第15回、終末の到来
昭和初期に建築された病棟を現在も利用している赤城医院は御門の市街地に位置する丸和町の一角にある。
代々医療に従事していた赤城家の嫡男は現在も市内にある名門、照都大学の附属病院に勤務しており実家の医院を継ぐつもりはないらしい。彼の父親である現在の院長も息子の意志を尊重するらしく、自分の代で長年地域医療を支えてきた医院の看板を下ろすつもりであるようだった。
もうじき長い歴史に幕を閉じようとしている古ぼけた医院の病室で、来栖はベッドに上体を起こして丹が差し入れてきたリンゴを齧っている。
「クーくん具合はどう?」
「ここに転がり込んでからずっと眠っていたからな、随分よくなったぜ」
「これも赤城先生のおかげだね」
「そうだな。ここの先生と爺ちゃんが若い頃から付き合いがある縁で、ガキの頃から何度もお世話になっているよ」
「だからボロボロの状態だったクーくんを見ても、何も言わずに治療してくれたんだね」
ウツセミたちの住む異空間紫水小路から現世に戻ると、来栖は丸和町の赤城医院に自分を連れて行くように丹に指示した。道端で拾ったタクシーの運転手から胡乱な目で見られつつ赤城医院に到着すると、院長を務めている老医師がすぐに来栖の治療をしてくれたお陰で彼の怪我は大事に至らずに済んだ。
優先的に院長が来栖の治療をしてくれたことに感謝する一方で、怪我をしているとはいえ何故院長が来栖を優遇したのかを疑問に思っていた丹だったが、どうやらここの院長はウワバミの協力者であるらしいと分かると溜飲が下がる。
「それにさ、ここの院長の若くして亡くなった次男が俺の遺伝上の父親なんだ」
「えっ、じゃあここの院長さんはクーくんのお爺さんってこと?」
「そう言えなくもないだろうが、籍を入れる前に遺伝上の父親が死んでしまったから法律上は赤の他人だ」
院長が来栖を丁重に扱ってくれる理由として院長と来栖の祖父の親交だけでなく、来栖が遺伝上は院長の孫に当たることがあると聞かされると、丹は2人の意外な関係性に驚嘆した。
「クーくんのお母さんがシングルマザーとしてクーくんを育てた話は前に聞いたことあるけど、遺伝上のお父さんがどこの誰かクーくんが知っているってことは聞かなかった。クーくんはお母さんたちの間に何があったか全部知ってるの?」
「大体のことは爺ちゃんから教えてもらってる。昔、俺の母さんがここで働いていた時、院長の次男の弓弦さんと親しくなって俺を身ごもったんだとさ。弓弦さんには金持ちの娘との縁談が持ちかけられていたらしく、彼の家族は俺の母さんとの結婚に反対したらしいが、本人は勘当される覚悟で母さんとの婚約を押し切ったらしい。どうにか家族の承諾をもらって鞍田山に住んでいた俺の爺ちゃんの所に挨拶に行った帰りに、母さんたちはナレノハテに襲われてしまった。弓弦さんは母さんと腹の中にいた俺を庇ってナレノハテに殺されてしまい、母さんは未婚の母として独りで俺を育てることになっちまったんだ」
来栖は両親の恋の顛末の詳細を丹に語り終えると悲痛な面持ちで項垂れる。彼の両親にまつわるおおよその内容は以前来栖から聞かされていたものの、丹は彼をどう慰めていいのか分からなかった。
「…やっぱり似ているね」
「似てるって何と何がだよ?」
「クーくんと弓弦さんの、自分の意思を最後まで貫こうとする所。直接会ったことはなくてもやっぱり弓弦さんはクーくんのお父さんだよ」
丹に来栖と彼の遺伝上の父親の性格の共通点を発見されて、来栖は沈んだ表情に意外な驚きを浮かべた顔で彼女を見返す。
「そう言われてみれば、そうかもな」
「先代のウワバミだったお爺さんを知っているウツセミのみんなはクーくんがお爺さんの若い頃の生き写しだって言っているけど、お爺さんだけでなくてクーくんはちゃんとお父さんにも似ているんだよ。だからきっとここの先生もクーくんの手当てを何も言わずにやってくれたんだと思う」
院長が来栖に早世した息子の面影を見ており、だから来栖の治療を率先して取り組んでくれたのではないかと丹は推測する。来栖も丹の考えを信じてみたいような様子であった。
「待ちなさい蘇芳、病院の中を走ったら他の患者さんの迷惑でしょう!」
「じっとしてるのあきた、外で遊びたい!」
廊下を走る足音が近づいてくると思うと、来栖の病室に幼女と彼女を追いかける10代前半の娘が駆け込んできた。紫水小路で忠将が世話をしている蘇芳と、彼女のベビーシッターを任されている丹の妹葵の2人だ。
「捕まえた、もうしばらく大人しくしてなさい!」
「やだーもっと遊ぶのー!」
病室の隅に追い込んだ蘇芳を葵が抱き上げると、蘇芳は葵の腕から逃れようと足を宙でばたつかせる。
「うるせえぞお前ら、少しは怪我人に気を使えねえのか!?」
「一番デカい声出してんのはクーくんじゃん。そんなに元気なんだからさっさと退院しなさいよ」
「そーだよ、早くたいいんしなよ!」
来栖が騒がしい2人を叱責すると、葵と蘇芳は阿吽の呼吸で来栖に抗議してくる。
「まあまあ葵も蘇芳ちゃんも落ち着いて、残ったリンゴ食べる?」
「姉さんが彼氏のクーくんのために剥いたリンゴの残りなんて要らないわよ」
「うん、食べるー!」
葵と蘇芳の機嫌をよくしようと丹は皿の上に残ったリンゴを彼女たちに勧める。葵は子ども扱いされたことに不貞腐れるが、蘇芳は無邪気な笑みで返事をすると即座に皿に乗ったリンゴに手を伸ばした。
「なあ丹、これからこいつの扱いどうするんだ?」
来栖は一言の断りもなしに自分の寝ているベッドの端に座ってリンゴを頬張っている蘇芳を一瞥して、彼女の処遇を今後どうするのか丹に訊ねる。
「忠将さんは蘇芳ちゃんをウチの養子にして、現世で生活してもらうことを望んでいるみたい。それを実現させようとお父さんに何度も養子縁組の話を持ちかけているわ」
「こいつだって正真正銘人間なんだから現世で暮らすのが筋なんだが、戸籍をどうするかだよなぁ……」
「ええ、紫水小路で生まれ育った蘇芳ちゃんの戸籍は現世にないのよね。戸籍がなければ養子にはできないけど、生まれたばかりの赤ちゃんならともかく幼稚園児くらいの子の戸籍が簡単に作れるはずがないし……」
教会の兵士による襲撃の後、紫水小路のウツセミの間で人間への風当たりが強まりつつあった。蘇芳に危難の手が及ぶことを恐れた彼女の保護者をしているウツセミの忠将は、丹たちが現世に戻る時に蘇芳も同行させるように頼んできた。結果的に忠将の希望通り、蘇芳は生まれて初めて現世へやっていたが、彼女が今後現世で生活し続ける上での問題点として戸籍がないことに来栖と丹は頭を悩ませている。
蘇芳自身に落ち度があった訳ではないし、現世と紫水小路の行き来は制限されていることに加え、新生児を路頭に放り出す訳にもいかなかった忠将の責任を問うことも難しかったが、とにかく蘇芳がここまで成長してしまったことで事態は余計にややこしくなってしまっているのは明白だった。
「…お前ら、出来るだけドアから離れて部屋の奥に下がれ!」
2個目のリンゴを美味しそうに齧っている蘇芳の幸せそうな顔を見ていると、基本的に仏頂面を浮かべている来栖の顔も自然と和らいでいたが、廊下から異様な気配が近づいてくることを察すると表情を一変させて厳しい声で丹たちに病室の奥に下がるように命じる。
「随分とご挨拶ね、それが見舞いにきた者への態度かしら?」
「安倍さん、それに俺を倒した天連とかいう奴……」
ベッドから飛び起きて丹たちを背に庇いながら入室してきた2人組に来栖は剣幕を向けると、病室を訪れてきた2人組のうち縦ロールの髪をした少女が出迎えてきた来栖の態度に苦言を呈する。
来栖は突如病室を来訪してきたハライソの構成員安倍真理亜と以前拳を交えた時に敗れた使徒の伴天連に厳重な警戒を向けた。
* * *
ハライソの襲撃を退けてから数日。戦闘の傷跡は街の至る所に見られたものの、次第に街は以前の平穏を取り戻しつつあるように見えた。だがそう思えるのはあくまでも表層のみであり、奥では同胞を殺した人間へのウツセミたちの激しい怨念が渦巻いている。
仲間を虐殺したことへの怒りと本来ウツセミの餌であるはずの人間に街を蹂躙されて矜持を傷つけられたことの恨み、そして人間にウツセミが畏怖すべきものであると教え込まなければならないという驕りが入り混じり瘴気が生まれているような感じを抱きながら、富士見氏族に属する晨はある会合に参加していた。
「全員連判状に名前と拇印を捺したか?」
「親方、晨の奴がまだ捺してません」
「そういやおめえのところにまだ回してなかったな、さっさと捺して返してくれ」
晨が勤務している血液の代用品チンタの醸造と流通を担う酒蔵の長、潮は決起に参加するものの名を連ねた連判状を晨の前に投げて、彼にもそこに名を記すように促してくる。
「あの親方…政所を襲って朱印符を奪うって話を本気で言っているんですか?」
「伊達や酔狂で同胞を襲うなんて言うかよ。ウツセミの将来を憂うからこそ、こんなだいそれたことをしようと思ったんだ」
遠慮がちに晨が潮に真意で同胞の施設に襲撃をかけると言い出しているのか問うと、潮は本気で同胞の行く末を案じているからこそ自分は暴挙に出るのだと答える。
「そうだ、現状に留まるばかりではウツセミは種族として衰退するばかりだ。未来を切り開く際には時として蛮勇であることも必要だ」
「さすが勇猛な男揃いの酒蔵の長の言うことは違いますね」
「平輔に悠久、嬉しいこと言ってくれるじゃねえか」
この場に集っているウツセミの過半数は酒蔵に所属しているウツセミであり、部外者は少数派である。その部外者のうち強大な力を持ったハライソの使徒を退けた中背の男平輔と富士見の族長、千歳の従者を務める少年の姿をしたウツセミ悠久におだてられると、潮は嬉しそうに雄々しい顔に豪放な笑みを浮かべた。
酒蔵の親方である潮は、大勢の従業員を殺害されたこともあって教会の人間への報復をしきりに主張しており、同僚を失った酒蔵の従業員たちも親方の考えに同調した。また一部の血気盛んなウツセミも潮の男気を慕って彼の軍門に下り、20人弱の過激派が組織されるに至った。
名目上は酒蔵を主体にその長である潮を筆頭にして過激派のウツセミは行動を起こそうとしていたが、晨は影で糸を引いているのは平輔と悠久ではないかと感じていた。平輔と悠久が言葉巧みに潮たちを躍らせ、もっと大きな企みを抱いているのではないかという懸念を晨は薄々感じていたが、確信が持てずに口外はしていなかった。
「早くしろよ晨、おめえが名前を書かねぇと会合の締めができねぇんだよ」
「あの…やっぱり俺も襲撃に加わらなければ駄目でしょうか?」
「何言ってんだ、計画を聞いた以上おめえも同罪だ。最後まで付き合ってもらうぜ」
潮は未だに連判状に署名しない晨に苛立った様子で、早急に記入を済ますよう急かす。
「…親方、やっぱりこんなこと間違っていますよ」
「なんだと、晨おめえ今更怖気づいたか?」
「親方が言う通り、俺は臆病なのかもしれません。でも政所のひとたちを傷つけて朱印符を奪うことは残りの同胞を敵に回すようなことですし、現世で人間に復讐することは無差別に俺たちを攻撃してきた教会の奴らと変わらないじゃないですか。こんな馬鹿げたことをして一体何になるっていうんです?」
晨自身も教会の蛮行を目の当たりにしており、潮たちが復讐を果たしたいと思う気持ちは分からなくはない。しかし現世へ向かうのに必要な朱印符を得るために同胞を襲うことは納得いかなかったし、一時的な感情に流されて人間への報復をしたところで新しい争いの火種を生むだけだと晨は思った。
晨は意を決して潮や彼に追従する同胞たちに暴動を起こすことを思い留まるように説得を試みる。思いの丈をこの場に集ったウツセミたちに打ち明けた晨に、多くのウツセミたちは意外そうな目を向けていた。
「この腰抜けが!」
晨の一世一代の熱弁に少なくない数のウツセミは感じるところがあるようで、自分たちが起こそうとしていることは取り返しのつかない愚行なのではないかと思っていそうな表情を浮かべる。
しかし過激派のウツセミを表面的には率いている潮は、断腸の思いで下した決断を自分の直属の部下に馬鹿げたことと評されたことが我慢ならないようだった。潮は眉間に皺を刻んだ鬼神の如き壮絶な形相になると、剛腕を振るって晨の顔面を殴りつける。
横面を強かに打たれた晨はその勢いで後方に吹き飛ばされ、彼の体は会合が開かれている酒蔵の板の間を床の上を転がっていく。だが拳骨一発では潮の気は収まらなかったらしく、板の間の上に倒れている晨の下へ走り寄っていき、何度も自分の決心にケチをつけた部下のことを殴りつけた。
「同胞を襲うことがどれだけ重い罪になるのか、てめえに言われるまでもなく重々承知してるよ! でもな、俺らがやられっぱなしじゃ人間どもはますますつけあがるに決まっているんだ! ここらでお灸を据えておかねぇとまたいつ連中が街を襲ってくるかわからねえ、人間どもがウツセミに手を出そうなんて考えを起こさないように痛い目に遭わせておかなくちゃならねえんだよ! ここにいる奴らはなぁ、てめえと違って同胞のために捨石となる覚悟をちゃんと固めているんだよ!」
「お、親方落ち着いてください……」
「それ以上やったら本当にやばいですよ……」
「うるせぇ、てめえらもこいつと同じようなこと抜かすなら問答無用でぶちのめす!」
怒号をあげながら晨に鉄拳制裁を続ける潮のことを、彼の部下である酒蔵のウツセミたちは止めようとする。しかし潮は丸太のような筋骨隆々とした腕に掴みかかってきた部下たちを簡単に振り飛ばすと、文句を言うのなら彼らも晨と同じように制裁を加えると脅しつける。
強烈な打撃を加えられ続けたことで晨の体は痣だらけであり、衝撃に耐え切れず破れた床板の穴に半ば埋まっていた。ぐったりとして生気の感じられない晨の姿を見て、潮の部下たちは顔を青褪めさせると首を横に振る。
「親方、やっぱり考え直してください。冷静になってみれば、これがどんなに危険なことか分かるはすです……」
晨は殴られすぎて瞼が開かなくなった顔を潮の方に向けながら、蚊の鳴くような声で再度潮に思いを改めるよう諫言する。
「馬鹿か晨、お前死にたいのか!?」
「謝れ、今ならまだ親方も許してくれる!」
普段それほど仲のよくない同僚たちは慌てて晨に発言の訂正を求める。しかし晨は殴られ腫らした顔を潮に向けたまま、自分の意見の正当性を疑っていないようだった。
「あくまでも俺に噛み付いてくるか…いいだろう、そいつがてめえなりの筋の通し方なんだな? だったらこっちもその心意気に全力で答えてやるぜ!」
潮は晨が自分の主張を曲げず、真っ向から自分に反発してくる気骨を評価する。しかし自分に従う気がないことが明らかならば、志を成し遂げるために晨を容赦する訳には行かないと潮は拳を固めて彼を断罪することに決める。
「あばよ晨、一足先にそっちに逝ってくれ!」
「そこまでにしなさい!」
潮は人間よりも遥かに頑丈なウツセミの肉体すら粉砕できる全力のパンチを晨に叩きつけて、彼のことを滅ぼそうとする。いずれ討ち死にする自分たちよりも少々早く旅立つ彼に別れを告げて潮は晨の顔面目掛けて拳を振り下ろすが、部屋の襖が勢いよく開け放たれると同時に聞こえてきた凛とした声に思わず潮は手を止めた。
「お嬢様、ここは女の来る場所じゃねえぜ?」
「私だって好きでこんなむさ苦しい所に来た訳じゃないわ。先日の戦乱で召人が亡くなり1杯付き合ってくれるものがいなくなったから悠久か晨にでも相手をしてもらおうと思って2人を捜していたんだけど…酒蔵で行われている暴行の現場を目撃するとは思わなかったわ」
潮は意外な人物の出現に軽く狼狽を示したが、すぐに平静を取り戻して邪魔者は即座に立ち退くように告げた。
富士見氏族の若き族長千歳は白磁のように白く滑らかな頬をチンタの酔いで仄かに紅潮させながら、惚けたような目つきで部屋に集った男たちの顔と陥没した床に臥せった晨に暴行を加えている潮のことを眺める。
ワインボトルくらいの大きさのチンタの瓶を左手に携えたまま、千歳は潮の忠告を無視して千鳥足で会合の開かれている部屋へと足を踏み入れた。
「お嬢様のお相手は僕が致しますから、外に参りましょう」
「悠久、あなた最近私のことを蔑ろにしてそっちの男にばかり入れ込んでいるわね。いつから私の従者を辞めて、あの平輔って男の小姓になったのかしら?」
左右によろめく千歳の肩に手を添えてその場に留まらせると、悠久は彼女を部屋の外に誘導しようとする。だが千歳は悠久が最近平輔とばかり行動していることを咎めると、不機嫌そうに自分の肩に置かれた悠久の手を振り払った。
「お勤めを果たさずにいたのは申し訳ありません。ですが寵愛されていた永遠を失って悲嘆に暮れていたお嬢様のお気持ちを考えれば、お1人にしておいて遠くから見守るべきと思っておりました」
「相変わらず、いえ以前にも増して舌がよく回ること。でもあなたが囀る全ての言葉が今はとても耳障りに聞こえるわ。悠久、残念だけどあなたと飲んでも楽しめそうにないから、晨に相手をさせることにするわ」
「お嬢様、晨さんは酒蔵の上司である潮さんにお叱りを受けている所です。どうかお引取り願えませんか?」
千歳は悠久の申し出を断って晨に酌をさせようとするが、悠久は千歳の進路に回りこんで彼女に独りで帰ってくれるよう頼み込む。
「晨がどんなヘマをやらかして、それで酒蔵にどんな損失が出ようが関係ないわ。族長の私が晨に用があると言っているのだから、今すぐ晨を私の前に連れてきなさい」
「お嬢様、ここは俺の縄張りだ。部外者のあんたに手下の扱いでとやかく言われる筋合いはねえ。分かったらさっさと帰れ!」
「潮、私はあなたや晨の属している富士見の族長なのよ。あなたたちには私の命令に従う義務があるわ、つべこべ言わずに晨を私に寄越しなさい!」
「お飾りの人形の分際で偉そうな口を利くんじゃねぇ、小娘が!」
粛清しようとしている晨の身柄を引き渡すよう千歳が居丈高な態度で要求してくると、潮は自分が属する氏族の族長であっても年下の彼女に強硬な姿勢で要求を拒む。しかし千歳が形骸化している肩書きを盾にして再度要求を告げると、潮はとうとう千歳を見下しているという本心を吐き出してしまった。
「いいじゃねえか潮。富士見のお嬢様がお相手をご所望されているんだから、その兄ちゃんを渡してお帰り願おうぜ」
今にも千歳に飛び掛りそうな雰囲気を醸し出している潮の肩に平輔は手を置いて、千歳の要求を呑んで早々にこの場から立ち去らせるべきだと提言する。
「けどよ平輔、あのことが晨の口から漏れてあの小娘に知られちまったら……」
「お前に袋叩きにされたんだ、その兄ちゃんはしばらく眠ったままだろう。そして目を醒ました時にはとっくに全部が終わっているさ」
平輔は潮の足元でぐったりとしている晨を一瞥すると、意識のない晨を千歳に引き渡しても問題ないと潮に告げる。
「でも万が一、予想よりも早く晨の奴が起きちまったら……」
「あのお嬢様は他人のことには無関心なんだろう? まして氏族の異なる代永のウツセミがどうなろうと気にも留めないんじゃねえかな?」
「そ、そうだな…あの小娘はいつだっててめえのことしか考えてねえし、代永のウツセミのことを毛嫌いしている。仮に俺たちの目論見を知ったところで、助けてやろうとは露とも思わねえだろう」
潮と平輔が声を潜めて話を進めると、晨のことを千歳に渡しても計画の障害になる可能性は皆無に等しいと判断した。
「分かったよお嬢様、こいつはあんたの好きにするがいいさ」
潮は大きな手を床にめり込んだ晨に伸ばし、片手で強引に床下から彼の体を持ち上げると床の上に乱雑に寝かしつける。千歳は覚束ない足取りで晨の下に向かうと、その枕元にしゃがみ込んだ。
「悪いが俺たちはこれから一仕事しなくちゃならねえ、ここからそいつを連れ帰るのは自分でどうにかしてくれ。お前ら、行くぞ」
潮は晨と千歳に目もくれずにそう言うと、追随する部下たちを引き連れて部屋を出て行った。平輔と悠久も潮たちの後に続き、密談の開かれていた部屋を出て行く。
「…千歳、様」
「あら、起きていたの晨」
潮たちの足音が遠ざかっていくのを確かめると、辛うじて意識を保っていた晨は千歳に語りかける。千歳は晨の枕元に腰を下ろしたまま、とろんとした目つきで痛めつけられた彼のことを眺めていた。
「千歳様…親方たちは現世に行くのに必要な朱印符を狙って、政所を襲撃しようとしています。どうか政所のひとたちにこのことを知らせてもらえないでしょうか?」
「嫌よ、どうして私がいけ好かない代永のウツセミのために骨を折ってやらなくちゃいけないの?」
晨はうっすらと目を開いて途切れ途切れに政所の襲撃を潮たちが企てていることを、政所のものたちに伝えてほしいと懇願する。しかし千歳は晨の今生の頼みをにべもなく断った。
「お願いです、千歳様…政所のウツセミや現世の人間だけでなく親方たち自身のためにもあの人たちを止めるのに協力してください」
「晨、あなたって本当にお人好しね。自分が死にそうだっていうのに他人のことを心配するなんて私には理解できないわ」
「…分かってもらわなくても構いません。でも、親方たちを止めなくちゃまた悲劇が繰り返されるだけです、どうか力を貸してください」
「でもあなたの愚かしいほどに優しい所が私は大好き。他のウツセミや人間がどうなろうと知ったことじゃないけれど、永遠だけでなくあなたまで喪うことはとても我慢できない」
千歳は晨の訴えを聞き流して床に置いた瓶からチンタをラッパ飲みにして、口の中にチンタを含む。それから千歳は上体を屈めて自分の顔を晨の顔に近づけると、花弁のように美しい唇を彼の殴られて荒れた唇に押し当てた。
千歳の口腔に含まれたチンタが口移しで晨の口に注がれていく。口の中にチンタを注がれると、晨の体は反射的に注ぎ込まれたチンタを嚥下した。生暖かい血液の代用品が胃に落ちていくと、晨は潮に殴られてボロボロになった体に活力が湧いてくるような気がした。
「生き血ほどの効果はなくても、チンタを飲めば傷ついた体の治癒が進むでしょう?」
「はい、もう何口か飲めば自分の足で政所まで走っていけそうです」
千歳にチンタを飲ませてもらい精気を補えたお陰で、晨はそれまでままならなかった会話をまともに出来るようになった。もう少し精気を補充してダメージの回復が出来れば、千歳に頼らなくても自分で政所に伝令に行けるだろう。
「そう、それじゃもう二、三回あなたの唇を味あわせてもらおうかしら?」
「い、いえ…もう自分で飲めますから大丈夫です」
「これは私が楽しみにしていた最高級のチンタなのよ。いくらあなたでもただで譲ってあげるつもりはないわ。このチンタが欲しければ、その見返りにあなたの唇を私に味合わせなさい」
晨は身を起こして千歳の抱えているチンタの瓶に手を伸ばすが、千歳は瓶を胸元に抱え込み身を捩って晨からチンタを遠ざける。そして傷を癒すのに必要なチンタを飲みたければ、自分に彼の唇を堪能させろと言ってきた。
「千歳様、だいぶ酔われていますね……?」
「ええ、永遠を喪った悲しみを紛らわすために浴びるようにチンタを飲んでいるわ。でもね、どんなにチンタに溺れてもあの子がいなくなった寂しさを感じずにはいられない」
到底素面とは思えない千歳の発言に晨が狼狽していると、千歳はその秀麗な顔に色濃く大切にしていた召人を喪った悲しみを浮かべる。いつも傲慢で身勝手な千歳が弱さを曝け出してくるのを見て、晨は彼女への庇護欲を駆り立てられた。危うく今にも消えてしまいそうな千歳を抱き寄せそうになる体を、慌てて晨は押し留める。
「誰も永遠の代わりにはなれないし、この寂しさを完全に消してはいけないと思う。でも私はまだ生きているんだからいつまでも悲しみを引き摺っていてはいけないの、悲しみを乗り越えて前に進まなければならない。だから晨、永遠を喪った痛みをあなたが癒してちょうだい」
千歳は再びラッパ飲みしてチンタを口に含むと、晨の胸に身を投げ出してきた。晨も彼女を拒まずにしっかりと抱き留めると2人は唇を重ねた。一度目は瀕死の状態だったので感触を味わう余裕などなかったが、晨はチンタを流し込んでくる千歳の柔らかな唇に蕩けそうな恍惚を覚える。
「…晨、もう逃がさないわ。これからは命尽きるまで私に従ってもらうからね」
「俺があなたの召人だった頃、千歳様は俺と心中することも厭わないほど愛してくれていたのに、お気持ちも考えずにすみませんでした」
「謝らなければならないのは私よ。あなたは本当に家族を大切にして、それは私への思慕に勝るものだった。家族と限られた時間を過ごすため、あなたは私を捨てて現世で人間と生きる道を選んだのに、私は家族という組織に反感を持っていた私は自分よりも唾棄する家族を選んだあなたに腹が立って仕方がなかった。自分のものにならないのならいっそ壊してしまおうとあなたを手篭めして致死量の血を貪ってしまった…本当にごめんなさい」
「娘ではなく自分に服従し血液を供給する愛玩動物として常時様に育てられた千歳様が、家族にいい印象を抱けなかったのは無理のないことです。ウツセミに転化させられて人間でなくなったと自棄を起こし、あなたの傍を離れたい一心で俺は酒蔵に転がり込みました。そして何年もあなたから逃げ続け、向き合おうともしなかった。あなたの前から逃げ続けた俺は本当に臆病者です」
「時間はかかってしまったけれど、私はもう一度あなたに触れることが出来た。その喜びを思えば費やしてきた日々などどうでもいいわ。晨、自分を食い殺そうとした化け物をあなたは受け容れてくれるかしら?」
千歳と晨は互いの背中に手を回したまま、二十年余り続いた蟠りを徐々に解していく。2人は互いの過去の罪とそれに対して抱いた罪悪感を包み隠さずに吐露しながら、昔と変わらずに想いあっていることを確かめあう。
千歳は上目遣いで激情に駆られて晨が危篤に陥るほど血を啜った自分のことを、彼が再び受け入れてくれるかと不安げに訊ねた。
「…君になら殺されても惜しくないよ、千歳」
晨はウツセミに転化して以降、久しく口にしなかった呼び捨てで千歳に返事をすると、今度は自分から彼女の唇にくちづけをした。千歳の唇からチンタが注がれることはなかったが、チンタを飲まされた時以上に甘く心を溶かされる感覚を晨は覚える。千歳は目を閉じて、かつて愛し愛を取り戻した男のくちづけに身を委ねた。
「…政所に連絡を伝えないと」
「その必要はないわ」
しばらく千歳と晨は三度目の接吻の余韻に浸っていたが、ある程度活力を取り戻した晨は政所に危機を知らせに行こうとする。だが千歳はまた晨に連絡する必要がないことを訴えて、自分の傍に残ることを望む。
「どうして、いくら政所様がいると言っても親方たちに攻められたら一溜まりもない」
「策を張り巡らせるのが好きな代永のひとたちなら、潮たちが何をしでかすかくらい察しがついていると思うわ。あなたが余計な心配をしなくても、あのひとたちならきっと上手くやるわよ」
「でももしかしたら何の対策も講じていないかもしれないし、やっぱり……」
「平輔ってひとのこと、政所様や源司たちは随分警戒しているわよ。その平輔と懇意にしている潮の動向にも確実に目を光らせているはず。そう簡単に出し抜かれる心配はないと思うわ」
千歳は政所を運営する代永氏族のウツセミのことだから多少の対策は練ってあるはずという見解を示すが、晨はどうしても不安を拭いきれない。しかし千歳は潮以上に彼の計画に加担している平輔のことを源司たちが用心しているのだから、問題はないと晨に言い聞かせた。
「確か、あの平輔って人が常時様の最期を看取ったんだったね?」
「そうらしいわ。でもあの男がそうあっさりと消滅するはずがないと私は当時から疑問を抱いていた。既に三百年以上も生きていたのにしぶとく生への執着を見せていたあの男がそんなに潔く消えるはずないのは、召人だった私がよく知っている。きっと消滅したと見せかけて、どこかに生き延びていたに違いないわ」
千歳を娘として育てているように見せかけて、実際は体のよく召人として彼女から精気を搾取していた富士見の先代の族長常時の名を挙げると、千歳は紫水小路において義父だった常時への嫌悪感を露にしながら平輔に対する胡散臭さを覚えたのは今に始まったことでないのを明かす。
「常時様が今もどこかで生きていると思う?」
「少し前まではそんな気がしていたけれど、今は全然しないわ。大方ウワバミかハライソの使徒にでも殺されたんでしょうよ」
しかし意外なことに千歳は晨の問いに対して首を横に振る。義父だったウツセミの生死に千歳は興味を抱いていないらしく、淡々とした口調でウツセミに対抗しうる人間に殺されたのだという推論を述べた。
「ウワバミにハライソの使徒か…彼らはまたここにやってくるかな?」
「個人的にはどちらも二度と来て欲しくないわ。ウツセミも人間も互いに干渉しあわないことが一番上手くやっていく方法だと思わない?」
「どうだろう。俺は例え相容れない存在でもちゃんと向き合わなくちゃいけないと思うから、両者の調整をしてくれたウワバミの存在は必要だったと思うけど」
「そうかしら、人間がいつまでもウツセミの肩を持てるとは思わないわ」
「ウツセミの丹ちゃんと人間のウワバミの組み合わせが共存の道を示してくれんじゃないかって、俺は期待していたんだけどなぁ」
「また他人のことを気にしている…まだお仕置きが足りないようね?」
晨に他の男女の組み合わせを会話に出されて千歳は嫉妬に形のいい眉を顰めると、自分以外のもののことなど考えられないように彼の身に自分の体を押し付け、余計なことを言えないように唇で彼の口を塞いだ。
* * *
「ホントあんたたちは他人の都合を考えないな…けどそっちがその気なら受けて立つぜ」
「勘違いするなウワバミ。今日は戦いに来たのではない、お前の力を借りに来たんだ」
入院していた病室で来栖が真正面でハライソの2人と対峙し、その後ろで丹が葵と蘇芳を背に隠している。しかし臨戦態勢を整えている来栖に対し、天連は交戦する意思がない事を主張した。
「力ずくで連れ去った挙句、自白剤まで使って洗いざらい情報を吐かせたくせに、まだ俺を利用するつもりかよ」
「利用されると思うか、協力すると思うかは来栖さんの自由ですわ。とにかく私たちは紫水小路にいる平輔という吸血鬼を討つためにあなたの助力が欲しいのです」
来栖がまたハライソに利用されるかもしれないことに抵抗感を抱くと、真理亜は自分たちに手を貸すことをどうとるかは来栖の自由であると答えた。
「あの平輔って奴は、あんたでも太刀打ちできないくらい強いのか?」
「ああ、俺の聖火がまるで通用しなかった。1人で正面から挑んでも返り討ちにされるのがオチだろう」
「だから平輔の注意を惹きつけ、その隙を突いて有効なダメージを与えるために俺の力が欲しい。そういうことだな?」
「その通りだ。あの平輔という奴を野放しにしておくのは危険過ぎる、人間と吸血鬼の調和を保つ役割を担うウワバミとしても奴の存在は看過できないんじゃないか?」
天連は自分と平輔の実力差を冷静に見極めた上で、改めて平輔を討つために来栖の助力を請う。天連は来栖より細身であるものの上背はほぼ同じ高さであり、来栖の目を正視して彼が首を縦に振ってくれることを望んだ。
「確かに紫水小路以外の場所で何人も人間を襲った平輔を放っておくつもりはないが、奴を倒すからといってあんたたち協力するつもりはない」
しかし来栖は目的が一致していても、煮え湯を飲まされてウツセミからの信用を失墜させられたハライソに協力するつもりはなく、天連たちの願いを拒む。
「平輔には俺の聖火が通用しなかったんだ、貴様の斂も同じことだろう」
「俺1人で放つ斂だったらきっとそうだろうな。でも今の俺にはとっておきの切り札がある、そいつを使えば平輔にだって負ける気はしねえ」
「とっておきの切り札だと、鞍田山で俺と戦った時に実力を出し惜しみしていたとでもいうのか?」
「あの時も全力であんたにぶつかって倒されたし、俺1人で出来ることは今だって何も変わっちゃいない。でも丹の支えを得られれば、あんただろうが平輔だろうが剣気で吹っ飛ばせる」
「大した自信ですわね。そこの吸血鬼に血を吸われ過ぎて頭のネジが弛んでしまったのかしら?」
来栖が丹の助力さえあれば天連だろうと平輔だろうと倒してみせると豪語すると、真理亜は気持ち一つで戦力差を覆せるはずないと鼻で笑う。
「ならば見せてもらおうか、貴様がそこまで逆上せるとっておきの切り札とやらを」
「丹!」
来栖の発言をはったりと嘲笑う真理亜と対照的に、天連は表情一つ変えずに彼の言葉に耳を傾けていた。しかし来栖が吹聴する、とっておきの切り札への好奇心を抑えられず実力で強引にそれを引き出そうと天連は聖火を発動させようとした。
天連が聖火を発動させる気配を察した来栖は丹を自分の下に呼び寄せる。丹は即座に来栖の下に駆け寄って彼の背中に抱きついた。
「エイメン!」
「喝!」
天連が全力の聖火を放つと、膨大な生体エネルギーが彼の体から青白い光となって噴き上がる。丹の柔らかな感触を背に覚えながら来栖も剣気を拡散状態で放出する撥で発動させ、襲い掛かる天連の聖火を迎撃した。
「ぐっ、なんだこの光は!?」
来栖と丹の周囲から迸った紫電は天連の聖火を容易く相殺し、その余波が天連の体に叩きつけてくる。天連はこれまで感じたことがないほど強力な生体エネルギーの嵐に翻弄されたが辛うじてその場に踏み止まることが出来、最強の使徒としての矜持を示す。
「呼び名こそ違っても剣気も聖火も人間の体内で発生する生体エネルギーでその色は青白いはずなのにさっきの撥の色は紫がかっていた…あれは一体なんですの?」
「剣気だよ。ただし俺だけじゃなくて丹の力も合わせたモンだけどね」
「丹さんの力も合わせた? 人間と吸血鬼の生体エネルギーが交じり合うなんて信じられませんわ……」
来栖のとっておきの切り札『合』を目の当たりにして、先ほどの来栖の発言が嘘や誇張ではないと真理亜も認めざるをえない。しかし精気を攻撃用に転換したものにしては異質な雰囲気がするだけでなく、人間の来栖とウツセミの丹の力が合わさったものと聞いて真理亜が怪訝そうな顔をする。
「あんたらだって神様からの愛を受けて聖火の出力を増幅してんだろ。人間からずっと遠い所にいる神様の愛だって届くんなら、近くにいる奴からの愛情を力に出来ても何の不思議もないじゃないか?」
「主の愛を吸血鬼などから受けた情念と同列に扱うとは…恥を知れ、ウワバミ!」
「あんたたち教会の人間は毛嫌いしているけど、ウツセミと人間はこの世界に生きるお隣さん同士だろ? 汝の隣人を愛せって教えを体現しただけじゃねえか」
来栖が得意げな調子で合を発動させる条件の説明をすると、至高の存在と唾棄すべき魔物を同列に扱われた天連が怒りを露にして抗議する。しかし来栖は教会の教えを剽窃し、主の意思に背いているつもりはないと弁明した。
「詭弁だ…やはり貴様のような破廉恥な奴の手を借りようとしたのは間違いだった」
「天連さん、毒をもって毒を制すという言葉の通り、今回は苦汁を飲んで吸血鬼を滅ぼすのに吸血鬼の力を借りましょう。あの紫の光なら平輔という規格外の怪物にもダメージを与えられるのではなくて?」
天連は来栖とは思想が相容れず、彼の協力を取り付けることを止めようとする。しかし来栖の合の威力を見て真理亜が来栖と手を組むことに積極的になる。
「現場に出るそいつが俺と組むのを嫌がっているんだし、俺は丹がいればそれでいい。無理に付き合う必要はないんだぜ?」
来栖は平輔を討つのに合を発動させるのに欠かせない丹がいてくれればよく、ハライソの協力は必要ないと冷たく言い放った。
「では協力ではなくて、平輔という吸血鬼を始末する依頼ということならどうかしら?」
平等の協力関係を築くことができないのならば、ハライソが譲歩して来栖に協力を依頼するという形で話を進めようと真理亜が提案してくる。
「お断りだ、いくら積まれようとあんたたちのことはもう信頼できん」
「それは残念ね、もし私たちの依頼を受けていただければそちらのお嬢さんのために戸籍を用意させていただこうと思っておりましたのに……」
「蘇芳ちゃんのために戸籍を…真理亜さん、そんなことが出来るんですか?」
来栖は真理亜の依頼に聞く耳を貸さなかったが、真理亜がもったいなさそうな顔で蘇芳が戸籍を得るための便宜を図るという条件をちらつかせると、来栖に代わって丹が真理亜の話に食いついてくる。
「容易なこととは申しませんが、そのお嬢さんに合うような条件で戸籍を入手できるよう工面させていただきますわ。そのお嬢さんの将来のためにも、戸籍は喉から手が出るほど欲しいものではなくて?」
「はい、蘇芳ちゃんが現世で真っ当に生きていくためにはどうしても戸籍が必要です」
「丹、その女の話を信じるな。うまそうな餌で釣っておいて、用事が済めば掌を返すに決まっているんだ」
真理亜が御門の名士である実家の力を駆使して蘇芳に適合する戸籍を用意するという条件を提示すると、丹は彼女の話にどんどん引き込まれていく。しかし来栖は真理亜の話を信用する気にはなれず、期待するだけ無駄だと丹を制した。
「吸血鬼に顔が利くとはいえ来栖さん、人間の社会においてあなたも一市民に過ぎないでしょう。権力も人脈も持たないあなたが、どうやって存在しないはずの人間の身元をでっち上げられるというのかしら?」
「くっ、女狐が人の弱みに漬け込んで……」
「あなたは一方的にリスクを背負わされているようにお考えのようですけど、私たちハライソだって味方だと断定できないあなたの力を借りようとしているのよ? 危ない橋を渡ろうとしているのはお互い様ですわ。私たちからの依頼を受けずに、私情で平輔という吸血鬼を倒すのは結構。しかしそうして得られるものは何もありませんわ。約束を反故にされるかもしれないリスクを負ってでも、そのお嬢さんの戸籍という収穫が得られる期待を持つほうが有意義だとは思いません?」
いつの間にか来栖は真理亜の術中に嵌っていた。彼女の言うとおり何の後ろ盾のない来栖が、蘇芳が現世で普通に生活するのに必要な戸籍を入手するのは相当難しいだろう。平輔を倒すという目的があり、ハライソの依頼を受けておけば蘇芳の戸籍という金銭に換えがたい収穫を来栖は手にする事ができる。
もちろんこれまでの出来事を加味すると真理亜が素直に約束を守るとは限らないが、期待を裏切られる可能性があっても相応の見返りは得られると来栖も理解していた。
「クーくんお願い、蘇芳ちゃんのためにも真理亜さんの依頼を受けようよ」
丹は来栖の背中にしがみついたまま横から顔を覗かせて、来栖に上目遣いで蘇芳の戸籍を得るために真理亜の依頼を受けるよう懇願する。
「アタシからも頼むよクーくん。一生のお願いだから、ね?」
蘇芳を背中に従えた葵も来栖の前に進み出てくると、真理亜の依頼通り天連に協力して平輔を討つように頼んでくる。霧島姉妹に祈るような顔をされながら囲まれ、葵の影に隠れている蘇芳からも澄んだ眼差しで真っ直ぐに顔を見上げられて来栖は非常に困惑した顔を浮かべた。
「…分かったよ、そこの長髪に協力して平輔を倒す。平輔を倒したら、約束は守ってもらうぞ安倍さん」
「勿論ですわ。そちらも平輔という厄介な吸血鬼をしっかり始末してくださいね?」
渋面を浮かべた来栖が顎で天連をしゃくりながら依頼を承諾する旨を告げると、真理亜は平輔を始末を念入りに約束させる。
「あんたに言われるまでもないよ。紅子さんを襲って丹たち家族が離れ離れになる原因を作り爺ちゃんを殺した平輔は、ウワバミの務めだけでなく個人的にも許さねぇ」
「商談成立ですわね」
来栖が平輔を打倒する確固たる意思を表明すると、真理亜は満足げに妖艶な笑みを浮かべた。
第15回、終末の到来 了