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うつせみ血風録  作者: 三畳紀
破ノ段
11/21

第10回、異端審問

 御門市北東に位置する鞍田山の山中、すっかり陽は沈んで辺りが闇に包まれている中を来栖は雄叫びをあげながら敵対関係にある組織ハライソの使徒天連に突撃していく。


「はぁぁぁっ!」


 来栖は天連と同じくハライソから遣わされた刺客十文字との戦いで負ったダメージが残る身体を、怒りに身を任せた勢いで駆り立てて天連に拳を繰り出していく。少々冷静さを欠いてはいるものの、その分手加減のない来栖の本気の拳が連続で打ち込まれるが、天連は軽やかなフットワークで攻撃をかわし、あるいは巧みに腕を使って来栖のパンチをガードしていく。


「ぐっ!?」


 天連は来栖の突き出した拳を腕で弾いて横に受け流すと、隙の出来た来栖の胴に長い脚を伸ばして強烈な蹴りを浴びせる。鉄骨の仕込まれた天連のブーツで腹部を蹴りつけられると、来栖は息を詰まらせながら後方へと飛び退く。


「この野郎…もう容赦しねぇぞ!」


 連戦の疲れに加え、十文字のフックを脇腹に天連の蹴りを鳩尾に食らった影響で来栖はかなり苦しげな呼吸をしていた。しかし己の身を妬き焦がすような怨嗟をその眼差しから燃え滾らせて、闘志を剥き出しにして来栖は涼しげな顔をしている天連を睨む。


 来栖の右の拳に生体エネルギーが収束し、その周囲が青白く点滅していることに気付いた天連は彼が何か仕掛けてくることを悟る。


「喝!」


 来栖は天連と数mの間合いを保ったまま、剣気を集中させた拳を前方に突き出した。突き出された来栖の拳の先から青白い光の槍が天連に向かって伸びていく。剣気を一点に凝縮させることで一気にエネルギーを叩き込むウワバミの虎の子、れんを来栖は十文字に続いて天連を倒すために使用した。


「エイメン!」


 来栖が物理的に避ける事ができない剣気で攻撃をしてきた以上、天連も剣気と同質の生体エネルギーである聖火を発動して応戦する。天連の身体から球状に広がった聖火と来栖の放った斂が正面からぶつかり、青白い火花を散らす。


 生体エネルギーを一極集中させた来栖の斂と凝縮させずに広範囲に拡散させる天連の聖火の威力は拮抗して、互いに干渉しあい周囲に霧散してしまった。相殺されなかった生体エネルギーの余波が両者の身体に襲い掛かる。


「くっ!?」


「むぅ……」


 形質崩壊した生体エネルギーの残滓にそれほど大きな力は残っていなかったが、来栖と天連は荒れ狂うエネルギーの余波に身を強張らせて耐え凌ぐ。


「あれがウワバミ特有の技である斂か、俺の聖火と打ち消すとはな……」


「嘘だろ…斂を使ったのにあいつ全然堪えてねぇ……」


 天連はハライソの使徒の中でも群を抜いて強力な自分の聖火を来栖の斂が打ち消したことに驚きを見せるが、それ以上に来栖は斂を発動させたにも関わらず天連に全くダメージを与えられなかったことに愕然としていた。


 これまでナレノハテやウツセミを相手にどれほど苦戦を強いられても、斂を発動させれば劣勢を挽回することができた。剣気と同質の能力である聖火の使い手である十文字も、押されている状況から斂の一撃で逆転勝利を収めることができた。


「うわぁぁぁっ!」


 しかし多くの強敵を薙ぎ払ってきた自慢の斂を使っても、今対峙している男にはまるでダメージを与えることができていない。最後の拠り所だった必殺技が通用しない事実を受け容れることが出来ず、来栖は半狂乱の状態で天連に真正面から突進していく。


斂さえ利かない相手とどう戦ってよいか分からず、来栖は闇雲に殴り合いを挑む以外の方法を思いつかなかった。


「エイメン!」


 完全に狼狽している来栖を素手で取り押さえることもそう難しくはなさそうだったが、先ほどの来栖との攻防で天連は先代につけられた太腿の傷が開いてしまい、血が厚手のズボンにも滲んでしまっていた。


 これ以上、格闘を続けて傷を悪化させるつもりはなかったので天連は聖火で一気に勝負をつけることにする。天連の身体で神から注がれる愛によって増幅された聖火が膨れ上がり、来栖が地面を強く踏み切って拳を突き出してきた瞬間に膨大な生体エネルギーが天連の周囲で爆発した。


「ぐぉぉっ!?」


 剣気による中和なしに天連の聖火のカウンターをまともに受けた来栖は、本来物理的な効果のない聖火で全身を激しく打ち据えられた衝撃で後方に仰け反る。来栖の身体は背中から地面に叩きつけられて小さくバウンドすると、そのままぐったりとして動かなくなってしまった。


「…勢い余って殺してしまったか?」


 まさか無防備な状態で来栖が突っ込んでくるとは思わず、天連は来栖を誤って殺害してしまったことを心配する。


 来栖がこの場に現れる直前まで話していた吸血鬼から手渡された木製の札が、本当に吸血鬼たちの根城に続く道標となるのかを始め、いくつか天連は来栖に確認したいことがあった。


 天連はその木製の札が来栖の祖父である先代のウワバミを殺害して吸血鬼の平輔が手に入れたものだとまだ知らない。先代が既に死亡していることを知らない今、できるならば当代のウワバミである来栖と先代のウワバミの両者から御門市に潜伏している吸血鬼の情報を聞きだしたいと天連は望んでいた。


「よかった、少なくとも現役のウワバミの息はまだある」


 莫大な量の生体エネルギーの奔流である聖火を叩きつけられたことで命を落とす可能性はあったが、来栖の生命活動が停止していないことを確認すると天連は一安心する。まともに尋問しても口を割るはずもないので、彼を捕らえて意識が戻り次第自白剤を投与して必要な情報を聞きだすことを真理亜たちとの協議で既に天連は決めてきていた。


「守護者のウワバミが敗れた、この街に巣食う吸血鬼どもの運命ももうお終いだ」


 当代のウワバミである来栖も先代のウワバミだった彼の祖父も地に臥しており、御門を根城にしている吸血鬼たちの守護者はもう吸血鬼を助けられないことを淡々とした口調で天連は呟く。


 微かな月明かりに照らされ、戦いに敗れた来栖と先代が倒れている光景は非常に殺伐とした雰囲気を感じさせるものだった。


* * *


 御門の街と朱印符によっていくつかの接点を有する異空間に存在する紫水小路。そこに住まうウツセミたちの庶務全般を処理する部署、政所まんどころの事務室でまことは書類を棚に並べる作業をしていたが、手を滑らせて書類の束を落としてしまう。


「どうしたの丹、なんかぼうっとしているみたいだけど?」


「ごめんなさい、なんか悪いことが起こりそうな胸騒ぎがしてつい……」


 産みの母親が転化したウツセミであり同じ政所の職員である紅子が浮かない顔をしている娘のことを気遣うと、丹は床に散らばった書類を拾い上げながら悪い予感がしていると語った。


「悪いことってどんな?」


「はっきりとは分からない、でも紫水小路のみんなが嫌な目に遭いそうな気がするの」


「心配ないわよ。あなたと葵を襲った教会の刺客たちが攻めてきても大丈夫なように源司さんや政所様たちが対策を立ててくれているし、そもそも信心深い人はここには入って来れないわ」


「そうだよね。きっと何も起こらないし、万が一ハライソの人たちが襲ってきても源司さんやクーくんたちと力を合わせれば追い払えるよ」


「ええ、私たちウツセミの天敵にして守護者のウワバミである来栖くんが頼りになることは一番あなたが分かっているでしょう?」


「うん、絶対ウワバミのクーくんが何とかしてくれるよ。だってわたしが危ない目に遭った時、いつもクーくんは助けてくれたもの」


 紅子は娘の不安を和らげようと丹に血液を供給しているウワバミの少年のことを話に出して彼を信じるように呼びかけると、丹は来栖に全幅の信頼を寄せている顔で頷き返す。


 丹たちは絶対的な守護者と思っていた来栖が天連に敗北し、ハライソの刺客がすぐ近くまで迫ってきていることをまだ知らなかった。


* * *


 天連が来栖を倒してその身柄を拘束してから数日後の明朝、鞍田山にある紫水小路へのアクセスポイントとなっている割札の周りに黒い戦闘服を纏った男たちが集まっていた。


 天連の入手した朱印符を使って、ウツセミの暮らす街に侵攻しようとしているハライソの刺客たちである。吸血鬼に対して絶大な効力を発揮する聖火を使う使徒たちは手ぶらだったが、聖火の使えない衛兵と呼ばれる吸血鬼に対処する訓練を兵士たちは表面を銀でコーティングした銃弾を装填したライフルやマシンガンなどの銃器を携えていた。


「ウワバミの話では朱印符を持つ人物の周辺にいれば吸血鬼どもの巣食う紫水小路とやらに一瞬で移動出来るそうだがなにせこの大人数だ、一度に移動できない場合は残った者を連れに一度戻ってくる。作戦地域に潜入次第、各員散開して任務を遂行しろ」


「了解!」


 紫水小路の焼き討ちの現場指揮を任されている天連が作戦に参加する兵士たちに呼びかけると、彼を囲んだ一同は声を揃えて復唱する。


「伴さんに捕まったウワバミの少年、身動きが取れないから悪態ばかりついていましたけど自白剤を投与したら簡単に口を割ってくれましたね。薬の効果で質問にいくらでも答えてくれたあいつの無様な姿は見物でしたねぇ」


「実力で屈服させた訳じゃないから、一度あいつにやられた身としては憮然としませんでしたよ。しかしウワバミの奴、吸血鬼と内通しているばかりか親しい仲になっていたとはどれほど神を冒涜すれば気が済むんでしょうか?」


 ハライソが紫水小路への突入口を開く朱印符の説明をさせられただけではなく、来栖は紫水小路にいるウツセミたちとの関わり方についても尋問された。自白剤を打たれたせいで訊かれた質問に対して包み隠さず回答を続けているうちに、来栖は彼自身もはっきりとは自覚していなかった丹に好意を抱いていることまで喋らされてしまう。


 狡猾そうな目つきをした使徒の神尾が含み笑いをしながら自白剤を投与されて酩酊としていた来栖の痴態を愚弄すると、以前来栖と交戦して叩きのめされた使徒の聖は来栖が仇敵である吸血鬼と懇ろになっていたことに憤慨する。


「おや、見てくれだけはいい吸血鬼の愛人がいるウワバミに嫉妬ですか天野くん?」


「ち、違いますよ。どれほど綺麗でも中身は穢れた存在である吸血鬼に靡くような男なんて軽蔑はしても羨ましい訳ないじゃないですか!」


「ああ、お前の言う通りだぜ天野。俺を倒したその実力は認めてやろうと思った矢先に、ウワバミが吸血鬼の女とよろしくやっているなんて言った時には、そんな奴にやられた自分が情けなくて仕方がなかったぜ」


 多感な青春期にある聖は、例え相手が魔性の存在でも異性と同棲するくらい良好な関係を作っている来栖のことを羨ましく感じており、神尾は聖の複雑な心境を的確に言い当てて揶揄する。


 神尾の冷やかしに聖がむきになって反論すると、優勢に戦況を進めておきながら切り札の斂の前に敗れ去った十文字が来栖への不満を噴出させる。


「ウワバミが今までどれだけ吸血鬼と情を通わせてきたのかは知らないが、俺たちの手に落ちた奴もその愛した吸血鬼ももう二度と生きて顔を合わせることはない。仮に奴らが出会えるとすれば、そこはきっと地獄だ」


「地獄というなら、これから我々の向かう場所も当てはまるのではないですか?」


「いや、これから行く場所は化け物が支配し背徳が蔓延しているだけだ。地獄と呼ぶには生ぬるい」


「そういえばウワバミは住人が吸血鬼ということ以外は普通の街をそう変わらないと言っていましたね。では我らがその街を本当の姿に相応しい地獄に変えてあげましょう」


 神尾たちの会話のせいで死地に赴こうとする空気が弛みかけているのを、天連は厳粛な声で窘めて兵士たちの気を引き締め直す。それでも神尾は懲りずに軽口を言い続けるが、吸血鬼を殲滅し紫水小路に戦禍をもたらすことに何の抵抗も感じていない様子だった。


「さあ、化け物どもが横行する悪徳の街の浄化に向かうぞ」


 天連は戦闘服の胸ポケットから朱印符を取り出すと、枯れ木の枝から下がっている割札にその縁を合わせる。天連が握っている朱印符と木の枝にかかった割札がぴたりと一致した瞬間、彼とその周囲にいる男たちは1人残らず忽然と姿を消してしまった。


 朱印符を割札に重ねたことで一時的に紫水小路と天連たちの立っていた空間が重なり、彼らは異空間にある紫水小路へと時空を跳躍することに成功したのだった。


「よしよし、教会の殺し屋どもが紫水小路に入ったな。連中を泳がせている間に常時つねとき護通もりみちの孫を連れてきてくれるだろし、俺もぼちぼち動くとするかね」


 ハライソの兵士たちがアクセスポイントを経由して紫水小路へと潜入するのを確かめると、そこから少し離れた所に生えた大木の枝の上で数日前に先代のウワバミを殺害し朱印符を奪ってそれを天連に渡したウツセミの平輔が満足そうな顔を浮かべている。


「間抜けな教会の連中も護通の孫も、人間どもにはみんな俺の野望を達成させるための生贄になってもらうぜ」


 平輔はハライソの動向を覗き見していた枝を踏み切り、次々と高所にある枝から枝へと飛び移っていきながらいずこかへ姿を消してしまう。同胞たちを教会の刺客に脅かすことを躊躇せず、平輔は長年抱いている宿願を成就させるための布石を密かに打ち続けており、いよいよそれが実現する機が熟そうとしていた。


* * *


 人間の暮らす現世が夜明けを迎えて一日の営みを始めるのとは入れ替わりに、紫水小路に住むウツセミたちの一日は終わろうとしている。


紫水小路の上空に広がる黄昏の空が移ろうことはないが、現世の陽が暮れて人間たちが一時の快楽を求めて夜の街に繰り出してくるのに合わせて活動を開始するようにウツセミたちのライフサイクルは調整されている。


「今日も楽しい一日じゃったのう丹?」


朱美あけみちゃん飲み過ぎだよ、1人でチンタの大瓶を2本も空けたじゃない」


 振袖を纏って上機嫌で顔を紅潮させている少女の身体を支える丹は、血液の代用品であるチンタを大量に呷った挙句、年甲斐もなく悪酔いしている相手のことを諌める。


「一仕事終えたんじゃからそのお祝いに景気よく騒いでもいいではないか」


「最近朱美ちゃんが忙しかったことは認めるけど、こんなに羽目を外して今何か起こったらどうするの?」


「大丈夫じゃって、いざと言う時はチンタの酔いなんぞすぐに醒めるからのう」


 いくら朱美が数百年の時を生きている古参の吸血鬼とはいえ、自分の肩に寄りかからなければ真っ直ぐに歩けない酔っ払いの発言を丹は信じる気になれない。


おおらかというか危機感がないというか、とにかく教会の勢力が自分たちの平穏を乱すかもしれないという切迫した状況であるにも関わらず、いつもと変わらずに振舞える朱美の度量に丹は呆れと羨望の入り混じった感情を抱いた。


 政所様という異名の通り、朱美は現在丹や紅子が在籍している紫水小路の庶務を担う政所の長の椅子に座っている。朱美は職場である政所の建物の二階に居を構えており、丹もハライソの追っ手から逃れるために紫水小路に隠遁している現在は政所の二階にある空き部屋で寝起きしていた。


 形式的には職場の上司だが事実上は友人関係にある朱美に連れられて歓楽街の花街に出向いた丹は、同じ場所に帰るということで憂さ晴らしにチンタをがぶ飲みしてへべれけに酔っ払った朱美の介抱をすることになってしまっている。しかし朱美と花街に遊びに行く時は大抵同じようなことになっているので、丹はいつも通りにぐだを巻く朱美の話に適当に合わせながら彼女を政所へと誘導していく。


「朱美ちゃん、あの人たちもうすぐ陽が登る時間なのにどうして現世に戻らされていないんだろう?」


「ん~? ここに迷い込んだ人間も一斉に現世に送り返される訳ではないんじゃから、まだ表をうろついておるもんがおっても不思議ではなかろう」


「でもあの人たち何か嫌な雰囲気がする…えっ、あれ本物の銃じゃないよね?」


 政所の社屋の傍までやってくると、丹は自分たちの向かいから薄暗がりに溶け込むような揃いのデザインの黒衣に身を包んだ数十人の男たちがやってくることに気付く。不穏な気配をその一団から丹が感じると、そのうちの何人かが肩にかけたものを手にとって彼女たちにその先端を向けてくる。


 人間よりも夜目の利く吸血鬼の目に映った男たちが構えた長物がライフルやマシンガンだと丹が認識した瞬間、一言の警告もなしに男たちは発砲してきた。


「逃げるぞ丹!」


 紫水小路に潜入したハライソの刺客たちから発せられる殺気で一気に酔いの醒めた朱美は、それまで千鳥足で覚束なかった歩みをしていたことが嘘のように素早い動作で丹の手を引いて路地裏へと駆け込んでいく。


 足元に何発か銃弾を撃ち込まれたものの、幸い一発も身体に掠ることもなく丹と朱美は突きつけられた銃口から逃れるため狭い路地を全速力で疾走する。


「朱美ちゃん、あの人たちは一体……」


「おそらく教会の刺客じゃ。しかしどうやって紫水小路へ侵入してきたんじゃ? 政所の近くには護通の持っとる朱印符しか出入りできんはずなのに……」


「護通ってクーくんのお爺さんの名前だよね? 先代のウワバミだった人が朱印符を他人に渡すはずないし……」


「護通が教会に寝返るはずがない。教会の奴ら、ひょっとして護通から朱印符を奪ってそれを使ったのか? わしらと関係していることを知られた以上、護通や小僧にも教会の刺客が差し向けられる可能性は予想しとったが、あやつらがやられるとは思いもせんかったわい」


「それじゃクーくんは……」


「残念じゃが、小僧が援軍に駆けつけてくれる望みは薄いな。紫水小路の住民であるわしらだけで教会の連中を追い払わなければならんようだわい」


 ハライソの刺客がウツセミの協力者であるウワバミに預けた朱印符を奪って紫水小路に侵入してくることを考慮しなかった自分たちの軽率さを朱美は悔やむ。だが敵は本丸に切り込んできてしまっており、早期に対処しなければ大勢の犠牲者が出ることは自明の理だった。


 朱美はウツセミの天敵にして守護者であるウワバミの助けを借りずに、ウツセミが独力でハライソを退けなければならないことを覚悟するように丹に告げる。


「クーくん…きゃっ!?」


「小僧の心配よりもまずは自分の身を守ることが先決じゃ、油断したら死ぬぞ!」


 丹は紫水小路に篭城するようになってから顔を合わせていない来栖のことが不安で、胸の前に掲げた拳を握り締める。だが今は彼女自身も教会が存在を容認できない穢れた存在として迫害されている立場であり、他人の心配ばかりしていられなかった。


 丹の脇の壁を銃弾が掠めると、朱美は厳しい声で丹を一喝すると路地を右折して建物を壁にしながら射線上から逃れる。


 信心深さに起因する吸血鬼への弾圧が、皮肉なことに数百年間にわたって平和を維持してきた吸血鬼の安住の地で始まってしまった。


* * *


 ウツセミたちの根城である紫水小路に潜入したハライソの兵士たちは、数人一組で方々に散開していく。銃火器を装備した衛兵たちは無造作に銃弾をばら撒き、手榴弾などの爆発物を投下して家屋の壁を破壊しながら仕事を終えて眠りに就こうとしていたウツセミたちを炙り出しにかかる。


 外から聞こえる爆発や銃撃による轟音を聞きつけたウツセミたちが慌てて建物の外に飛び出してくると、衛兵たちは無慈悲に銀の銃弾を撃ち込んで哀れなウツセミの身体を蜂の巣にし、使徒は発した聖火でウツセミを焼き払い痕跡も残さずに消滅させた。


「やけに表が騒々しいけど何が起こっているのかしら?」


寝床に潜り込もうとした富士見氏族の若き族長千歳の耳にも、街中で起きている惨状の喧騒が届いてきた。


「大変ですお嬢様、教会の殺し屋たちが街に押し寄せてきたそうです!」


「嘘でしょう、そんな連中がここに入ってこられるはずがないじゃない!」


「嘘じゃありません、ウワバミがウツセミを裏切って教会の殺し屋が紫水小路に入れるように手引きをしたんです!」


 千歳の従者である少年の姿をしたウツセミの悠久はるひさがノックもせずに彼女の寝室に駆け込んでくる。本来ならば不躾な家人を叱責すべきところだが、悠久の発した報告のショックで千歳はそんなことに思い至りもしなかった。


「だからいくら人間の真似事をして会議なんかしても無駄だって言ったのよ、どうせ他人なんかいつ裏切るか分からないんだから……永遠とわ、すぐに着る物を用意してちょうだい」


「畏まりました。あのお嬢様……」


「なに? 殺し屋が迫ってきていてぐずぐずしている暇はないんだから、無駄口を利いていないでさっさと準備をしなさい」


「わたしは絶対にお嬢様を裏切りません。だから最期までお傍に置いてください」


 侍女の役目をさせている召人めしうどの娘永遠は主の吸血鬼である千歳に終生の服従を誓う。子犬のように潤んだ瞳で自分の顔を凝視してくる永遠を千歳は始め無表情で見返していたが、やがて氷の彫像のような美貌を僅かながら柔和に和らげる。


「当然でしょう、命が尽きるまで貴女は私のものよ。勝手に離れることは許さないわ」


「ありがとうございますお嬢様!」


 千歳の微笑み一つだけで存分に心が満たされた永遠は、いきいきとした表情で衣装ダンスから主人の身につける衣服を取り出して用意し始める。


代永よながの連中が私たちを殺す力を持った人間を信じるからこんなことになったのよ。まあ昔の風習に囚われている頭の固いあのひとたちも、今回のことでいい加減考えを改めるでしょうけどね」


 族長の源司をはじめとする代永氏族のウツセミたちが、その気になればウツセミを簡単に消滅させられる能力を持った相手に媚びを売り対等な関係を築こうとしていたことがどれほど愚かなのかが明白になったことを千歳は内心嘲笑う。


 人間のように細々とした規則を定め、その決められたルールの中で生きようとしている代永のウツセミたちのことを千歳は滑稽に思っていたし、何かと理屈をつけてくる彼らのことが生理的に嫌いだった。


 ウツセミは家族や地縁といった柵に囚われることなく悠々自適に暮らせるはずなのに、そうして望んだように生きられる選択の幅を代永のウツセミは進んで縮めようとするのか千歳には理解できない。


「自分たちが蒔いた災いの種なんだから、代永のひとにはちゃんと責任をとってもらわないとね」


 千歳は危険な存在であったウツセミと融和を選んだ代永氏族の過失を責める。だが代永氏族の落ち度がこの騒乱を招いたことは確かだったが、名目だけとはいえ紫水小路を二分する勢力の頂点に立つ存在としての自覚を千歳も欠いている。


 千歳は一つの氏族を率いるものとしてこの事態を傍観していてはいけない。本来ならば混乱を収拾させるためにウツセミの先頭に立って指揮を執らなければならない立場だったが、彼女は自分と親しいものの安全に気を配るだけで思考が停滞してしまっていた。


* * *


 堅牢な外壁に囲まれているチンタの醸造所である酒蔵は、最近頻繁に開催されていた有力者たちの会議の中で有事の際の避難所に指定されていた。所属する組織の代表者の指示に従って、街のあちこちから酒蔵の敷地にウツセミや彼らに仕える召人たちが次々に雪崩れ込んできている。


「ウワバミが僕らを裏切ったせいで教会の連中が街で暴れている……」


 血気盛んな男が多い酒蔵のウツセミの中では一際優しげに見えるあきらは、酒蔵の頭領を務める豪傑のウツセミうしおの言葉をにわかには信じられなかった。


「ああ、政所や花街の方で相当な数がやられているらしい。代永の奴らも抵抗しているらしいが、いくら源司や忠将がいても女が多いあの地区の連中だけで持ち応えるのは難しいだろう。酒蔵に近づく教会の殺し屋どもを水際で食い止めるため俺も加勢してくる」


「大将、俺も行かせてください!」


「俺もお供します!」


 勇猛果敢な潮が守りを固めるのではなく打って出ることを宣言すると、体格に恵まれて威勢のいいものたちが意気揚々と潮に同行を申し出てくる。


「おめえらの心意気はありがてぇが、酒蔵の守りを手薄にする訳にはいかねぇ。連れて行く俺が直々に声をかけるから、残りの奴はここに残ってしっかり逃げてきた奴らを守ってろ!」


「わかりました!」


 豪放磊落で親分肌の潮の統率力は相当なものであり、気性が荒く我の強いものが多い酒蔵のウツセミたちの間からも不満や反感の声は一切あがらない。腕に覚えのあるものは潮の従者に選抜されることを祈りながら、武者震いをしていた。


「あの親方…残ったものの指揮は誰がするんでしょうか?」


「適当に年季のある奴、そのうち染物屋の爺が顔を出すだろうからあいつにでもやらせればいい」


 遠慮がちに晨が指揮官のいなくなった酒蔵の守りをどうするのかと訊ねると、潮は少し彼の質問に答えるのが面倒くさそうな顔で富士見氏族の中では最年長で染色家を生業にしているわたるの名前を挙げる。


「…千歳様にお任せしないんですか?」


「アホか、あの箱入り娘にそんな大役任せられるはずがねぇだろう。かと言ってあのお嬢様にいなくなられるとまた族長を決める手間があるから晨、あの娘と仲のいいおめえがお迎えしてこい」


 配下に両方の氏族のウツセミを抱えているとはいえ、潮自身は富士見氏族のウツセミであり名目上は千歳の部下になる。だが自分よりも遥かに若輩者である千歳に対して敬意も信頼も潮は全く持っておらず、厄介者扱いしていることを公言して憚らない。


「どうせお前みてえな優男が大将のお供できる訳ねぇんだし、女のご機嫌取りなんてうってつけの仕事じゃねえか?」


 酒蔵のウツセミの間でも腕っ節の強さで名の通っている悟郎が潮から千歳の迎えを言いつけられた晨のことを中傷すると、彼と親しいものたちが失笑を漏らす。


「…分かりました、千歳様のお迎えに行ってきます」


「お飾りのお人形でも富士見の族長だ、ちゃんとお守りするんだぞ」


 言われた通りに千歳を迎えに行こうとする晨の背中に、潮は一応要人であるので粗相のないようにと冗談交じりの言葉をかける。絶え間なくウツセミたちが避難してくる酒蔵の門に向かっていく晨の背後でどっと笑い声が沸きあがった。


「…言われなくても千歳様のためなら命なんて幾らでも投げ出してやるよ」


 同僚たちの心無い嘲笑を背に受けながら、晨は潮に命令されたからではなく自分の意思で千歳のために身を挺する覚悟を口にした。


* * *


 役職に就いていない若手のウツセミの住む長屋が密集している地域。多くの住民たちが酒蔵を目指して戦禍を避けながら移動を始めていたが、紅子と彼女の夫で人間のいつきはここから離れられずにいた。


「紅子、俺たちも早く避難しよう」


「駄目よ、葵が戻ってくるまではここで待ってなくちゃ!」


「ベビーシッターの仕事が終わってからかなり経つのに帰ってこないのは、きっと仕事先からそのまま安全な場所に避難したからに違いない。これ以上待つのは無理だ」


 現世でハライソに捕まり丹と来栖を誘き寄せる餌として利用された娘の葵を、ハライソの手から守るために紫水小路に滞在させていたのに皮肉なことにそれが裏目に出てしまった。


 紅子は次女の無事を確かめるまで家から離れないと言い張るが、徐々に銃声や爆音が近づいてきていることに危機感を募らせた斎は妻を宥めて退避を促す。だが斎が紅子の腕を引っ張って強引に連れ出そうとしても、吸血鬼に転化して常人離れした筋力を身につけた紅子はしっかりとその場に踏み止まり一歩も動かせなかった。


「ぐぁっ!?」


 断固として葵の帰りを待ち続けようとする紅子と、娘が無事なことを信じて自分と妻の身を守ることを優先しようとする斎が押し問答を続けているうちに、とうとう向かいの長屋で爆発が起きる。飛散した瓦礫から紅子を庇おうと斎は細身の妻を抱き寄せると、爆風に背を向けてじっと身を硬くする。


「斎!」


「…大丈夫だ」


 爆風に煽られて斎は紅子を抱いたまま吹き飛ばされる。両腕で強く紅子を離さないように抱えたまま斎は地面を転がっていくが、妻の心配に対して気丈に笑い返す。


 一度紅子を腕の中から解放すると、斎と紅子はゆっくりと身を起こす。爆発で粉塵の舞い上がり不明瞭になった視界では互いのことをすぐに見失ってしまいそうで、斎は紅子の手を握ると彼の愛妻は夫の手に自分の指を絡めて確かな繋がりを感じようとした。


「どちらが吸血鬼か知りませんが、なかなかいい愛情を育んでいるようですね?」


「誰だ!」


「冥土の土産に教えてあげますよ、私は神の御名においてこの魔窟を清めるハライソの使徒です」


 霧島夫妻が苦境においても仲睦まじい様子であることを馬鹿にするような声が聞こえると、斎は姿の見えない相手につけこまれないように気炎を吐く。しかし音もなく斎の背後に忍び寄ったハライソの使徒は彼の首筋を狙って凶刃を一閃させる。


「危ない!」


 斎のよりも早くハライソの使徒神尾の接近に気付いた紅子は、神尾の携えたナイフが斎の首を掻き切る寸前に右手一本で夫を自分の方に引き寄せると、左腕で斎のことを抱えながら大きく跳躍して神尾から離れる。


「やはり女性の方が吸血鬼でしたか。さすがに男好きのしそうな綺麗な顔立ちをしていらっしゃる」


神尾は紅子の尋常でない身体能力を目の当たりにして、予想通り中年男性の斎ではなく若々しい容貌をしている彼女が吸血鬼だと断定する。


「生憎と俺の妻は誰にでも靡くような尻軽じゃない」


「生き血を啜って命を繋ぐ化け物を伴侶と呼ぶとは面白い。その化け物に身も心も弄ばれたあなたの魂を救う術はどうやらその呪われた人生を断ち切る以外にないようですね?」


「冗談じゃないわ、愛する夫や娘たちの命をあなたたちに奪わせたりはしない」


 斎は相手が殺しのプロであっても自分の妻を侮辱することは勘弁ならず強気の姿勢で応じる。心身ともに吸血鬼に毒されてしまった斎を救うには彼の魂を穢れた肉体から解き放つしかないと言い捨てる神尾に対して、紅子は大切な自分の家族をハライソの刺客に傷つけさせはしないと言い返した。


「それは結構な心がけですがあなたは誰も守れない。何故なら私があなたを殺すからだ!」


「きゃっ!?」


「紅子!?」


 周囲に立ち込める倒壊した家屋の粉塵が神尾の近くで青白く発光したように斎が感じると、突然紅子が悲鳴を挙げてその場に崩れ落ちそうになる。神尾の放った聖火で全身が痙攣し足に力が入らなくなった紅子を斎は慌てて手を伸ばして抱き止める。


 だが失神しかけた紅子に気を取られている隙をついて、両手に銀で刃をコーティングしたナイフを握った神尾が一気に間合いを詰めてくる。


「ちっ!」


「しゃああっ!」


 斎は抱えた紅子を背中で庇うように身を捻って神尾の斬撃を回避するが、猛スピードで突進してきた勢いを強引に殺してその場に踏み止まると神尾は脚を真横に突き出して斎の背中を蹴りつける。


「うっ!?」


 神尾の蹴りはまともに斎の腰の辺りを打ち付けて斎はその苦痛に顔を歪ませるが、歯を食い縛って衝撃に堪えると紅子の身体を不安定な状態で抱えたまま神尾から逃れようとする。


「吸血鬼もその餌の人間も逃がしはしませんよ、エイメン!」


「うぉぉっ!」


 年齢にそぐわない敏捷さでその場を駆け出した斎の足止めをしようと、神尾は戦いの素人でしかも普通の人間である彼には威力が高すぎる聖火を発動させる。だが神尾の聖火を叩きつけられて斎は絶叫をあげながらも紅子の身体を手放さず、また歩みも止めずにもうもうと漂っている粉塵の中へと駆け込んで姿を晦ましてしまう。


「あの男、見上げた奴隷根性ですね。まぁ少しくらい抵抗してくれないと狩りの醍醐味に欠けますからその気迫は買ってあげますよ」


 ばたばたと足音を響かせながら必死に逃げようとする斎の位置を探るのは容易なことであったが、神尾はあまり簡単に獲物を仕留めても面白くないのでしばらくの猶予を与えてやることにする。


「そろそろ行きますか、人間の夫に吸血鬼の妻なんて組み合わせをいたぶれる機会は滅多にありませんからね。楽しませてもらいますよ!」


 30秒ほど間を置いた後、神尾は嗜虐的な笑みを浮かべて斎たちの追跡を開始する。紫水小路に侵入したハライソの兵士たちの多くは敬虔な信仰に基づいて吸血鬼の粛清を行うことを目的としていたが、神尾に関しては自分の嗜虐的な性癖を満たすための獲物としてこの作戦に従事している面が強かった。


* * *


 紫水小路を隅々まで知り尽くしている朱美の誘導でハライソの追跡を振り切った丹は、逃げ込んだ先の花街にある店を統括しているマネージャーの忠将に大勢の襲撃者が侵入したことを伝える。忠将は客と従業員に酒蔵への避難を呼びかけると、腕に覚えのある黒服の男たちを率いて街へのハライソの侵攻を食い止めようとする。


「丹、お前の妹と蘇芳すおうのことを見かけなかったか?」


 丹たちが代永の族長の参謀を務める忠将に報告をしたことで、ハライソの奇襲にもようやくウツセミたちは対応し始めた。役割を終えた丹も酒蔵へ避難しようとすると、忠将から妹の葵と彼女が最近忠将からベビーシッターを頼まれている幼女の行方を訊ねられた。


「いえ、見ていません。葵たちに何かあったんですか?」


「蘇芳が散歩に行きたいと言い張るからお前の妹に外を連れて回るように頼んだんだが、2人ともまだ帰ってきていないんだ」


「葵と蘇芳ちゃんはまだ避難していないんですか!?」


「多分、おまけにあいつらはここがどれだけ危険な状況になっているか分かっていないはずだ。よりにもよってこんな時に迷子になるなんて……」


 妹と忠将が世話をしている幼女の安否が確かめられないことを聞き、丹は自分が銃口を向けられた時よりも顔を青褪めさせる。忠将は土地勘のない葵に蘇芳を連れて外出を許可してしまった自分の迂闊さを深く後悔した。


「…わたし2人を捜してきます!」


「止めろ、下手に動いたらお前も教会の奴らに殺されるだけだ!」


「行かせてください、忠将さんは2人のことが心配じゃないんですか?」


「心配じゃない訳ないだろう、でも俺は花街の管理者としてこの街の女や客の安全を確保する義務があるんだ。私情に流されてその勤めを蔑ろにする訳にはいかない!」


 妹たちの危機にいてもたってもいられず銃弾が飛び交い悲鳴がこだまする街へ丹は駆け出そうとするが、忠将は彼女の肩を万力のような力で掴みその暴走を防ぐ。丹が彼の薄情な態度を責めると、忠将は激情を面に出して個人的な情愛と花街の管理者としての義務の間で板ばさみになっている葛藤を口にした。


「忠将も丹も落ち着け、お主たちまで浮き足立っていてはもともこもないじゃろう?」


「すみませんでした、朱美姐さん」


「でも朱美ちゃん、こうしているうちに葵と蘇芳ちゃんは怖い目に遭っているかもしれないんだよ?」


 忠将と丹の言い合いを朱美は静かな声で仲裁する。朱美の見た目は青年の姿をした忠将だけでなく十代後半の娘である丹よりも幼かったが、人間の天寿よりも遥かに長い時間を生きている忠将の倍以上の実年齢をしている彼女の貫禄に気が立っていた2人もすっかり呑まれてしまう。


「わしとて友人の家族や後輩が手塩にかけて育てている幼子を見捨てるつもりはない。忠将お主は部下を引率して教会の連中の足止めに専念しろ。丹、転化して日が浅いだけでなく烙印の影響で人間並の体力しかないお主に代わって2人のことはわしが捜そう」


「分かりました、蘇芳たちのことよろしくお願いします」


「朱美ちゃん、わたしがいるとやっぱり足手纏いになるの?」


「はっきり言えばそうじゃ。しかし戦禍で身も心も疲れきった妹たちを優しく出迎えてやることはお主にしかできんことじゃろう?」


 忠将に役職的な義務に専念するように命じて、朱美は迷子になっている葵と蘇芳の捜索の役割を進んで引き受ける。忠将だけでなく朱美からも足手纏い扱いされて丹は不服そうだったが、妹たちを癒してやることこそが彼女の役目であると朱美に諭されると自分が思い違いをしていたことに気付く。


「分かった。朱美ちゃん、葵と蘇芳ちゃんのこと頼むね」


「うむ、大船に乗ったつもりで待っておれ」


 友人から妹たちの捜索を託されると、朱美は首を縦に振って丹を安心させるように微笑んでみせる。丹が精一杯の虚勢を張って作り笑いを浮かべると、朱美は体重のないような軽やかさと獲物を追う獣のような力強い跳躍で瞬く間に丹の視界から消え去った。


「きっと騒ぎを聞きつけて源司も近くまで来ているだろう。教会の連中を追い払う目途がついたら、あいつに頼んで自慢の千里眼で蘇芳たちのことを探してもらう。妹たちのことも教会の連中のことも俺たちに任せて、お前は自分の身を守ることだけに集中しろ」


「はい。忠将さん、どうかご無事で」


「お前の家に蘇芳を引き取ってもらうのを見届けるまで死ぬ訳にはいかないからな、さっさと小競り合いにケリをつけてくるさ」


 丹が死地に赴こうとする忠将のことを気遣うと、彼は不敵な笑みを浮かべてその心遣いに感謝する。


「これ以上街を荒らされたら商売上がったりだ、気合入れて相手を片付けるぞ!」


「はい!」


 忠将の掛け声に続いて、酒場の黒服たちがドスの利いた返事をする。ハライソの兵士たちに挑もうとしている忠将たちの背中を振り返りながら、丹は彼らとは反対方向にある酒蔵に向かって移動し始めた。


「お願い、どうかみんな無事でいて……」


 急進的な教義を掲げているとは言え、神を讃えるハライソの兵士たちによって命を脅かされている状況では神に祈ってもその恩恵があるとは思えなかったが、それでも丹は家族や親しいものだけではなく、紫水小路の住民たちの無事を祈らずにはいられなかった。



第10回、異端審問 了



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