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うつせみ血風録  作者: 三畳紀
破ノ段
12/21

第11回、執拗な迫害

 朱印符によっていくつかのアクセスポイントを設けられているものの、阿鼻叫喚の地獄の様相が広がっている紫水小路の喧騒は時空を越えて御門の街には届かない。いつもと変わらぬ穏やかな夜明けを迎えようとしている御門の高級住宅地の一角を占める安倍家の一室で、来栖は昏睡状態から意識を取り戻そうとしていた。


「うっ……」


「お目覚めのようね来栖さん。枕が変わったというのにぐっすり眠るなんて、まるで子どものようね?」


「…聖火で体も心もずたずたにされて弱っているところに、あんだけの量の薬を打たれちゃ意識も飛ぶさ」


 来栖は鞍田山でハライソの使徒天連と対戦し、天連の尋常でない威力の聖火によって打ち倒されてから飛び飛びになっている記憶を反芻して、何故自分が真理亜の家にいるのかという状況を整理する。


「ちっ、ご丁寧に全身をベッドに貼り付けてやがる」


 来栖が覚えている最後の記憶はベッドに両手両足を縛り付けられた上、舌を噛むこともできないように猿轡を噛まされて何一つ抵抗できない状態で自白剤を投与されたことだった。自白剤の効能で体のいい操り人形になった来栖はハライソの人間にどんな質問をされてどんな風に自分が回答したのかも覚えておらず、あれから何日経過したのかも分からなかった。だが尋問を受けた時と同じく、ハライソに身柄を拘束されてベッドの上から一歩も動けない状況は変化していなかった。


「罪人の末路に相応しく惨めな姿ですわね」


「図星を言われて返す言葉もねぇよ。こんな無様な姿を曝していることに気付くくらいなら、いっそ意識が飛んでいる間に始末して欲しかったくらいさ」


 真理亜が豊かな胸の前に腕を組み、ベッドに縛り付けられている来栖を侮蔑的な眼差しで見下しながらその醜態を嘲笑うと、来栖は彼女の言葉を素直に認めて自嘲した。


「罪に汚れたあなたが天国に迎えられるとは到底思いませんが、あの世に旅立つあなたへの贈り物として2つお知らせしたいことがあります」


「お知らせしたいことだと?」


「一つ目はあなたの祖父である来栖護通さんが、隠居されていた鞍田山を私の同志たちがお伺いした際にお亡くなりになられたこと」


「…やっぱり俺を倒した長髪の男が爺ちゃんを殺したんだな」


真理亜が冥途の土産として祖父で剣気を駆使する師匠だった先代のウワバミが死んだと言ってくると、来栖は鞍田山の山中で拳を交えて歯が立たなかった天連の冷徹とした横顔を脳裏に思い浮かべる。


「違いますわ、天連さんがあなたのおじいさまを発見された時には既にお亡くなりになっていました。死因はあなたたちが手を結んでいたウツセミと呼んでいる化け物に精気を吸われ過ぎたことです。天連さんの名誉のためにも濡れ衣を晴らさせていただきますわ」


「爺ちゃんがウツセミに殺されただって? そんなバカな……」


「人間の生き血を啜って生き延びるような化け物を信じた報いですわ。所詮あなたたちは吸血鬼どもに利用されていただけなのよ」


「…2つ目の知らせはなんだよ?」


「おじいさまの訃報だった1つ目とは違い、2つ目のお知らせはこの世に生きる全ての人間にとって喜ばしいものです。あなたから教えていただいた情報と入手した吸血鬼どもの巣窟への鍵のおかげで、ようやくこの街に潜伏している吸血鬼を殲滅する準備が整いました。そしてあった今、使徒を筆頭としたハライソの精鋭たちによってその崇高な任務が行われておりますわ」


「なんだと!?」


 先代の死を聞かされただけでも充分だったが、2つ目の知らせを聞かされて来栖は飛び上がらんばかりに驚く。


自白剤を投与されて自分が口を滑らせてしまったせいでハライソに有益な情報を提供してしまった上に、どういう経緯で入手したのかは定かでないが異空間に存在する紫水小路へと移動できる朱印符によって、遂にハライソの軍勢がウツセミの安住の地である紫水小路へと侵攻したと知ると来栖はこれまで先祖代々守ってきた秩序が木っ端微塵に砕け散ったような喪失感を覚える。


「紫水小路とやらに潜んでいる化け物だけでなく、奴らの虜になってしまった哀れな人間たちも全員始末させていただきますわ。そして吸血鬼が存在した痕跡を一切消すことで、御門は本当の意味で吸血鬼の脅威から解放されるのですわ」


 真理亜は紫水小路を完全に滅ぼすことで、ハライソの掲げる人間が平穏に暮らせる理想の世界の実現にまた一歩近づけることを恍惚とした表情で呟く。


 来栖は唯一の肉親だった祖父が共存できると思っていたウツセミの手にかかって殺されたことと、ウワバミとしてのアイデンティティである人間とウツセミの世界の調和の維持という目的が自分の代で潰えてしまったことに激しく動揺している。真理亜の宣言した吸血鬼の影から御門を解放するという言葉は、忘我の状態に陥った来栖の耳に入った端から反対へと抜けていった。


* * *


 吸血鬼に転化したものは人間を狩る生き物として身体能力が向上したり感覚機能が鋭敏化したりするが、その代償として人間だった時はあまり影響を受けなかったものにも過剰に反応してしまうという副作用が幾つか存在する。


 吸血鬼の敏感になった皮膚には昼の陽光は強烈過ぎたし、病気にも罹患せず傷が治癒も格段に早くなっても銀で受けた傷だけは回復不能だった。その吸血鬼の身体的な特性を考慮してハライソの刺客たちが携行する武器には銀が表面にコーティングしてあり、ハライソの兵士が持つナイフで切りつけられたり銃弾を撃ち込まれたりするとウツセミは傷を回復出来ず体内から活動に不可欠な妖気が抜けていくという二次的なダメージを負うことになった。


「ぐぁぁぁっ!」


 酒蔵に勤めている喧嘩馴れしたウツセミの1人がハライソの衛兵にライフルで撃たれると銃弾を浴びせられた衝撃に加えて、傷口から急速に妖気が漏出する苦しみに地面をのた打ち回る。


「てめえら、よくも俺のダチを!」


 被弾した仲間の窮状を目の当たりにして、酒蔵のウツセミの中でも特に腕っ節の強い悟郎はそれまで機関銃を警戒して間合いを保っていた衛兵に怒号を上げて真正面から突進していく。


「くたばれ化け物!」


「うぉぉぉっ!」


 馬鹿正直に突っ込んできた悟郎を蜂の巣にしようと彼と対峙していたハライソの衛兵は機関銃を乱射するが、悟郎は裂帛の気合を吐き出しながら力強く地面を踏み切ると両脇に並んだ二階建てに届くような高さまで飛び上がる。そして跳躍した勢いのまま機関銃を打ち続ける衛兵の鼻面に飛び蹴りをお見舞いした。


「がっ……」


 悟郎の飛び蹴りで鼻っ柱をへし折られたその衛兵は機関銃を取り落とすと、白目を剥いて昏倒した。


「うらぁぁっ!」


「汚らわしい怪物の分際で小癪な!」


 悟郎の友人を撃った衛兵が瀕死の友人ではなく、同僚の衛兵を蹴り倒して今度は自分に襲い掛かってくる悟郎に銃口を向けた。悟郎の胸に照準を定めてその衛兵はライフルのトリガーを引いたが、銃口の角度と相手の視線から狙いを察した悟郎は僅かに身を捩って弾道から身体を逸らし銃撃を回避する。


「だぁぁっ!」


 チンタを醸造している樽の中身を馴染ませるために、大きな竿で樽の中を掻き回して日々鍛えられている腕に力を込めると、悟郎は渾身の正拳突きをライフルを構えた衛兵の顔面に叩きつけた。


「ぶっ……!?」


 悟郎の怒りの鉄拳を打たれた衛兵は奇声を発しつつ後方に吹き飛んでいく。地面に落下してからも加えられた衝撃の慣性で衛兵の身体は横滑りしていき、建物の外壁にぶつかることでようやく停止した。悟郎に殴り飛ばされた衛兵の体は小刻みに痙攣しており、首がありえない角度で曲がっていた。


「しっかりしろ!」


「俺のことは放っといていいから、その調子で残りの奴らをぶっ飛ばしてきてくれ」


「馬鹿野郎、飲み仲間を放っておけるかよ」


「…悟郎!」


 心臓の近くをライフルの弾で穿たれている友人を悟郎は抱き上げて、懸命に勇気付けようとする。悟郎の直情的な熱い友情を感じて友人の顔から一瞬苦悶の色が失せるが、急に血相を変えると自分を抱える悟郎の体を脇に突き飛ばした。


 突き倒されてバランスを崩した悟郎の前で次の瞬間友人の顔が突然弾け飛ぶ。首から上が完全に欠いた友人の身体は地面に崩れ落ちる。蝕の許容量を超えた生体エネルギーを注ぎ込まれて存在を維持できなくなったウツセミと同じく、肉体に大きな損傷を受けた友人の身体は瞬く間に霧散し、周囲を覆う器を失った蝕もすぐに消え失せた。


「なっ!?」


「血に飢えた吸血鬼でも友情を感じる程度の理性はあるらしいな」


 友人の顔面が弾ける直前に悟郎は火薬が炸裂する音を聞いていたが、一発の銃弾でこれほどの損傷を与えられるとは思えなかった。しかしチェンバーに次弾が装填される機械音を聞きつけると、反射的に悟郎はその場を飛び退く。


 悟郎がいた場所が爆弾が破裂したように抉られたのは、悟郎の身体が宙を舞った直後のことだった。悟郎は即座に着地して臨戦態勢を取ると、彼の視線の先に散弾銃を構えた男が佇んでいる。


 散弾銃の一撃で射殺したのは悟郎が倒した衛兵と同じ戦闘服を着ていたが、頭に被っているのはヘルメットではなく黒の中折れ帽子で落ち着いた雰囲気の顔に綺麗に整えた口髭を生やした中年の男だった。衛兵たちのリーダーとして掃討作戦に参加している南部だ。


「武器を使わなくちゃ戦うことも出来ねぇ卑怯者のくせによくも!」


 友人の臨終を目撃してしまった悟郎は激昂し、一陣の突風のように南部へと接近していく。すかさずチェンバーに弾を装填して南部は散弾銃を発砲するが、悟郎は真上に跳躍して四方に散乱する細かな銃弾の礫を悉く避ける。


「空中に逃れるとは愚かな」


 南部は悟郎が自由落下に身を任せるしかなくなったミスを指摘するが、何故か両手に構えた散弾銃の銃口を頭上に向けずにそのまま手放して地面に落とす。


「おらぁぁっ!」


 南部の意図は不明だったが、有効な武器を手放したことで自分の勝利を確信しながら悟郎は膝を曲げて南部に落下速度を加えた飛び蹴りを食らわせようとする。


「ぐぉっ!?」


 しかし悟郎の蹴りは南部の体を捕らえなかった。それどころかまともに着地も出来ずに悟郎は地上に背中から落下してしまう。


 得物の散弾銃を手放した南部の両手にはいつのまにかオートマチック式の拳銃が握られていて、その銃口からは硝煙が立ち上っていた。腰のホルスターから拳銃を驚くべき速さで抜き放った南部はマガジンに装填している弾丸を全て速射する。フルオートで射出された銃弾は悟郎の両膝と両肩それに両肘を撃ち抜き、関節を粉砕して彼の体を一歩も動けない状態に追い込んだ。


「くぅぅっ……」


「人間は貴様らに比べてずっと脆弱な存在だ。だからこそ人間は吸血鬼を恐れ、その恐怖から逃れようと貴様らを迫害する」


 南部は銃弾を撃ち尽した拳銃をホルスターに納めると、足元に転がっている散弾銃を取り上げて弾丸をチェンバーに送り込む。


「や、やめろ……」


「貴様らは餌として捕らえた人間の命乞いを聞くか? いいや、人間から精気を奪わなければ自分の命を繋げないのにそんな余裕はないだろう。そして俺たちも貴様らへの恐怖で今にも押し潰されそうで余裕など全くない」


 悟郎は散弾銃を構えた南部に情けを求めるが、南部は人間も吸血鬼も生き延びるために他者のことを気にしている余裕はないと言い捨てて無常にも引き金を絞る。轟音と共に撃ち出された散弾銃の弾は悟郎の胸で炸裂し、その衝撃は彼の胴を半分に引き裂いた。


「がぁぁっ!」


 断末魔の悲鳴を残して、悟郎は一足先に逝った友人の後を追った。南部は悟郎の肉体が跡形もなく消滅するのを見届けると、踵を返して次の標的を捜しに出かけた。


* * *


「千歳様お急ぎください、教会の連中は街のかなり深くまで侵攻しているみたいです」


「あれだけ時間をかけた対策なんてちっとも役に立ってないじゃない。本当に無駄なことばかりに代永の連中は労力を費やすんだから」


 この非常時でも千歳が暢気に身支度に時間をかけてしまったせいで彼女の避難は他のウツセミに比べて大分遅れてしまっていた。少しでも遅れを取り戻そうと彼女を迎えにあがった晨は急かすが、千歳は防衛計画を主導した代永氏族の落ち度を責めるだけで一向に歩く速度を上げようとはしない。


 もっとも幾重にも布が折り重なった裾のスカートでは満足に脚が運べないだろうし、おまけに歩くのに不敵な高いヒールを履いているので千歳がゆっくりとしか歩けないのは当然の話だった。


「今は文句を言っている場合じゃないでしょう。もし歩かれるのがお辛いのでしたら、僕が抱えていきましょうか?」


「それは助かるわね、ではお姫様だっこでお願いしようかしら?」


 防衛に当たっているウツセミたちの奮闘も空しく、街ではかなりの数の犠牲者が出てしまっているらしい。同胞たちの死を悼み、この惨劇を重く受け止めている晨とは対照的に千歳はそれほどこの非常事態にも関心を抱いていないらしかった。


「ふざけないでくださいよ千歳様、族長のあなたがそんないい加減な調子でこの苦境をどう乗り切るんです?」


「晨さん、お嬢様に失礼ですよ!」


 あまりに無責任な千歳の態度に腹を据えかねて晨は彼女に説教するが、千歳の召人の永遠とわが主に代わって分を弁えない晨の態度を責める。


「構わないわ永遠。ねえ晨、あなたが私に何を期待しているのか分からないけど、私が何をしようと世の中はなるようにしかならないわ。だったら報われない努力をしても空しいだけじゃない?」


「千歳様…やっぱりあなたは昔と変わらず何事にも、ご自分の命にさえ関心を持てないのですね?」


「そうよ。他人に運命を弄ばれ続けた挙句、頼みもしないのに不老不死の体になんかされた人生に関心が持てるはずないでしょう? 私にはこの世界で起こっていることは全て、惰性で生き永らえるだけの日々の退屈しのぎでしかないわ」


「千歳様……」


 晨の質問に対し、千歳は自分の人生に悲観的な見解で答える。千歳の心はかつて自分が召人として寵愛を受けていた時と変わらずに虚ろなことを晨は悟ると、やりきれない面持ちを浮かべて視線を足元に落とす。


「お嬢様!」


 自分が召人として千歳の下に来る前から付き合いのある千歳と晨の会話に入れず、手持ち無沙汰になっていた永遠が視線を宙に彷徨わせると偶然物陰からこちらを狙ってライフルを構えているハライソの衛兵の姿を目撃する。


 咄嗟に銃口と千歳の間に永遠が身を滑り込ませたのと銃声が路地に響いたのはほぼ同時だった。


「あっ……!?」


 永遠の着ている白いブラウスの胸下が、銃弾を撃ち込まれて開いた傷口から迸る血潮で真っ赤に染まる。


「永遠!」


「千歳様伏せて!」


 自分の方に倒れてきた召人の体を抱き留めて、千歳は金切り声で彼女の名前を呼ぶ。ハライソの衛兵の銃口はまだこちらに向けられたままであり、晨は強引に千歳の背中に覆いかぶさりながら彼女の姿勢を低くさせた。


 続けて銃声が鳴り響くが、撃たれた銃弾は地面に伏せた晨たちの上を素通りしただけだった。


「うぉぉぉっ!」


 辛うじて相手の狙撃をやり過ごすと、晨は地を這うように低い姿勢を保ったままハライソの衛兵へと突進していく。接近してくる吸血鬼を迎撃しようと衛兵はライフルを連射するが、鬼気迫る表情で疾走してくる晨の気迫に圧されて狙いが定まらず彼の体に銃弾は掠りもしない。


「はぁぁぁっ!」


 瞬く間に相手の懐に飛び込んだ晨は上体を起こす勢いに乗せて衛兵の顎にアッパーカットを打ち込む。細身の優男のなりをしていても、晨も人間の比ではない膂力をしたウツセミであり彼の放った一撃で衛兵の下顎は粉砕されて頭部に致命的な痛手を負った。


「しっかりしなさい永遠、最期まで私の傍を離れないといったのは嘘だったの!?」


「申し訳ありませんお嬢様…でもこんなわたしを目にかけていただき、本当にありがとうございます……」


 息も絶え絶えに返事をする召人の少女の命はもう長くはないと分かってはいたが、千歳は懸命に永遠に呼びかけて彼女に生きる気力を奮い立たせようとする。


「お嬢様、最後に一つだけ聞いていただきたいお願いがあります……」


「何かしら、言ってごらんなさい」


「わたしの体に残っている精気を全部吸って、お嬢様の手で逝かせてください」


「馬鹿なことを言わないで、そんなことできる訳ないでしょう?」


「まだ何百年も生きるお嬢様の記憶に、嫌な思い出でもいいからわたしのことを残しておいて欲しいんです。だからお願いします……」


 虚ろな瞳を向けて自分をその手にかけるように永遠は千歳に懇願する。薄れ行く意識の中で永遠は千歳の顔が見えていなかったが、昼夜を問わず仕えていた主人の美貌を脳裏に思い描くのは造作もないことであった。


「…分かったわ、あなたの望みを叶えてあげる」


 千歳は衣服が血で汚れることも厭わずに、胸から流れている血で血塗れになっている永遠を自分の胸に抱きこむ。両手に蝕を具現化させると、永遠の体に残っている微かな精気を全て吸収した。


「お嬢様にお仕えできて、わたしは本当に幸せでした……」


 千歳の召人だったことに心から感謝していると言い残して永遠は事切れた。千歳は脱力した永遠の体をそのまま抱き寄せ続ける。氷の彫像のように玲瓏とした千歳の顔に寵臣がいなくなった悲しみは浮かんでいなかったが、やがて一筋の涙がその白磁のように滑らかな頬を流れ落ちた。


「千歳様、彼女は……」


「ねえ晨、吸血鬼の虜になった人間の魂はどこに行くのかしら?」


 千歳はハライソの衛兵を倒した晨が戻ってくると、永遠の亡骸をそっと地面に横たえて胸の上に腕を組ませて安置する。安らかな顔で眠りに就いた永遠に目を向けたまま訊ねられた千歳の問いに晨はどう答えてよいか分からなかった。


「この街で亡くなった人の死体を加工してチンタを作っている僕にそんなことをいう資格はないとは思えませんが、きっと紫水小路に留まって自分の愛したウツセミの傍にいてくれるんじゃないでしょうか」


 しばらく間を置いて答えた晨の返事は、永遠を喪った千歳の悲しみを少しでも和らげようという労わりもあったが、それ以上に死体を辱めているような所業をしている自分に罪の意識を感じさせないための言い訳でもあった。


「…あんないい子が天国に行けないのは可哀想だと思ったけれど、こんな真似を許す神の所に行くのも我慢できない。天国にも地獄にも行かないで、永遠がこれからもずっと私の傍にいてくれるのならそれで充分よ」


「行きましょう千歳様。彼女のためにも千歳様は生き続けなければなりません」


「ええ、私が死んだら永遠はどこにも居場所がなくなってしまうもの」


 千歳は晨の呼びかけに首肯すると永遠の亡骸の前から立ち上がって、酒蔵に向かって歩を踏み出していく。大切にしていた召人を目の前で奪われた千歳の顔を直視する気にはなれず、晨は彼女の少し後ろに控えてその後に続いた。


「やっぱり神の名を騙る人間は大嫌い、教会の殺し屋もウワバミもみんないなくなってしまえばいいのに」


 千歳は小声でハライソの兵士だけでなくウツセミに対抗できる剣気を使えるウワバミの存在に対して呪詛を呟く。千歳の整い過ぎた顔立ちが能面のような無表情になっていると、異様な迫力があった。


** *


 ハライソの紫水小路への侵攻が始まって1時間あまり。次第にウツセミの反抗が強まってきたので使徒や戦闘を続けている衛兵たちは単独で行動して広範囲の制圧を急ぐようになっていた。


「このっ!」


 衛兵の1人がライフルに装填されている銃弾をばら撒いて忠将を仕留めようとしたが、忠将は真横に飛び退いて銃弾の雨を避ける。衛兵はライフルの反動を強引に押さえ込んで銃口の角度を変えようとするが、その時には射線軸に忠将の姿はなかった。


「消えた、うっ……!?」


 忽然と視界から消失してしまった吸血鬼の居場所を衛兵が突き止めるよりも先に、衛兵の側頭部を忠将の拳が強かに打ち据える。脳を大きな衝撃を負った衛兵は吸血鬼にやられたことの把握も出来ないまま昏倒した。


「散り散りになって片付けるのは楽になったが1人ずつ捜すのは骨だな。相手の兵力があとどれくらい残っているのかも分からずに手探りで戦い続けるのはかなりしんどいぞ」


忠将は虱潰しに街中を探索して散り散りになったハライソの兵士を発見次第始末をし、10人以上の衛兵を倒していたが、敵兵力の正確な数が把握できていない状況では今後の戦況の見通しも立てられずに焦燥感を募らせる。


「そんなに心配することはないよ忠将、みんなが頑張ってくれたおかげでまともに動ける侵入者はあと20人くらいだ」


「この苦しい時までどこをほっつき歩いていたんだ源司?」


「同胞たちの危機に際してオレだって遊んでいた訳じゃないさ。千里眼で確かめた侵入者たちのいない区域を知らせてみんなを酒蔵まで避難させつつ、敵を発見したら撃退してきたんだからね」


「なるほど、避難が始まってからはそれほど犠牲者が出ていない理由はそういうことか。しかしそれなら一言俺に連絡をくれてもいいだろう?」


「オレがいなくても君ならちゃんとみんなを指揮してくれると信頼していたし、思ったよりも敵の侵攻が早くて今までそんな余裕はなかった」


 忠将はよく見ると源司の着ているスーツの裾や襟は乱れ、あちこちに破れや綻びがあることに気付く。また源司から漂う硝煙の香りは、彼がこれまで相当な回数銃撃されてきたことを物語っていた。


「敵の残党は20人くらいか、その倍の数のウツセミが遊撃に出ているから問題ないとは思うが……」


「ウワバミの剣気と同じ能力を持つ使徒は全員健在だから油断は出来ない。俺や君が倒してきた兵士数人分の戦闘力を使徒は持っている。彼らと戦って勝てる可能性が高いのは各部署の責任者くらいのものだろう」


「敵の数が減ってもまだ油断は禁物だな」


 源司が物理的なダメージを負いにくいウツセミに対しても有効な聖火を扱える使徒が全員残っていることを告げると、忠将は戦況はまだ楽観視できないと気を引き締め直す。


「オレは千里眼で使徒の足取りを追いつつ、潮や茜みたいに力のあるウツセミに使徒の居場所を教えて迎撃するように頼んでくる」


「俺も使徒を1人引き受けよう、この近くに奴らはいないのか?」


 源司は手強い使徒の退治を有力なウツセミに依頼して回ることを伝えるが、忠将は花街のマネージャーを勤めて力のあるウツセミの五指には入る自分も使徒の相手を引き受けることを源司に申し出る。


「君にも使徒の相手をお願いしたいのはやまやまだけど、それよりも先に君の大切な人を迎えに行くべきじゃないかな?」


「蘇芳の居場所が分かるのか?」


「ちょっと待っててくれ、すぐに探し出すから…見つけた、蘇芳ちゃんとまことちゃんの妹は政所の近くにいる」


 忠将の問いに源司は首肯すると、軽く瞼を閉じて忠将が世話をしている幼女とそのベビーシッターの居場所を千里眼で探る。蘇芳たちの居場所を見つけると、源司は彼女の保護者である忠将に居場所を伝えた。


「政所ならここからそんなに離れていないな。すまん源司、子どもたちを酒蔵まで連れて行ったらすぐに戻ってくる」


「その頃には事態に収拾がついていると思うよ」


 事態の収束にある程度見通しが立ったことで、忠将は一度前線を離れて蘇芳たちの救出に向かうことを源司に侘びる。源司が生真面目な相棒に余り張り切り過ぎないよう助言すると、2人のウツセミたちはそれぞれの仕事に取り掛かるべく走り出した。


* * *


「何なのよ、あのゴリラ?」


花街の酒場で働いている若いウツセミの緋奈は嗚咽交じりに悪態を吐きながら懸命に通りを走る。


紫水小路に迷い込んだ男を誑し込み、酒と自分たちの媚態で酔わせて金品や血液を巻き上げることを生業としている緋奈だが誇りは持って仕事をしている。教会の兵士たちが街に攻め込んできたと聞いても、真っ先に逃げ出すことは売れっ子のキャストである彼女のプライドが許さなかった。他の店員たちを先に逃して緋奈は仲のいい同僚と共に最後に店を出たが、酒蔵への避難中に彼女たちは運悪く使徒の1人と遭遇してしまった。


 緋奈たちの姿を見つけるやいなや、巨漢の使徒十文字は吸血鬼に深刻なダメージを与える聖火を放ってくる。十文字の発した青白い光を受けて、緋奈と一緒にいた同僚のキャストは一撃で消滅してしまった。


「あのゴリラから飛び出した青い光、あれが噂に聞いていた剣気って奴?」


 十文字に追跡される中、緋奈は以前耳にしたことがあるウツセミを葬る能力の話をふと思い出す。ウツセミの天敵にして彼らの平穏を守る存在であるウワバミが、掟に背いた同胞を罰する際に剣気という能力を使うと聞いていたが、緋奈は話半分にしか聞いていなかった。しかし実物を目の当たりにして、剣気がどれほど恐ろしい能力であるかを嫌というほど思い知らされる。


「あんなおっかない技を使う子をアタシは相手にしていたのね…例えチップを弾んでくれても今後の指名はお断りしたいわ」


 以前勤めている店を訪れたウワバミの少年の接客をした経験があったが、緋奈は払いがよくても金輪際彼とは付き合いたくないと化粧栄えのする目鼻立ちのはっきりした美貌に苦笑を浮かべる。


「人心を堕落させる売女め、逃がさんぞ。エイメン!」


「きゃっ!?」


 教会の殺し屋の発言は彼女の尊厳を酷く傷つけたが、再び十文字が発した聖火を食らって緋奈は一言も相手を罵倒できずに地面に崩れ落ちる。電撃が走ったように全身の筋肉が麻痺して、呼吸をすることさえままならなかった。


「おい化け物、散々罪のない人間を搾取してきた罰が当たったな」


「…笑わせんじゃないわよ。スケベで欲に塗れた男を喜ばせるのに、アタシたちがどれだけ心をすり減らしたと思っているのよ」


 腕にも脚にも力が入らず、緋奈は辛うじて動く首を捻って近づいてくる十文字の顔を睨み返す。一夜の快楽を求めてこの街に迷い込むような人間が純粋無垢な存在とは思えず、むしろ生き血を啜る自分たちよりも穢れた存在ではないかと緋奈は常々考えていた。


「虫けら以下の分際がほざくな、今すぐ踏み潰してやる!」


「うら若き乙女をいたぶるとは穏やかじゃないねぇ」


 緋奈の口答えに怒りを覚えた十文字はこめかみに青筋を立てると、足元に這い蹲る彼女を踏み潰そうと右足を持ち上げる。だがこの修羅場に場違いなほど暢気がすぐ傍で聞こえてくると、十文字は動けない緋奈ではなく知らぬ間に自分の背後を取っていたものに警戒心を抱いてそちらを振り返った。


 背後を振り向いた十文字の前に着流しを羽織った青年がにこやかな顔で立っている。明治時代の書生のような自分の関心のあることに一心に打ち込んでいるような佇まいの青年からは戦意の欠片も感じられなかったが、十文字はにこやかに微笑む相手に得体の知れない恐怖を覚える。


「締まりのない面しやがって、てめえもどうせ吸血鬼なんだろ!?」


 十文字は先端に太い棘のついたメリケンサックをつけた拳で和装の青年を殴りつけようとする。しかし青年は箸よりも重いものなど持ったことがないような細腕で十文字の剛腕を掴み、十文字の拳を自身の鼻先で止めた。


「吸血鬼という呼び名はあまり好きじゃないね。できればウツセミと呼んでもらいたいところだ」


わたる先生…どうしてここに?」


 十文字の鉄拳を涼しい顔で受け止めた青年は相手に一族の呼称の訂正を求める。自分の窮地を間接的に救ってくれた青年、現在富士見氏族のウツセミで最長老の染色家恒がなぜここにいるのかと緋奈は不思議そうな顔を浮かべた。


「あれ昨日の晩、私が君のお店に来ていたのを覚えていないかい? ちょっとチンタを飲みすぎて家に帰れそうになかったから、店の主人の忠将君に頼んでお店の上で寝かせてもらったんだ。外がやけに騒がしくて目を覚ましたら、私たちの美しき故郷がまるで地獄絵のようになっていてびっくりしたよ」


 恒は二百年以上生活している街が戦火に包まれていてもあまり狼狽していないような口調で緋奈の質問に答える。そういえば昨晩恒が飲みに来ていたような気もしたが、営業中は接客で忙しく閉店後間もなくハライソの襲撃が始まり、店の従業員の避難に気を取られていたせいで恒のことなど考えもしなかった。


「すみません、てっきりお帰りになられたものだと思ってお声をかけませんでした」


「いいさ、焦って逃げてもろくな目に遭わなかったろうからね」


「人のことを無視して化け物同士で悠長に話しこんでるんじゃねぇ!」


 戦闘中だとは思えないほど恒が自然体で振舞っているので緋奈もつられて普通に会話をしてしまったが、右腕を押さえられていても自分が攻勢にあると思っていた十文字は遠回しにコケにされているような気がしてますます怒りのボルテージを高める。


 怪力自慢の自分でも吸血鬼の膂力には太刀打ちできないと悟ると、十文字は恒に向かって聖火を放った。


「恒先生!」


「おっと危ない」


 十文字の体が青白く発光し自分に大打撃を与えた聖火を発動させたのを見て緋奈は悲鳴をあげるが、恒は右の掌に蝕を円盤状に具現化させると自分に向けられた聖火のエネルギーを全て吸収してしまう。


 恒は十文字の丸太のような右腕を掴む女性のもののように繊細な左腕を横に振って、十文字の体を脇へ投げ飛ばした。


「立てるかい?」


「はい…でも恒先生、まだあのゴリラをやっつけてないですよね?」


「これ以上彼に構う必要はないよ」


 道端に放り出した十文字には目もくれず恒は緋奈に歩み寄ってその場に屈むと、彼女に手を差し出した。緋奈は攻撃を止めたものの、恒は十文字にとどめを差しておらずいつ彼が襲ってくるかわからないと警告する。しかし恒は十文字に注意する必要などまる感じていないらしく、緋奈の腕を取って彼女を立ち上がらせた。


「優男が調子に乗りやがって……」


 案の定超人的なタフネスを誇る十文字は即座に身を起こすと、常人ならば土下座をして謝りそうな憤怒の形相で恒を睨み付ける。


「もう許さねぇぞ、そこの売女とまとめてぶっ殺してやる!」


「先生、またあいつが!」


「あんな野人放っておけばいい」


「でも……」


 十文字は怒りを露にして歯を剥き出した獰猛な顔つきで恒たちに突進してくる。緋奈は懲りずに攻撃をしてくる十文字の接近に恐怖を抱くが、恒は彼女の手を引いてその場を立ち去ろうとする。


「おらぁぁ…あ!?」


 十文字は右腕を曲げて二の腕に力瘤を浮き立たせると、自分に全く警戒していない澄ました恒の背中を殴りつけようとする。だが彼が渾身の力を込めた拳を突き出そうとした瞬間、猛烈な拳のスピードに耐えられなかったように十文字の右腕の肘から先が彼の体から剥落した。


「な、なんだぁ!?」


 十文字の体からもげた前腕は地面に落ちると硝子のように粉々に砕け散る。十文字は腕を失った痛みを感じずに、悪趣味な手品を見ているように気味悪そうな顔で足元に散らばった右腕の破片に視線を向ける。


「私たちは無駄に長生きしている訳じゃない。代永の族長をしている源司はあらゆる場所を覗ける千里眼が使えるように、数百年に及ぶ時を経ているうちに不可思議な能力が使えるようになることがある」


「それがどうし…たっ!?」


 恒はゆっくりと酒蔵に向けた歩を休めず、十文字の方を振り返らないまま独り言のように自分や源司のように有力なウツセミの特性を語り始めた。相変わらず自分のことを馬鹿にした態度をしている恒に掴みかかろうとするが、十文字は自分の脚が思うように動かなくなっていることに気付く。鉛のように重くなり、凍りついたように固まった十文字の脚は彼の意志に全く従おうとしなかった。


「私の能力は源司のように便利なものじゃなくて液体を意図的に凍らせるだけだ。もっと面白い能力を会得できればよかったと、自分の不運を悔やまずにはいられないよ」


「液体を凍らせるだと、俺の体のどこにそんなものが……」


「水ではなくても人間の体の過半数は、私たちの好物である血やその他様々な体液で構成されていることを知らないのかな?」


 十文字の身に起こっている怪異の原因は自分の能力に起因するものだと恒は仄めかすが、十文字は自分の体のどこに凍りつかせられるような液体があるのかと疑問に思う。だが十文字が全身を流れる各種体液に干渉すれば恒は自分を凍り漬けにできるということに思い至ったのと、恒が事実を明かしたのは同じタイミングだった。


「この外道がぁぁっ!」


「体が硝子よりも脆くなったのに興奮してそんな大きな声を出したら……」


 既に首から下は殆ど凍りついていたが、十文字は姑息な手段で追い詰められた怒りと共に聖火を恒にぶつけようとする。十文字が精一杯張り上げた罵声に恒は歩みを止めると、僅かな憐憫の情を浮かべた顔で背後を振り返る。


 振り向いた恒の視線の先で頭のてっぺんからつま先まで凍りついた十文字の体が聖火の光で青白く輝き、聖火が内側から吹き出ると同時に凍てついた肉体が氷の破片となって飛び散った。


 聖火のダメージが残る緋奈を自分の背で庇いながら、恒は後方に伸ばした右の掌に蝕を具現化させて暴発した生体エネルギーの奔流を受け流す。


「私がどうしても受けられない人種は美を愛でることができない風情に欠ける粗暴な人間だ。だから私は男たちに一夜の夢を見させてくれる彼女という花を摘み取ろうとした君の存在を許すことができない」


 恒は自分の美意識にそぐわないという理由が十文字を手にかけた最大の動機だと、光を反射して乱舞する十文字の体だった氷の欠片に打ち明ける。


「そろそろ行こうか。久々の運動で疲れたし、酒蔵に着いたら緋奈さんに一杯付き合ってもらおうかな?」


「あ…はい」


緋奈はきらきらと輝く氷の破片に見惚れていたが、恒に促されると生返事をして酒蔵に足を向ける。街全体を巻き込んだ惨事を引き起こしたハライソの中でも指折りの使い手を造作もなく倒したことで、昼行灯と呼ばれているように暢気で何事にも気楽な態度をしている恒への緋奈の認識が変化する。


人畜無害な好事家を装っていても人間の命を奪うことに何の躊躇いも感じない冷酷さを恒も持っているということを知って、緋奈は吸血鬼として歳を重ねることは人間性を喪失して別の何か、端的に言えば魔物へと変貌することだと感じる。ウツセミに転化して初めて緋奈は人間でなくなることに恐怖を覚えるようになった。


自分を殺そうとした十文字を哀れむ気はなかったが、吸血鬼の冷淡さを垣間見たことでハライソの人間たちが吸血鬼を執拗に滅ぼそうとする心境が少しだけ分かる気が緋奈にはした。


* * *


「どうなさいました来栖さん? 先ほどから一言も喋られていないけれど、化け物を信じようとしたために何もかも失った悔しさで物も言えなくなってしまいましたか?」


 祖父の死と来栖の漏らした情報によってハライソが紫水小路を焼き討ちしているという話を聞いてから黙り込んでいる来栖を、真理亜はせせら笑うようにして話しかける。だが来栖は拘束されている寝台の上で瞬き一つせず、真理亜の言葉にも何の反応を見せなかった。


「…泣き言でも私たちへの恨み言でも申したらどうかしら。体の自由を奪い、生殺与奪を私が握っているからフェアだとは言えないけれど、普段の貴方だったら屍のように黙り込んでいるはずないじゃない。少しは足掻いて私を楽しませていただけないかしら?」


 真理亜が来栖を挑発して何らかのリアクションを引き出そうとするが、来栖は自分を罵る彼女の顔を見ようともしなかった。何度も別人のように腑抜けた来栖の姿に真理亜は何故か苛立ちを覚え始める。


「自分が弱いせいで丹さんを私の同志に殺されることが情けなくはないの? 吸血鬼の手を借りてまで彼女を救い出そうとしたくせに、本当はどうとでもいい存在だったの?」


「…今更俺に何が出来るっていうんだ? ここから逃げ出せても斂も利かない天連とかいう奴に勝てないんじゃ丹を助けられない」


再三真理亜が詰った末、来栖はようやく口を開く。しかし天連に完敗し祖父の死も防げず、薬で操られたためでも親しいウツセミたちの住む街へハライソの軍勢が侵入する手助けをしてしまったことで呆然自失の状態に陥った彼の口から出た言葉は、酷く弱々しく不甲斐ないものであり更に真理亜の神経を逆撫でした。


 真理亜は傲岸不遜な態度をとられ続けた来栖が見る影も泣く意気消沈した姿を喜ばしく感じず、あれだけ煩わされていた相手がこんなに落ちぶれてしまったことに虫唾が走り、思わず彼の頬に平手打ちを浴びせてしまう。


「こんな腰抜けに使徒が2人もやられたなんて我慢なりませんわ! 私が貴方を消すことで同志の汚名を濯がせてもらいますわ!」


 来栖の見る影もなく落ち込んだ姿に逆上した真理亜は太腿に吊り下げたホルスターからデリンジャーを抜き放って彼の額に銃口を押し付ける。


「…どうせそのうち殺されるんだ。今あんたに撃たれてもそれが少し早くなるだけだ」


 来栖が何らかの抵抗をしてくることに真理亜はある種の期待をしたが、来栖は彼女の暴挙に抗うどころか命乞いすらせずに自らの運命を甘受した。


 無抵抗な来栖の姿で真理亜は逆に自分の怒りが萎えていくことを感じる。先祖代々守ってきた信念を打ち砕かれ、拠り所としていた自分の能力も敵に通用しなかったことは少なからぬ心理的な動揺を与えることまでは予測していたが、それだけのことで粋がっていた来栖が廃人のようになってしまったことを真理亜は空しく思う。


「どうした安倍さん、やるんならさっさとやれよ?」


 殺す価値もなくなった相手のために真理亜は自分の手を汚す気になれずにいると、反対に殺される側の来栖が早く自分の人生を終わらせてくれるように呼びかけてくる。


「…死ぬことがそんなにお望みなら、その願いを叶えて差し上げますわ」


 真理亜は来栖の額に銃口をきつく押し当てて引き金に指をかける。来栖は静かに目を閉じて、真理亜の放った銃弾が自分の脳天を撃ち抜く瞬間を待った。


 しかし真理亜の指がデリンジャーの引き金を絞ろうとした瞬間、地下室のドアが爆発したような勢いで弾け飛ぶ。


「何事ですの!?」


「若い娘が男の上に馬乗りになっているなんて感心しないね」


 扉を打ち破って地下室に侵入してきたのは壮年の男だった。荒っぽい入室をしてきた割にその男は紳士という形容がしっくりとくる優雅な雰囲気だったが、着ている背広は古風なデザインで現代では映画の衣装でしかお目にかかれないようなものだった。


「貴方は…うっ!?」


「美しい…是非私の召人に加えたいものだが、今回はそちらの少年を連れて行かなければならないので残念ながらお預けだな」


 背広姿の男は瞬く間に真理亜の隣までやってくると、左手で銃を握る彼女の右手を上に捩じ上げて右手を真理亜の顎に添えて彼女の秀麗な顔を好色な目で眺める。男に両腕を掴まれているうちに真理亜の瞳から生気が失せて、彼女が首を項垂れて気絶した。


「蝕を指先に具現化させて精気を抜き取った…あんたウツセミか?」


「君と会うのは初めてかな、若きウワバミくん?」


 左腕で卒倒した真理亜の体を支えたまま、背広姿の男は懐から短剣を抜き出すと来栖の手足を縛めている革バンドを切っていく。


「すまないが自由になったのだから寝台を空けてくれないか? 君がいるとこのお嬢さんを寝かせられない」


背広姿の男の手によって来栖の体がベッドから解き放たれると、男は真理亜を寝かせるための場所を開けるよう来栖に呼びかける。


「あ、ああ…助けてくれたことには感謝するが、しかしあんた何者だ? それにどうして俺がここにいると?」


「鞍田山で捕まえられてから君のことは監視させてもらっていたからここにいることは知っていた。だが救出する許可が出てのはついさっきのことでね、それで今まで助けに来られなかったのさ」


「どうして捕まったことを知っていていたのに今まで俺を放っておいた? そのせいで俺はハライソに色々吐かされて、あんたの仲間を危険な目に……」


「同胞が教会の殺し屋によって危険な目に遭う必要があったからさ。そう、我らウツセミの真の導き手である平輔の計画を成功させるためにはね」


「平輔って10年前に紫水小路を追放されて、現世で紅子さんを襲ったっていうあの…なんであんたはそんな裏切り者に手を貸しているんだ?」


「…身の程を思い知れ小僧、貴様は平輔が権力を握るための生贄に過ぎないんだよ」


 背広姿の男を詰問しているうちに、男が反逆者として同胞から粛清されかかったウツセミの名前を出すと、来栖は何故人間だけでなくウツセミの社会も乱そうとした罪人に協力しようとするのかを訊ねる。すると男は急に態度を豹変させて虫でも見るような嫌悪感に満ちた眼差しを来栖に向けると、彼の喉笛を右手で掴んだ。


「ぐっ…生贄、だと?」


「平輔は貴様のようなクズに贅沢すぎる死を演出してやるそうだ。数百年に及び我らを欺き続けてきた薄汚い裏切り者を、本当の意味でウツセミの守護者になる平輔が同胞たちの前で処刑するという筋書きでな!」


 背広姿の男は来栖の首をきつく締め上げながら、右の掌に蝕を発生させて来栖から精気を奪い取る。長時間体を拘束され、充分な栄養を補給できずに体力の落ちていた来栖はなす術もなく男に首を絞められたまま再び意識を闇に落とした。


「不味い、やはり精気は女のものに限るな。男なんかを回収しなければならないとは平輔も嫌な役割を押し付けてくれる……」


 男は来栖の体を床の上に投げ落とすと、彼の精気の後味の悪さに不平を漏らす。


「さて、陽が登りきる前に紫水小路に戻らんとな。平輔にこのガキを引き渡したら、こちらの娘を攫う計画を練ろう」


 面倒な仕事をさっさと終わらせて、背広姿の男は真理亜を自分の虜にすることに思いを馳せながら億劫そうに床の上に倒れ臥している来栖の体を抱え上げると地下室を後にした。



第11回、執拗な迫害 了


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