第18回、二匹の大蛇
来栖たちと平輔の雌雄が決する事実上の最終回です。
しかし予定の分量より延びてしまったせいで、エピローグを分割し別の回という形で執筆しました。
今回を含めて残り2回の物語をお楽しみください。
鱧川の河原でハライソの使徒天連と来栖は共闘して同胞を現世へ誘おうとしているウツセミ平輔と戦っているが、平輔の圧倒的な実力の前に劣勢を強いられている。
平輔が過去に同胞から粛清されかかった時に切り落とされた左腕の傷口から漏出する妖気を変質させた黒い靄、陰によって来栖たちの攻撃用に転換した生体エネルギーはことごとく吸収されてしまい、平輔に肉弾戦を挑んでもウツセミと人間の埋めがたい身体能力の差で叩きのめされてしまっている。
平輔の蹴りを胴に打ち込まれて痛手を負った来栖はようやく起き上がったが、まだかなりのダメージが残っているらしくその場に佇んだまま平輔ににじり寄られそうになっている天連の加勢に回ろうとしなかった。
「クーくん!」
小学校時代の渾名で自分を呼ぶ声がした方に来栖はおもむろに視線を移すと、現在彼が下宿している家の娘でウツセミの丹がこちらへ走ってきていた。
「待て、君をウワバミの傍には行かせる訳にはいかない!」
人質に取っていた丹を逃してしまった平輔の配下のウツセミ悠久も、丹を追ってこちらに駆けてきている。現世で暮らす代償として運動能力や五感の機能が人間並みに低下してしまっている丹の脚では、転化して間もない個体でもオリンピック選手に匹敵する運動能力を持つウツセミの悠久から逃れることは難しく、丹と悠久の差はみるみるうちに詰まっていく。
「うっ!?」
丹の背後まで迫った悠久が彼女に手を伸ばそうとした瞬間、悠久は中性的な美貌に苦悶の色を浮かべて呻き声をあげる。左の肩口に来栖が投擲した銀のナイフが突き刺さった悠久はナイフが刺さった痛み以上に、ウツセミにとって有毒な銀によって傷口に焼けるような刺激を覚えてその場に蹲る。
「お待たせ、これで合が使えるようになるね……?」
来栖の傍に辿り着いた丹は息を弾ませながら彼に一言侘びるが、来栖は丹の顔を一瞥すると口に手を添えて咳き込む。咳き込むのが収まった後、口から離れた来栖の掌は彼が吐き出した血で赤く染まっていた。
「…それってもしかして、さっき平輔さんに蹴られた傷のせい?」
丹の問いに対して来栖は小さく首を縦に振って答える。脇腹を強打された衝撃で来栖は内臓に損傷を負い吐血したようだった。
「そろそろ天連が危ねえ…丹、合を使って一気にカタをつけるぞ……」
「で、でも…そんな体で大丈夫なの?」
「体の心配している暇はねえ…今やらなきゃ、みんなお終いだ……」
来栖は無理矢理絞り出したような掠れた声で丹に合を発動させる準備をするように促すが、丹はか細い声で喋る来栖の体調が思わしくないことを懸念する。来栖がいつものように強がりを言わずに合の発動を急かしてくることが、余計に丹を不安にさせた。
「エイメン!」
来栖と丹から20mばかり離れた場所で天連に襲い掛かるタイミングを図ろうと彼の周囲を回っていた平輔が突進してくると、天連は聖火を発動させて平輔にカウンターの一撃を加えようとする。
「こっちの誘いにかかったな、もらったぁ!」
平輔が肘の辺りで切断された左腕を前方に突き出すと、彼の体を取り巻いていた陰が一斉に矢のような勢いでその沿線上に伸びていく。平輔の前方に広がった黒い靄は天連の撃ち出した聖火を完全に無効化すると、そのままの勢いを保って天連の体に吹きつける。
「ぐっ……」
全身を平輔の左腕から噴き出た黒い靄に覆い尽された天連は苦悶の声をあげると、全身の精気を急速に抜き出されていく。以前紫水小路で戦った時も平輔の陰に包まれて抵抗力を奪われてしまったので同じ轍を踏まないように注意していたが、平輔は天連の集中力が低下し陰への警戒が疎かになるのを狙ってわざと持久戦に持ち込み、攻撃を仕掛けるタイミングを先延ばしにしていたのだった。
「く、くそ……」
天連は一寸先も見えない闇に包まれたまま、勘を頼りに銃を発砲して平輔に抗ってみようと右腕を掲げる。だが普段なら片手で造作もなく取り回せる拳銃が今は非常に重く感じられ、トリガーに添えた指にも力が入らずに引き絞れなかった。結局天連は一発も銃撃を放てないまま、握力を失った右手から拳銃を取り落としてしまう。
「使徒のリーダーをやるだけあって精気を大量に蓄えてるな、あんた1人で軽く10人分の精気を補えそうだ」
「エ、エイメン……」
天連から搾り取れる精気の量の多さに平輔が満足げに呟くと、天連はいたずらに精気を奪われるのではなく悪足掻きとして聖火を放とうとする。だが既に精気のほとんどを平輔に吸われていた天連の体は一瞬青白く瞬いた以上の現象は起こせず、聖火を放出することすら叶わなかった。
「…くわぁつ!」
意識が途切れる寸前、天連は無理矢理絞り出したような怒号を耳にすると視界の端に紫電が瞬いたような気がした。だが天連がそれを幻覚か否かを確認するよりも先に、彼の意識は深い闇へと落ちていった。
「…おい護通の孫、焦んなくてもお前の相手はちゃんとしてやるよ」
「やっぱり合で威力が増しても撥じゃ倒せねえか……」
防御のために展開した陰を跡形もなく掻き消すほど膨大な出力で放出された紫電を全身に浴びた平輔は激痛に歪ませた顔で来栖を睨む。来栖は平輔が天連にとどめを刺すのを留めるために急いで放った撥では平輔を仕留められなかったと歯噛みする。
「本来反発しあうウツセミの妖気と人間の精気が融和して剣きが段違いの威力になる合はおっかないけどよ、その使い手でも女に凭れかかって立っているような奴にやられる訳にはいかねえよ」
「…うるせぇ、斂で必ずお前をふっ飛ばしてやる」
内臓を傷めただけでなく肋骨も何本か折れてしまっているようで来栖は真っ直ぐに背筋を伸ばすこともままならない状態であった。来栖の前に進み出た丹が彼の腕を自分の肩に乗せることで、来栖はどうにか平輔と正対できる有様だった。
丹の支えがなければ姿勢を正すこともできないことを平輔に揶揄されると、来栖は剣気を一点に集中させることで更に威力を高めるウワバミの特有の技、斂で戦いに決着をつけると言い返した。
「平輔さん、これ以上お互いに傷つけあうのはやめませんか? 今までそうだったように、ウツセミと人間が互いに譲り合えばこの街で共生ができるんじゃないですか?」
どれだけ聖火や剣気を打ち込んでも全く堪えなかった平輔が、合で増幅され紫電と化した剣気では拡散状態で放たれた撥でダメージを負っているのを見て、丹は一極集中的にエネルギーを叩きつけられる斂を受けては彼でもただでは済まないから降参するように呼びかける。
「あんた丹って言ったっけ、噂通りなまっちろい綺麗事を抜かすお嬢ちゃんだな。ここまでおめでたい考えをしていると、源司や護通の孫に吹き込まれたことを何の疑いもなく鵜呑みにしちまってることが可哀想だぜ」
「あの、どうしてあなたや悠久くんはクーくんたちウワバミのことをそんなに嫌っているんですか?」
平輔は現実を直視していない夢想家の言葉だと丹の提案を鼻で笑いつつ、それが真理だと思い込まされてしまっていることを嘆かわしそうな仕草をする。丹は平輔や悠久たち夜久野一派を名乗るウツセミたちとの会話の中で、彼らが過剰にウツセミの天敵にして守護者のウワバミを敵視していることを疑問に思い、思い切って彼らの真意に踏み込んでみることにした。
「数百年前、ウワバミにいいように丸め込まれてしまったせいで俺たちウツセミが紫水小路に押し込められてしまったからさ。ぬるま湯のような紫水小路で暮らしているうちに、多くのウツセミが人間を狩る捕食者としての牙を抜かれてしまっただけでなく、腑抜けのままでいることがウツセミにとっての美徳と思い込むほど落ちぶれちまった。だから俺は今一度同胞たちの吸血鬼としての本能を呼び覚まし、現世で本当の自由を掴んでもらおうと考えて行動を起こしたのさ」
「ナレノハテと同じように本能の赴くまま人間を襲って血を吸うことがウツセミの幸せだとあなたは考えているんですか?」
「吸血鬼としての本能に従って自分の身を養う糧を積極的に得ることは奨励しているが、俺だってナレノハテと同等のケダモノに成り下がりたいとは思わねぇよ。自分のことは自分で守り養っていける能動的な捕食者になることも大事だが、それ以上に俺は同胞を紫水小路って檻から解き放ってやりたいんだ」
「紫水小路が檻? 身を焦がす日光や教会の迫害に怯えることがなく、ウツセミが平穏に暮らしていけるあの街をあなたはどうしてそんな風に思うんですか?」
「なあ丹、ウツセミの寿命は短いと思わないか?」
平輔は悠久や来栖が初めて合を発動させた時に倒した常時が語った内容と重複する自分の野心を丹に聞かせるが、丹はウツセミにとって楽園とも言える紫水小路をどうして夜久野一派のウツセミたちは牢獄のように考えているのだと不思議であった。
夜久野のウツセミたちが何故紫水小路を檻と称するのか丹が訊くと、平輔は彼女の質問に関係のない内容で質問を返してくる。
「何を言っているんです、300年以上も生きるひとだっているんだからウツセミの寿命が短いはずないでしょう?」
「動物の中でそれほどの時を生きる種族はないが、植物なら数百年単位で生きるものだって少なくはないから生物全体という視点で見ればウツセミの寿命は長いとは言えない」
「植物と動物の寿命を比べることはナンセンスですよ」
「それじゃ西洋の伝承に出てくる親戚たちと比べるのはどうだ? 異国の同類たちが植物に匹敵する寿命を持っているのに対して、紫水小路にいるウツセミが300年しか生きられないのはかなり短いだろう?」
「…外国の吸血鬼が千年生きるっていうのは噂に尾鰭がついたものかもしれないじゃないですか。正確に記録されているウツセミの寿命を信じるべきです」
「暢気に暮らしているウツセミの記録なんかあてになるかよ。連日連夜吸血鬼をこの世から消し去るためにしゃかりきになって働いているハライソの調査によると、外国のいや紫水小路にいるウツセミ以外の吸血鬼は伝承にある通り千年単位の寿命らしいぜ」
「紫水小路に住んでいるウツセミの寿命が他の場所にいる吸血鬼よりも短いからってなんだって言うんです? 他の吸血鬼よりも短くても幸せに過ごしているのならそれでいいじゃないですか!」
「そいつがウワバミがウツセミを騙し続けている証拠なんだよ。ウツセミの能力が自分たちの手に負えないほど強大になる前に、この世界から消し去っちまおうっていう魂胆があるからあいつらはウツセミを紫水小路に留めようとしているんだ」
「そんなの嘘に決まっています。全部あの人の出任せだよね、クーくん?」
ウツセミの寿命が他の地域に生息している吸血鬼と比べてかなり短い原因は、数百年前にウツセミとウワバミが和睦を結んだ時に居住地として定められた紫水小路に留まっているせいだと平輔が語ると、丹はウワバミである来栖にその話は真っ赤な嘘だと否定してもらいたくて彼に問いかける。
だが来栖は丹からの問いかけを肯定も否定もしない。むしろ丹以上に来栖は平輔の話に驚いているようだった。
「政所の傍に繋がっている朱印符も譲られてなかったからもしやと思ったが、案の定孫は護通からウワバミがウツセミと人間の軋轢を防ぐためではなく体よく管理するためにウツセミを紫水小路に閉じ込めていることを知らなかったか」
平輔は紫水小路にウツセミを居住させている真の理由を聞かされて困惑している来栖の顔を愉快げに一瞥する。
「いや純粋なガキに跡目を継がせるために護通は意図的にこの話を知らせず、ウツセミと人間の均衡を保つ使命感を高めようとしたのかもしれないな。護通の孫、図体だけはいっちょまえでもお前の頭の中身はそこのお嬢ちゃんとどっこいどっこいのガキだってことだよ」
真相を知らされず、人間とウツセミの調和の維持をする崇高な任務だと盲目的にウワバミの役目を遂行してきた来栖を、平輔は滑稽さを覚えると同時に無知であることへの憐憫を込めた眼差しを向けた。
「…あんたの言うようにウツセミの寿命を縮めるため、ウワバミが代々ウツセミを紫水小路に留めてきたのが本当のことなら、どうやって俺の前任者たちはウツセミの寿命を縮めてきたんだよ? ウツセミが大勢いるあの街で、どうやって密かにウツセミのことを消せるんだよ?」
来栖は閉ざしていた口を開いて、重々しく平輔の言葉が事実ならば如何にして内密に先代のウワバミたちがウツセミを始末してきたのかという方法を訊ねる。
「お前らウワバミはウツセミを紫水小路の外に出さなければいい、あるいは紫水小路から抜け出してしまったものだけを現世で掟に背いたものとして仕留めればいいのさ。ウツセミを紫水小路に留めておけば、時が来れば自然にウツセミは消え去ってしまう」
「どういうことだよ?」
「一定以上の大きさに蝕が成長したウツセミは紫水小路に取り込まれちまうんだよ」
「何を言っている、そんなことある訳……」
「紫水小路が現世とは別の次元に存在している街だってことくらいお前らでも知っているだろう。じゃあ紫水小路がある空間は一体何なのかと考えたことはあるか?」
陽が暮れることもなければ昼になることもなく恒久的に黄昏の空が広がり、四季の移ろいがなく過ごしやすい気候である以外は現世と変わらない環境である紫水小路がウツセミを吸収すると聞いて来栖は訝しげに眉を顰める。
しかしそういったウツセミにとって過ごしやすい環境である紫水小路が現世に存在する場所でないのならその正体は一体何なのかと平輔に訊かれると、慣れ親しんできた街が非常に奇異なものに来栖と丹は思えてきた。
「そう言われてみると、紫水小路のある空間は一体なんなんだろう?」
「厳密に言うと紫水小路は現世に存在している空間だ。ただし世界中探し回ってもあそこと同じ街がどこにも見つからないし、過去にも未来にも存在しない。紫水小路はこうしている今も確かにこの世界に存在している」
「あんたの言っていることはさっぱりだ、あの街が何なのかもったいぶらずにはっきり言えよ」
丹が紫水小路の存在について疑問を口にすると、平輔は謎かけのような答えを述べる。しかし要領を得ない平輔の回答に来栖は苛立ちを見せると、正確に紫水小路の性質を述べるように訴える。
「端的に言えば紫水小路は目に見えない怪物の腹の中にある街だ。とてつもなく大きな生き物の胃袋の中にいると考えれば、いつしか消化されていなくなっちまうってことにも納得がいくだろう。そしてその化け物を生み出したのはウワバミの一族の遠い先祖たちだ」
「馬鹿言うな、ただの人間だった俺の先祖がそんなものを生み出せるはずないだろう?」
「人間だからウツセミを取り込む化け物を生み出せたんだよ。敬虔な信仰心と邪悪なものを駆逐しようとする強い意志を持ってこの極東の地に降り立ち、仲間たちが志を断念して本国に引き返してからも独り戦い続けてきた妄信的な人間だからこそウワバミと呼ぶに相応しいあらゆるものを丸呑みするような化け物を生み出したんだ」
「俺の先祖は狂信的な信者だったかもしれないが、だからといって怪物を生み出すような能力も知識も持っていなかったはずだ」
「教義を遵守し峻烈な悪を憎む心と教会からの命令を何の迷いもなく遂行しようとした忠誠心だけで充分だったんだよ、その心掛けに感心した神が熱心な信者だったお前の先祖のために奇跡を起こしてやったのさ。死の病に臥して尚、授かった勅命を果たそうとするその想いに堪えて、神はウワバミの始祖となるエクソシストを邪悪な存在を食らう大蛇として永遠の命を与えたのさ」
「馬鹿な……」
熱烈な信仰心を抱き、吸血鬼の殲滅に血道を注いでいた人間だったからこそ、神がその願いに堪えるように先祖を怪物として生かしたのだと聞いて来栖は絶句する。到底信じられないような、いや信じたくないような話だったが、遠い昔の記憶を呼び覚ますようになぜか平輔の話を本能が受け容れつつあることに来栖は勘付いていた。
「紫水小路の元となったその怪物も最初はウツセミ1体を飲み込むので精一杯だったが、ウツセミを食らっていくにつれて体もでかくなり腹に抱えられるウツセミの数も右肩上がりに増えていった。ウツセミを食らう怪物になったエクソシストの子孫たちは、自分たちの始祖であるその化け物を引き連れて御門とその周辺のウツセミたちを始末していった。そして化け物が神社の尖塔に並ぶほど大きくなったのを頃合いと感じて、エクソシストたちは御門のウツセミを一網打尽にすることを企んだ。その方法は極めて単純で小競り合いを続けても互いに消耗するだけだから、相互不可侵の和議を結ぼうという口実で一箇所にウツセミを集め、化け物にまとめて食わせるということだった」
来栖の一族がウツセミと和議を結んだという話は、元を正すとウツセミを油断させる口実だったと言われて来栖と丹は自分たちの知る事実の信憑性に疑念を抱き始める。内面の同様を露にしている来栖と丹の顔を楽しげに見つめながら、平輔は話を続けた。
「エクソシストの誘いに乗ってのこのこと雁首揃えてやってきたウツセミたちは、片っ端から化け物に食われていった。大量の餌にありついた化け物はウツセミを飲み込む度に巨大化していき、そのうちウツセミだけじゃなくてその辺にあった建物まで食らうようになった。その場に集まったウツセミを化け物があらかた飲み込んだ時、エクソシストたちは化け物が暴走していることにようやく気付いた。しかし気づいた時にはもう遅く、小山ほどの大きさにまで成長した化け物は人間もウツセミも家も地面もお構いなしにあらゆるものを飲み込んでいった」
「…まるでパニック映画みたい」
「そうだな、俺も朱美姐さんからこの話を聞かされた時はにわかに信じられなかった。とにかく絶対的な脅威の前には人間もウツセミも関係なく翻弄されるだけだった」
自分の話を聞いた丹の感想を聞くと、平輔はその感想に首肯する。
「満腹になってものを飲み込むのに飽きたのか、化け物がどこかに姿を消した時にはエクソシストの仲間内で最年少だった男と朱美姐さんを含めて数人のウツセミしかその場に残っていなかった。まだ10歳そこそこのガキでも、当然自分たちをハメて同胞のほとんどを滅ぼした連中の1人だったそいつを朱美姐さんたちが許すはずもなかったが、姐さんたちはそいつをただ殺すような真似はしなかった。自分たちの渇きを満たす生き血を捧げる召人としてそいつを生かすことにした。だが召人として侍らせているうちに、エクソシストの生き残りのガキは本当に自分たちがウツセミと和睦を結ぶのだと信じていたことを姐さんたちは知った。それと同じ頃、姐さんたちは自分たちが狭い空間に閉じ込められている事実に気付いたんだ。ある程度遠くまで進むと、もといた場所に戻っている。どの方向に歩いていっても、同じ場所を行ったり来たりしているだけだった。それに自分たちがいる場所がいつになっても朝が訪れず、ずっと薄闇の中だということにも姐さんたちは気付いた」
「化け物の猛威を生き延びた朱美ちゃんたちは、いつの間にか紫水小路にいたってことですか?」
「いや姐さんたちも化け物に飲み込まれていたからこそ、紫水小路に辿り着いたんだ。何故姐さんたちが吸収されなかったのかは分からないが、とにかく生き残ったものは全員化け物に取り込まれずに腹の中に留まっていられたんだ」
生き延びた朱美たちが過ごしていた場所の特徴が紫水小路と一致していると丹が口にすると、平輔は化け物に消化されなかったから朱美たちは紫水小路にいたのだと訂正した。
「だが姐さんたちは閉鎖された空間にいるはずなのに、エクソシストの子ども以外の獲物を見つけることが出来た。しかし見つけた獲物の多くはいつの間にか姿を消していて、また顔を現れることもあれば二度と戻ってこないこともあった。どうやら自分たちのいる空間が完全な密室でなく任意的に出入りできる場所らしいと察した朱美姐さんは、適当な獲物を使ってある実験をしてみることにした」
「実験?」
代永の先代族長朱美が行った実験の内容に関心を抱いた来栖が、その詳細を教えるように平輔に問う。
「姐さんの下と自分の集落の間を頻繁に行き来していた獲物から血を吸った後、近くにあった板切れの真ん中に獲物の傷口から滲んでいる血で丸を描いて板切れを真っ二つに割ってその片割れを渡したんだ。そしてもう一方を適当な木の枝にぶら下げて、集落に戻ってから板切れの片割れを探すように命じたんだ。姐さんに篭絡されていた男は集落に戻った後、命令通り板切れの下がっている木を探し見つけることが出来た。そして見つけた板切れが自分の持っているものの片割れかどうかを確かめるため、枝に下がっている板と自分の札を合わせ、二枚の板切れに描かれていた円がぴったり一致した瞬間、それまで真昼の空の下にいた男はいきなり黄昏の空の下に佇んでいたんだ」
「それって朱印符のことじゃ……」
「ご名答。ウツセミと関係を持った人間の血を塗った板を割札にすることで紫水小路と現世を自由に行き来できるようになる朱印符を、姐さんはその実験の結果偶然発明することができた。朱印符さえあればウツセミも紫水小路の外に脱出できて、現世で自由に狩りをすることが出来る。しかし姐さんたちは現世に戻ろうとしなかった」
「朱印符を発明した時にはもう、朱美ちゃんたちは紫水小路の暮らしに満足していたんですね?」
「そうだ。自分たちを飲み込んだ化け物の腹の中だと知っていても、そこでのぬるま湯の生活のせいで姐さんたちは堕落しきっていて、日光や迫害の脅威がある現世に戻らずにウツセミにとって過ごしやすい紫水小路に留まることを選んだ。そして外敵からの脅威を避け、同胞が安全に暮らすために姐さんたちはウツセミが紫水小路の中で生活することを鉄則とする掟を作った。更に自分たちが紫水小路に潜んでいることを人間に悟られないようにするため、現世に抜け出たウツセミやナレノハテを内密に始末させる役割を召人として手懐けておいたエクソシストの子孫に負わせることにした。そして主であるウツセミの社会の秩序を守るために体よく使われた召人のことを、姐さんたちはその先祖が変わり果てた姿を皮肉ってウワバミと呼ぶようになった。そいつがお前の遠いご先祖様、最初のウワバミって訳だ」
朱美が偶発的に実験を通して朱印符を発明したことを丹が言い当てると、平輔は彼女に頷き返す。続いて平輔はウツセミと密接に関わるウワバミと呼ばれる人間が現れた本当の訳を来栖たちに語り始めた。
来栖は人間とウツセミの世界の均衡を保つために、人間以上の寿命や能力を持つウツセミと対等に接しているウワバミの職務に抱いていた誇りが音を立てて崩れ去っていくのを感じる。
「要するにウツセミの天敵にして守護者である本当のウワバミは来栖一族の人間なんかじゃなくて、ウツセミが住んでいる街自体ってことさ。むしろあらゆるものを際限なく食らい続ける大蛇にちなんだウワバミという名称は、紫水小路を形成する化け物の実態を的確に表現しているといえるだろうな。護通の孫、お前や先祖たちが必死に努めてきたウワバミって役割はウツセミだけじゃなくて自分の一族すら騙し続けてきた碌でもないものってことがよーく分かったろ?」
信念をへし折られた来栖を平輔はせせら笑うが、来栖は黙り込んだまま一言も言い返せない。
「俺はきまぐれでいつ化け物に消化されちまうか分からない危うい状況にある同胞たちを救うため、みんなを現世に連れ出したいと思っている。同胞を檻に閉じ込めるために朱美姐さんから族長を引き継ぐのなく、族長の話を蹴って現状の体制に反旗を翻してでも同胞を救うことに決めた。ウツセミの肌には強過ぎる日差しや吸血鬼を忌み嫌う人間の弾圧に曝され続ける現世での暮らしは楽ではないが、嘘で塗り固められたぬるま湯の湯船の心地よさに浸かり続けたらウツセミは駄目になっちまう。実際にウツセミの弱体化は深刻になっていて、先日教会の連中の襲撃の際には人間相手に多くのウツセミが遅れをとったのが揺るぎない証拠だ。この調子じゃそのうちウツセミは人間に滅ぼされちまう、ウツセミという種族を延命させるには現世の荒波に揉まれて強くなっていくしかねえ」
平輔は仲間内での権力を掌握し自分の利権を確保するために私利私欲で行動したのではなく、紫水小路といういつ自分たちに牙を剥くか分からないぬるま湯の中で衰退の一途を辿っているウツセミという種族を生き延びさせるために反逆的な行動に出たのだと語る。
平輔の極論は万人に受け容れられるものでもなければ、全てのウツセミがその恩恵を享受できるものでもなかったが、あらゆる生物が巻き込まれている生存競争の中でウツセミが生き残っていくための方針のひとつとしての妥当性はあると、彼の熱弁を耳にして丹は認めてしまう。
「…待てよ。ウツセミが紫水小路で暮らすようになったきっかけは俺の先祖がウツセミを騙し討ちしたことなのは認めるけどよ、あそこに留まることを選んだのはウツセミ自身じゃねえか。だったらその結果滅びの道を歩むことになっても自己責任だろう? あんたのように現世で捕食者として積極的に生きることを望むウツセミもいるだろうが、みんながそれを望んでいる訳じゃねえ。あんたがウツセミを現世に連れ出そうとしているのは、自分のエゴの押し付けだよ」
来栖は項垂れていた頭を起こし、平輔を真っ直ぐに見据える。同胞の生存を憂う平輔の考え自体は間違っていなくても、それの考えを他人に押し売りするのは間違っていると来栖は彼を糾弾する。
「強引に同胞を現世に連れ出すのはエゴといわれても仕方ないかもしれねえが、放っておいたら仲間が消えていくのに黙っているつもりはない。そして同胞の未来のための道を築くのにお前の存在は邪魔だ、この場で消えてもらうぜ」
左腕の切断面から爆発的に黒い靄が噴出し、渦巻きながら平輔の左腕の周囲に大きな塊を作り出す。人間の生体エネルギーである精気もウツセミの活力源である妖気も分け隔てなく吸収する性質を持つ陰を使って、平輔は計画の妨げになる来栖を取り除こうとした。
「本当は天敵にして守護者なんてたいそうなモンじゃなくただの使いパシリでも、ウツセミを紫水小路に留めておくことが間違っているかもしれなくても、俺は爺ちゃんや先祖たちが守ってきたモンは人間にもウツセミにも意味があるものだと信じている。だからそれを頭ごなしに否定して、自分の押し通そうとする大儀のためにいろんなものを切り捨てようとするあんたは、ウワバミとして許す訳にはいかねえ!」
来栖は丹の肩にかかっている両腕を持ち上げて、彼女の体を自分の胸に抱き寄せながら前方に突き出した右手に剣気を凝縮させていく。自分の体内で発生する生体エネルギーに加え、丹から供給されるエネルギーが局所的に集中してくるとその出力を制御しきれずに少しでも気を抜いた途端に手元で暴発してしまいそうだった。
臨界寸前のエネルギーを抑え込むように来栖が右手に左手を添えると、彼の腕の中にいる丹も手を伸ばして来栖の拳を両手で包み込んだ。
「ごめんな丹、毎回危ない目に巻き込んでばっかりで」
「そうなってもいつもクーくんが助けてくれるからわたしは怖くないよ。それにね、助けられてばっかりじゃなくて、わたしもたまにはクーくんを助けてあげたいの」
「そんなことねえよ、お前には世話になってばっかりだ。だからその恩に応えるため、絶対に平輔を倒す」
「平輔さんも悪いことをしようと思ったんじゃないのに、みんなのことを心配して自分がどうにかしなくちゃって思っただけなのに、こんなことになっちゃったなんて悲しいね」
来栖と丹が想いを伝え合いながら相互扶助の関係にあることを確かめ合うと、丹は剣気で始末することでしか平輔を止められないことを悲しむ。
「…どんな良い奴にも嫌な所はあるし、逆にどんな悪党にだって良い所はひとつくらいあるもんだろ。仲間のことを思って起こした行動でも、平輔のせいで少なくないひとが不幸になった。その罪を見逃す訳にはいかねえよ」
「そうだね…平輔さんはお母さんがわたしたちから離れる原因を作ったり、クーくんのお爺さんを殺したりした。いくらみんなのためでも、多くの人に迷惑をかけて命まで奪うことはいけないと思う」
「お前らが今生の別れを交わしている間に、こっちはお前らを抜け殻にするには充分すぎる量の陰を用意できたぜ? 覚悟はいいか、護通の孫に綺麗事が大好きなお嬢ちゃん?」
「ああ、こっちもそのどす黒い靄と一緒にお前を吹っ飛ばすだけの剣気を溜められた。今度こそ成仏しろよ、平輔」
恨みを持つ由縁はあっても同胞の平輔を討つことを躊躇う丹に、平輔はそれだけの罪を重ねてしまっていると来栖が言い聞かせる。丹も平輔を滅ぼす決意を固めると、左腕の周りに積乱雲のような陰を留めた平輔が決着をつけるのが待ち遠しそうな顔で呼びかけてきた。
膨大な剣気を制御しきれず、周辺に紫電を帯電させながら来栖は彼を討つ準備は万全だと返答した。
「悪いが志半ばで倒れる訳にはいかないんでな、まだ成仏する気はさらさらねえよ」
平輔は巨大な蛇がとぐろを巻いているように見える陰の塊を左半身に纏わりつかせた状態で、いつでも膝を屈めて来栖たちに飛びかかれる体勢を取る。
「喝!」
来栖と丹は臨戦体勢を整えた平輔を真正面に捕らえると、彼を打破する一念を込めた気合を合唱した。来栖の右の拳から一筋の紫電が撃ち出され、空を裂いて平輔に向かって小刻みに蛇行しながら延びていく。
「唵!」
平輔も左半身を覆っていた陰の渦を解き放って、自分の野望を阻止しようとするものたちを薙ぎ払おうとする。来栖の拳から飛び出していった紫色に輝く蛇と、平輔の左腕から延びていく漆黒の蛇は両者の中間地点で正面からぶつかりあう。
「はぁぁぁっ!」
「しゃああっ!」
来栖と平輔の檄が飛び交う中、ぶつかりあった二匹の大蛇は互いに相手のことを食らってその主を飲み込もうと押し合いをする。来栖たちの斂と平輔の陰が競り合った時間はほんの刹那であったが、押し合いに敗れれば即死に繋がると知る彼らはそれが非常に長い一時に思えた。
「らぁぁぁっ!」
自分の拳を包んでいる丹の指が強く握り締められた瞬間、来栖は右手の指を固く握り込んで再度気合を入れ直す。それが虚像と知らされても果たしたいと思ったウワバミとしての責務や、平輔の宿願が成就することで人間とウツセミの双方に大きな混乱がもたらされることを阻止したい使命感以上に、自分がこの撃ち合いに負けることで丹が滅ぼされてしまうことが我慢ならなかった。
何に代えても丹のことは失いたくないと来栖が強く願った瞬間、斂と陰の拮抗が崩れ、紫色に輝く大蛇が角を突き合わせていた闇を具現化したような大蛇の身を縦に引き裂く。押し合いに負けた平輔の陰は一瞬で霧散し、遮るものがなくなった平輔を斂が一息に貫いた。
「がぁぁぁっ!?」
合で出力が倍増した斂の膨大なエネルギーをその身に内包する精気の真空地帯、蝕に集中的に注ぎ込まれ、甚大なキャパシティを持つ平輔の蝕も精気の処理能力の限界を超えてしまった。吸収しきれなかった生体エネルギーに全身を焼かれて、平輔は断末魔の悲鳴をあげると背中から地面に崩れ落ちていった。
「やった、か……?」
「く、クーくん……」
全身全霊を込めて剣気を放った来栖は体力的にも精神的にも限界を迎えており、今にも倒れそうになるのをどうにか丹の肩を借りて立っているような状態であった。斂に射抜かれた平輔が倒れたのを見て来栖は彼を退けられたという手応えを覚えるが、丹は表情を青褪めさせながら来栖に前方を指し示した。
「嘘だろ…あれを食らってまだ立ち上がれるのかよ?」
「当たり前だ、平輔さんがお前のような半人前に負けるはずがない!」
合によって威力の増した斂の直撃を受けながら、平輔は幽鬼のように身を揺らがせながらも起き上がる。平輔が消滅するどころか、ゆっくりと歩いてこちらにやってくるのを見て来栖が驚愕に顔を引き攣らせると、銀のナイフを肩口に突き刺したまま平輔の配下である悠久が得意げな顔を浮かべた。
「託人……」
「えっ!?」
覚束ない足取りで近寄ってくる平輔に来栖たちが警戒していると、唐突に平輔が来栖の名前を口にして丹が驚きの声をあげる。
「…護通の孫、お前の名前、託人っていうんだろ?」
「そ、それがどうかしたのかよ?」
「別にどうもしないさ。ただ護通が不仲だった娘にやっと生まれた孫の名前を教えてもらったと自慢してきたことを思い出して、一回くらい呼んでみたくなっただけさ」
「…あんたと爺ちゃんは昔仲良かったみたいだな」
「ああ、あいつが紫水小路に来るたびに朱美姐さんや源司も誘ってよく飲み明かしたもんさ。普段苦虫を噛み潰したような顔をしていても酒が入った途端に護通の顔が弛むのを、みんなでからかって盛り上がったのはいい思い出だ」
再三祖父の名を口にしていることや、自分の名前を知っていることから来栖は平輔と祖父が懇意だったと察する。来栖の祖父が若かりし日々に思いを馳せて楽しかった日々を偲ぶような顔を浮かべる平輔の右腕が、ぼろぼろと崩れ落ちていくのを来栖と丹は目の当たりにした。
「何代もウワバミの人間を見てきたけど、あいつほど俺たちに親しく交わろうとしてきた奴はいなかった。そしてそれまでのウワバミは代々務めている役目だから義務として紫水小路とウツセミの監視をしていただけなのに対し、あいつはこの世界に存在する隣人としてウツセミに思いやりを持って接してきた。だからあいつの仕事は徹底していたし、あいつが手にかけたナレノハテやウツセミの死を悼む誠実さがあることが分かったから、みんなが護通のことを自分たちの天敵にして守護者と敬ったんだ。託人、お前の爺さんは額面だけでなく実質的にもウワバミになった初めての男だったんだぜ?」
来栖の祖父に賞賛を送る平輔の体はあちこちが瓦解していて、胸から下の部分の大半に欠損が見られた。
「結局あんたは何が言いたい、爺ちゃんに劣る俺にやられた愚痴を聞かせたいのか?」
「そんなんじゃねえよ。酒の席以外では仏頂面を通していた護通が人前で顔を弛めたのは俺の知ってる限り2回しかない。1回目は自分に娘が生まれて都って名前をつけると俺や姐さんに教えてくれた時。そしてもう1回がウワバミの責務に入れ込むあまり家庭を顧みなかった自分に反発していた娘が、孫の顔を見せにきたついでに託人って名前をつけたと教えてくれたと言いに来た時だ。あの無愛想な奴が誕生を喜んだ孫と話してみたいと思っただけだよ」
やはり膨大な剣気を撃ち込まれたダメージに耐え切れず平輔の体が崩壊しているのを見てもうじき彼が消滅することを来栖は確信するが、それでも油断せずに平輔の出方を覗うことにする。
しかし邪険にあしらおうとした来栖の問いかけに対する平輔の返答は、かつて親しみを覚えていた男の孫と会話したいだけというものであり、来栖は拍子抜けしてしまう。
「見てくれだけでなくつっけんどんな態度、それに自分が信じたものを一途に守ろうとするトコはホント爺さんそっくりだな。護通の若い頃によく似たお前と朱美姐さんや源司の薫陶を受けているそっちのお嬢ちゃんだったら、護通と姐さんでも叶えられなかった人間とウツセミが共存できる世界ってのも作れるかもしれねえなあ。そうすりゃ牙を抜かれちまったウツセミでも、この世界で長生きできるかもしれねえ……」
平輔は自分は強硬的な手段しか同胞を救う道を見つかられなかったが、自身が敬愛している2人の思想を色濃く受け継いでいる来栖と丹ならば平和的な方法でウツセミが生き永らえる道を見つけられるかもしれないという期待を寄せる。若い2人に同胞の未来を託すと、平輔の体は煙のように霧散していった。
外殻を失った蝕も平輔の峻烈な生き様や犯してきた蛮行に似つかわしくないほどあっさりと消え去ってしまい、ウツセミを現世に連れ出して捕食者としての本能を呼び覚ますことで生存競争に勝ち残らせようとした野心家の痕跡は一切残らなかった。
「嘘だ、平輔さんが宿願を果たす前にこんな奴らに討たれるなんて嘘だ……」
「悠久くん……」
神のように絶対視していた平輔が来栖と丹に敗れたことを認められず、悠久は頭を垂れたまま悔しげに地面を何度も叩く。縋りつく磐石の存在だった平輔がいなくなり、頼りにすべきものを失った悠久に丹は憐れみの視線を向けて近づいていく。
「平輔さんはウツセミの救世主になるひとだったのに、あのひとしか僕らに明るい未来をもたらせないはずなのにそれをお前たちが台無しにした…ウワバミに手を貸したことで君は同胞の未来を閉ざしたんだぞ、丹!」
悠久が呪詛の念の籠もった眼差しで自分の顔を見上げてくると、彼に歩み寄っていた丹の脚が竦んでしまう。
「うっ……!?」
川の向こうに聳える稜線の頂から太陽が顔を覗かせて強烈な朝日を地上に照らしつけてくると、その光に悠久は目を晦ませる。
「悠久くん、早く日陰に行かなきゃ!」
「平輔さんがいなくなって救いのなくなったこんな世界にもう留まる意味はない、僕も平輔さんの後を追うよ」
直視できないほど眩い朝日に照らされる悠久の体から煙が上がり、肉が焼かれる焦げ臭い臭いが漂い始める。このままでは彼が焼死してしまうと丹は橋の欄干にある日陰に彼を連れて行こうとするが、悠久は自分の腕を掴む丹の手を振り払って平輔を追って殉死すると言い張る。
「悠久くんは平輔さんや真琴さんの分まで生きなくちゃ! そうやって辛い事から逃げてばっかりじゃ駄目、平輔さんみたいに立ち向かっていかなくちゃ!」
しかし手を振り払われても丹はめげずに悠久の腕を両手で掴んで、無理矢理立ち上がらせるとそのまま橋の下まで引き摺っていく。愛着を持っていたものたちの名前を出され、憧れを抱いていた平輔のように強くなれと言われると悠久の脚は自然に丹の後に従っていった。
手の甲や頬の一部にケロイド状の火傷が出来ていたが、強烈な朝日から逃れられた悠久の命に別状はないようで丹はほっと胸を撫で下ろす。
「クーくん、ナイフで出来た悠久くんの傷をわたしの烙印の時みたいに塞いであげて」
「いいのか、こいつはお前にナイフを突きつけていた奴だぜ? こいつを助けるくらいなら、天連の手当てをするほうがマシだ」
丹は銀で受けた傷の治療法として自分が体験している剣気で傷口を焼いて塞ぐ荒療治を悠久にしてやるように来栖に頼むが、敵対していた平輔の配下だったことに加えて丹に凶器を向けていた悠久の治療に来栖は嫌そうな顔をする。悠久の治療をするくらいなら、自分を叩きのめして監禁したハライソの使徒である天連の手当てをする方が気分がいいと抗議する。
「ウワバミはウツセミの守護者でもあるでしょう、だったら困ってるウツセミを見捨てちゃ駄目じゃない?」
「…分かったよ。おい、剣気で傷を焼くのは相当な痛みがあると思うが、女の丹が耐えられたんだからてめえも歯を食い縛って我慢しろよな?」
「平輔さんを倒したウワバミに助けられるのなんて、こっちも願い下げだよ」
「てめえの意見は聞いちゃいねえ、丹が助けろって言うからこっちも助けてやるだけだ」
丹にウワバミの責務を告げられると来栖は渋々悠久の傷を塞ぐことに同意する。来栖に命を救われることに悠久は拒否感を示すが、来栖は有無を言わさず悠久の肩から銀のナイフを抜いて脇に捨てると、斂を発動させる要領で右手に剣気を凝縮させるとそのまま発散させずに保持して、妖気が漏れ出している悠久の傷口の上に翳す。
「ぐぁぁっ……」
「動くんじゃねえ! 丹、こいつのことを抑えてろ!」
「うん」
陽光を避けられたと思ったら今度は剣気に体を焼かれる破目になり、悠久は高いトーンで苦悶の声を出す。剣気の光から逃れようと悶える悠久の体を押さえつけるように来栖が命じると、丹は即座に悠久の体を後ろから羽交い絞めにした。
「ああああ……」
「手間かけさせやがって、顔だけじゃなくて中身も女々しい野郎だな」
悠久の傷口から妖気の流出が収まり、傷が塞がったことを確かめると来栖は斂を消して彼の体から手を離す。悠久は剣気で肌を焼かれた激痛のあまり、気を失っていた。
「剣気を浴びるのは物凄く痛いんだから、男の子の悠久くんが苦しむのも無理ないよ」
「俺だってハライソの使徒に聖火を打たれたことがあるからどんだけ痛いか分かるけどよ、やっぱり男なら痛いのを我慢して……」
「クーくん!?」
ウツセミに致命傷を与える剣気を浴びれば、悠久が悲鳴をあげてもがき苦しんだのも仕方ないことだと丹が彼の肩を持つと、来栖は不貞腐れたようにそっぽを向く。しかし精神論を説こうとする来栖の体が大きく傾いで、地面に倒れこむと丹は血相を変えて彼に駆け寄った。
「…アバラがイカれてどっかの内臓も破裂してるのに動き続けたけど、さすがにもう気合でカバーできなくなったみたいだ。悪いけど寝るわ、後のことは頼む……」
「クーくん!」
来栖は事後処理を丹に任せると、僅かに持ち上げていた顔を地面に落として昏倒した。丹が来栖の名を呼びながら何度も体を揺すっても、来栖は全く反応を示さなかった。
意識のなくなった来栖を傍らで心配そうに見守っている丹以外は、精気を吸い尽くされて河原に倒れたままの天連も橋の日陰で気絶している悠久も身動き一つしない。累々と死闘を経た男たちが臥せっている河原に丹の声が空しくこだました。
第18回、二匹の大蛇 了
来栖と平輔の決着がつき、ウツセミの未来を賭けた戦いに幕が降りたところで一度話を切らせていただきます。
若干通常より分量は短くなりますが、次回がエピローグとなるのでこの物語の結末を見届けていただきたいと思います。