第13回、縋りつく光
街のあちこちで黒煙が立ち上り、家屋が損壊している紫水小路の通りを妙齢の美女の姿をしたウツセミ紅子は夫の斎と同胞の中で最高齢ながら10代前半の少女の容姿をしている朱美と歩いている。
ハライソの使徒の襲撃を受けて傷ついた紅子と斎を休ませるため、朱美は避難所となっている酒蔵へ2人を誘導しながら安否の分からない彼女たちの娘を捜していた。
「静かね、今までの混乱が嘘みたい……」
「銃声や爆発音だけじゃなく悲鳴もしなくなった。ハライソの攻撃が止んだのか?」
ウツセミが存在するための要である精気の真空地帯蝕に直接ダメージを与える聖火を食らって、体調が思わしくない紅子を自身も満身創痍でありながら支えている斎が紅子の呟きに応えた。
「街中を覆っていた殺気は薄れたが、まだ局所的に戦闘が続いておるようじゃ。おまけに乱戦を生き残るほどの手練じゃろうから、決着はそう簡単にはつかんじゃろう」
朱美は戦乱が沈静化していることを認めつつ、まだ激しい戦闘が行われていることを紅子たちに示唆する。
「どうして殺し合いに熱中できるのかしら、誰だって無残に命を落としたくはないはずなのに……」
「生き延びたいから相手を倒すことに躍起になるんじゃ。あらゆる生物が背負っている業から人間もわしらウツセミも逃れることはできん」
何故ハライソの残党も彼らに対抗するウツセミの精鋭も戦いを徒に長引かせようとするのか紅子は理解に苦しむが、朱美は己の生き残りを賭けた生存競争をしなければならない生物の宿命だとその疑問に答える。
「ひとは分かり合えるはずなのにどうして……」
「あ、父さんたちだ!」
「葵!? それに蘇芳ちゃんと忠将さんも」
同じ知的生命体同士、互いに理解し合おう努力をすれば人間とウツセミは共存できるはずだと紅子が儚い希望を呟いて十字路に差し掛かると、右手の道から朗らかな少女の声が聞こえてきた。
行方が分からなくなっていた紅子たちの次女葵が、彼女がベビーシッターをしている幼女蘇芳と蘇芳の保護者となっているウツセミの忠将を連れ添ってこちらにやってくるのを見て、ハライソの攻撃が始まって以降沈んだ顔をしていた紅子の表情に明るさが戻ってくる。
「なんじゃ忠将、結局お主が蘇芳たちを見つけたではないか」
「お手を煩わしてすみません朱美姐さん。でも俺も源司に千里眼で居場所を突き止めてもらわなかったら、きっと今も捜し回っていたでしょう」
ハライソの刺客の討伐に追われていた忠将に代わって葵たちの捜索を引き受けたにも関わらず、忠将に先を越されてしまって格好がつかないと朱美が苦笑を浮かべると、忠将は彼女に非はないと宥めた。
「父さん、母さん!」
「心配ばかりかけおって、このお転婆娘が」
「葵が無事でよかったわ、怪我はない?」
「うん、わたしは平気。それよりも父さんと母さんがボロボロになっているけど……」
「子どもが親の心配をしてどうする」
葵は両親と生きて再会できた喜びで、2人の間に飛び込んでいく。紅子と斎は娘の無事を確かめられたことを心から嬉しく思っているようだった。
「そういえば姉さんは?」
「丹のことなら心配ない、とっくに酒蔵に避難しているはずじゃ」
葵がこの場にいない姉のことを気にかけると、丹が無事に避難していることを彼女と懇意にしている朱美が教えた。
「よかった、これで家族全員無事に顔を合わせられるね」
葵は修羅場を経験したことで、家族が生きて再会できることが何よりも幸せであることを深く噛み締めた。
* * *
葵の姉で斎と紅子夫妻の長女である丹は、戦禍を逃れた避難先の酒蔵の片隅で不審な人物と対峙していた。
丹が所属している代永氏族の族長を務めている源司に匹敵するほど巨大な蝕をしているにも関わらず、丹は目の前に立つウツセミが何者なのか見当もつかない。有力者として名が知れ渡っているべき膨大な妖気を発している背広姿の男の身元が分からないことに加え、男からきな臭い空気を丹は感じずにはいられなかった。
「2ヵ月前に転化したウツセミ? そうか君が例の子か」
「あなたは誰なんですか、それにどうしてクーくんを連れているんですか?」
丹は背広姿の男の素性が全く分からなかったが、何故か彼は丹のことを知っているらしかった。丹は相手の男に対する警戒感を強めながら、再度男が何者であるのか、何故裏切りの流言の影響で権威が失墜しようとしているウワバミの来栖を背負っているのかを詰問する。
「そんな小さな蝕では我々の計画の妨げになる危険性は皆無だが、今はまだ私の存在を他人に知られる訳にはいかない。それに君の一家にまつわる出来事は平輔の過去の汚点でもあるし、悪いが消させてもらおう」
「何を……!?」
背広姿の男は背に担いでいた来栖のことを乱雑に地面に滑り下ろすと、一瞬で丹の目の前まで移動してきた。男は左手で丹の口を押さえて声を出せないようにすると、右手で上着の懐から銀のナイフを抜き放つ。
「物理的なダメージは瞬時に回復できるウツセミでも銀で受けた傷は癒せないことは、烙印を背負って陽光の影響を受けにくくなったものでも変わりはない。そして銀のナイフで心臓を貫くことはウツセミにとっても致命傷になる」
背広姿の男に口を塞がれてくぐもった唸り声をあげた丹だが、とても彼女が同胞に襲われていることが他人に伝わりそうになかった。背広姿の男はナイフを握った右手を後ろに引き、勢いをつけて丹の胸を刺し貫こうとする。
「平輔が創るウツセミの新しい時代の礎になりたまえ、哀れなお嬢さん」
──助けてクーくん!
背広の男が残忍な笑みを浮かべてナイフを突き出そうとする瞬間、丹は心の中で来栖に助けを求める。すぐそこにいても意識を失っているらしい来栖が背広姿の凶行を食い止めてくれる可能性はありえないと分かっていたが、それでも丹は来栖に縋るような思いを強く胸に抱く。
「喝!」
「むっ……!?」
青白い閃光が瞬いたと思うと、丹の顔を万力のように掴んでいた背広の男の手の力が緩むのを丹は感じる。力いっぱい丹が背広姿の男のことを押すと、男の手から丹の体は解放された。
「喝!」
「小賢しい!」
背広姿の男は丹に背を向けると、身を翻して後方を振り向く。男の背に隠れて向かいの様子がはっきりとは見えなかったが、誰かがこちらに駆け寄ってくる音を丹は耳にした。
聞き覚えのある勇ましい声が気合を吐き出すと、背広姿の男は左腕を突き出して掌に蝕を具現化させる。男に向けて放たれた青白く輝く剣気は蝕に防がれてしまったが、突進してきた勢いを借りて男に走り寄った人物は飛び蹴りを放つ。
「ぐっ……」
「喝!」
蝕で剣気を捌くことに神経を傾けていた背広姿の男は、腹部に飛び蹴りをまともに食らってしまい体のバランスを崩す。相手の体勢が乱れた隙をついて、飛び蹴りを浴びせた相手は三度剣気を発動させて、男の体を打ち据えた。
「貴様、よくも私の服を汚してくれたな!」
「おっと!」
怒り心頭に達した男は無造作にナイフを振るうが、相手の少年は横薙ぎの一閃をバックステップでかわしてそのまま男から距離を取る。
「クーくん!」
「よう丹、久し振りだな」
少しやつれた様子だったが、気を失っていたはずの来栖は不敵な笑みを丹に返す。
「貴様、いつ目を醒ました?」
「ついさっきまで眠っていたけどよ、こんだけあんたの殺気がビンビンしてたら嫌でも目を醒ますさ」
来栖はおどけた調子で背広姿の男の質問に答えつつ、相手の攻撃に備えて戦闘体勢を整える。背広姿の男は荷物扱いしていた来栖に不意打ちされたことがプライドに触ったらしく、羞恥心で壮年の落ち着いた魅力を感じさせる顔を醜く歪めていた。
「かつて富士見の族長を務めていたこの夜久野常時が、こんな小僧に出し抜かれるとは一生の不覚…この借りは高くつくぞ、小僧?」
「夜久野常時…あんた何者だ?」
「覚えておけ、夜久野は貴様らウワバミが守り続けてきた時代遅れの束縛からウツセミを解放する一派のことだと!」
「喝!」
聞きなれない氏名を名乗った背広姿の夜久野常時の発言の詳細は定かではなかったが、少なくともウツセミと人間の調和を乱す存在である事は明白である。来栖はウツセミの天敵にして守護者であるウワバミの役目を果たすために常時を倒す必要があると断定して、剣気を発し戦いを挑んだ。
* * *
「エイメン!」
「ぐっ、重い……」
ハライソの使徒の筆頭、伴天連が放出した聖火を源司と潮は両手に具現化した蝕で食い止めようとする。しかしウツセミの中で指折りの巨大な蝕をしている彼らでさえ、天連の発する膨大な生体エネルギーを処理しきれない。受け流しきれなかったエネルギーの余波で源司と潮は徐々に体力を削られていく。
「まだまだ……」
先に戦闘をしていた潮はとうとう限界を迎えて地面に倒れたままであったが、源司はよろめく足に力を入れて天連に自分の戦意が萎えていないことを示す。
「これだけ俺の聖火を受けても立ち上がれるしぶとさは認めてやるが、強がりはいつまでも続かないぞ」
「それはどうかな?」
源司は大地を力強く踏み切り天連に突進していく。源司はかなりのスピードで天連に接近していくが、高出力の聖火を瞬時に発動できる天連は源司の移動速度をあまり脅威に思えない。
「エイメン!」
「はっ!」
天連の体を中心に膨れ上がった聖火が真正面から突っ込んでくる源司に迫っていく。源司はウツセミの強靭な足腰のバネを活かして右手に飛び退き聖火をかわそうとする。
しかし聖火の球状に広がる特性のため、一定の範囲内では影響下に巻き込まれてしまうことは免れない。案の定源司が退避した場所にも聖火は押し寄せてきてしまう。
「はぁぁっ!」
源司は両手に具現化させた蝕で聖火の直撃を避けると、受け流しきれなかった聖火の余波に身を打たれながら天連に再度突撃していく。
「ちっ!」
そう簡単に無防備な状態になるほど天連も甘くはなかったが、聖火に耐えながら飛び掛ってくる源司への反応に遅れが出てしまい、あまり威力のない聖火しか発動できない。両手に具現化したままの蝕で威力のない聖火を完全に吸収した源司は、初めて天連に拳が届く距離まで近づくことが出来た。
「うぉぉぉっ!」
「くっ……」
源司が繰り出した拳は天連の体を掠めただけだったが、衝撃に強い生地で作られた天連の戦闘服が簡単に引き裂かれたことが源司の拳の威力がどれほど強力なものかを雄弁に物語っている。
「はぁぁっ!」
上体を逸らして重心が不安定になった天連に、源司は強引にその場に足を踏み止まらせながら振り抜いた右腕を曲げて肘打ちを浴びせようとする。驚異的な速度で迫る源司の肘打ちを天連は左足を軸にして身を捩り、ぎりぎりのところでかわす。
「エイメン!」
「うっ……!?」
源司の肘打ちを無理な体勢で避けてバランスを崩した天連は尻餅をつくが、咄嗟に聖火を発動させて源司に付け入る隙を与えない。やはり慌てて放った聖火の出力は普段のものよりは低かったものの、天連が地面を転がって源司と間合いを作るくらいの時間を稼ぐくらいの効果はあった。
「聖火は恐ろしいけど、君だって人間なんだからそのうち疲れは出てくるはずだ。そして人間の脆い体をオレたちウツセミは一撃で粉砕することが出来る。君の優位は揺るぎないものなんかじゃない、むしろ簡単に崩れ去ってしまう極めて危ういものだ」
「ふん、聖火に手も足も出ないくせに舌だけはよく回る化け物だ」
源司のことを見下した発言をしているものの、先ほどの攻防の際に一発でも源司の攻撃を食らっていれば無事では済まないと天連は彼の言い分の正当性を認めていた。
聖火を使えば確実に源司を消耗させることが出来るが、蝕を具現化させて威力を軽減されてしまえば決め手にはならない。気を抜いて源司の接近を許してしまえば、今度は彼の猛攻を凌ぎきれる断言することは強気の天連にも出来なかった。
一瞬の油断が互いの命取りになる極限の状態であることを、源司も天連も理解しながら互いに相手の出方を覗う。
「どうした源司、そんな奴に苦戦してよく族長が務まるな」
10mほどの距離を置いたまま源司と天連が睨み合っている膠着状態に、介入してくるものが現れる。
「その声、まさか……」
「エイメン!」
呼びかけてきた声に源司が気を取られた隙を突いて、天連が全力を込めた聖火を放つ。源司は蝕を具現化してその必殺の一撃を防ごうとする。しかし既に源司はかなりの量の精気を蝕に取り込んでおりこの一撃を取り込んでしまえば、彼の並外れた蝕のキャパシティも越えてしまう可能性は充分考えられた。
「唵!」
だが源司の目前まで迫っていた膨大な量の聖火は、猛々しい男の叫びが聞こえると陸に押し寄せた波が海に引いていくように源司の体から後退し始める。源司から離れていった聖火は、一点に引き寄せられていきその先には黒い靄に包まれた人影があった。
天連が全身全霊を込めて放った聖火は全て黒い靄の中に吸い込まれていき、靄の内部で消失してしまった。聖火を吸収した黒い靄はその後収縮していき、靄が晴れた場所には1人の男が不敵な笑みを浮かべて立っていた。
「だらしねえな、この程度の聖火にびびってんじゃねぇよ」
「平輔さん…やはり生きていたんですね」
天連との戦闘に乱入してきた男のことを源司はよく知っている。源司と前後してウツセミに転化し、朱美の後を担う世代として活躍を嘱望され、次期族長の最右翼に挙げられていたウツセミ、平輔が約10年ぶりに紫水小路に戻ってきたことに源司は驚きを隠しきれなかった。
「左腕1本を落とされたくらいで俺がくたばると思っていたか? お前がそんな甘ちゃんだからこんな連中に街を滅茶苦茶にされちまったんだよ」
源司の見通しの甘さと一族を率いるものとしての力量不足がこの混乱を助長した要因であると叱責しつつ、平輔は源司と天連の方に歩み寄ってくる。
「化け物がまた増えたか。だが少しはこれで生き残りを捜す手間が省けたというもの、エイメン!」
「唵!」
天連は闖入してきた平輔も源司たちと同じ吸血鬼の仲間であると判断し、彼も攻撃対象に加えて聖火を放つ。平輔は昔同胞から粛清されかかった時、源司に切り落とされたはずの左腕を掲げて気炎を吐いた。
正面に翳した平輔の左腕は彼が気合を発した途端に膨張し、瞬く間に腕の形が崩れて黒い靄になって周囲に広がっていく。源司が天連の渾身の一撃を免れた時と同様に、聖火は平輔の周りに展開された黒い靄に引き寄せられて吸収されてしまった。
「なに!?」
「しゃぁぁっ!」
加減していない聖火を完全に無効化されて驚愕の声をあげた天連の前に、平輔が黒い靄を身に纏ったまま飛び込んできた。首を掴もうと伸ばしてきた平輔の右腕を天連は後方に飛び退いて避けるが、前方に広がってきた黒い靄に天連の体は包み込まれてしまう。
「うっ……!?」
「体ごと蝕に飲み込まれる感覚はどうだい、教会の殺し屋さんよぉ?」
「…エイメン!」
黒い靄の中に入った途端、天連は全身から力が抜けていくような感覚を覚える。一寸先も見えない闇の向こうで平輔が自分の無様な姿をせせら笑う声が聞こえると、天連は気力を振り絞って聖火を発動させた。
「そんなへっぴり腰で打ってきた聖火なんざ、痛くも痒くもねぇよ!」
「がはっ……」
しかし天連の聖火は全く平輔に通用せず、平輔は罵声と共に天連の脇腹に横から蹴りを浴びせてくる。肋骨がへし折れるような激痛を覚えながら、天連は黒い靄の中から吹き飛ばされると受身もままならない状態で地面を転がった。
「ざまあねぇな、神の御使いが地べたに転がってちゃ示しがつかねぇんじゃないかい?」
強烈な蹴りを叩き込まれた痛みで天連が身悶えしながら地面に転がっている姿を、平輔は勝ち誇った顔で睥睨する。天連は呼吸もままならない状態に陥ってしまい、平輔の顔を見上げるのが精一杯で聖火を発動させる余裕は全くなかった。
「おいおい、こんだけコケにされてんのに文句の一つも言えねぇのかい? 仕方ねぇ、ちょっと早い気もするが神の下に送り返してやるよ」
平輔は天連の枕元で立ち止まると、彼の頭を踏み潰そうと右足を持ち上げた。天連は差し迫った生命の危機から何とか逃れようとするが、気持ちだけ焦るばかりで体は思うように動いてくれなかった。
「エイメン!」
いずこからか若い男の声が聞こえてくると、平輔の体を聖火の光が打つ。平輔は聖火の直撃を受けて僅かに顔を顰めると、一旦右足を地面に下ろして聖火の飛んできた方に首を傾けた。
「なんだい、もう1人神の使いがいらっしゃったのかい?」
「天連さんをやらせはしないぞ、化け物!」
潮に倒されてから生死が不明だった最年少の使徒である聖は目標としている先輩の危機を救おうと奮起し、瓦礫の中から立ち上がったのだった。
「…よせ、おまえの…かな、う相手じゃない」
「僕にだって天連さんが回復する時間稼ぎくらいはできます!」
聖は腰のホルスターから拳銃を抜くと、両手で構えて平輔に向かって発砲した。
「誇り高き神の使いがそんな無粋なモンを使うとはな、興醒めしちまうぜ」
「黙れ、この悪鬼が!」
聖は拳銃を乱射して平輔にダメージを与えようとするが、模範的な射撃体勢で放たれる銀の銃弾の弾道はウツセミの動体視力と平輔の戦闘力をもってすれば容易に予測できた。平輔はダンスでも踊るように軽快なステップで聖の銃撃を悉くかわしながら、わざとゆっくりと聖に近づいていく。
「もうピストルの弾はなくなったかい、ハライソの使徒さん? 次はどんな見世物で楽しませてくれる?」
「エイメン!」
聖は弾丸を撃ち尽くした拳銃を投げ捨てると、今度は太腿の鞘からナイフを取り出して腰の位置に構えると、聖火で牽制をしつつ平輔に突進していく。
「ピストルの次はナイフか、それじゃあチャンバラごっこといこうかい!」
蝕を具現化させたり天連の聖火を無効化した黒い靄を発生させたりせず、平輔は涼しい顔で聖の聖火に耐えると懐からナイフを抜いて応戦しようとする。
「やぁぁっ!」
「おっと!」
両手で柄を握り体重を乗せて聖は銀で刃をコーティングしたナイフを平輔の体に突き出すが、平輔は右腕1本でナイフを掬い上げると聖の一撃を弾く。ウツセミの膂力で振るわれたナイフの一閃に耐え切れず、聖の手からナイフが吹き飛ばされてしまった。
「ふっ!」
「ぐはっ……」
必殺の一撃をかわされて聖の体が前方に泳ぐと、平輔は頭上に掲げたナイフを下ろす動作で聖の背中にナイフの柄で一撃を加える。右腕を軽く振り下ろしただけのように見えるが、平輔の一撃を食らって聖は天連が倒れている近くまで突き飛ばされた。
「聖!」
天連は自分の傍に倒れこんだ聖に呼びかけるが、聖は苦しげに咳き込んで蹲ったまま返事をしない。
「そっちの小僧ももうダウンしちまったか。こんな弱い連中に仕事を任せるしかない神様が可哀想だぜ」
「化け物め……」
「さっきから化け物と言われるたびに不思議だったんだけどよ、お前さんたち何と戦っているつもりだったんだい? まさか人間を狩る吸血鬼を人畜無害で抵抗力のないモンと思い込んでいた訳じゃないよな?」
ハライソの使徒や衛兵たちが連呼している化け物というフレーズの意味を、平輔は圧倒的な実力差を見せ付けて天連たちに思い知らせる。害虫を殺すような感覚で吸血鬼の掃討に望んでいた自分の慢心を、天連と聖はこの強大な力を持った吸血鬼に嘲笑われることでようやく自覚したのだった。
「街中が酷いことになってるからどんな凄い奴が暴れているのかと思えば、こんな奴らしかいなくて拍子抜けしちまったぜ。おい源司、族長のお前の顔を立ててこいつらの始末をつけさせてやるよ」
「…いいんですか?」
「構わねぇよ。そんな雑魚にはもう興味はねぇし、殺す気も失せちまった。面倒な後始末は任せたぜ」
平輔に天連と聖のとどめを刺すように言われて、源司は戸惑いを見せる。街を破壊し多くの同胞を殺した彼らを見逃す気は源司もなかったが、こんな形で彼らを手にかけることは族長としてのプライドが受け容れ難く感じていた。
「なんだよ源司、ぐずぐずしてないでさっさとやれよ」
「源司、お前がやらないなら俺がやる。こいつらにはウチの若い衆を何人も殺された恨みがあるからな、そいつを晴らさせてもらうぜ」
天連たちにとどめを刺すことを源司が渋るのを見て平輔が彼を急かすと、多少聖火のダメージから回復した潮が天連たちの前に進み出てくる。
潮は自分を一方的に痛めつけた天連と運営している酒蔵で世話をしていた舎弟たちを滅ぼした聖への怒りで、元々厳つい顔を更に険しいものにしている。天連と聖がまともに身動きが出来ない状況で、潮が彼らを叩き潰すことは赤子の手を捻るようなものだろう。
「待ってくれ潮、彼らを倒せば街に侵入してきたハライソの人間は全滅したことになる。最後に華を持たせてくれと言える立場じゃないが、代永の族長としてオレが彼らを討ち、この戦いに幕引きをさせてほしい」
「…わかったよ、この戦の大将は族長のてめえだ。トリを飾らせてやるよ」
源司はウツセミを率いる族長として戦いに終止符を打つ役目をやらせてくれるよう、仲間を殺されて激怒している潮に頼み込む。潮は仲間の仇を自分で取りたいという気持ちを抑えて、所属する氏族は異なっても目上の立場にある源司の顔を立てることにしてその申し出を承諾した。
「ありがとう」
源司は潮の粋な計らいに礼を言うと、天連と聖の眼前に立つ。天連も聖も地面を這って後退りをするが、聖火を放って抵抗する気概も残っていないようだった。
「…いくら上辺を取り繕ったところで貴様らの本性は残忍な悪魔だ」
「そいつはお互い様だろう、無抵抗なウツセミを大勢虐殺した君たちが偉そうに説教できる訳はない」
天連が吐いた末期の悪態に対して源司は冷静な意見を返す。源司は足元に這い蹲った天連たちと視線を合わせるために膝を屈めると、彼らから精気を抜き出すために両手に蝕を具現化させた。
「さらばだハライソの兵士たちよ、苦しまずに君たちは神の下に召されるだろう」
源司は右手を天連に左手を聖の上に掲げて、彼らに死刑宣告を言い渡す。源司の腕が下げられていき、天連たちの体に掌の蝕が今まさに触れようとした。しかしその瞬間、天連と聖の体が忽然とその場から消え失せる。
「…現世が日の出を迎えたせいで、紫水小路が異物である彼らを排出してしまったか」
「何やってんだ源司、てめえがぼけっとしてるから連中を取り逃がしちまったじゃねぇか!」
紫水小路特有の不可思議な現象として、紫水小路に住むウツセミと何らかの情を交わしていない人間は現世が日の出の時刻を迎えると同時に強制的に現世へと送還されてしまうことがある。
敬虔な信徒で吸血鬼を憎んでいる天連や聖がウツセミと情を通じ合わせることなどありえず、そのおかげで彼らは命拾いしたのだった。潮は天連たちを殺害する絶好の機会を源司が逃してしまったことに憤慨して、彼のことを罵倒した。
「すまない…奴らを逃がしてしまったのはオレのミスだ」
「スカした口上を垂れてっからこんなことになっちまったんだよ。ちんたら蝕で殺そうとせずにあいつらの頭を踏み潰しちまえばよかったんだ!」
潮は大きな手で源司のシャツの襟首を掴むと、丸太のように太い腕一本で源司の体を宙に浮かび上がらせながら彼の失態を責める。
「落ち着けよ潮、あんだけ痛めつけたんだからしばらくは逃げた奴らが襲ってくることはないと思うぜ?」
「けどよ平輔、もっと大勢の仲間を連れてまたあいつらが攻めてくるかもしれねぇだろ?」
「そん時はまた蹴散らしてやればいいさ。お前たちの頑張りを俺も協力すればきっと人間なんかに負けねぇよ」
「おうよ、おめえがいれば百人いや千人力だぜ」
平輔が源司と潮の諍いの仲裁に入り、潮のことを宥めてことで気をよくした潮は、平輔の帰還を喜びながら源司の襟首から手を離す。
「戦いが終わったことをみんなに教えてやろうぜ。ところでみんなはどこにいるんだ」
「俺の酒蔵に生き残った奴はみんな避難しているよ。チンタの樽を空けるから勝利の美酒に酔おうぜ平輔」
「チンタか、懐かしいな。もう何年も飲んでねぇな」
「俺の驕りだ、好きなだけ飲むといいさ」
平輔と意気投合しながら潮は彼を同胞たちが避難している酒蔵に案内し始める。
「…いつもへらへらしているお前じゃなくて、やっぱり平輔が族長になったほうがよかったんじゃねぇか?」
紫水小路の特性がたまたま重なってしまったこともあるが、やはり天連たちを結果的に取り逃がしてしまったことは自分の甘さに起因するものだと罪悪感に苛まれている源司に、潮は心無い一言を浴びせる。
向けられた苦言に何も答えられずに俯く源司を置き去りにして、潮はかつて自分も討伐しようとした平輔と親しげに言葉を交わすのだった。
* * *
チンタを醸造している蔵と塀の間にある狭隘な空き地で、来栖は夜久野という聞き慣れない姓を称したウツセミ常時と戦っている。
「喝!」
「ふっ、今のウワバミの力はこんなものか」
来栖が拡散状態の撥で放った剣気を左の掌に具現化した蝕で無効化すると、常時は来栖の間合いに踏み込んで右手に握った銀の短剣を一閃させる。
来栖は後方に飛んで常時が振るった横薙ぎの一太刀を避けようとするが、完全にはかわしきれず切っ先が胸下を掠める。それほど深手ではなかったが、来栖は肌を切られた痛みに顔を歪めた。
「きぇぇい!」
来栖の動きが刀傷の痛みで鈍ると、常時は左膝を跳ね上げて来栖に膝蹴りを叩き込む。咄嗟に来栖は着地したばかりの左足で地面を蹴り、後方に飛んで膝蹴りの衝撃を緩和させるがそれでも相当な衝撃が腹部に加わる。
痛みを堪えきれずに頭を垂れて咳き込む来栖に畳みかける隙は充分にあったが、常時は敢えて手を出さずに来栖が悶える様を愉快そうな目で見つめていた。
「まあ今も昔も人間などウツセミの足元に及ばない下等な生き物だがね。剣気などという手品を使えても、私たちの渇きを潤す餌でしかないのだよ」
「…てめえは、本当に紫水小路のウツセミなのか?」
「勿論だ。私はかつて紫水小路に住んでいたウツセミの1人で、お飾りでしかない愚かな娘の前に富士見氏族の頂点に立っていたものだよ。だから平輔に殺された貴様の祖父とも面識がある」
「…人間を餌呼ばわりするような奴が族長をやってたんじゃ、富士見氏族の人材難は昔から相当なものだったんだな」
常時が今の族長である千歳の前に富士見氏族の族長を率いていたということに対して来栖が皮肉を言うと、常時は短剣の柄尻で来栖のこめかみを軽く殴打した。常時に頭を殴られた衝撃で来栖は脳震盪を起こし気絶しかけるが、地面に転がった来栖の左手を常時が爪先で踏みつけてくるとその鈍痛で意識が覚醒させられてしまう。
「地面に転がっている貴様は虫けらだな。なにがウワバミだ、虫けらの分際で私たちの天敵にして守護者を名乗るとは片腹痛いわ」
「…餌だの虫けらだの言ってるけどな、見下している人間がいなきゃお前は存在できないんだぞ?」
「愚鈍な人間を籠絡することなど私には造作もないこと。仮に気に入った人間の女に愛する男がいても、そいつを殺して奪ってしまえば問題ない。現世に出れば幾らでも人間の精気を摂取できるのに、同胞たちがここに閉じこもっているのは非常に愚かしいことだ」
来栖の手の甲を踏み躙りながら、常時はウワバミの来栖だけでなく人間全てを軽蔑する発言を繰り返す。常時は人間だけでなく、現世にいれば人間を使い捨ての道具のように扱えるのに人の出入りの少ない紫水小路に留まっている大勢のウツセミに対しても暴言を吐いた。
「…あなたは悲しいひとですね」
「人間でなくなっただけでなく、ウツセミにもなりきれていない小娘が何を言う。私のどこが悲しいのだ?」
「相手を馬鹿にするだけで、誰かを大切にすることもなければ反対に好きになってもらうこともできないあなたは本当に可哀想なひとですよ。自分を受け容れてもらえないことが怖いから深くひとと関わることもできないけれど、独りぼっちは寂しいから無理矢理人間を自分の虜にしている。そんなあなたの生き方は本当に悲しいものです」
来栖が常時と繰り広げる戦闘を固唾を呑んで見守っていた丹は、これまでの常時の発言から彼の生き方が非常に寂しいものだと断定した。丹は大きな力を持った畏怖すべき対象ではなく、救われない人生の苦悩に苛まれている憐れみの視線で常時のことを見ていた。
「黙れ小娘、餌にもなれない貴様の存在に何の価値もないわ!」
「ネチネチ嫌味ばっか言いやがって…本当にうぜえオッサンだな!」
「ぐぉっ!?」
常時が丹と話しているうちに剣気を左手に集束させた来栖は、敢えて集められた剣気を暴発させて常時の足を掬う。来栖の左手を踏みつけている右足で起こった剣気の爆発の威力に押されて常時の体がよろめくと、来栖は地面を転がって彼から離れていった。
「クズの分際でよくも私の足を!」
剣気を浴びせられた右足で常時は来栖のことを蹴りつけるが、剣気を受けたダメージの残る足では満足な力が加えられずに背中を蹴られても来栖は僅かな痛みに顔をしかめただけですぐに起き上がることができた。
「喝!」
「何度もやらせるか!」
起き上がると同時に来栖は撥の状態で剣気を放つが、常時は左の掌に蝕を具現化させてその一撃を捌くと来栖に詰め寄ってくる。
「喝!」
「無駄だ! いい加減に往生しろ虫けらが!」
来栖が続けて放った撥も蝕で防ぐと、常時は伸ばしたままの左腕で来栖の胴を殴りつけた。
「がっ……」
「クーくん!」
胸に強烈な打撃を受けた来栖は息を詰まらせて後方に吹っ飛び、丹の傍まで地面を転がっていく。丹は自分の足元に転がってきた来栖に駆け寄るが、来栖は常時に打たれた胸を押さえて苦悶の声をあげるばかりだった。
「まだ息の根があるか、ゴキブリ並みの生命力だな」
常時は右足を引き摺りながら丹と来栖に迫ってくる。族長を務めていたほど有力なウツセミだった自分が、見下している人間にここまで煩わされたことが非常に面白くないらしく常時は裂けたように口の端を吊り上げて凄みのある笑みを浮かべている。
「…何のつもりだ?」
「あなたにクーくんを殺させない。いつも守ってばかりだったから、今度はわたしがクーくんを守るの」
地面に蹲ったままの来栖の前に丹が中腰の姿勢で彼のことを背中に庇い、常時と対峙する。丹の目には常時への恐れはなく、瀕死になっている来栖を守りたいという強い意志が浮かんでいた。
「笑わせるな小娘、人間と大差ない貴様を滅ぼすことなど容易いことだ」
「逃げろ丹…おい、あんたの狙いは俺なんだろう? だったらこいつは無関係だ、頼む見逃してやってくれ」
「それは出来ない相談だな。20年ほど前にいなくなったはずの私のことを見られたことをはじめ、この娘に生きていられると色々面倒なことになりそうなんでね。いや待てよ、何も殺す必要はないか」
鞍田山での戦闘から碌な治療を受けておらず、満身創痍に加えて疲労困憊の来栖が丹を生かしてくれるように懇願すると、常時はそれを聞き入れるような節を仄めかす。
「…丹を殺さないでくれるのか?」
「ああ、殺しはしない。だが今の姿ではなく別の姿になってもらおう。理性と人間だった時の姿を失い、生き血への欲求に駆り立てられるだけのナレノハテにな」
常時は右手に握ったナイフを来栖を背にしている丹の前にちらつかせながら、彼女を生き血を啜る衝動に突き動かされる赤黒い肌をした異形の存在へと変貌させる旨を告げる。
「てめえ……」
「ウツセミの私が下等な人間の要求を聞き入れるとでも思ったか? 姿形は変わっても小娘がこの世に存在し続けられることに感謝してほしいくらいだ。それともこの場で人の姿を留めたまま殺される方をお望みかね?」
来栖が恨めしそうな目で見上げてくると、自分の言葉を都合よく解釈した来栖の能天気さを常時は揶揄した。
「…どうして人間だけじゃなくウツセミにもそんなに酷いことを言えるんですか?」
「どうして? 決まっているだろう、私は人間よりも優れたウツセミの中でも特に優れた存在だからだ。優秀なものが劣った存在を虐げるのは自然の摂理だろう?」
「今までわたしはウツセミは怪物じゃなくて、人間と少しだけ違った存在だと思っていました。でも少なくともあなたはそうじゃない、あなたはひととして大切なものを失った化け物よ!」
「無能な小娘が戯言をほざくな!」
「丹!」
丹の非難に激昂した常時は彼女の腹を右足で蹴りつける。常時に蹴られた勢いで丹は背中から来栖と衝突し、来栖は丹の体を抱えるような姿勢で地面に転ばされた。
「減らず口を利けるのもここまでだ。現世で気に食わない奴を何人もそうしてきたように、不愉快な貴様をすぐに言葉も利けない醜い化け物にしてやる」
「…そう言ったからには、御門の街に頻繁にナレノハテが出没するようになったのはあんたの仕業ってことでいいんだな?」
「その通りだ。ついでにその喧しい小娘が転化して間もなく現世に解き放って、ナレノハテになって騒動を引き起こすように仕向けたのも私の同志だ」
「…ここ数ヶ月起こった厄介事はてめえらが仕組んだことだったのかよ」
「今更それを知って何になる? 全ては我々夜久野のウツセミが描いた筋書き通りにことは進んでいる。ウワバミによって歪められた偽りの平和が終わり、夜久野のものによってウツセミの新しく、あるべき世界が始まるのだ!」
ここ数ヶ月御門の街で起こっていた異変が自分たちの所業であることを暴露して得意な気持ちになった常時は、もうじき自分たち夜久野のウツセミが望んだ通りの時代が始まることに興奮した様子で熱弁を奮う。
「古き時代のゴミどもはここで朽ち果てろ!」
「喝!」
常時は両手で握ったナイフを丹の胸に目掛けて振り下ろす。体が他人のもののように言うことを利かない来栖は丹を常時の凶刃から遠ざけることも出来ない。撥の状態で放たれた剣気が直撃しても常時に大したダメージを与えられないが、少しでも丹を逃がす時間を稼げればと来栖は苦し紛れに剣気を放出した。
来栖の体の内部から攻撃用に転換された生体エネルギーが込み上げてくるまではいつもの感覚と同じだったが、表出してきたエネルギーを放射する瞬間に来栖はいつもと違った感覚を覚える。自分の体から発散される剣気の量が、普段よりもずっと多いような感じが来栖はした。
来栖の覚えた違和感が嘘ではないという証拠のように、同心円状に広がった光はいつもの青白いものではなく紫がかった色調をしていた。
「うっ…なんだ!?」
丹を抱えた来栖を中心に迸った紫電を浴びて、弾かれたように常時が彼らの前から後退していく。
「ぐぁっ……」
紫電の乱舞が収まった直後、常時が突然ナイフを握ったままの右腕を押さえて呻き声をあげる。すると蝕のキャパシティが限界を超えて肉体の崩壊が始まったウツセミのように、常時の右腕が崩れていきナイフがその手から落ちて地面に転がる。
「貴様、一体何をした……」
質問を受けた来栖自身もどうして普通に撥を使ったはずが、尋常でない量の剣気が発生したのか分からずに常時を出し抜いたと息巻くことも出来ない。
「クーくん、今の剣気すごい威力だったけど……」
攻撃を食らった常時も攻撃を浴びせた来栖も呆然としていると、来栖の腕の中で丹も彼らと同じ感想を口にする。来栖は背中から包んでいる丹の体の柔らかさを感じると、急に剣気の威力が増した理由に思い至る。
「ちょっとクーくん、どうしたの?」
「…丹、俺のこと好きか?」
脳裏に浮かんだ剣気が高まった理由はあくまでも可能性でしかなかったが、逆境を克服するために来栖はその可能性を信じることにして丹の体を強く抱き寄せる。来栖に突然抱き締められただけでも充分に衝撃だったが、続いて来栖に訊かれた場違いな質問に丹は赤面して取り乱しそうになる。
「え…こんな時に何を言っているの?」
「こんな時に大事なことだからだ、俺のこと好きか嫌いかはっきり答えろ」
「…好きか嫌いかって訊かれれば、好きだよ。そもそもクーくんのこと嫌いだったら一緒に暮らしている訳ないじゃない」
「だったらこうして俺に抱きつかれているのも嫌ではないな?」
「…恥ずかしいけど、そんなに嫌じゃない。こうしてクーくんと一緒にいると、すごく危ない目に遭っているのになんだか落ち着ける」
丹は自分を包む来栖の腕に手を添えると、彼の厚い胸板に背をもたれかけていった。
「…何を話しているか知らないが、その場の思い込みを愛と勘違いしている子ども同士の恋人ごっこのつもりか?」
「思い込みなんかじゃなくて、あんたが永久に感じることのない本物の愛だよ」
手首の先から始まった常時の肉体の崩壊は右腕の肘の辺りまで進んでいる。常時は来栖の放った紫電を受けて自分の死期が迫っていることに焦りを募らせながら、虚勢を張って丹を抱き寄せる来栖のことを嘲るが、来栖は真剣な顔でその嘲笑に応じた。
「く、クーくん……!?」
「丹、あいつを吹っ飛ばすまででいいから俺のことだけを想ってくれ」
「…分かった」
来栖らしくない発言に丹が目を白黒させながら彼の顔を振り返り見ると、来栖は真面目な表情で丹に自分だけを想ってくれるように呼びかける。来栖の発言の意図が汲みきれなかったが、丹は静かに瞼を閉じると来栖に言われた通り一切の雑念を捨てて彼の温もりだけを意識するように努めた。
「生まれて十数年の小僧が、数百年の時を生きている私に愛を語るなど冗談にもほどがあるぞ!」
「喝!」
せめて道連れにしてやろうと左手で短剣を掴み上げた常時が獣のような咆哮を発して突進してくるのを、来栖は丹と2人地面に座り込んだ状態で直視する。左腕で丹の体を包みながら、来栖は前方に突き出した右の掌に剣気を集束させて斂を発動させようとする。
紫電を周囲に放出した時と同じように体から湧き上がってくる剣気の量はいつもと変わらなかったが、右手に集まってきたエネルギーの量は普段の比ではなかった。自分の体内だけでなく、どこ別の所からエネルギーが注がれてきているような感覚を覚えつつ来栖は集束したエネルギーを常時に放つ。
斂の発動に失敗したのではないかと感じるほど爆発的な反動と共に、来栖の右の掌から紫電が撃ち出されていった。膨大なエネルギーを制御しきれず来栖の掌から伸びた紫電は空を翔ける龍のように上下左右にのたうち回りながら突き進んでいき、来栖に飛び掛ろうとした常時の胸を突き上げるようにして命中した。
「馬鹿な…この私が、下等な人間などにぃぃっ!?」
自分よりも遥かに劣った存在である人間の手によって数百年に及んだ生涯を終えることになると信じられない断末魔の悲鳴をあげながら、常時の胸を紫色に輝く龍が突き抜けていく。段違いの威力を発揮した斂に撃ち抜かれて、常時の体は木っ端微塵に砕け散り内包していた運動会の大玉くらいの大きさがあった蝕も瞬時に消滅した。
「どうにか倒した、みたいだな……」
やはりあれほど高出力の剣気に現実感を持てなかったが、体調が万全でないことに加えてこれまで戦ってきたどの吸血鬼よりも巨大な蝕をしていた常時を退けることができると来栖は脱力して背中から地面に倒れ込む。
「クーくん、さっきの紫の色のあれは剣気なの?」
「多分な」
「多分って…もしかして自分でもどうしてああなったのか分からないの?」
「いや、なんで剣気が紫色になって威力も上がったのかって理由は分かっている」
「その理由は何?」
「…愛の力だよ」
「愛って…さっき私にクーくんのことを好きかって訊いたのと関係している?」
「ああ。あいつを倒せたのはお前が俺のことを好きといってくれて、俺のことを想ってくれたからだ…と思う」
天を仰いで地面に寝転んでいる来栖に丹は質問を重ねていくうちに、常時との戦闘の最終盤で来栖の奇矯な言動の理由を察する。
「…ねえ、クーくんはわたしのことどう思っているの?」
丹は自分が来栖を想うことで彼に助力できたことを嬉しく感じつつ、赤裸々に想いを聞き出されて穴があったら入りたいほどの恥ずかしさを覚える。丹は来栖に背を向けたまま彼が自分をどう思っているのかを訊ねた。
「…クーくん?」
しかし丹の問いに対する来栖の返事はいつまで待っても返ってこず、丹はゆっくりと背後を振り向く。すると死力を尽くして常時を倒した来栖は地面の上で大の字になったまま眠ってしまっていた。
「あぅち、ひとに質問しておきながら自分は答えないなんてずるいよ……」
丹は体よく質問から逃げられてしまったことを悔やみつつ、今度も自分のことを守ってくれた来栖の寝顔を優しい顔で見つめていた。
第13回、縋りつく光 了
第2部が終わり、人間側の組織ハライソとウツセミの抗争でクライマックスを迎える…ように見せかけて、両者の対立を利用した黒幕が表舞台に出てきました。
ハライソの襲撃を利用して紫水小路に返り咲いた平輔の狙いは何か、ウツセミの間で高まった人間への反感は収まるのか、そして来栖は失墜した信用を取り戻せるのかに注目して、第3部に期待していただければ幸いです。