小路にはウツセミの氏族が2つ存在していて、丹は商取引や接客業を生業としている実業的な性格の強い代永よなが氏族に属していたが、酒蔵には代永と職人気質の富士見ふじみ氏族のウツセミが混在しており、酒蔵の敷地はちょうど2つの氏族の領地の境に面していた。


 両氏族の間に交流がない訳ではなかったが、即物的かつ現実的な利益を追求し氏族内の厳格な統制を敷いている代永と観念的で理想主義でありまとまりのない富士見の気質は相容れず両者の関係は良好とは言い難かった。そのため一方の氏族のウツセミが相手の領地に足を踏み入れることはそれほど多くはなく、特に代永のウツセミが富士見の領地を訪れることは滅多にないことであった。


 そのため両氏族の領地の境界に位置する酒蔵の周辺の地理に丹が疎いのも仕方のないことと言えたが、途方に暮れているばかりでは時間を無駄にしてしまい使いを果たすことができない。誰かに道を聞いて酒蔵の場所を教えてもらおうと丹が思っていると、彼女がやってきた代永の領地の方から一台の自転車がやってきた。


「あの、すみません」


「どうかした、見慣れない顔だけど君、代永のひと?」


 丹が道を訊ねようと前後の荷台に大きな籠を取り付けた古風な自転車に跨っているその人物に声をかけると、自転車を運転していた人の良さそうな青年の姿をしたウツセミはブレーキをかけて丹の前に立ち止まり会話に応じる。


「はい、わたし丹って言います。あの、酒蔵の場所を教えて欲しいんですけど」


「いいよ、僕も今から酒蔵に戻るところだし案内するよ」


「本当ですか、よろしくお願いします」


「はは、礼を言われるようなことじゃないよ。酒蔵に用があるってことはチンタを買いに来てくれたんだろう、お客様をもてなすのは当然のことじゃないか」


 酒蔵で働いているらしい青年の姿をしたウツセミが気前よく案内を承諾してくれると、丹は相手の親切に感謝して頭を下げた。青年の姿をしたウツセミは律儀な丹の態度を微笑ましく思ったように明るい笑顔を浮かべると、サドルから降りて自転車を押しながら丹の案内を始める。


 酒蔵までの道のりで丹は自転車に乗っていたウツセミがあきらという名前の20年ほど前に転化した富士見氏族のウツセミであること、ウツセミ全体だけでなく酒蔵の中でも若輩者であり代永のウツセミの下にチンタの配達に回らされていて今はその帰りだということ、そして人間だった時は御門市内にある美術大学の学生だったことを知った。


「富士見のウツセミって創作活動を仕事にしているひとが多いですよね、晨さんは絵を描くことを仕事にしないんですか?」


「確かに富士見氏族には絵や織物、工芸品を作り、代永のウツセミが花街で稼いだ金でそれを買わせて収入を得ているひとも少なくないけどね、それでやってけるのはやっぱり人間の世界と同じで特別な才能の持ち主だけさ。僕程度ではとても天才肌のあのひとたちの中でやっていけないよ」


 晨の経歴を聞いて丹は画家を志していた彼が筆を置いて何故酒蔵で働いているのかと疑問に思うが、晨の返答を聞いて気まずい顔になる。しかし丹が横目で覗った晨の顔には後悔の念は浮かんでおらず、自分の素質の限界に諦観したある種の清々しさがあった。


「すみません、事情も知りもしないくせに好き勝手言っちゃって……」


「いいさ、僕が絵で食っていけないのはどうしようもない事実だからね。丹ちゃんのせいじゃないよ」


 丹が不躾な発言をしたことを謝罪すると、晨は彼女に罪悪感を引き摺らないように言い聞かせるように快闊に笑う。晨の爽やかな笑みを見て、丹の表情も明るくなった。


「さあ着いたよ、ここが酒蔵だ」


 丹は晨が腕を掲げて示した木製の大きな門扉を見上げる。百年以上の時を生きている住民の感覚を反映してか、人間の暮らす現世よりも紫水小路の通りの造りは数十年遅れたものになっていたが、酒蔵の門は古風な建物が多い紫水小路の中でも特に古めかしい。封建時代の関所のような門を前にして、丹はその荘厳さにしばし呆気に取られる。


「驚いた? かく言う僕も最初に見た時は丹ちゃんみたいにびっくりしたんだけどね」


 晨は丹が酒蔵の門を見て圧倒されるのも当然だと言いながら、数mの高さがある門の端にある通用口の扉を押し開けようとすると、内側からその扉が開かれた。中学生くらいの未成熟な体型をしたメイド服を着た少女に続いて門の内側から出てきたのは、丹が眼前に巨大な門が聳えていることを忘れてしまうほどの美貌をした腰まで届く艶やかな長髪の美女だった。


 ウツセミに転化して以降、丹は数え切れないほどの美男美女を見てきたつもりだったが、酒蔵の門から出てきた女性の美しさに比べるとそれまで目にしたものの印象など霞んでしまいそうだ。丹念にカットされた水晶の彫刻のように凛として、玲瓏としたその女性の容貌に丹は思わず魅入ってしまう。


「あら晨じゃない、久し振りね」


「ご無沙汰しております、千歳ちとせ様……」


 晨は硝子細工のように触れれば壊れてしまいそうな美しさのその女性と面識があるらしく、自転車のスタンドを立てるとその場に恭しい仕草で跪いた。


「あなたと私の仲なんだから、そんなに畏まる必要はないじゃない?」


「いえ、族長の貴女に下っ端の私が敬意を表すのは至極当然のことと存じます」


「こんな風に私を敬うのはあなたくらいのものよ。私たちよりも上下関係が厳しい代永だってそこまでしないんじゃないかしら、ねえ烙印を刻んだ新米さん?」


 自分の足元に跪いたままの晨から視線を丹に移すと、長髪の美女はそれまで能面のように無表情だった口元を微かに吊り上げる。顔立ちが整い過ぎているため、新雪のように白い顔の中でただ一点鮮やかな赤に染まっている唇が弧を描いた様は、笑ったというには余りにも壮絶な凄みがあり、丹はその笑みを美しいと思った以上に背筋が凍るような衝撃を感じた。


 氷の妖精のように非現実的なほど美しい笑みを浮かべているその女性と丹の目が合って思考が停滞してしまったせいで、今自分が向かい合っている人物は以前丹が現世に赴く許可を審議する紫水小路の有力者の会合に出席していた富士見氏族の族長千歳だと思い出すまでにしばらく時間を要してしまった。


「お嬢様、烙印を刻まれるなんてあのひとどんな悪さをしたんですか?」


 丹が質問に答える前に、千歳の脇に控えていたメイド服の少女が甘えた声で主君に擦り寄りながら、掟に背いたウツセミに科される罰の中でも特に重いものされる烙印の刑に処せられるに値した丹の罰を問う。


「悪さをする暇もないくらい早く、自分から烙印を刻んで欲しいと族長の源司さんに頼んだそうよ」


「ええっ、ウツセミが自分から背中を銀の刃で斬ってほしいなんて正気の沙汰じゃないですよ?!」


「そうね、見かけによらず酔狂な子みたいね。まあ、産みの母親に転化させられたウツセミがありきたりの性格じゃあ面白くないけど」


 千歳は自分の一言一句に多大な反応を示す従者を愉快げに見つめていたが、実の母親の手で魔性の身に転化させられたことを述べると丹に流し目を向ける。丹に向けられた千歳の瞳は硝子球のように澄んでいて、無機質な感じだった。


 丹は千歳の視線に射竦められながら、千歳の美しさが他のウツセミと比べても際立っている理由を漠然と察する。源司や緋奈、それに母親の紅子といった知り合いのウツセミたちの美しさが色相関における赤や黄色の暖色系を用いて前に浮かび上がってくるような印象ならば、千歳の美しさは彼らとは真逆の青系統の色を使って後ろに下がって見える寒色の印象だった。鑑賞する側にアピールするのではなく、彼女の方に引き込まれてしまいその虜になってしまう危険な感じの美貌を千歳はしているからこそ、美男美女揃いのウツセミの中でも異質の存在となりえるのだろう。


「黙り込んでしまっているけれど人見知りする性格なのかしら、それでは厚かましい連中の多い代永の中でやっていけないわよ?」


 千歳は彼女の美貌に気圧されてしまっている丹が自分の質問に答えないことを不服に感じたらしく、微かに眉を吊り上げた。それから滑るように静かな足取りで千歳は丹に歩み寄っていく。丹は蛇に睨まれた蛙のようにその場から一歩も動けなくなったどころか、瞬き一つできずに千歳がやってくるのを待つ。


 千歳は差し伸ばした手を丹の頬に触れさせた。頬に触れた千歳の掌の感触は労働をしたことがないもののように柔らかく滑らかだったが、氷のように冷たかった。丹が自分の頬に触れている千歳の手に視線を向けていると、千歳の顔が自分の顔の目の前まで迫っていることに気付くのに遅れてしまった。鼻先が触れるほど丹に顔を密着させて、千歳はまじまじと彼女の顔を覗き込む。


「あ、あの……?!」


「思っていたよりも背が高いのね。でもわたるおじさまが欲しがったのも頷けるわ、あなたが人間だったら私も手元に置きたいもの」


 千歳は心底丹が同胞であることに落胆したように長い睫毛を伏せて溜息を一つ吐くと、密着させていた顔を丹から離し彼女に背を向ける。千歳が丹の前から離れ始めると、従者の少女が彼女に駆け寄ってきた。


「お嬢様、わたしの奉仕に何かご不満があるのですか?」


「いえ、あなたの働きには充分満足しているわよ。でもね永遠とわ、あなたも綺麗な花を見ればそれを花瓶に挿して飾っておきたいと思うでしょう。私はあの子にそれと同じような感情を持ってしまったのよ」


「あんなデクノボウ、お嬢様の召人めしうどには相応しくないですよ」


 千歳に永遠と呼ばれたメイド服の少女は頬を膨らませると主の腕を掴んで抱きつく。千歳は従者の少女が丹に嫉妬する姿を見ても気を害さずに、むしろ自分に愛想を振り撒いてくる彼女を可愛らしく思っているようだった。


「晨それから丹さん、私たちはこれで。またお会いできることを楽しみにしているわ」


「ありがたきお言葉頂戴し、まことに光栄です」


「は、はい……」


 千歳が艶然と微笑みかけてくると、晨と丹は恐縮した様子でそれに応えた。彼らの返事を聞き届けると千歳は、精気の提供や身の周りの世話、場合によっては夜伽の相手までさせる専属の奴隷である召人の永遠を伴って酒蔵の前から立ち去っていった。


「同じ族長でも、ウチの源司さんとは随分印象が違うひとですね……」


「うん、一族の運営をうまくやっているやり手だけど源司さんは気さくな性格で誰とでも打ち解けられる人だからね。千歳様は源司さんとは対照的に、選り好みが激しい性格で気に入らなければ同じ氏族でも口も利こうとしない方だから」


 千歳の圧倒的な美貌を前にして萎縮していた丹と晨は共に肩の力を抜きながら、互いの族長の対比をして緊張を解そうとする。


「晨さんって千歳さんと仲良いんですか?」


「へ?!」


「だって千歳さんのことよく知っているし、千歳さんも晨さんに遠慮することないって言ってましたし」


 丹が晨に彼と千歳の仲を訊ねると、晨は素っ頓狂な声をあげる。狼狽した様子の晨の態度を訝しく思いながら丹は質問を重ねた。丹の質問を聞くと、晨は何か言いにくいことがあるような顔を浮かべる。


「無理に知りたいとは思いませんし、晨さんが言いたくないならそれでいいですよ?」


「…丹ちゃん、僕はね昔千歳様の召人だったんだ。精気を摂取することが最たる動機とはいえ、僕は千歳様の寵愛を受けていた。だから千歳様は昔情けをかけてやった僕が、あんまり余所余所しい態度をすることが面白くないのさ」


 丹が晨の心情を慮って、彼が答えたくないのならそれでいいと言うと、晨は重く閉ざした口を開いて丹の質問に答え始める。かつての2人の聞いたものの、丹は先ほどの千歳の晨に対する態度は愛玩動物に対するものだとは思えずいまいち腑に落ちなかった。


「さあ中に入ろうか丹ちゃん、政所の先輩たちが渇きを堪えて待っているんだろう?」


「あぅち…そうだった、早く戻らないとみんなに怒られちゃう」


 晨に使いの用を思い出させられると丹は苦々しい顔を浮かべた。彼女が酒蔵に使いに出された理由は、政所の先輩たちから渇きを癒すためのチンタを酒蔵から買ってくるように申し付けられたためだった。ウツセミの中では割合温厚なものが多い政所の職員だったが、あまり長いこと渇きを我慢させられては彼らの堪忍袋の緒も切れてしまうだろうと丹は身を震わせる。


「突き当たりの受付に言えば、すぐにチンタをもらえると思うよ」


「晨さん、色々とありがとうございました」


「うん、それじゃまたね」


 晨は丹にチンタの受け渡し場所を指で示して教えると、彼女の進路とは反対方向にある自転車を置きに駐輪場へと向かっていった。丹は晨に礼を言うと教えてもらった受付に小走りで向かっていく。木造の建物に瓦屋根の葺かれたチンタの醸造をしている蔵は酒蔵の名が示す通りの広い間取りをしていて、蔵の中からは丹の通う高校の南にある酒造工場のようにアルコールに似た甘い香が漂ってきた。


「ウツセミも人間と同じで、いろんな性格のひとがいるんだなぁ」


 丹は受付の職員に用件を伝えて必要な分量のチンタを用意してもらっている間、今日出会った富士見のウツセミたちや今まで知り合った代永のウツセミたちのことを思い浮かべて、ウツセミの性格も人間と同じように十人十色だということを感じる。


 ウツセミに転化して人間でなくなったことに丹は大きな喪失感を覚えていたが、最近ウツセミである自分に慣れてくると、人間とウツセミの違いは活動に必要な精気を自給できるかできないかくらいのことでしかないように彼女は思い始めていた。


* * *


 酒蔵からチンタを購入してきた丹が戻ると、仕事を終えた政所の職員たちが我先にと籠の中からチンタの入った瓶を抜き取っていく。チンタを受け取った政所のウツセミたちは瓶に蓋をしているコルクを引き抜くと、湯上りに飲む牛乳のように小瓶の中にある赤ワインに似た液体を一息で飲み干した。


「こら、長であるわしを差し置いて先にチンタを飲むでない!」


 幼いトーンの声が政所の廊下に響くと、奥から和服に身を包んだ中学生くらいの少女が細い肩を怒らせてチンタを堪能した職員たちの所にやってきた。


「申し訳ありません政所様、しかしお姿が見えなかったので先にいただいてしまいました」


 丹の産みの母親で彼女と同じくウツセミの紅子べにこが半分ほど残ったチンタの瓶を握ったまま政所の責任者である少女を待たずにチンタを飲んでしまったことを、どこか皮肉を含んだ言い草で侘びる。


「最近お主も腹黒くなってきたのう紅子、ここに来た時は生娘のように清らかな女子であったのに……」


「これでも二児の母親ですから、強かでなければ母親の役目は務まりません」


朱美あけみちゃんの分はこっちに残してあるよ、ほら」


 丹はカーディガンのポケットからチンタの小瓶を取り出すと、紅子に言い含められてしまい不貞腐れている様子の朱美に差し出した。


「おお、毎度のことながらお主は気が利くのう、やはり持つべきものはよき友じゃな!」


 飲み損ねたと思ったチンタを取り置きしてもらえたことに朱美は歓声をあげると、表情を輝かせて丹の顔を見上げた。


「丹、こっちで一緒に菓子でも食いながら部下にいびられたわしを慰めとくれ」


「政所様、その前に目を通していただきたい書類があるのですが……」


「わしの机の上に置いといてくれ、暇な時に見ておく」


 朱美の審査が必要な書類を片付けて欲しい旨を紅子は告げるが、朱美は丹の手を取ると生返事をして休憩室がある2階へと登っていってしまう。


「書類が溜まりすぎてもう置く場所がございませんから仕事をしてください」


「分かった、じゃが仕事に取り掛かる前に鋭気を養わねばのう。そういうことでしばらく上におるぞ」


 紅子は既に朱美がすべき仕事は嵩んでいるのですぐにでも取り掛かるように頼むが、朱美は上手いこと言い逃れをして2階の部屋の中に隠れてしまった。またも朱美に仕事をしてもらえず、仕事が終わらないことを悲嘆して紅子は溜息を吐いた。


 紅子の気苦労を尻目に朱美と丹は休憩室の中で卓袱台を囲んで談笑をしている。朱美が暗い赤色の液体を少しずつ飲んでいる傍らで、丹は煎餅を齧りながら親しげな様子で言葉を交わしていた。


「朱美ちゃんはチンタがどうやって作られるのか知っている?」


 丹は朱美が味わっているワインに似た風合いの液体の醸造の仕方を、見た目は自分よりも若いが実際は遥かに長い歳月を過ごしている友人に訊ねる。朱美はその問いを聞くと少し意外そうな顔で丹を見返した。


「詳しいことは酒蔵のものではないので分からんがおおよそのことは知っておるぞ。しかし何故いきなりそんなことを気にかけるのじゃ?」


「特別な理由はないけど、酒蔵にお使いに行った時に蔵の中からお酒みたいな臭いがしてきて、どんな風に造っているのかなぁって思っただけだよ」


 丹は酒蔵の敷地内にあるチンタを醸造する蔵の中から漂った臭いがアルコールに似ていたことで感じた素朴な疑問だと朱美に答える。しかし朱美は丹の質問への回答をどう返すべきか迷っているようで、眉を顰めて難しい顔をしていた。


「もしかしてチンタの作り方って訊いちゃいけないことだった?」


 ウツセミになってから2ヶ月余り、まだ丹はウツセミの常識というものを完全には備えていなかったので、政所の同僚たちが仕事終わりの一杯を楽しむチンタの醸造を訊ねることがタブーなのかどうかも分からない。だが先代の代永氏族の族長を務めた朱美が渋い顔をするということは、あまり軽々しく口にしていい話題ではない事は丹にも察せられた。


「ちょっとチンタの醸造には込み入った事情があってな、丹もウツセミなんじゃから知っておいて損はないがあまり聞いて得するような話でもないし……」


「それなら教えてくれなくてもいいよ、ちょっと疑問に思っただけだから」


「いや、話に触れたからにはお主には聞いてもらおう。我らウツセミの宿痾である精気の渇きを癒してくれるチンタが如何にして作られるということをな」


 朱美が返答を渋っているのを見て丹はチンタにまつわる話を終わらせようとするが、今度は反対に朱美が積極的にチンタの醸造の仕方を丹に教えようとする。普段は肩肘を張らずに付き合えるのに、時折朱美は紫水小路に住む多くのウツセミから畏敬の念を寄せられている存在に相応しい貫禄を見せることがあり、今その悠久の時を越えてきた存在の威圧感を発して丹のことを見据えた。


 朱美の貫禄にすっかり飲まれてしまって、丹は反射的に首を縦に振ってしまう。


「丹はチンタを漢字でどう書くか知っておるか?」


 朱美の切り出してきた質問に対し、丹は正直に首を横に振る。いくつか変換する候補を頭に浮かべてみたが、どれもしっくりこなかった。


「紫水小路に流通しておるチンタは漢字で鎮魂の鎮にニンベンの侘びるという字を書く。じゃが呼び名の元になった南蛮渡来の葡萄酒、今は『わいん』と呼んどる酒はこういう字を書いておったんじゃ」


 朱美は壁際に置かれている机の上から鉛筆と紙を取ると、卓袱台に紙を乗せて鉛筆で紫水小路のチンタとその由来となったワインの旧名を達筆で書き始める。丹は紙を覗き込んで、朱美が書き終えた2つのチンタの表記の違いを見比べた。


 紫水小路のウツセミたちに愛飲されているチンタの漢字表記は朱美の説明にあった通り『鎮侘』であり、その一方で名称の元となったワインの旧名は『珍陀』と異なっている。


「2つのチンタの漢字は全然違うね、でもどうして?」


「どちらも赤い色をしたひとを酩酊させる液体ということは共通しておるが、その原料となるものは全く別のものだからじゃ。葡萄酒であるこっちの珍陀の原料はもちろんブドウじゃが、わしが今飲んでおるこっちのチンタの材料はなんじゃと思う?」


「渇きを癒せるんだから何かの血は含んでいるだろうけど、でもただの血にしてはやけに透き通っているし……」


「お主の考えた通り、ウツセミの渇きを潤すチンタには血が含まれておる。じゃが普通に生き血を絞っただけでは日持ちせんし、何より採取できる量が限られてしまう。そこで酒蔵の開祖はある程度保存の利く状態に加工して、かつ採取できる量を増やせる方法を考案したんじゃ」


「どんなやり方で……?」


 丹が紫水小路のチンタの漢字表記が元となったものと異なっている理由を訊ねると、朱美は2つのチンタが見た目は似ていても中身はまるで別物ということを明かして質問に応じていく。徐々に低くなっていく朱美の声のトーンに、丹はこの先は聞いてはならないことであるような不安を感じながら酒蔵の始祖が考案した手法の詳細に言及した。


「酒を醸造するように水を張った樽の中に紫水小路で死んだものの亡骸を沈めて、特別な細菌にその亡骸を分解させて中のものを発酵させるのじゃ。細菌の働きと歳月の経過と共に樽の中の死体は肉も骨もぐずぐずに崩れ、水と体液が融和していくことでチンタの原液となっていくんじゃ。そして頃合いになったら残った骨や髪を濾してチンタが完成するというわけじゃ」


 淡々と朱美は紫水小路のチンタの精製過程を語ったが、朱美だけでなく母親の紅子や政所の同僚たちが美味しそうに飲んでいたものが、人間の死体を果実や穀物のように扱ってできたものと聞き丹は絶句する。


「わしらが美味そうに飲んどるものが人間の死体を原料と知って、お主が驚くのも無理はない。じゃがわしらが人間と同じものを飲み食いしても、渇きを癒せんのはお主とて承知しておろう?」


「そうだけど、でも亡くなった人の体をそんな風にするなんて……」


「人間の良識からすれば惨いと思うじゃろうな」


 丹自身も本能的に他人の血を欲するウツセミであり、朱美の言い分は理解できる。しかし丹の持つ人倫が死者を辱めるような所業を容認できそうにはなかった。朱美も丹の心中を察したらしく自嘲気味に頬を歪める。


「だったらどうしてそんな酷いことを続けるの、ちゃんとお墓を作って弔ってあげるべきじゃない?」


「現世の道徳では死体を使って飲料を作るなど人倫に悖る蛮行かもしれん。しかし紫水小路からあの世に旅立った者に対し、その亡骸からチンタを作ることがわしらなりに誠意を持った弔いの形なんじゃ」


「なんでそう思うの?」


「紫水小路が出来てから数百年、数え切れんほどの人間がこの街を訪れ、そのうちかなりの数がここで亡くなっていった。その者たち全員分の墓を立ててやれる土地は紫水小路にはないし、仮に立てられたとしても墓を参ってやるものはおらん。子孫を残していける現世ならともかく、どれだけ愛を育んでも子を成すことができないウツセミの支配する紫水小路では墓は殆ど意味を持たないんじゃ」


「だからって死体を弄んで言い訳が……」


「丹、お主は一つ思い間違いをしておるぞ。わしらはここで亡くなったものの死体を弄んでいる訳ではない、むしろ我らが命を繋いでいくために授かったものとして丁重に扱っているつもりじゃ。だからこそ酒蔵のものたちは丹精込めてチンタの醸造をしておるし、そうして出来たわしらも樽の中で朽ちたものに感謝しながら味わっておる。決して安酒を煽るような軽い気持ちで口にしてはおらん」


 丹は紫水小路に迷い込んだ人間たちが生前自分たち吸血鬼に精気を供給するだけでなく、死後も安らかに眠ることも許されずにチンタの材料としてその肉体を弄ばれているように感じてその不幸に胸を痛める。だが朱美の口からウツセミたちが自分たちのために尽くしてくれた人間たちの冥福を祈る思いでチンタを飲んでいると聞かされると、少しだけ溜飲が下がった気になった。


「丹、紫水小路のチンタがあの字を書く理由は生前のみならず生後も我らウツセミのためにその身を捧げてくれた人間たちへの鎮魂と、現世で天寿を全うした人間のように弔ってやれんことへの侘びを表すためなんじゃ。未だウツセミになって日が浅いお主が、チンタの醸造法を感情的に受け容れられん気持ちは分かるが、どうかこれがウツセミの人間に対する慰霊の方法じゃと思ってくれ」


 朱美は瓶に残ったチンタを飲み干すと、正座をして姿勢を正し丹の理解が得られるように頭を下げた。


「やめてよ朱美ちゃん、わたしみたいな下っ端にそんなことしたら先代の族長の威厳が……」


「過去のことなどわしにはどうでもよい。この先ウツセミとして生きていくお主に人間とウツセミの齟齬を受け容れてもらえることの方が重要じゃ」


 丹は先代の族長にして今尚ウツセミの社会に影響力を持つ朱美が自分のような若輩者に頭を下げるのを見て、恐縮した様子で姿勢を直すように訴えるが、朱美は昔の肩書きには一切拘らず、将来を担っていく存在として丹にウツセミの抱える矛盾を容認してくれるように懇願した。


「朱美ちゃん、やっぱり簡単には亡くなった人の体を埋葬しないでチンタの材料に使うって感覚が理解できそうにない」


「そうか…お主の理解が得られんのは残念じゃな」


 丹の答えを聞いて顔を上げた朱美の表情は、彼女の同意が得られないことを心底惜しそうな様子に曇っていた。


「でもウツセミとして何十年、ううん何百年も生きているうちに自然と受け入れられるようになるんだと思う。だから今生理的に受け付けられないからって頭ごなしにチンタのことを否定しない」


 丹は人間としての感性が強い今は理解できないが、長い年月を経ていくうちにチンタの醸造の仕方も次第に受け容れられるようになるのだろうと朱美に告げる。今日話したことが、丹にとっても無駄にはならなかったことに朱美はひとまず安心したようだった。


「それにね朱美ちゃん、今日お使いに行ったおかげで酒蔵で働いている富士見氏族のひとと知り合いになれたの。晨さんっていう若手のウツセミなんだけど、すごく優しくていいひとだったよ」


「そうか、それはよかったな」


「うん、富士見のウツセミと知り合いになったのは初めてだから嬉しい」


 丹がチンタに関わることにそれほど拒否感を持っていないことを知って朱美は口元を綻ばせる。丹も酒蔵に使いに行ったことで晨と知り合えたことを有意義に感じているらしく、明るい笑みを浮かべながら朱美に頷き返した。


* * *


 結局夜中に家を抜け出したきり、姉の丹は家に戻ってこなかった。行方の分からなくなった姉のことが気がかりで夕べはほとんど一睡も出来ずに夜明けを迎えた葵は、目の下に濃い隈を作って家の門の前から通りに姉の姿を探し求める。


「姉さんの嘘つき、もう二度と黙ってアタシの前からいなくならないって言ったくせに……」


「葵、こんな朝早くから外に出てどうしたの?」


 以前自分に誓った約束を反故にされた怒りと姉が姿を消してしまった悲しみで葵の小さな胸は一杯になり涙が滲んできた。ようやく東の空から顔を覗かせ始めた朝焼けが涙で滲んで見えた時、聞き慣れた少し間の抜けた感じの声が聞こえてくる。


 葵が顔を跳ね上げると家の敷地の周囲を囲ったフェンスから顔を覗かせて、昨夜からいなくなっていた姉がこちらを心配そうな目で見つめていた。


「姉さん!」


 葵は門を開いて表に飛び出ると、頭一つ分背の高い姉の胸元に勢いよく抱きついていく。葵が突進してきた勢いに押されて、彼女の姉は大きく後方によろめいた。


「いきなりそんなことされたんじゃ危ないよ葵……」


「姉さんの馬鹿、一晩中どこをほっつき歩いてたのよ?!」


「昨日はお母さんの所に行ってたから、夜の街をふらふらしていた訳じゃないよ」


 葵の姉、丹は自分の胸に顔を埋めて子どものように泣きじゃくる妹に困惑した顔で接しながら、昨晩何をしていたのかという事実を告げる。


「だったら行き先をアタシたちに教えなさいよ、というより何でみんなアタシにだけ母さんが今どこに住んでいるか教えてくれないの?」


「えっと…今お母さんが住んでいる所に行くのはすごく面倒なんだ、だから葵にはまだ教えられないの」


「父さんも姉さんも子ども扱いしないで、アタシはもう大人なのよ?!」


 丹が無事に家に戻ってきたことで心に余裕を取り戻せた葵は、10年近く失踪しており2ヶ月ほど前に再会した母親の居場所を自分だけ知らされていないことに不平を言う。しかし丹は葵の年齢を理由に母親の居場所に関して沈黙を守ると、葵は父親だけでなく2歳しか違わない姉にも子ども扱いことに憤る。


「朝っぱらからキンキン声で喚いている奴のどこが大人だよ?」


「クーくん?!」


 門の前で霧島姉妹が言い合っていると、皮肉っぽい笑みを浮かべながら居候の来栖が玄関から姿を現した。霧島姉妹は声を揃えて彼の渾名を口にする。


「丹、お勤めご苦労さん。それと霧島妹、俺のことは来栖さんって呼べって何度言わせりゃ気が済むんだ、お前には学習能力がねぇのか?」


「うるさいわね、居候の分際で偉そうな口利くんじゃないわよ!」


 仕事を終えて戻ってきた丹を労うと共に、来栖は葵に自分の呼び方の訂正を求める。しかし葵に来栖の呼び方を改めようとする気配は微塵もなく、怒りの矛先を姉から来栖に変えて食って掛かってきた。


「クーくん今からどこか出かけるの?」


「ああ、ちょっと野暮用でな。夜には戻るから晩飯頼むわ」


「わかった、行ってらっしゃい」


「クーくんのバーカ、そのままずっと帰ってくんな!」


「それじゃ丹行ってくるわ、晩飯の用意よろしくな」


「ちょっと、アタシのことはシカト?!」


 来栖は丹に今日の予定を伝えて夕食の催促をしておくと、丹は来栖の要求に対して首肯して返す。憎まれ口を利いたのに来栖の相手にもされなくなったことに不服そうな葵のことを尻目に、来栖は朝霧の中に歩を進めていった。


 犬の散歩やジョギングをしている人たちと擦れ違いながら、来栖は入り組んだ住宅地を抜けて御門市内の東西に延びる表通りに出る。表通りに面したパチンコ屋の角に一台のリムジンが止まっているのを見つけると、来栖はその車の後部座席の窓をノックした。


「仕事の依頼だから断れなかったけれど、どうしてわざわざこんな朝っぱらに呼び出してきた?」


「それはもちろん急を要する事態だからですわ、一刻も早く目標をあなたに始末していただきたいと思いまして無理を承知で連絡させていただきましたの」


「そろそろ懐が寂しくなってきたからな、こちらとしても仕事の依頼は助かる」


「では続きは車内でお話いたしましょうか」


 後部座席に座っていた人物が右奥に詰めると同時にリムジンの後部ドアが自動的に開放される。来栖が無遠慮に手入れの行き届いている革張りのシートに収まると、後部ドアは自動的に閉じられて車が走り出す。


「久し振りだな安倍さん、夏の終わりに会って以来か?」


「ええ、ご無沙汰しておりますわ来栖さん」


 来栖が話しかけると隣の席に座った娘は縦ロールの髪を揺らして彼に向き直る。気品を感じさせる澄ました顔立ちにうっすらと笑みを浮かべていたその娘、安倍真理亜あべまりあの顔を美しいとは思うものの、どこかその奥に油断ならないものがあることを来栖は彼女と相対する時に常に覚えずにはいられなかった。



第2回、不死身の一族 了


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