第16回、紐解かれる黙示録
御門の市街地にあるホテルのレストランに、6人でテーブルを囲んでいる若い男女たちがいる。
男性2人に女性4人で座っているこのテーブルの客の中で最年長の男は二十代半ばくらいで長髪をした冷徹そうな男、最年少は幼稚園児くらいの女の子だった。残りの人物は十代半ばから後半といった年齢である。
「どうしてアタシと蘇芳は安倍先輩とここにいなきゃいけないのよ?」
「天連さんの身を守るための保険ですわ。葵さんたちを人質に取られては、お優しい来栖さんや丹さんは下手なことはしないでしょうから」
幼女の蘇芳を除けばもっとも年齢の低い葵が高いトーンの声でこのホテルに滞在しなければならないことに不平を述べると、このレストランを先祖代々贔屓にしている名士の令嬢、安倍真理亜は澄ました顔でその理由を述べる。
「蘇芳ちゃんと2人でいるよりは真理亜さんといる方が安全かなぁって思ってお願いしたんだけど…やっぱり嫌だった?」
「先輩と一緒にいる方がよっぽど危ないわよ、この間アタシたちがどんな目に遭わされたか忘れた訳じゃないでしょう!?」
葵の実姉である丹が気まずそうな顔でそう訊ねてくると、先日も真理亜に人質に取られて来栖と丹を誘き寄せる餌にされたことを思い出して憤慨した。
「ハライソの連中が信用できないって気持ちはよーく分かるけどよ、平輔の息のかかったウツセミがお前や蘇芳を狙ってくる可能性も否定できない。万が一そうなった時でもお前ら近くにいれば、敬虔な信仰心を持っている安倍さんが無力な子どもたちを見捨てるはずがないよな?」
「ええ、一命に代えてもお二人をお守りしますわ」
来栖が行儀悪くテーブルに頬杖を突いて厚切りのステーキを頬張りながら視線を向けると、真理亜は洗練された所作で白鳥のように優美な首を縦に振った。
「自分たちだけで勝手に駆け引きしないでよ…アタシたちはクーくんや先輩の遊び道具じゃないんだよ?」
「葵、そんなに2人のことを責めないで。葵と蘇芳ちゃんがもう危ない目に遭わないように考えてくれているんだから」
「…やっぱり姉さんは能天気でお人よしね。姉さんの緊張感のない顔を見ているとアタシも気が弛んじゃって、先輩といるのがいいことに思えてくるわ」
来栖たちを信用しきった顔で丹に来栖と真理亜が彼らなりに葵たちの身に危害が及ばないように配慮しているのだと聞かされると、葵はこれ以上抗議し続けるのが馬鹿らしくなってしまった。
こうなってしまったからには成り行きに任せて、滅多に泊まれない高級ホテルのサービスを満喫しようと葵は開き直る。
「出発まで時間あるし、少し休んでおいたら? まだ体調は万全じゃないでしょう?」
「そーだな、一旦下宿に戻って一眠りするかな」
丹が退院したばかりの来栖の体調を気遣って夜明けから始まる任務に就く前に一休みするよう勧めると、来栖は素直にその提案を聞き入れる。
「それでしたら来栖さんたちの分もお部屋を手配させていただきますわ」
「じゃあ、お言葉に甘えてお願いするわ」
「畏まりました、すぐにご用意致しますわ」
依頼主である真理亜も来栖がいいコンディションで任務を遂行できるように気を利かせると、ホテルのフロントに部屋の予約をとる電話をかけるために席をたった。
「あれだけ俺たちに協力することを拒んでいながら、依頼を受けた途端、食事に寝床と次々に注文をしてくるとは貴様は調子のいい奴だな」
「腹が減っては戦は出来ぬっていうし、体調が崩れたのはあんたたちが乱雑に俺のことを扱ったせいなんだぜ。むしろこの程度で済ましてやってることを感謝して欲しいよ」
来栖は食後のデザートに注文したケーキをフォークで掬いながら、あれこれと真理亜に注文をつけるのに対する天連の非難を聞き流した。
「そんなことよりよろしく頼むぜ、天連さん。合で増幅した剣気で放つ斂なら平輔にも痛手を負わせられると思うが、威力が大きい分隙もでかい。充分な剣気を溜める時間を稼ぐにはどうしてもあんたの協力が必要なんだからな」
「分かっている。こちらも助力を惜しまないから期待には応えてもらうぞ、ウワバミ」
「任せとけって」
一度は謀反人として討伐されながら、紫水小路に同胞の窮地を救った英雄として凱旋した強力なウツセミ平輔を倒すための算段を来栖と天連は食事の片手間に協議する。鞍田山で拳を交えてからそう時間は経っていなかったが、全力でぶつかったからこそ来栖と天連は互いの実力を認め合い、信頼を抱いているのだと丹は2人のやり取りを見つめながら感じた。
* * *
紫水小路に住むウツセミの生活に関係する庶務を分担する部署『政所』の事務所に、二十人ほどのウツセミが迫ってきている。政所から現世に行くのに必要な朱印符を強奪し、街を焼いた人間への報復を企てている過激派のウツセミたちだ。
「いいか野郎ども、政所に喧嘩を売ったらもう後戻りはできねぇぞ。前のめりに倒れるまで走り続けるだけだ」
「分かってますよ親方」
「俺たちが同胞たちの鼻つまみものになっても親方についていくと決めたんです、最後までお供します」
過激派のウツセミを率いる酒蔵の親方、潮が焼き討ちに参加する同胞たちに覚悟を固めるように訴えると、血気に逸る男たちは不敵な笑みでそれに応じた。
「てめえらの忠義には感謝するぜ、いくぞ!」
「お主らこんなところで油を売っていてよいのか? 精力が有り余っているようじゃし、チンタの樽でも掻き回してきたらどうじゃ?」
自分に従ってくれた男たちの忠誠心を胸に染み入られながら、潮の号令と共に過激派のウツセミたちは政所へと疾駆していく。しかし政所の傍にある建物の二階から飛び降りた小柄な影が彼らの行く手を阻むように立ち塞がった。
「どいてくれ政所様、俺たちの邪魔をするのならあんたでも容赦しねえ」
「邪魔をしているのはどっちじゃ。政所の中では職員たちが日々街の復興に向けた取り組みに腐心しておる。おまけに潮、三下の若造ならともかく酒蔵を仕切っておるお主が職務放棄してどうする。そんなことでは男が廃るぞ?」
「あんたこそどうして仲間の仇討ちに行こうとする俺たちの気持ちが分からねぇ? 人間なんかにやられたまま泣き寝入りしたら、後世のウツセミに合わせる顔がねえよ!」
朱美は過激派のウツセミたちに愚行を思い留まるよう説得するが、人間への怒りに心を囚われている潮は彼女の話に聞く耳を持たない。敬うべき紫水小路最年長のウツセミである朱美にも潮は牙を剥いて、自分の思いを貫こうとした。
「姐さん下がってください、この馬鹿の相手は俺がします」
「忠将か。人間に媚びる源司の腰巾着のてめえにも虫唾が走っていたんだ、この機会にその憂さを晴らさせてもらうぜ!」
「源司の腰巾着だって、お守りの間違いだろう?」
朱美に肉薄する潮の前に、落ち着いた色合いのスーツを着こなした忠将が割り込んで彼の相手を引き受ける。潮は日頃の鬱憤を晴らすには最適の相手だと嬉々として忠将に殴りかかっていくが、剛腕の一撃を軽やかにかわして忠将は潮の背後を取る。
「どっちにしたっていけ好かねぇ源司の仲間だってことは分かりねぇ、ぶちのめすだけだ!」
潮は右手を突き出した反動を利用し上半身を急旋回させると、左腕を横に振るって忠将のことを薙ぎ払おうとする。猛烈な速度で迫り来る一撃を受けては危険だと、忠将は後ろに飛び退いて潮の攻撃を避けた。
「危ねぇ…さすが荒っぽい連中が多い酒蔵の頭を張るだけのことはあるぜ」
「酒蔵の男をちゃらちゃらした服でカッコつけてるだけの花街の腑抜けどもと一緒にするなよ!」
「こっちは客の無理難題に答えたり、店員たちを宥めすかしたりして神経を磨り減らしてんだ。拳骨でカタがつくてめえらほど気楽じゃねえんだよ!」
潮の先制攻撃を際どい所でかわした忠将が肝を冷やすと、間髪開けずに潮が突進してくる。忠将が管理をしている花街を誹謗する暴言を潮が吐くと、負けずに忠将も反論して迎撃に向かう。
潮の繰り出した鉄拳が忠将の顔面を捉えるが、忠将も長い脚を振るって潮の胴に強烈な蹴りを叩き込んだ。互いに相手から受けた一撃の反動で吹き飛び間合いを取るが、両者とも敵が相手にとって不足がないことに満足して、闘争心に火が点いたようだった。
「自分たちがどんなに馬鹿げたことをしようとしているのかお主らわかっとらんようじゃな。ならばきついお灸を据えるしかあるまい!」
「あんたが族長だった時のように人間と馴れ合う時代は終わったんだ、これからは人間が俺たちを恐れる時代だ!」
朱美が自分たちの愚行を恥じない若者たちに罰を与える必要を感じると、若い酒蔵のウツセミの1人が朱美に飛び掛っていく。体格で朱美よりも2回りは大きなそのウツセミは威勢のいい啖呵を切って朱美に殴りかかっていく。
「阿呆が!」
「がっ……!?」
身を屈めて横殴りの一撃を避けると、朱美はそのまま相手の懐に飛び込んで腹部を裏拳で強かに打ちつける。自分が突進した勢いを利用された朱美のカウンターを食らって、酒蔵のウツセミは思わぬ衝撃に息を詰まらせた。
「この、ちょこまかと……!」
朱美は動きの止まったそのウツセミから即座に離れると、政所に侵入しようとしている別のウツセミに迫ろうとする。だが背後から近寄って朱美を捕らえようとするウツセミが彼女に忍び寄ってきた。
「若造の分際で気安く朱美姐さんに触るんじゃないよ!」
だが朱美を捕らえようとしたウツセミが彼女に手を伸ばした瞬間、その横面に飛んできた鉄扇の一撃が阻む。男の頬を捕らえた鉄扇はそのまま振り切られ、男が白目を剥いて地面に転倒した。
自分の足元に倒れた若いウツセミの頭をわざとヒールで蹴飛ばして、典雅なドレスを纏った置屋の女主人茜は鉄扇を右手に携えたまま朱美に背中を合わせる。
「茜、後で褒美に1杯驕ってやろう」
「姐さんが私に作った借りはそんなものでは帳消しできません」
「お主は相変わらず融通が利かんのう…まあそのくらい阿漕でなければ置屋の主人は勤まらんか」
「ええ、さっさとこの馬鹿どもを片付けないと商売上がったりです」
背中越しに朱美と茜は戦意を鼓舞しあうと、暴動を起こした過激派の鎮圧に乗り出していく。過激派のウツセミたちは政所から朱印符を奪う前に、自分たちの行く手を阻む有力者の美女たちを倒すことを優先して朱美たちに挑んでいった。
忠将が過激派の盟主である潮をひきつけ、政所の長である朱美と商取引を司る置屋の女主人茜が暴動に加わったウツセミたちを打ち倒し、花街の黒服や置屋の男たちも朱美たちに従って過激派の襲撃に応戦していく。
しかし過激派に加わったウツセミは腕に覚えのあるものばかりであり、荒事にも慣れているため二、三発殴られたくらいでは全く怯まない。相手の攻撃を受けながら突進を続けて、とうとう政所の軒先まで到達するウツセミも現れてしまった。
「よっしゃあ、ここまでくれば……!?」
政所で働いているウツセミは穏やかで控えめな気性のものが多く、職員の過半数は女性である。齢を重ねれば朱美や茜のように男にも引けを取らない戦闘力を持つものも出てくるが、若い女性のウツセミは基本的にか弱い存在だ。
しかし政所の事務所まで来れば自分たちに対抗できるウツセミは存在しないとタカをくくっていたそのウツセミの足元が突然穿たれ、反射的に足を止める。
「そうは問屋が卸さないよ!」
花街の酒場『林檎の樹』で働くキャストの緋奈がライフルを構えて姿を見せると、奥から続々と銃火器で武装した女性のウツセミたちが現れる。
「な、なんでそんなモンを……?」
「教会の連中がたくさん土産に置いていってくれたからね。素手では敵わないけど、丸腰で鉄砲相手に喧嘩すればどうなるかアンタたちも分かるでしょう?」
「うおっ!?」
緋奈がライフルを発砲したのに続いて、政所の玄関先に出てきた他の女性たちも各々携えた銃器を乱射する。素人が手当たり次第に銃弾をばら撒いている分、弾道の予測が全くできず政所に近づいたウツセミたちは後退を余儀なくされた。
「くそ、鉄砲さえどうにかなれば女なんか一捻りなのに……」
強力な武器を持っているせいで女性相手に遅れを取っていることに侵攻してきたウツセミの1人が歯軋りしていると、その脳天に鉄扇で強烈な一撃が見舞われる。
「ふん、女の一撃でのびちまうようなヤワな男が偉そうな口を利くんじゃないよ」
頭部を強かに殴られて地面に崩れ去った女性を軽んじているウツセミに、彼を殴り倒した茜が捨て台詞を吐いた。
「のう茜、平輔の姿が見当たらんようじゃが、あやつを見かけたか?」
「いいえ、初めから平輔はこの中にいなかったと思います」
前衛として政所を防衛しているものよりも襲撃しようとしている過激派のウツセミの方が数で勝っており何度か防衛網を突破されてしまうが、その度に政所の事務所前に控えている緋奈たちが銃を乱射して侵攻してくるウツセミの足止めをする。
弾幕に行く手を阻まれて立ち往生しているうちに囲いを抜けたウツセミに追いついた朱美や茜が彼らを殴り倒して、徐々に反抗勢力を鎮圧していった。その一連のサイクルの合間に朱美から平輔の姿を見かけたかと問われると、茜は首を横に振る。
「そうか…やはりこやつらは自分から注意を背けさせるための囮じゃったか」
一番厄介な平輔が別働隊として行動していると気付いたものの、朱美の反応は薄くあまり驚いていないようだった。この場にいない平輔に注意せず、まずは政所を襲ってきた過激派の暴動を食い止めることに専念して迷いのない戦いを朱美は続けた。
* * *
代永氏族と富士見氏族の領地の境界となっている酒蔵付近、細い路地を平輔と悠久が並んで歩いている。
「平輔さん、もう潮さんたちは朱印符を奪取してますかね?」
「どうだろうな、やすやすと朱印符を渡すほど朱美姐さんも甘くないと思うけどな」
「まあ潮さんたちは派手に暴れて騒ぎを大きくしてくれれば充分なんですけど」
悠久は潮たちの計画が成功してもしなくてもどちらでもいいというような顔を、隣を歩いている平輔に向ける。平輔も皮肉っぽく口の端を吊り上げて、悠久の意見に同感らしかった。
「何が充分なのか、詳しく聞かせてくれないかな?」
「ちっ、下がってろ悠久!」
甘い男性の声音が聞こえてくると平輔たちの頭上から何かが地上に降ってくる。平輔は悠久のことを乱暴に脇に突き飛ばして自分から離れさせると同時に、右手で抜刀した銀の短剣を上段に掲げた。
平輔が頭上に掲げた刃と彼に襲い掛かってきた影が振り下ろした刃が衝突し、鋼が撃ち合った反響と火花が周囲に散る。奇襲に失敗した襲撃者は平輔が刃を打ち上げた反動を利用して、彼の数m先に着地した。
「相変わらず不意打ちが好きだな、源司。けどそう何度もやらせてやるほど、俺はズボラじゃねえよ」
「…平輔さん、紫水小路に戻ってきたと思ったらまたすぐ現世に行こうなんて何を考えているんです?」
「教えてやる義理はないし、俺が何を企んでいるのか薄々感じているからここで待ち伏せしていたんだろう?」
「ええ、あなたがやろうとしていることはウツセミだけでなく人間に対しても背信的な行為です。族長としてそんな不届きな行いを許す訳にはいきません」
代永氏族の族長源司は右手に携えた銀の短剣を腰の位置に構えて、平輔の蛮行を阻止する意思を表明する。
「族長として、か…20年も族長をやってるとそれなりのことを言うようになったじゃねえか、源司?」
「平輔さんが就任を拒んで嫌々引き受けた役目ですけど、今ではいい経験をさせてもらっていると感謝してますよ」
「そうかい。お喋りはこの辺にしておいてそろそろ始めようじゃねえか、代永の族長と同胞に危ない橋を渡さそうとしている謀反人の殺し合いをよ!」
平輔はぐだぐだと口上を垂れ流すのを終わりにして、ウツセミの種族としての命運をかけた死闘を始めようと宣言し、右手に源司が携えているものと同じものと同じ銀の刃を握って彼に挑みかかっていった。
「はぁぁっ!」
源司も地面を蹴って平輔に接近していくと、彼の首筋を狙って短剣を下から振り上げて先手を取る。
「おっと!」
平輔は源司の刃が届く一歩手前で踏み止まり左半身を軽く捻って彼の攻撃を捌くと、その勢いで右手に握った短剣を突き出してきた。
「やぁぁっ!」
源司が空振りした短剣を即座に自分の左下方に切り返すと、胸元に迫ってきていた平輔の刃を叩き落す。攻撃を防がれた平輔は一度距離を取ろうとして下がったが、源司は足を前に踏み込んでいくと平輔に短剣を横薙ぎに振るって斬りかかる。
「剣の腕を上げたじゃねえか源司!」
「オレだってこの10年遊んでいただけじゃないんですよ、族長として恥じない自分になるよう努力してきたんです!」
平輔は短剣を縦に構えて源司の一閃を防ぐと、後輩の剣技が上達していることを嬉しそうに吼える。源司は平輔に一撃を弾かれると、切っ先を翻して今度は相手の胸を目掛けて刺突を繰り出した。
「このぉっ!」
平輔は源司の突きをかわしきれないと判断し、迫り来る刃に自分の短剣を思い切り叩きつけた。甲高い金属音がこだまして、両者の手に握られた銀の刃が刀身の半ばから真っ二つに折れる。
互いに得物を破損した源司と平輔は共に後方に飛び退いて一旦間合いを置いた。
「10年の努力はまんざらじゃないみたいだな」
「当然ですよ、族長が不甲斐なかったら周囲に示しがつきません!」
平輔が使い物にならなくなった短剣を脇に投げ捨てて源司の鍛錬の成果を労うと、源司は油断した平輔に切っ先を欠いた短剣を投げて返事をした。
「剣の腕は上がった代わりに、お前は随分無粋になっちまったな。少しは俺と五分に打ち合えた余韻に浸ろうとは思わないのかい?」
「平輔さんを相手にしてるのに、そんな余裕ありませんよ!」
源司の投擲した短剣を平輔は容易くかわして彼の不実さを責めるが、源司は平輔を格上の相手と見做しているからこそ一瞬も気が抜けないのだと反論し、平輔の間合いに飛び込んでくる。
「いい心掛けだ、軽そうな見た目のくせに昔からお前は真面目な奴だったよな」
「はぁぁっ!」
平輔の軽口を聞き流して、源司は瞬きする暇も与えないほどの速度で拳の連打を繰り出す。平輔は巧みに上体を捌き、あるいは腕を使って打ち込まれてくる源司の拳の雨をいなしていくが、彼の猛攻の前に反撃に出る余裕はないようだった。
「たぁぁっ!」
再度気合をかけ直して源司は平輔の顔面を狙って右の拳を振り被り、必殺の一撃を放つ。しかし源司の動きを読んでいた平輔は眼前に掲げていた左腕を軽く横に振って、その一撃を捌いた。
だが源司の右ストレートに注意を傾けていた隙をついて、源司は左足を跳ね上げると平輔の脇腹を蹴りこむ。
「うっ……!?」
「らぁぁっ!」
脇腹を強かに蹴られて息を詰まらせた平輔が僅かに上体を前方に傾けると、源司はすかさず彼の鳩尾に左の拳を叩きつけた。
「おおおっ!」
腹部を二度打たれた痛みを紛らわせるように怒号を発して、平輔は右の拳で源司の細い顎にアッパーカットを食らわせる。骨と骨がぶつかり合う鈍い音が響き、源司は後方に仰け反ったが平輔が続けざまに胴を狙って打ってきた左の拳は右手を畳んで防いだ。
そのまま源司がろくに狙いを定めずに左腕を振るうと、平輔は反撃を警戒して後ろに飛び退き一旦彼から離れた。
「…剣だけじゃなくて殴り合いも上手くなったか、強くなったじゃねぇか源司」
「…言ったでしょう、族長の立場に名前負けしないよう柄にもなく努力したって」
平輔は皮肉ではなく本心から源司の戦闘力が増したことを讃えると、源司は平輔と互角に戦えるように精進しそれが実ったことに手応えを覚えているような顔で応える。
「正直お前がここまでやるとは思わなかったぜ。だったら俺も出し惜しみしている場合じゃねえな」
「それは、ハライソの使徒を倒した時に使った……」
予想外の苦戦をしていることで平輔は源司と自分の格闘戦における実力差がないことを認めると、持っている能力の全てを使って彼を倒すことを決める。
平輔の左腕が膨張し形が崩れると、彼の周囲に黒い靄が広がっていった。それが紫水小路を襲撃してきたハライソの使徒天連の聖火を封じ、彼を圧倒した能力である事を源司は思い出す。
「唵!」
「くっ……!」
平輔が気合を発すると彼の周辺に漂っていた黒い靄は、まるで生き物のように源司に迫ってくる。源司は得体の知れない平輔の能力を食らってはまずいと横に飛び退いて接近してくる黒い靄をかわすが、靄は即座に流れる向きを変えて再び源司に近づいていく。
黒い靄が近づいてくるたびに源司はウツセミの強靭な足腰のバネを最大限活用して出来る限り遠くに退避するが、その度に黒い靄は向きを急転換して源司を捕らえようとしてくる。
黒い靄は源司が逃げ続ける限りどこまでも追ってくる上、その量は次第に増しているようだった。周囲のほとんどに黒い靄が広がると、とうとう源司は逃げ場を失って靄の中に包まれてしまう。
「うっ……?」
黒い靄に飲み込まれた瞬間、源司は急激な疲労感を覚えた。体内から精気が枯渇していくような感覚もあるが、通常そうして精気の渇きを覚えると攻撃性が高まり能動的になるはずなのに今は脱力感に苛まれてしまっている。
精気だけでなくウツセミの活動エネルギーである妖気すら弱まっているような感じを源司は靄に包まれながら覚えていた。
「そらっ!」
「ぐっ……」
自ら散布した靄の中に平輔も足を踏み入れて源司に殴りかかってくる。靄に覆われているせいで不明瞭な視界の中、源司は平輔の攻撃を手探りで避けようとする。しかし倦怠感を覚えた体の動きは重く、平輔は靄の影響を感じさせないほど的確に源司の体を打ち据えてくる。
平輔の攻撃を避けることも防ぐことも満足に出来ず、一方的に打ち込まれているうちにとうとう源司の体勢は崩れて地面に膝を着いた。
「はぁっ!」
「がっ……」
地面に跪いた源司の顔面に平輔の蹴りが飛んでくる。蓄積した打撃のダメージと黒い靄のせいで直前までその接近に気付けず、源司の顔面に平輔の爪先が直撃する。源司はなす術もなく平輔に蹴り倒され、彼の足元に倒れこんでしまう。
「この靄は一体……?」
「この靄はお前に左腕を切り落とされて以来、延々と俺の体から漏れ続けている妖気をちょいといじったもんだよ。触れれば人間は精気を、ウツセミは妖気と体内に取り込んだ精気を吸収されちまって、力を消耗させられるって代物だ」
「…つまりこの靄に包まれている限り、平輔さんに力を吸われ続けるってことか」
「そう恨めしそうな顔をするなよ。こうやって陰を使って他人の力を吸わないと、あっという間に左腕の傷から妖気が抜け去って俺は干からびちまうんだぜ? 必要な酸素を取り込むためにマグロが泳ぎ続けると同じようなモンだよ」
源司がその身に蓄えている精気も、彼の体に内包されている蝕が精気を取り込もうと発生させウツセミの活動エネルギーとなっている妖気も大量に奪うと、平輔は発生させた黒い靄、陰を収める。一面に立ち込めた陰が薄れていくにつれて、平輔の左腕が再び輪郭を結び始めた。
「平輔さん、これを」
「そういや俺の魔剣は源司に折られちまったんだったな、相変わらず気が利くな悠久」
「それくらいしか僕に取り柄はありませんから」
2人の決闘を傍観していた悠久が折れた銀の短剣の代わりとなる一振りを差し出してくると、平輔は気の利く配下を労う。悠久は平輔の賞賛に謙遜して応えた。
「悪いがお前に生きていられると色々と面倒なんだ。そういうことで消させてもらうぜ、源司」
平輔は足元に這い蹲っている源司を見下すのではなく、自分の計画の大きな障害であるからやむなく抹殺させてもらうと侘びるような目を彼に向けると、悠久から受け取った短剣を鞘から抜き放って白刃を曝す。
「…平輔さん、本当にウツセミが現世で自由な暮らしが出来ると思っているんですか? オレたちには強過ぎる日光や教会からの迫害に怯えて過ごすような生き方を、あなただって望んではいないでしょう?」
陰によって力の大半を奪われ起き上がることもできない状態でありながら、源司は平輔の思い描いた理想を成就させることが本当に同胞のためになるのかと問いかける。
「体を焼きつける日差しは屋内に隠れて遮ればいい、ウツセミの存在を認めず弾圧しようとしてくる人間は俺が蹴散らしてやる。遠い昔、ウワバミに押し込められた檻の中に留まって得られる自由を掴もうとしないことは種族として忌むべき怠慢だ」
「…人間を狩る捕食者としては怠慢かもしれないですけど、この世界に生きる隣人への思いやりとも言えるんじゃないんですか? 平輔さん、紫水小路の中ならオレたちはひととして生きられるけど、現世では獣として人間との生存競争を送るしかない。個人的には捕食者として牙を抜かれても、ひととして人生を満喫することを望みます」
「平輔さん、族長のくせにこんな泣き言を漏らすひとはさっさとやっちゃいましょうよ」
平輔はウツセミとしての命を全うするのは現世に赴き能動的に人間を狩ることだと主張するが、源司は紫水小路に留まって人間との軋轢を極力避けつつ人間的な営みを送ることだと言い返す。
人間を狩る存在の頂点に君臨しているはずの源司の口から捕食者としての本能を否定するような発言が出たのを聞いて、悠久は不愉快そうに顔を顰めると平輔に源司の殺害を急ぐよう促した。
「ああ、ウツセミとしての本能を解放することを奨励する俺とその本能を否定して理性に固執しようとするこいつの意見は、ウツセミの長い人生をかけてもきっと相容れることはないだろう。そして俺にはあんまり時間が残っていない、ウワバミの作り出した柵から同胞を解放するために時間を無駄に出来ないんだ」
「…平輔さん、みんながあなたみたいに強くはないんですよ? みんなを無理矢理現世に連れ出しても、そんなに多くは生き延びられないはずです。本当にみんなのことを思うなら考え直してください」
「さよなら、源司……」
平輔は銀の刃の切っ先を源司に突きつけると、彼の体に刃を突き立てる勢いをつけようと腕を引いて短剣を構える。源司は命乞いの代わりに本当に同胞のことを考えるのであれば、現世に連れ出して適者生存の篩にかけるべきではないと訴える。
しかし平輔は源司の懇願を聞き流すと、彼に引導を渡すために短剣を突き出した。
「待ちなよ平輔、今源司を滅ぼすのは得策じゃないと思うけどな」
だが平輔の凶刃が源司の背中を刺し貫こうとした瞬間、修羅場に場違いなほど暢気な声が聞こえてくる。その声を聞きつけて反射的に平輔は源司を刺殺しようとした刃を引っ込めると、声のした方に横目を向ける。
「恒先生、あなたも平輔さんの邪魔をする気ですか?」
「まさか、源司が敵わない相手と喧嘩するほど私は向こう見ずじゃないよ」
悠久がこちらにやってくる和装に身を包んで穏やかな笑みを湛える富士見氏族の中では最高齢のウツセミ恒に彼も平輔と敵対するのかと問うと、恒は笑みを絶やさないまま首を横に振る。
「じゃあどうして平輔さんがとどめを刺すのを止めたんですか?」
「今回の騒動で平輔を救世主のように崇めるウツセミは少なくないし、彼がハライソの使徒を退けてくれたのも事実だ。しかし約10年前、平輔は謀反人として粛清されかかり街を追放されたのもまた事実。私や千歳は一度失脚した平輔がクーデターを起こして権力を奪取したという流れでも納得できるけど、政所の姐さんや置屋のお嬢さん、それに源司の腹心である忠将くんはそれに異を唱えることはほぼ間違いないね。下手をすればウツセミを二分する争いが起こりかねない」
既に政所付近において懸念した通り、ウツセミ同士の小競り合いが起こっていることを知っているのかそうでないのか定かではないが、ウツセミの組織が一枚岩でない以上、強引な権力の掌握は内紛を誘発しかねないことを恒は悠久に示唆する。
「…だったら平輔さんに反抗しようとするひとを取り除けばいいじゃないですか」
「源司と懇意にしている有力者たちの下にはかなりの数のウツセミがいる。もちろん全員が彼らの意志に従うとは思えないが、それでも大勢が平輔と敵対する立場になるだろうね。そしていくらイデオロギーの違いで敵対しているといっても、同胞が滅ぼされていくのに反感が出るはずだ。そうすると平輔の考えに賛同したウツセミの中にさえ、扱いに困るものが出てきてしまう。粛清と淘汰を重ねた結果、生き残ったのはごく少数の同胞であるような状況は君だって望んでいないだろう、平輔?」
「ああ、なるべく多くのウツセミに俺は自由になってもらうことを望んでいる」
強権的な政策を打ち出せば必ず火種が起きてしまい、最悪の場合解放を望んでいる同胞の数が大幅に減ってしまうこともありえると恒が述べると、平輔もその事態は避けたいと首肯した。
「反乱分子の旗頭になる源司さんを取り除くだけではなく、平輔さんが合法的に源司さんから権力を簒奪したという構図を同胞に示すことが必要ってことですね?」
「その通り。平輔に着せられた反逆者のレッテルを取り去り、暴力ではなく政治的に権力を取得したことを示せば多くの同胞たちは平輔に従うことに反感を持たないはずだ。そしてそういう状況になれば、忠将くんたちの動きも押さえやすくなる。だからこそ源司を今この場で滅ぼすべきではない」
ようやく自分の意図を悠久が汲み取ると、恒は満足そうな顔で頷いた。
「…この有様では源司が力を取り戻すのに時間がかかるはずだ、その頃にはとっくに同胞を現世へ導く準備は整っている。いいだろう、あんたの言う通りこの場で源司を滅ぼすのは止めにしよう」
平輔は源司に向けた刃を引いて、鞘に収めると上着の懐にしまいこんだ。
「源司さんを消すのは得策じゃなさそうから止めますけど、本当に平輔さんの邪魔はしないでくださいよ、恒先生?」
「そんなに念を押されなくても分かっているよ、悠久。私に平輔を止める力はないし、仮にあっても止めようという意思はない。君たちが現世で何をしようと、私には関係のないことさ」
「…その言葉信じるぞ」
「いってらっしゃい、でもあまり大事にはしないで欲しいな」
「そいつは人間の抵抗次第だね」
恒は平輔たちの計画を妨害する意思がないことを述べるばかりか、進んで彼らを現世に送り出そうとする。平輔は笑顔の仮面に隠された恒の腹のうちが読みきれず、多少の疑念を抱いたまま倒れ臥した源司に背中を向けると路地の奥へと進んでいった。
「先生、一応礼を言わせてもらうよ……」
「平輔にやられてだいぶお疲れだろう、眠ってもいいんだよ源司。大丈夫、君の寝首を掻いたりしないから安心して」
恒は前のめりに突っ伏している源司の体を仰向けに反転させ、楽な姿勢で横になれるようにしてやる。
「先生は、平輔さんのように現世での暮らしを望んでいるのか……?」
「うーん、どうだろうな? 身の回りの世話をしてくれる召人に事欠かなければ、私は紫水小路の暮らしは最高だと思うけれど」
「…先生、丹ちゃんを身請けする話が駄目になってから、召人を補充できましたか?」
「いいや、ここしばらくはチンタで渇きを癒しているよ。でも今はあの娘を身請けしなくてよかったと思っているよ、下手をすればウワバミの坊やの恨みを買う所だったからね」
源司が恒も現世での生活を望んでいるのかという問いに対して、恒は積極的にはそれを望んでいない姿勢を見せる。小間使いに加えて精気の供給源でもある人間、召人のことが会話に出てくると、恒は以前丹を自分の召人にしないかという話を茜から持ちかけられたが、丹がウツセミに転化してしまい破談になってしまったことに苦笑を浮かべた。
「…先生、託人いえウワバミは本当にオレたちを裏切ったと思いますか?」
「思わないね」
「…どうしてどう言えるんです?」
「ウワバミという連中は代々がさつで荒っぽく、それでいて義理堅い性格だからね。上手いこと教会に鞍替えするなんて器用な真似が出来るはずがないだろう?」
「…なるほど、言われてみれば託人もその祖父の護通も不器用なんだからそんなに上手く立ち回れるはずがないな」
ウツセミの天敵にして守護者だったウワバミが教会の兵士の潜入を手引きしたという噂が同胞の間で実しやかに囁かれており、それについて源司は恒の意見を求める。
数世代のウワバミを知る恒が、いつの時代もウワバミは変わらず無骨な気質であることを理由に裏切りなどという器用な真似ができるはずがないと答えると、来栖とその先代の2人と親交が深い源司はその意見に納得しつつ口元を綻ばせた。
* * *
夜明け前の澄みきった空気に包まれた鱧川にかかる橋の欄干。東の空がうっすらと白み始める頃、平輔を討伐するために紫水小路へ来栖たちは橋桁にかけられた割札に、夜久野常時の残した朱印符を合わせて赴こうとしていた。
「ウワバミそれと吸血鬼、覚悟は出来ているか?」
「おう、そんなもんウワバミの任に就いた時からとっくに出来ているぜ。ところで天連」
「なんだ?」
「丹のことを吸血鬼って言うのは止めろ。こいつには霧島丹って名前があるんだから、名前で呼んでやれ」
黒装束に身を包んだ天連が来栖と丹に紫水小路へと潜入する覚悟のほどを問うと、来栖は威勢のいい返答をしつつ、彼に丹の呼び名の訂正を求めた。
「何故俺がそうしなければならない、本来ならこの場で消し去るべき対象を見逃してやっているだけでも随分譲歩しているんだ」
「依頼を受けたのは俺だが、丹は俺の相棒だ。協力者の相棒を尊重するのは当然のことだろう?」
「い、いいよクーくん…わたしは別に気にしないから」
「お前はよくても、お前を吸血鬼呼ばわりされるのは俺が嫌だ」
天連はハライソが組織をあげて撲滅を目指している吸血鬼の丹を殺さないでいるだけかなり辛抱していると言い返すが、来栖は断固として譲らない。丹が天連にどう呼ばれようと自分は気にしないと宥めるが、来栖は自分がかけがえのない存在である彼女をおざなりに扱われることを腹に据えかねているようだった。
「では俺がお前をクーくんと呼んでいいのか?」
「ふざけるな。丹たちに呼ばれるのもこそばゆいのに、お前に言われたら吐き気がする」
「ではそいつをどう呼ぼうと俺の勝手だ、くだらないお喋りはこのくらいにして……」
天連が丹を名前で呼ぶ代わりに、来栖のことを丹たちが使っている愛称で呼んでよいのかと真顔で訊ねてくると、来栖は即座に拒絶反応を示した。どうやら天連は呼び名に関する議論を打ち切るために敢えてそう言ったらしく、強引に話をまとめると紫水小路に移動しようと促そうとした。
だがその瞬間、内臓が締め付けられるような圧迫感を覚えて天連は口を噤む。天連だけでなく来栖も異様な気配を感じたらしく、表情を引き締めて用心深く周囲に目を配っていた。
「おい天連、ひょっとしてこれは……」
「ああ、こんな禍々しい気配を発しているのだから間違いない……」
「どうかしたのクーくん?」
来栖と天連は次第に近づいてきている邪気に警戒心を強めていくが、彼らのように戦場の空気に親しんでいない丹は忍び寄ってくる敵意を感じられず来栖たちの異変に不思議そうな顔をする。
「丹、俺から離れるな……」
「唵!」
来栖は切り札を発動させるために必要なだけでなく、絶対に失いたくない大切な存在として丹に自分の傍から離れないように呼びかけようとすると、男の雄叫びと共に黒い靄が急速に来栖たちに迫ってきた。
「喝!」
「エイメン!」
来栖と天連はそれぞれ攻撃用に転換した生体エネルギーを放ち、近寄ってくる黒い靄を打ち消そうとする。しかし黒い靄が迎撃に放たれた生体エネルギーを飲み込むと、何事もなかったように来栖たちもその中に取り込もうと迫ってくる。
「ちっ!」
天連は同じものに取り込まれ大幅に体力と気力を削られた記憶を蒸し返し、迫り来る黒い靄から少しでも離れようとその場から駆け出していく。来栖も彼に倣って黒い靄に飲み込まれないようにその場を飛び出していくが、靄がちょうど来栖と丹を隔てるように広がってきたために2人は散り散りになってしまう。
「丹!」
「悪いけど彼の所には行かせないよ」
来栖は靄から逃げる向きを変えて丹の下に駆け寄ろうとするが、彼の行く手を阻むように靄は広がる。丹も来栖と合流しようと迂回路を模索するが、突然背後から伸びてきた腕を首に回され、眼前に銀の短剣をちらつかされると足が竦んでしまう。
「悠久、くん……?」
「紫水小路から姿を消したと聞いて心配したけど、元気そうで安心したよ丹」
短剣を突きつけて脅迫してきた人物の声に丹は聞き覚えがあったが、思い当たる人物がこんな凶行に走るとはにわかに信じられなかった。しかし丹の淡い期待を、右手に銀の刃を握り天使のような微笑を浮かべて悠久は打ち壊す。
「悠久くん離して!」
「丹の頼みでもそれは聞けないな。平輔さんが確実にウワバミを仕留めるために、彼から君を引き離しておく必要があるんだ」
「悠久くん、あなたはあの人の味方なの……?」
「味方って言い方は若干語弊があるね、厳密に言えば僕は平輔さんの部下さ」
「…悠久くんは千歳さんの従者じゃなかったの?」
「お嬢様の従者は世を忍ぶ仮の姿さ。僕の本当の姿は、平輔さんが掲げたウツセミを紫水小路からか現世へ解き放つ志を叶えようとする夜久野の志士の1人だよ」
「夜久野…じゃあ常時って人が言ってた、転化したばかりのわたしを現世に連れ出した仲間って……」
「あんまりそのことは知られたくなかったんだけどなぁ。ばれちゃったら仕方ない、そうさ僕が街を彷徨っていた君を現世へ放り出した張本人さ。ウツセミへの反感を人間に高めてもらうための布石として、君に思う存分血を貪って欲しかったんだけど、お節介な源司さんとウワバミのせいで目論見が台無しにされちゃった」
悠久は自分が丹の家族に不幸をもたらした平輔の配下であること、先日合を発動させた時に戦った常時も自分たちの仲間であったこと、そして転化したばかりで精気に飢えていた丹を現世に解き放ったのも自分であると恥ずかしげもなく彼女に明かす。
「悠久くん、あなたのことを見損なったわ……」
「…平輔さんの命令だったとはいえ、君を現世に放置したことは僕も反省しているんだ。それに僕らのやっていることはウツセミがウワバミの束縛を逃れて、真の自由を掴むために必要なことなんだし、そんなに気を悪くしないでほしいな」
丹は悠久が人間とウツセミを巻き込んだ陰謀に加担しているものと知って、彼に一時でも信頼を寄せた自分への怒りと裏切られた悲しみに体を震わせる。悠久は丹に見損なったといわれたことに少々狼狽を示して一瞬彼女に突きつけた短剣を引こうとするが、自分たちの行いの正当性を丹だけでなく自分にも言い聞かせて刃を構え直した。
「悠久、その嬢ちゃんのことをしっかり捕まえてろよ!」
「任せてください、平輔さん」
平輔の呼びかけに対して悠久が明るい声で返事をするのを聞くと、丹はおもむろに視線を上げて周囲の状況を確認する。
薄明かりの中、丹たちから数十m離れた場所に3人の男が立っていた。東に連なる山を背にしている2人が来栖と天連、そして丹たちに背を向けているのが平輔だろうと丹は察した。
「卑怯だぞ、丹を離せ!」
「なあ護通の孫、お前なんか勘違いしてねえか? 俺たちは喧嘩をするんじゃねえ、生き残りをかけた生存競争をするんだ。食うか食われるかの殺し合いに卑怯も礼儀もあったもんじゃねえだろう?」
来栖は丹を人質にする平輔たちに紛糾するが、平輔はルールのない戦争をしようとしているのだから問題ないと来栖の抗議を突っぱねる。
「そうかよ…だったら力ずくで奪い返すだけだ!」
「いいぜ護通の孫、その意気だ!」
密かに剣気を右手に集束させておいた来栖が不意打ちを狙って斂を発動させようとする。平輔は来栖が闘争心を剥き出しにして挑んできたことに嬉々としながら、左腕を前方に突き出してあらゆる生体エネルギーを飲み込む陰を発動させた。
第16回、紐解かれる黙示録 了