第17回、憎悪の螺旋
山麓が連なる御門の東の空が白み始めた頃、市内を南北に流れる鱧川の畔で一戦を交えようとしているものたちがいた。
「喝!」
古くより御門に隠棲している吸血鬼の眷属ウツセミの天敵にして守護者であるウワバミの任に就いている少年、来栖託人が突き出した右の拳から生体エネルギーを集束させて発現させた光の槍、斂を撃ち出す。
「唵!」
来栖が繰り出した光の槍の穂先には同胞から居住地を追われた過去を持つウツセミ平輔がおり、平輔は左腕の周囲に妖気を変質させた黒い靄、陰を発生させて来栖の放った斂を防ごうとする。
一直線に平輔に向かって斂は伸びていくが、彼の周りを覆った陰に包み込まれると斂は跡形もなく霧散してしまう。
「エイメン!」
来栖の斂が平輔の陰に吸収されると、今度は吸血鬼の殲滅を目的としている組織ハライソの使徒、伴天連が平輔の横から斂と同質のエネルギーである聖火を撃ち込んできた。
「懲りない奴だな、お前の聖火は俺に通用しないことはこの間の戦いでよく分かっているだろう?」
平輔が天連の立つ右手に首を捻ると、周囲を取り巻いていた陰が彼の右側に集中していく。来栖の放った斂と同じように、天連の聖火も平輔の手前で陰に取り込まれ無効化されてしまった。
生体エネルギーを一点に集束させることで威力を高めた斂も神から人間に与えられる慈愛で出力が増幅された聖火も、並の吸血鬼では一撃で消し飛ばされてしまうほどの破壊力を持っているが、ブラックホールのように巨大な精気の真空地帯蝕をその身に抱える平輔にとってその効き目はそよ風が吹いたようなものでしかないようだった。
吸血鬼に有効打を与えられる精気を攻撃用に転換できる能力を持つ人間として突出した実力の来栖と天連を同時に敵に回しても軽くあしらった平輔は、物足りなそうな顔で2人に目を向ける。しかし一瞬前まで来栖がいたはずの場所に彼の姿はなかった。
「おっと、危ねえ」
立て続けに撃ち込まれた斂と聖火に注意が向いているうちに、来栖は刀身に銀がコーティングされたナイフを右手に握って平輔に肉薄していた。低い姿勢から逆手に握ったナイフを来栖が振り上げてくると、平輔は一歩後退して彼の奇襲を回避する。
「らぁぁっ!」
平輔の間合いに飛び込んだまま、来栖は剣気を拡散状態で放出する撥を発動させる。生体エネルギーを拡散させる攻撃でも、天連の聖火と比べて来栖の撥の出力は遥かに低い。平輔は陰を使わずに来栖の撥に耐えてみせたが、剣気を叩きつけられて彼がひるんだほんの僅かな隙に来栖は振り上げた刃を切り返して、平輔の体にナイフを突き立てようとする。
「うおっ……」
「エイメン!」
右肩に食い込もうとした銀のナイフを平輔は上体を捻って避けるが、来栖の攻撃に気を取られているうちに平輔の背後に回りこんだ天連が再び聖火を放ってくる。天連の最初の一撃を防ぐために陰を集中させた右側や、陰の発生源である左腕の周りに比べて陰の層が薄い平輔の背中に聖火が命中し青白い閃光が瞬く。
「ふっ!」
来栖は平輔の肩口を狙って空振りした右腕を再び振り上げると、ナイフの柄尻で平輔の左頬を強かに殴打した。金属製のナイフの柄と骨がぶつかり鈍い音がするが、人間よりも格段に頑健な肉体を誇るウツセミの平輔には軽微なダメージしか与えられないだろう。
「エイメン!」
「くっ……」
来栖に横面を打たれて平輔の体がよろめくと天連がまた聖火を発生させる。来栖が平輔の懐から飛び退いた瞬間、平輔の体が青白い閃光に包まれた。
「平輔さん!」
神からの寵愛ではなく互いに想い合う情愛によって剣気を増幅させる来栖の切り札、合の発動に不可欠なウツセミの少女、丹にナイフを突きつけて人質に取っている悠久が、主君である平輔が人間の攻撃を食らったことに狼狽を見せる。
「いいぜ、このくらいやってもらわなきゃわざわざ現世まで出張った意味がねえ」
しかし平輔は来栖に殴られた時に切れた口から滲んだ血を右手の甲で拭い、2人がかりとはいえ人間が自分に手傷を負わせたことに好ましそうな顔を浮かべる。血が拭い去られ、瞬く間に左頬の痣が治癒すると平輔は何事もなかったような顔で来栖と天連に正対した。
「反目しあっていたウワバミと使徒が手を組んできたんだから、さすがに本気を出さないと失礼か。ウツセミの未来のために、お前たちを全力で叩き潰す」
平輔の表情にそれまで浮かんでいた余裕の色が消え、鋭い目つきで来栖と天連を見据える。それまで遊び半分の感覚で戦いに臨んでいた平輔が、本腰を入れて自分たちに襲いかかってくることを悟り、来栖と天連の顔に緊張の色が浮かぶ。
「…行くぞ」
「喝!」
「エイメン!」
平輔の体が霞みのように揺らぐと、全身の毛穴が開くようなとてつもない殺気を来栖と天連は感じる。猛烈な勢いで接近してくる平輔を迎撃するため来栖は充填させておいた剣気を凝縮して斂の状態で放ち、天連は邪悪なものを退ける強い意志を胸に聖火を発動させた。
* * *
「成敗!」
「がぁっ!?」
朱美が跳躍して首筋に手刀を打ち込むと、彼女の一撃を食らった相手のウツセミはくぐもった悲鳴をあげて昏倒した。
「雑兵は残らず片付けたかのう?」
「ええ、政所を焼き討ちしようとした不届き者でまだ立っているのは潮だけです」
周辺に累々と突っ伏している血気盛んな若者たちを睥睨しながら口にした朱美の質問に、その場に倒れている多くの反逆者の脳天を打ち据えてきた鉄扇を広げて気だるそうに仰ぎながら置屋の女主人茜はまだ戦っているものたちのことを顎でしゃくって答える。
紫水小路に侵入したハライソの軍勢が街を破壊し大勢の同胞を殺害したことの報復として、暴徒化した一部のウツセミが現世へ行くのに必要な朱印符を狙ってそれを管理している政所を強襲しようとしてきた。
しかし過激派のウツセミにかつて謀反を企てて街を追われた平輔が加担していることを受け、政所の長朱美や商取引を司る置屋を率いる女傑茜は波乱が起きることを予測し、前もって政所の守りを固めておいた。
案の定朱印符を狙って攻撃をしかけてきた過激派のウツセミへの対応に防衛側の準備は怠りなく、暴動に参加したほとんどのウツセミが打ち倒され、残ったのは過激派の旗頭に挙げられた酒蔵の代表潮だけだった。
茜が少々尖り気味の顎で指し示した先に朱美が目を向けると、前時代の大工のような出で立ちをした巨漢の潮と落ち着いた色調のスーツを折り目正しく着た花街の支配人忠将が睨み合っていた。
「ちゃらちゃらしたナリの割になかなかしぶといじゃねえか……」
「ひとを見た目だけで判断するのはよくないって、ガキの頃注意されなかったか?」
「二百年も昔のことなんか覚えちゃいねえよ!」
潮は予想以上に自分と競り合っている忠将の力を見直すが、忠将に発現の揚げ足を取られると潮は憎まれ口を言い返しつつ彼に突進していく。
比較的背の高い忠将が見上げるほど体が大きな潮が接近してくる様は、小山が迫ってくるような威圧感があったが、忠将はそれに臆することなく勢い任せで単調になりがちな潮の攻撃の性質を逆手に取り、隙だらけの相手の懐に踏み込んでいく。
「はっ!」
忠将はがら空きになっている潮の鳩尾に拳を叩きつけるが、骨が肉を打つ鈍い音ではなく金属板を叩いたような高い音が響く。忠将は相手の急所に会心の一撃を打ち込んだ手応えどころか、自分の拳が損傷したような痛みを覚えた。
「そおぉら!」
「がはっ……!?」
忠将の一撃を堪えた潮は、自分の胴を打った時の異質な感覚に戸惑って注意力が散漫になった忠将の背中に固く指を組んで合わせた手を打ち付ける。潮の剛腕に叩かれた衝撃だけでなく、まるで鉄槌で打たれたような硬質の感覚に忠将は悶絶した。
「もういっちょ!」
「がっ……」
背中を強打されて前のめりになった忠将の体を潮は右腕で横殴りにする。体勢が崩れた所に潮のずば抜けた膂力によって繰り出された一撃を受けて、忠将の体は潮の左方に吹き飛んでいった。
「…なんだ、まるで頑丈な甲冑を纏った奴と殴り合いをしているみたいだ」
「見た目どおり察しがいいな。そうさ、今の俺の体は鎧に包まれているのと同じだ!」
忠将が今の攻防を通して感じた潮の体の変化を口にすると、潮は自慢げに自分の肉体を硬質化させられる特性を忠将に明かす。
「…そいつがお前の能力か」
齢を重ねたウツセミが特殊な能力を会得することは珍しくなく、二百年以上の時を過ごしている潮が何らかの能力を有している可能性を忠将は考慮していた。しかし肉体を硬質化させて相手の攻撃を防ぎ、自身の攻撃の威力を増加させるという潮の能力は素手での格闘に置いて絶対的なアドバンテージがあると気付き、忠将は苦笑いする。
「忠将、攻撃が当たっても利かねえんじゃお前に勝ち目はねえよ!」
「大量の妖気を消費する能力をいつまでも使い続けられるものか、能力の限界を迎えた時がお前の最期だ!」
全身を硬化させた潮の肌の色調は鉛色に近くなっている。潮は自分がダメージを受けない今が忠将を捻じ伏せる絶好の機会として猛攻をしかけてくる。下手に攻撃しても自分の体を傷めるだけと悟り、忠将は逃げに徹して畳みかけてくる潮の拳や蹴りを避け続ける。
「その前にてめえをぶちのめしてやるよ。てめえさえいなくなれば、残りの女や雑魚どもが束になっても俺を止められやしねえ!」
「仲間を殺されて人間を恨む気持ちは分かるが、人間への復讐のためとはいえ同胞を傷つけることに後ろめたさはないのか? 仲間を傷つけて朱印符を奪い、現世で人間を襲うことがそんなに意味があるのか?」
「殺された連中は部下や仲間じゃねえ、俺にとって家族も同然だ。けどお前たち代永の連中や鼻につく芸術とやらに打ち込んでいる富士見の奴らを襲うことに抵抗は感じねえ!」
「何故だ、酒蔵以外の奴だって同じウツセミだろう?」
鉛色になった顔に憤怒の色を浮かべて猛然と攻め続ける潮に追われながら、忠将はどうして彼が同胞を踏み台にしてでも現世へ赴こうとするのかという理由を訊ねる。忠将の質問に罵声で答えつつ潮は岩のような拳を絶え間なく繰り出していく。
「違う! 人間の死体の処理なんて汚れ仕事を押し付けて、自分たちは俺たちが鼻の曲がるような腐臭に耐えて汗水たらして作ったチンタを飲むだけのてめえらを仲間に思えるはずがねえだろう!」
酒蔵以外のウツセミを潮が仲間と認めない理由が、紫水小路で亡くなった人間の死体を原料に生き血の代用品であるチンタを醸造することを酒蔵のウツセミたちが一身に強いられていることへの反発だと聞かされて、潮の猛攻から逃れようとする忠将の足が止まる。
「だから俺たち酒蔵のウツセミは、いけ好かねえ連中のためにチンタを作らされる役目から解放されるために現世へ行くことを望んだんだ! 俺たちの苦しみも知らずにのうのうと過ごしているてめえらがその邪魔をするつもりなら、俺がみんなぶっ飛ばす!」
「うぐっ……」
潮の悲痛な本心を聞かされて動きの止まった忠将の顔面に、仲間を殺した人間と自分たちの苦労を知らずにいる酒蔵以外のウツセミへの怨念を込めた潮の鉄拳が炸裂する。
頬骨が粉砕されたような激痛で端正な顔を歪ませて忠将は殴り倒され、潮の拳が打ち込まれた衝撃の慣性で地面を転がっていく。
「誰もやりたがらないことを押し付けられながらこの街で暮らすのはもううんざりだ、平輔の言うように俺たちは現世で本当の自由を掴む!」
平輔が過激派に加わったウツセミを扇動する際に用いた言い回しを叫びながら、潮は足元に転がったままの忠将の頭部を踏み潰そうとする。潮の強打のダメージで立ち上がれない忠将の頭は、迫ってきた大きな潮の足にスイカのように押し潰された。
「忠将!」
忠将とほぼ同じ時代にウツセミに転化した茜は、同期の彼が潮に頭を踏み割られてしまったことに悲鳴をあげる。茜の悲鳴の残響の中、自然治癒力を越える損傷を負った忠将の体が次第に崩れていき、灰になって風に流されていく。
「…他人を犠牲にして得たような自由でお前は本当に満足できるのか?」
「なに!?」
「紫水小路の中でも特に気骨のある男が揃っている酒蔵で番を張っているお前が、そんなみみっちい奴なのかよ!」
潮によって滅ぼされたはずの忠将の罵声が聞こえてくると、潮は姿の見えない相手の言葉に動揺を示す。忠将の姿を求めて周囲を見回している潮の背後に忠将の体が崩れて出来た灰が吹き溜まっていき、次第に固まってきた灰が人型の輪郭を結び始める。
「そういやこいつの能力は体を灰にして物をすり抜けること……」
「おおおっ!」
忠将の特殊能力を思い出した潮が反射的に振り向くと、忠将が右手に拳銃を握った姿でその場に佇んでいた。咆哮をあげて忠将は手にした拳銃を潮の硬質化した胸板に押し当てると、続けざまに引き金を引いて至近距離から銃弾を連射する。
「ぐっ……!?」
「うおおっ!」
潮の硬質化した皮膚は連続して浴びせられた銃弾すら防ぎとおしたが、その衝撃には耐え切れずに苦悶の声をあげる。忠将はバランスの崩れた潮に体ごとぶつかっていって、彼のことを押し倒すと、潮の体に馬乗りになって開いた彼の口蓋に拳銃を突っ込んだ。
「…いくら体を硬くしても内側で銃を撃たれちゃひとたまりもあるまい、おとなしく降参しろ」
多用すると元の姿に戻れなくなってしまう恐れがあるため自重していた灰化する能力だけでなく、もしもの時の用心として隠し持っていた拳銃まで使う破目になり忠将は自分の姑息さに嫌気が差すのに耐えながら、拳銃の引き金に指をかけて潮に降伏を勧告する。
潮は同胞を殺した人間が残した凶器を決闘に持ち出してきた忠将を妬ましげな目で睨み、声にならない唸り声を上げて忠将を振り落とそうともがくが、忠将はしっかりと体格で上回る潮を押さえ込んで離さない。
「もう勝負はついただろう、2人とも意地を張るのを止めたらどうだい?」
強情を張って潮が断固として忠将に降伏の意思を示そうとしないと、忠将も撃鉄の上がった拳銃を彼の口に突き入れたままそれを引こうとしない。不毛な意地の張り合いが延々と長引こうとするのを、殺伐としたこの場の雰囲気にそぐわない暢気な声が遮る。
「恒先生…どうしてあなたが源司を抱えているんです?」
「源司が平輔にやられて動けなくなっているのを見かけてね、放っておく訳にもいかないから仕方なくさ。それよりも忠将くん、いい加減潮の口からその物騒なものを抜いてやったらどうだい? いくら彼が大きな口をしていても、相当苦しいと思うけれど?」
「こいつはまだ降伏していません、今銃を離す訳には……」
「おやおや、民主的なやり方を好む代永のウツセミとは思えない発言だね。喧嘩しているうちに組み敷いているその豪傑に感化されたかい?」
「銃を引け忠将、能力を酷使した潮にほとんど妖気が残っておらんことに気付かんのか?」
富士見氏族のウツセミで最高齢の恒から再三潮から銃を引くように勧められても忠将は潮の反撃を恐れて従おうとしなかったが、代永氏族だけでなく紫水小路の長老である朱美に潮にはもう反撃する余力が残っていないことを知らされると銃を彼の口から引き抜く。
忠将が銃を潮の口から引いてその体の上から降りると、潮はようやく満足に呼吸できるようになった口で新鮮な空気を肺に取り込んだ。拳銃を突きつけられたまま決闘に幕を引かれたことに潮は不服そうだったが、体を土に着けられたことに加えて忠将がその気になればいつでも自分を殺害できた状況にまで追い込まれてしまったことから己の敗北を受け容れたらしく身を起こしても抵抗を続ける意思は覗えなかった。
「兼ねてから思い込みの激しい性格だとは思っていたけれど、平輔にちょっと唆されたくらいでこんな暴挙に出るのは人の上に立つものとして問題じゃないか潮?」
恒は平輔に全身から精気だけでなく妖気も抜き取られて虚脱状態になっている源司のことを忠将に預けると、地面に跪いたまま項垂れている潮の軽率な振る舞いに先輩として苦言を呈す。
「…俺を慕ってついてきてくれる奴らがいるからこそ、死体を処理して大勢の連中にチンタを貢ぐ苦役からそいつらを解放したいと思ったんだよ」
「苦役…チンタの醸造にかなりの手間があることは知っておったが、お主たちがそこまで思いつめておるとは思わなかった。亡骸をわしらの嗜好品の原料にしてしまう人間のことばかり気にしておったが、酒蔵のものにも多大な苦しみを与えておったんじゃな。四百年近くここで暮らしておりながら、今まで気付かんと本当にすまんかった」
潮が呟いた酒蔵を率いるものとして部下を苦役から逃れさせてやりたかったという願いを聞くと、朱美は紫水小路の住民として一番の古株でありながらそれに気付かなかったことに頭を垂れて謝罪した。
「…そうやって口先だけで謝っても、明日から俺たちに代わって酒蔵でチンタを作ってやろうなんて気はさらさらないだろう?」
「ああ、素人が手を出したところでチンタを熟成させるどころか腐らせるのがオチさ。チンタの醸造が一朝一夕で出来るものじゃないことは君が誰よりも分かっているだろう?」
「耄碌したジジイが知ったような口を利くんじゃねえ。そうやってへらへら笑って遊んで暮らしているてめえが俺たちの何を知っているっていうんだ?」
「チンタを醸造する過酷さは長い年月を生きていても一度も経験していないから分からないけれど、君が丹精込めてチンタを作っていることは知っているさ。材料として遺体を加工させる人間の名前を漏れなく帳簿に記載して、君だけでもその人間がこの世に生きていたことを覚えてやろうとしていることもね」
潮がどれだけ美辞麗句を尽くして自分に侘びたところで誰もチンタの醸造を代わるはずがないと恨み言を述べると、恒が彼に言葉を返す。辛苦に耐え忍んで働いたことのないような顔をしている恒が知ったような口を利くのが潮の勘に触ったが、恒がチンタの醸造に潮が誠心誠意一切の妥協をせずに臨んでいることと、死体を辱められる人間への鎮魂の念を抱いていることを暴露すると潮は剣幕を向けていた彼の顔から気恥ずかしそうに視線を逸らした。
「潮、本当は誰よりも人間の死を悼んでいる君が現世に出て人間を襲えるとは思えない。君がやりたかったのは自分たちの苦労も知らずにチンタに酔って、のうのうと暮らしているように見えた同胞に冷や水を浴びせることじゃないのか?」
「…うるせえ、俺たちは酒蔵の仕事を続けることに嫌気が差したんだ。現世へ高飛びするついでにスカした連中に一発かましてやろうと思っただけで、俺は、俺たちはそんな女々しいことは……」
「仕事を放り出して憂さ晴らしに暴れる方がよっぽど女々しいと思うぜ、潮。拳銃で脅さなきゃ取り押さえられなかったお前が、そんなせこい奴だとは俺は思いたくない」
「…そうだよ、てめえらを見てイラついたのは、どんなに辛酸を舐めさせられても酒蔵が文句も言わずに働いて同胞のためにチンタを作っていることを分からせたかったからだ。教会の連中に大勢の仲間がやられた怒りで目を晦まされてしまったが、俺たちが欲しかったのは酒蔵の仕事からの解放じゃない、同じウツセミからの理解と感謝だったんだ……」
恒が推測した潮が酒蔵のウツセミを率いて暴動を起こした根幹にある思いを初めのうち潮は否定するが、卑怯な手を使わなければ勝機を掴めなかったことを認めて忠将が敵対した潮の気高さを称えると、潮はついに秘めていた想いを吐露する。
潮は俯いて視線を地面に向けたまま、拳を握り締めて小刻みに震えている。自分自身が気付かなかった本心を恒や忠将に見抜かれた羞恥と、彼らが自分の思いを理解してくれたという喜びに打ち震えているようだった。
* * *
「小賢しい!」
一点に集束された生体エネルギーの槍と広範囲に広がった生体エネルギーの波が迫ってきても、平輔は猛々しい雄叫びをあげながら妖気を変質させて形成した陰をマントのように纏って来栖と天連に接近していく。
平輔の体を包む黒い靄は彼と敵対している2人の人間が渾身の力を込めて放った一撃を難なく飲み込んで無効化する。来栖と天連は二手に分かれることで平輔の狙いを絞りにくくし反撃の糸口を掴もうとしていたが、平輔は何の迷いもなく天連に背を向けると来栖に向かって突進してきた。
「喝!」
「斂ならともかくてめえの撥は防ぐ必要もねえよ!」
平輔は来栖が牽制のために放った剣気をものともせず、疾走するスピードを少しも緩めずに来栖の眼前に飛び込んでくる。剣気を拡散させて放つため、斂に比べれば格段に威力が劣ったが、撥を受けた相手に全く影響がないことは来栖にとって初めての経験だった。しかし平輔が間合いに入ってきているので、来栖は動揺する暇もなく彼の攻撃への対応を迫られてしまう。
「エイメン!」
「おっと、あいつの聖火には用心しておかねえとな!」
来栖に拳を繰り出そうとした平輔を狙って天連が聖火を発動させるが、天連の目論見を予測していた平輔は背中に陰を集中させて聖火を防ぐ。
「ちっ!」
「あっちの小娘がいなきゃ使えないとはいえ、厄介な切り札を持っているお前を逃がすかよ、護通の孫!」
天連の聖火から身を守るために一瞬そちらに注意を向けた隙に、来栖は平輔の間合いから離れようとする。だが丹が傍にいなければ発動できないという制限はあっても、剣気の出力を大幅に上昇させる合を切り札に持っている来栖への警戒も平輔は怠っていなかった。
既に自身の配下の悠久に丹の身柄を拘束させて来栖から遠ざけていたが、来栖が丹と合流する前に彼のことを始末しようと平輔は考えているらしく、自分から逃れようとする来栖を執拗に追跡する。
「おらぁっ!」
「このっ……」
再び来栖を間合いの中に捕らえた平輔は右腕を突き出して彼を殴りつけてくる。来栖は胸元を抉るような平輔の一撃を、左肩を後方に引いて紙一重のタイミングで避ける。来栖は体を捻った時の軸になった右腕を伸ばし、平輔の首筋を狙ってナイフを振るった。
「せいや!」
「ぐぉっ……」
しかし来栖が起死回生を狙って振るったナイフの刃が平輔の首筋に食い込むよりも先に、踏み込んだ左足を軸にして平輔が繰り出した右脚の蹴りが来栖の胴に叩き込まれる。平輔の蹴りを食らって、来栖は内臓が破裂したような痛みを覚えて後方に吹き飛ばされる。
「しっかりしろウワバミ!」
「しゃああっ!」
天連は強靭な筋力を誇る吸血鬼の蹴りを被った来栖の容態を案じながら、平輔に向かって再び聖火を放つ。来栖が地面に倒れこむのを見届けると、平輔は身を翻して天連に向き直り体の正面に陰を集中させて聖火を相殺しつつ天連の方に疾駆していく。
「エイメン!」
「何発打っても同じだ、その程度の威力じゃ俺の陰を掻き消せねえ!」
天連は平輔の接近を阻もうと即座に聖火を放つが、来栖が剣気を凝縮させて放つ斂と同等の威力を持つ天連の聖火でさえ平輔の陰を破るには力不足だった。体の周囲に纏わりつかせた陰をマントのように靡かせながら、平輔は天連の懐に突っ込んでいく。
頼みの綱である聖火すら通用せず窮地に陥った天連を平輔の拳が捉えようとした瞬間、天連の手元に火花が散る。平輔は咄嗟に半身を捻って猛烈な速度で迫り来る物体を避けるが、天連の手元で何度も閃光が瞬く。平輔は思い切り後方に向かって跳躍すると、肉薄していた天連から一旦離れた。
「決闘の場に鉄砲を持ち込むのは野暮じゃないか、ハライソの使徒さん?」
「俺はここに決闘をしに来たのではない。穢れた存在である貴様を駆除する使命を果たしに来たんだ」
天連は右手に構えた拳銃の銃床から空になった弾倉を抜き去ると、慣れた手つきで換えの弾倉を装填する。天連が握っている銃に込められているのは、通常の鉛の弾丸ではなく吸血鬼の自然治癒を妨げる性質を持った銀の弾丸だった。
「そんだけの力を持ちながら鉄砲を持ち出すなんて風情がないねえ……」
「どんな手段を用いてでも化け物を確実に仕留めることが、ハライソの使徒である俺の責務だ」
天連は右手に掲げた銃を再び発砲して平輔を威嚇する。天連の持つ拳銃の銃口の先には消音装置が取り付けられていて、薄闇の中に火花は舞い散っても銃声はほとんど響かなかった。
「歴代のウワバミといいあんたといい、どいつもこいつも仕事熱心だねえ」
「貴様ら吸血鬼はどうか知らんが、勤勉は人間にとって誇るべき美徳だ!」
平輔は軽口に対し、天連は生真面目に受け答えをすると聖火を発動させる。平輔は陰で聖火を捌くが、下手に近づくと今度は天連に銃撃を許してしまうため慎重に間合いを詰めるタイミングを覗う。
「へぇ、平輔さんに付け入る隙を見せないなんて長髪の使徒やるなあ。ウワバミよりも彼の方が手強いみたいだ。丹もそう思うでしょ?」
「クーくんがあの天連って人より喧嘩が強いかそうじゃないかなんてどっちでもいいよ。それよりも平輔さんにお腹を蹴られたことの方が心配……」
平輔が突入するタイミングを図るために天連を軸にした円を周回しているのを見て、悠久は聖火と銀の銃弾による弾幕を交互に組み合わせることで天連が平輔の接近を阻んでいることに舌を巻く。
簡単に間合いに飛び込まれて蹴り倒されてしまった来栖よりも天連の方が強いのではないかという同意を丹に求めると、彼女は来栖と天連の実力の甲乙をつけることよりもなかなか起き上がらない来栖の身を案じた。
「ウワバミのことを気にかけるのは勝手だけど、他人の心配をしている余裕は君にないんじゃない? その気になれば僕はいつでも君の首を掻き切れるんだよ?」
悠久は来栖のことを想う丹を馬鹿にするような口調で、後ろから羽交い絞めしている彼女の首に右手で握った銀の短剣を軽く押し当てた。刃の冷ややかで鋭利な感触を喉笛に覚えると、丹は自分が人質にされている状況を深く思い知らされた。
「…悠久くんはもっと優しいひとだと思っていたけど、わたしあなたのことを誤解していたみたいね」
「ご期待に添えなくて残念だけど、少なくとも僕は甘くないよ。油断したらいつ後ろから刺されるか分からないような浮世を生きていくには、抜け目なく立ち回らないとね。他人のことを気にするよりも先に自分にとってプラスになる選択を常に選ばなきゃ」
「…平輔さんのいいなりになるのが、あなたにとってプラスになることなの?」
「そうだよ。平輔さんが示してくれたように、現世で人間のことなんか気にせずに自由に生きることが僕にとって、いやウツセミにとって一番の幸せさ」
彼が否定してくれることを期待して訊ねた丹の問いに対し、悠久は平輔の掲げた理想に心酔しきった様子で首肯する。
「平輔さんの計画が実現すればさ、君だってわざわざ現世と紫水小路を行き来しなくても済むじゃないか。人間と馴れ合うことも、利用して楽しい思いをすることだって君の望むようにできる。現状を固持する意味なんて全然ないじゃないか」
自分が妄信している平輔の宿願が間もなく成就しようとしていることに上機嫌になった悠久は、丹にも自分たちの思想を受け容れるように呼びかけてくる。
確かに悠久の言う通り、ウツセミが現世に留まり続けられるようになればわざわざ定期的に現世の近況報告をしに紫水小路に行く必要はない。また現在も基本的に現世で人間に混じって生活している丹には平輔の宿願が叶おうと叶うまいとあまり影響はなく、それならばウツセミが紫水小路に留まる体制を維持する必要性も唱える義理もなかった。
「そうかもしれないけど……」
「それにさ、ウツセミがみんな現世で暮らすようになれば、今は紫水小路にいるお母さんとも一緒に暮らせるじゃないか。家族全員一緒に暮らせれば、君だって嬉しいだろう?」
丹が自分たちの理想を受け容れつつあることを悠久は察すると、優しげな声でウツセミの掟のために紫水小路に留まっている丹の母親紅子とも同居できるようになることを示唆する。
「う、うん…お母さんもウチで暮らせるようになればわたしは嬉しいし、お父さんや葵もきっと喜んでくれる……」
「そうだろう? だったら丹も僕と一緒に、平輔さんについてきなよ。そしてみんなで自由を満喫して幸せになろう」
丹が自分の話術に嵌り、平輔の計画に同意を示すだろうと感触を掴んだ悠久は、一気に彼女を自分たちの仲間に引き込もうとする。悠久の誘いに対して丹はまんざらでもないらしく、心はかなり揺らいでいるようだった。
「…でもクーくんはどうなるの? 平輔さんや悠久くんたちはクーくんやそのご先祖様たちが守ってきた紫水小路の中で過ごすウツセミの社会を打ち壊して、現世で新しい社会を作ろうとしているんだよね?」
「ウワバミには消えてもらうしかないね。きっと彼は骨の髄まで今の体制を保つことが最善の選択だと擂りこまれているだろうから」
「それは嫌…わたしはクーくんにいなくなってほしくない」
「どうして? 彼は丹の家族でもなければウツセミの同胞でもない、赤の他人じゃないか。ああそうか、確か丹は今彼から血を分けてもらっているんだったね。でも心配ないよ、彼の代わりの、いやもっと上質な血を分けてくれる人間なんてすぐに見つかるから」
丹が平輔と敵対している来栖の扱いについて訊ねると、悠久は素っ気無い口調で旧体制の維持に尽力してきた一族の末裔である彼を生かしておけないことと、現在丹が精気を得るために血液を供給している来栖の代わりはいくらでもいると答える。
「そんなはずない、クーくんの代わりになれる人なんて誰もいない!」
しかし丹は悠久の心ない返答に憤慨して、自分にとって来栖はかけがえのない存在だと主張した。
「今は彼しか血を分けてくれる人間を知らないからそう思うんだよ。でもね丹、経験を重ねていくうちにウワバミの代わりになるような人間なんていくらでもいるってことに君も自然と分かるようになるよ」
「わたしは絶対にそう思わない、そんな風になるなんて思いたくない。クーくんの他にも血を分けてくれる人はいるかもしれないけど、血を吸うわたしに本気で向き合ってくれる人は、ウツセミのいい所も悪い所も全部分かった上で対等に接してくれる人はウワバミとしてウツセミに深く関わっているクーくんしかいない」
「ウワバミが丹に真正面から接しているように見えるのは、彼が裏表ない単純な性格をしているからだよ。あんな直情的で不器用な奴、10年も経たないうちに飽きるに決まっているさ。この世界に人間なんて不必要にいるんだから、もっと広い視野を持ってみたほうがいいよ?」
「悠久くんはなんでそんなに人間のことを馬鹿にするようなことばかり言うの? 誰かの血を飲ませてもらった時、その人の全てを感じてすごく満ち足りた気持ちになったことはないの?」
悠久は丹がウツセミに転化して間もないことで来栖しか男を知らないから彼のことを過剰に意識しているのだと諭すが、丹は来栖がウツセミの天敵にして守護者であるウワバミの一族の出身だからこそ、どんな人間よりも自分たちのことを理解してくれるのだと言い張る。
丹の短絡的な考えに悠久は呆れつつ、一時の感情に流されないで広い視点から人間を観察してみるべきだと呼びかける。すると丹は生き血を口にした時、その提供者との間に芽生える交感を覚えたことがないのかと悠久に聞き返した。
「…生き血を飲んで満ち足りた気持ちになったことなんかないよ。そもそもあんな生臭くて不味いもの、口にしたくもない。適当な奴から蝕で精気を奪えば充分だ」
「ねえ、悠久くんはウツセミになってから人を好きになったことはある?」
「…紫水小路に迷い込むような寂しい人間なんて、ちょっと愛想を振り撒けばいくらでも靡いてくれるさ。そんな愚かで卑小な存在に好意をかけてやる必要なんかどこにある?」
「…やっぱり悠久くんは誰かを好きになったことがないんだ。人が寄ってくるのを待つだけで、自分から好きになってもらおうとすることが出来ないんだ」
「違う、餌でしかない人間なんかに特別な持つことが馬鹿馬鹿しいと思ったからだ!」
丹の質問に対する悠久の回答の歯切れが次第に悪くなってくる。初心な丹に人を好きになることに対して臆病だと評されると、悠久は珍しく感情を露にして彼女のことを怒鳴りつけた。
「どうして人を好きになることが馬鹿馬鹿しいと思ったの、悠久くんだって転化した時からそう思っていた訳じゃないよね?」
「…人間なんてウツセミになる前から大嫌いだった。年端もいかないうちから強い奴が弱い奴を食い物にして成り立つ世界とか、信じれば裏切られることとか、運がなければ何をやったって努力を嘲笑うみたいに報われないことにうんざりしてた。前も言ったけど、僕はウツセミになって人間を辞められてせいせいとしている。ウツセミになることで僕は居心地の悪い世界から解放されたんだ」
「じゃあどうして紫水小路を出て、居心地の悪い現世に戻ろうとするの? ウツセミになって嫌な人間の世界から離れてすっきりしたんならわざわざ現世に行くことないじゃない」
「紫水小路にいたら餌になる人間の選り好みが出来ないだろう? それに平輔さんがウツセミを現世に導こうとするのなら部下の僕はそれに従うだけだ!」
「平輔さんに従うのが嫌になったら悠久くんはどこに逃げるの? 紫水小路にいるのも嫌、現世にいるのも嫌だったらどこにも悠久くんがいられる場所はないんだよ?」
「黙れ、僕の気分次第でいつでも殺せるのに調子に乗るな!」
あらゆることに対し達観したような言動をしていたのから一転して、悠久は丹の言葉に感情的になって反応を示していく。凶器を突きつけられて人質になっているにも関わらず、徐々に丹が会話の主導権を握ってきていることに憤りを覚えた悠久は、彼女に置かれている境遇を分からせようと短剣を丹の首に押し当てようとした。
だが悠久が握っている刃は丹の首の上に寸止めされたまま動こうとしない。激情に流されたはずの悠久は、自分の腕が硬直して丹の喉をどうしても引き裂けないことに困惑しているようだった。
「なんで、なんで丹を殺せないんだよ…彼女と同じ名前でちょっと雰囲気が似ている無力な女の子を殺すだけなのに、どうして彼女をまた殺してしまうみたいな気持ちになるんだよ?」
「悠久、くん……?」
「この子は僕が好きだった真琴じゃないのに、彼女と全然関係のない他人でこの子を殺せばウワバミは切り札が使えなくなるのに、殺した方が得なはずなのにどうしてナイフを押し込むだけの簡単なことが出来ないんだ?」
「…どうして悠久くんは真琴さんって人を殺したの?」
悠久が意を決すれば簡単に首元を斬られてしまう危機的な状況にあるにも関わらず、丹は悠久の動揺を誘うことよりも、過去の罪を激しく悔やんでいる彼の苦悩を和らげるような気持ちで自分と同じ名前の女性を悠久が殺めた経緯を訊ねた。
「ウツセミになってから僕は千歳お嬢様の従者としていろんなことをしてきた。富士見の族長が代々隠し持っていた朱印符を使って、現世から永遠を攫ってきてお嬢様の召人として献上したのも僕だ。永遠から現世の話を聞いて現世に興味を持ったお嬢様に命令されて、雑誌や小物を何度も買いに行かされたよ。そうやって現世に足繁く出入りしているうちに人間だった頃、ただ1人僕に優しくしてくれた真琴と再会したよ」
「真琴さんと再会できて悠久くんは嬉しかった?」
「初めは大人になった彼女が真琴だと気付かなかったけど、やっぱり彼女と再会できて嬉しかったよ。でもすぐに会わなければよかったと後悔するようになった」
「どうして?」
「僕はウツセミになった当時の姿を留めているけど、彼女はすっかり大人になって会社の同僚と婚約までしていた」
「昔好きだった人が結婚すると聞いて、裏切られたように感じたの?」
「僕だってそこまで卑屈じゃないよ。子どものままでいる僕と違って、彼女はちゃんと地に足をつけて人として成長しているんだなって感じた。でも記憶の中にあった姿と変わっていても僕は真琴のことが分かったのに、彼女は僕のことを僕だと信じてくれなかったんだ。行方不明になったクラスメイトとよく似ているからつい話をしてみたけれど、10年も前にいなくなった僕がその当時の姿を留めているはずがないから、他人の空似だって笑いながらね。僕は姿が変わっていないのは、吸血鬼になってしまったからだと打ち明けてどうにか僕が彼女の友達だったことを分からせようとした。でも彼女は僕のことを気味悪そうな目で見ながら、馬鹿じゃないのと言い捨てたんだ」
「…真琴さんがそう思うのも無理はないよ、わたしだって自分がナレノハテを見たり自分がウツセミに転化したりしなかったら信じられそうにないもの」
好意を寄せていた相手と再会した喜びから一転して、相手への思慕を踏み躙られるような一言を浴びせられた悠久が深く傷ついたことに丹は同情する。しかしウツセミが理性を失って変貌した海老茶色の肌をした異形の怪物を見たり、自分がその眷属に加わったりしなければ吸血鬼の存在を信じられないと思うと、悠久に対して真琴が示した反応も自然であると感じられた。
「中性的な外見のせいで同級生から悪口を言われたりいじめの標的にされたり、産みの親からも養育が面倒だと疎まれていたりしていた僕に、この世界で唯一優しくしてくれていた真琴に他の奴らと同じような嫌悪の眼差しを向けられた途端、目の前が真っ白になった。気付いた時には僕は暗い路地裏で、首の周りを血で真っ赤に塗らしたまま息絶えていた真琴の死体を抱いていた。口の中に残っていた真琴の血からは、薄気味の悪い子どもに無残に殺された恨みがはっきりと感じられたよ。真琴のどす黒い残留思念が頭に響いてきて、僕は彼女の死体を適当に投げ捨てると胃がひっくり返るくらい吐いた。吐いて吐いて、胃液すら吐けなくなると僕は紫水小路に戻った」
「悠久くん……」
悠久自身の過失とはいえ、初恋の相手を自ら殺めたばかりか呪詛まで向けられてしまった彼の絶望を思うと、丹は彼に何も言えなくなってしまう。丹が初めて生き血を啜ったのは朦朧とした意識で渇きを覚えながら現世を彷徨っていた時、自分を発見した来栖の腕に衝動的に噛み付いたことだった。
しかし丹は初めて覚えた生き血の味に舌鼓を打ち、来栖から伝わってくる自分を思いやる気持ちも感じることが出来た甘美な経験だった。人の生き血を啜る魔性の存在になってしまった後ろめたさはあったものの、過ちを犯したくなる強い誘惑も覚えられた経験であり、真琴を失血死させてしまった悠久のような墜落感はなかった。
「真琴を殺して以来、それまでは普通に感じていた生き血への渇望がなくなった。渇きはあったから紫水小路に迷い込んだ人間を誑かして血を飲んだことはあったけど、血を口に含んだだけで吐き気が込み上げてきてとてもじゃないけど飲み込めなかった。だから僕はそれ以降一切生き血を吸わなくなった、いや吸えなくなったんだ。そうやって真琴を殺してしまった罪悪感と人間への絶望に苛まれながら、惰性で現世と紫水小路を行き来している時に僕は平輔さんと出会った。平輔さんは僕に失いかけていたウツセミとしての自由を思い出させてくれてた。望まないのなら大人になんかならなくてもいい、面倒な人間関係に悩まされることもないウツセミなら自分らしく生きられることを平輔さんは僕に教えてくれた。だから僕は平輔さんに従って、あの人が掲げた理想を叶えるために働こうと思ったんだ」
「…人間だった時の経験に加えて、唯一の良心だった真琴さんにまで邪険にされたことで悠久くんが人間に絶望したのはよく分かった。でも、だからって人間を見下すのは間違っている」
「餌でしかないものを見下して何がいけない?」
「紫水小路にいても現世にいてもわたしたちは人間から精気をもらわなきゃ生きられない不安定な存在よ。どんな立派な言葉を並べても結局人間に頼らなくちゃならないウツセミが人間を餌呼ばわりできるはずがない、わたしたちは人間によって生かされているのよ!」
「うるさい、いくらでも湧いてくる餌を食い潰して何が悪いんだ!」
「…さよなら悠久くん、わたし行かなくちゃ」
悠久は忌み嫌っている人間の擁護をする丹に業を煮やして激昂するが、興奮して注意力が散漫になった悠久の脛に狙いを澄まし丹は靴の踵で思い切り蹴りつける。
「…!」
不意をつかれて手痛い蹴りを打たれた悠久は声にならない悲鳴をあげると、一瞬丹を捕らえていた彼の腕の力が緩む。丹が思い切り右の肘を後ろに振り出して悠久の胴を強かに打った拍子に、丹の体から悠久は突き飛ばされる。
「クーくん!」
悠久の束縛を振り払った丹は、平輔に腹部を強打された痛みをまだ引き摺って前屈みの姿勢で佇んでいる来栖の下へと駆け出した。
第17回、憎悪の螺旋 了