第1回、光と陰をまたにかけて
平日の朝は学生や勤め人のいる家庭ならば非常に慌しいものである。通学や出勤の準備による喧騒が起こるのは、3人の学生と社会人の父親がいる霧島家もその例外ではなく、むしろ一般の家庭以上に殺伐とした空気が漂っていた。
「姉さんお弁当詰めるのまだ終わらないの、早くしてくれないと遅刻しちゃうじゃない!」
「あぅち、ごめん今できるから……」
次女で中学生の葵が弁当の催促をしてくると、制服の上にエプロンをかけた長女の丹がシンクに溜まった洗い物を片付ける手を止めて、慌てて妹の分の弁当箱に蓋をしてバンダナにくるんでいく。
「丹は洗い物で忙しいんだからそれくらい自分でやれ!」
「お弁当作っているの姉さんなんだから、姉さんが蓋を閉めない限り出来上がっているかどうか分からないでしょう? お弁当に入れ損ねて酸化したリンゴを晩御飯に出されるのはもう嫌よ」
「屁理屈ばかり言ってないで少しは丹を手伝ったらどうなんだ?」
「女の子の身嗜みには時間がかかるのよ、洗濯干したり食器を洗ったりする暇がある訳ないじゃない!」
父親の斎が葵の横暴な言動を咎めてくると、葵は薄くファンデーションを塗りマスカラをつけて化粧をし、念入りに髪をセットした顔に持ち前の我の強さを押し出して姉のことばかり贔屓する父親に反抗を示す。
「何が身嗜みだ、中学生が化粧をする必要なんかないだろう!」
「父さんの時代とは違うのよ、今は中学生でも化粧をするのなんて常識よ!」
倫理や規範に厳格な斎と奔放な葵の折り合いは悪い上、相手の非を責め続ける強情な面は共通しているので、彼らの間にこうした諍いが起こるのは珍しくない。互いに憎まれ口を叩き合った末、葵はテーブルの上からバンダナに包まれた自分の弁当箱を取り上げると台所から出て行こうとする。
「葵」
「なによ姉さん、アタシ急いでるんだけど?」
「いってらっしゃい、急いでいるからって飛び出しちゃ駄目よ?」
丹に呼び止められて葵は鬱陶しそうな顔で姉に振り返ると、丹は温厚な笑みを浮かべてそそっかしい性格の妹を安全に送り出そうとする。
「子どもじゃないんだからそんなの分かってるわよ、行ってきます」
「おう、気をつけて行って来い」
「…行ってきます。父さんもさっさと会社行けば、新聞ばっか読んでると遅刻するよ」
葵は丹に子ども扱いされて照れ臭そうな顔をする。台所から出て行った葵の背中に朝刊の紙面に目を通したまま斎が呼びかけると、葵は斎に注意を促して玄関へと向かっていった。
「葵に言われるのも癪だがそろそろ出ないとな。丹、俺の弁当はできているか?」
「うん、もう炒め物も冷めているから蓋をして大丈夫」
「そうか、毎日美味い弁当をありがとうな」
「自分の分も作っているんだし、お父さんが一生懸命働いてくれてるおかげでわたしがご飯を作れるんだから感謝されるようなことじゃないよ」
「そんなに謙らなくてもいいんだぞ丹。まったくお前と葵の性格を足して割ればちょうどいいんだろうけどなぁ」
「そうかもね」
父親の言葉に丹が思わず吹き出し笑いをする。彼女は洗い終えた食器から水気を拭き取りながら手際よく戸棚に食器をしまっていった。斎が弁当箱に蓋を閉めて包みの紐を結び終えるのと、丹が食器を片付け終えるのはほぼ同時だった。
「丹、弁当箱が2つ残っているがもう1つは誰の分だ?」
「誰って、クーくんの分に決まっているじゃない」
「あいつの分か…何も昼飯の面倒まで看てやらなくてもいいんじゃないか?」
「3人分作るのも4人分作るのも手間は大して変わらないよ」
丹が家族3人の分に加えてもう1人分弁当を作っていると知り斎は眉をひそめるが、丹自身は他人の昼食の支度をすることを意に介していないようで残った2つの弁当箱を持参できるように包んでいく。
「それであいつはどうした、まさかまだ寝ているのか?」
「クーくんはわたしと一緒に登校するのを見られるは恥ずかしいって先に学校に行ったよ」
「あの小僧、丹と一緒に登校するのが嫌だと言うのか…いや、しかしあんな不良が可憐な丹と並んで登校していることは許せんし……」
「理由はどうあれ遅刻の常習犯だったクーくんがちゃんと始業時間に間に合うようになったのはいいことだよ」
丹が弁当を作ってやった人物と長女との関係に斎がやきもきしているのを、丹は愉快そうな目で見つめながらエプロンを外して自分の椅子の背にかける。
「お父さん、わたしもそろそろ行くね。戸締りお願いしてもいい?」
「ああ、任せておけ」
「よかった、それじゃ行ってきます」
「いってらっしゃい」
丹が弁当の包み二つを携えて台所から出て行くのを斎は見送ると、新聞を畳んでテーブルの上に置いた。
「認めたくはないがこうして変わらぬ日常を過ごせているのはあいつのおかげだ、飯の面倒くらい看ててやってもいいよな?」
斎は開放されている台所の窓に鍵をかけながら、丹が弁当を渡す少年から自分たち家族の受けた恩恵によって平穏な日々を過ごせているのだと苦笑する。丹の交際相手として好ましい点ばかりではないにしろ、その少年の人物を認めている節があることを斎は苦々しく思いつつ自認していた。
「来栖託人、吸血鬼いやウツセミの天敵と守護者を務める男か……」
斎は自分の家族が巻き込まれた一連の騒動の解決に大きな貢献をした少年の顔を思い浮かべると、その少年の名前と彼の一族が先祖代々受け継いでいる責務のことを口に出した。
* * *
御門市東部を南北に流れる鱧川の下流に面した稲荷区に立地する公立校くいな橋高校のグラウンド。高く澄み渡った秋空の下、生徒たちが心地よい環境の中で持久走に精を出している。
「来栖、それだけの脚力を持ちながら何故どこの運動部にも入ろうとしない? 今からでも遅くない、ラグビー部に入ってその脚力を活かしてみないか?」
まだ半数以上の生徒がグラウンドに白線を引いて作られたトラックを走っており、所定の周回を走り終えた生徒たちも苦しげな顔で喘いでいる中、涼しげな顔で佇んでいる長身の男子生徒来栖に彼の担任の体育教師盛田、通称ゴリ田は自身が顧問を務めているラグビー部への入部を勧めてくる。
「残念ですけど部活やってるほど暇じゃないんでお断りします」
「部活やってるほど暇じゃないだと、青春を部活にかけることの何が悪い?」
「誰も部活に打ち込むことが悪いとは言ってませんよ、ただ俺は他にやるべきことがあるってだけっす」
「じゃあお前は何に力を入れているんだ来栖、少なくとも勉強に打ち込んでいる訳じゃないだろう?」
「なんだっていいじゃないっすか、少なくともセンセーが心配してるようなことじゃないっすからご安心を」
部活動を軽んじているような来栖の発言を聞き捨てならずゴリ田は来栖に絡んでいくが、来栖は担任の詰問を軽くあしらって視線を眼前の筋肉達磨から逸らした。ゴリ田から逸らした来栖の視線の先に1人の女子の姿がある。
「あの馬鹿…何考えてんだ?!」
多くの生徒が半そでのシャツやハーフパンツで走っているほどの陽気であるのに、上下ともしっかり長袖のジャージを着込んで帽子を被っているその女子生徒の姿を見止めると、来栖は弾かれたようにその女子生徒に向かって突進していった。
「おい丹、あんた何やってんだ?」
「何って…普通にジョギングしているだけだけど?」
「普通にジョギングしているだけだと、あんた自分の体が今どんな状態か分かっているのか?!」
「うん、それはもちろん…きゃっ、ちょっとクーくんいきなり何するの?!」
ゆったりとしたペースで走っている上下ジャージ姿の女子生徒の傍に駆け寄った来栖が口角を泡立てるような勢いで捲くし立てるのを相手の女子生徒はきょとんとした表情で見つめ返すが、来栖は暢気な返答をしてくる相手のことを無理矢理膝と背中に腕を通して抱き上げた。
相手の女子生徒は女子としては比較的大柄な170cmほど上背があったが、来栖は相手の体格をものともせずに軽々と彼女の体を宙に持ち上げる。突然の事に目を白黒させて驚くが、来栖は彼女を抱えたまま小走りで校舎に向かっていく。
「来栖くん、丹を連れてどこにいくつもり?!」
「急病人を休ませるために保健室だよ!」
「急病人って、丹は普通に走っていたじゃない?!」
丹を抱えていずこかに連れ去ろうとする来栖の背中にクラスメイトの天満カンナの質問が浴びせられてくるが、来栖は早口でカンナの質問に答えながら足早に歩を校舎へと進めていく。
ペースは速くなかったとはいえ呼吸も乱さず安定した足取りをしていた丹のどこが急病だというのかと訝しげにカンナは眉をひそめるが、来栖はもうカンナの質問に答えようとせずに丹のことを腕に抱いて校舎の中へと入っていった。
「センセー、こいつを休ませるためにベッド借りるよ」
来栖は足で乱暴に保健室の引き戸を開くと、保険医の返事も待たずに空いているベッドの上に丹を強引に座らせた。来栖は丹をベッドに横たえると仕切りのカーテンを閉めて外から中の様子を覗かれないようにする。
「クーくん、わたしどこも悪くなんかないよ?」
「丹、ジャージを脱げ」
「えっ、クーくん何を言ってるの?!」
「いいからジャージを脱いで中を見せろ!」
丹が自分の体調はどこも悪くないのに来栖が強引に保健室へ連れ込んできたことに抗議すると、来栖は丹に服を脱ぐように命じる。来栖の正気を丹は疑うが、彼女が躊躇していると来栖は無理矢理彼女の羽織っているジャージを剥ぎ取ろうと手を伸ばす。
「いやっ、クーくんやめてよ!」
「つべこべ言うな、いいから見せろ!」
丹は自分の服を脱がそうとする来栖の手に抵抗するが、か弱い女性が長身に加えて均整の取れた筋肉の厚みのある男に勝てるはずもなく丹はなす術もなくジャージを剥ぎ取られてしまう。丹のジャージを脱がせた来栖は半袖の体操服の袖から覗く丹の白い二の腕や首元を凝視した。
「よかった…どうやら日光の影響は受けていないみたいだ」
「よかったって何が、あっ?!」
「丹、いくらあんたが烙印を刻んだことで普通のウツセミほど肌にダメージを受けなくなったといっても、それでも昼間の日差しを浴びるのは危険なことに変わりはない。それなのにあんたはこの晴天でジョギングの授業に出るなんて自殺行為を平気でしている、少し自分がウツセミだということに自覚が足りないんじゃないか?」
丹が来栖に自分の肢体を嘗め回すような目で見られることに怯えた顔を見せると、来栖がほっとした表情を浮かべるのを見てようやく彼の意図に気付く。来栖は吸血鬼になった自分の体を心配して燦々と日差しの降り注ぐグラウンドから屋内の保健室へと退避させ、更に自分の体が火傷を負っていないかを確認したのだと丹は察した。
背中に銀の刃で十字の烙印を刻み、吸血鬼特有の超人的な身体能力や捕食者として研ぎ澄まされえた五感を失う代わりに、吸血鬼の肌には強過ぎる昼間の陽光を浴びても人間と大差ない影響しか受けなくなったことで丹は吸血鬼でありながら日中外を出歩くことができるようになった。
その体質のおかげで彼女は今も人間だった時と同じように学校に通うことができているが、それでも直射日光を浴び続けることが本質的には夜行性である吸血鬼の健康にいい影響を及ぼすとは考えにくく、来栖だけでなく丹の両親も丹が昼間学校で生活することに不安を抱かずにはいられなかった。
丹は自分の体に痛みを感じる部分はなかったし、素肌を曝している腕や首筋も焼け爛れてはいない。来栖は丹の体が強い日差しを浴びても無事だったことを確認し安堵すると、顔を引き締めて彼女の浅薄で無防備な態度を非難する。彫りの深い顔に陰が差し、精悍な眉が吊り上げられた来栖からかなりの威圧感を丹は感じる。
「ごめん…長袖を着て帽子を被れば大丈夫だと思っていたけれど調子に乗り過ぎてた」
丹は自分以上に日中吸血鬼が活動することのリスクを来栖が考慮していることに気付かされると同時に、あのままグラウンドを走り続けていれば日光にその身を焼かれてしまったかもしれない自分の迂闊さを悔やんで視線を床に落とした。
「最近たるんでるんじゃないか?2学期が始まった頃は自分の体が以前と違うことに留意して慎重に生活していたが、この所日光への警戒が甘くなっているぞ」
「ちょっとうかれていたのは認めるけど、でも学校で普通に生活してたら外に出て陽に当たる機会だって自然に増えちゃうよ……」
「言い訳するな。学校でのフォローをあんたの両親から頼まれているとはいえあくまでもこれはボランティアのサービスだ、ウワバミ本来の責務もあるんだからあんたのことにばかり構ってはいられない」
「わたしはクーくんの手を借りなくたってちゃんと……」
来栖は高慢な物言いで丹の学校での生活態度を非難していく。来栖の言い分は日光に弱い丹の体の安全を考えてはいたし、御門市内にいる吸血鬼の同胞全体に目を行き届かせなければならない義務を負っている来栖の負担を考えれば丹に余計な世話をかけられたくないと思う気持ちも理解できなくはなかったが、今のような自分のことを見下した言い方をされると温厚な丹でもいい気はしない。
丹は俯いていた顔を持ち上げて眉間に皺を寄せて来栖の顔を見上げた。しかし棘のある眼差しを向けた直後、軽い眩暈を覚えて視界が暗転し体から抜けていった丹は腰掛けていたベッドからずり落ちそうになる。
「丹!」
来栖は前のめりに床に倒れかけた丹の体を正面からしっかりと抱き留めてベッドに座らせ直す。来栖に支えられてベッドの上に戻った丹の瞳は虚ろで生気がなく意識が漠然としているようで、元から色白の顔は病人のように血色が悪く虚脱したようにぽっかりと口を開けていた。
「そういやここ数日、血を飲ませてなかったな、そろそろ精気を補充する頃合いか」
丹の魂が抜け落ちたように呆然としている姿を見て、来栖は精気を自給できない丹に血液を介して精気を分け与える必要を感じる。来栖は半袖のTシャツから剥き出しになった自分の筋肉や血管が浮き出た逞しい腕を丹の眼前に差し出した。肌の下に健康な男子の熱い血潮が流れていることを容易に想像できる腕を見せつけられて、虚ろだった丹の瞳に情欲の炎が灯る。
丹は突き出された来栖の腕を両手で掴むと口を大きく開いて彼の腕に顔を近づける。丹の形のいい唇は口腔から滲み出た唾液で怪しく光り、彼女が吸血鬼であることの証拠の人間の平均よりも鋭く長く伸びた犬歯が露になる。
「…要らない」
だが来栖の腕の皮膚に丹の牙が突き刺さろうとした瞬間、本能的な欲求に突き動かされていた丹は我に返ると噛みつくのを止めて顔を来栖の腕から離す。
「何言ってんだよ丹、気を失うまで我慢してたってことは相当渇いているんだろ?」
「わたしのせいで腕がそんなに傷だらけになっちゃってるんだから、頻繁にクーくんの血をもらっちゃ悪いよ……」
来栖は丹が血を飲むのを止めるのを見て怪訝そうな顔をするが、丹は来栖の腕にある多数の裂傷や歯形に目を留めるとすまなそうな顔で血を飲むことを拒む。
「こんな傷大したことねぇから気にすんな、むしろ血に飢えたままでウツセミを野放しにする方がよっぽど迷惑だぜ」
丹の殊勝な考えを聞かされても来栖は呆れた顔をするだけだった。自分の発言を聞いた来栖の反応に落胆する丹だったが、来栖は呆れながらも丹を労わりの目で見つめる。
「本当にいいの?」
「ああ、弁当作ってもらったしその礼だ。交換条件ならあんたも納得できるだろ?」
「…うん」
丹が念入りに訊ねてくると、来栖は踏ん切りのつかない彼女にじれったさを覚えつつ昼食の礼として血を分け与えるのならば丹の良心も咎めないだろうと訴える。自分は来栖に弁当を与え、その見返りに来栖から血をもらうという交換が成立することでようやく丹は血を飲むことを決心する。
丹は再度来栖の腕に顔を寄せていく。丹の口は大きく開いてはいるが先ほどのように肉食獣が獲物の息を止めるような獰猛な感じではなく、子どもがリンゴに齧り付くような微笑ましさのある感じであった。先鋭化した犬歯よりも先に丹の唇の柔らかな感触に来栖が顔を弛緩させかけた直後、丹の牙が来栖の腕に食い込んでくる。皮膚を突き刺される痛みに顔を引き攣らせながら、自分の腕から滲み出た血液を舐め取っていく丹の舌に来栖は官能的な快感を覚えていた。
丹は来栖の腕に舌を這わせて唾液に含ませながら、彼の血を吸っていく。丹は小さく喉を鳴らして血を嚥下していくと、欠乏していた精気を補充して渇きが満たされたことに対する満悦と血の味に酔いしれて仄かに顔を紅潮させた。
来栖は腕に唇を押し当てて自分の血を飲み喜悦の表情を浮かべた丹の姿を見ていると、内側から異性に対する情動が湧き上がってくることを感じ、自制心を働かせて自分の理性を押しやろうとする欲望を御する。
長く伸びた丹の四肢は引き締まり、その肌は白く滑らかで瑞々しい。全体的に丹は細身の体型はしているが、肉付きが貧相な訳ではなく女性的な曲線美を充分に描いている。癖のあるショートヘアに縁取られた丹の顔は目鼻立ちがはっきりしており、眦は猫のように吊り上っているが表情はおっとりとしているため、狡猾さや気性の激しさを感じさせることはない。引っ込み思案な性格や家事に日々追われて所帯染みた雰囲気のせいで隠されてしまっているものの、客観的に見て丹はかなりの美貌であった。
そんな隠れ美人である丹が血を吸う度に無防備な艶姿を来栖に見せ付けており、その都度彼の内側で咆哮をあげようとケダモノと理性が水面下で激しい闘争を繰り広げていた。
「気は済んだか?」
「うん、ありがとう」
丹の口が腕から離れ突き立てられた牙が皮膚から抜けていくと、来栖はほんの少しだけ彼女との繋がりを失ってしまった寂しさを覚える。丹は唇の先を僅かに血の朱に染めた顔で来栖の問いに頷き返すが、またしても来栖は丹の仕草に色気を感じてしまいそれを隠蔽するためにポーカーフェイスを取り繕う。
「は~いお楽しみはここまで、続きはまた後でね~」
「あ、赤城先生……」
来栖と丹がそれぞれ吸血行為で得られた快感の余韻に浸っていると、彼らを周囲から隔てていたカーテンが一気に開放される。カーテンの切れ間から白衣を纏った女性の保険医が愉快げな笑みを浮かべてくるのを、来栖と丹は逢瀬を覗かれたような気がして羞恥心で顔を赤く染めた。
「あなたたちが仲睦まじいのはいいことだけどね~ここもホテルじゃなくて学校の中ってことを忘れちゃダメよ?」
「そんなこと言われるまでもないっすよ!」
「どうかしら、来栖くんが霧島さんを無理矢理脱がそうとしている声聞いちゃったけど?」
保険医の赤城はルージュの塗られた唇に妖艶な笑みを浮かべて2人のやり取りが自分の耳にも聞こえていたことを教えると、来栖は会話を盗み聞きされた怒りで身を震わせ、丹は自分たちの倒錯した関係を他人に知られたことに恐怖を感じて青褪めた顔をしていた。
「心配しないで、私こう見えて結構口が固い方だから」
「…その言葉信用しますよ」
しかし赤城は帳の奥で来栖と丹がどんなことをしていたのかについて言及しようとせず、長い睫毛の目を細めて彼らのことを凝視すると身を翻し背を向けて奥にある自分の机へと戻っていく。来栖は赤城の態度に不信感を覚えつつ、相手の言葉が事実であることを期待した。
「しかしオールドファッションで硬派な来栖くんが保健室に女の子を連れ込むとは意外よね~しかも相手は品行方正な優等生の霧島さんってのがまた驚きよ。こんなビッグニュースを目撃できただけで今日は充分よ」
自分たちをダシに楽しんでいる赤城に対して何か言い返したかったが、概ね赤城の見解が間違っていないために来栖はいい反論を思いつかなかった。丹はベッドの上で俯いたまま、所在なさそうに視線をあちこちに彷徨わせている。
「さ、用が済んだんなら早く教室に戻りなさい、みんなに騒がれるのは嫌でしょう?」
「はい……」
含み笑いを浮かべながら教室に帰ることを促してくる赤城の言葉に、完全に彼女の手玉にとられた来栖も丹も黙って頷き返すことしかできなかった。
* * *
秋が深まると共に陽が暮れるのも早くなる。帰りのホームルームの後、体育の授業中丹を無理矢理グラウンドから連れ出したことで来栖はゴリ田に呼び出され、説教というよりも一方的に罵倒されていた。
丹を連れて授業を抜け出して何をしていたのかとゴリ田に問われると、来栖は具合の悪くなった丹に付き添って保健室に言ったと正直に答えた。ゴリ田は保健室と聞いて何故か興奮した様子だったが、来栖の発言の真偽を確かめに彼を従えて保健医の赤城の下を訪ねる。
普段は好きなだけ来栖のことを罵れば事実関係を確かめようともせずに彼を解放するゴリ田の珍しい行動に来栖は決まりの悪い顔でその後に従っていった。だが意外にも赤城は来栖たちに公言した通り、カーテンの中から聞こえてきた発言には一切触れず来栖に口裏を合わせてくれた。
そのため来栖は保健室を訪ねてすぐにゴリ田から解放されることができた。そしてゴリ田が柄にもなく真偽を確かめにいった動機が真相の追究などではなく、保険医の赤城に会いに行っただけということを来栖は知る。もっともゴリ田独りが舞い上がっているだけで、赤城は彼のことなど歯牙にもかけていない様子だったが。
「クーくん」
「先帰ったんじゃないのか?」
下駄箱の前で来栖が靴を履き替えていると、昇降口の扉から丹の声が聞こえてくる。てっきり彼女はもう下校したものと思っていたので、来栖はまだ丹が学校にいることに少し驚いているようだった。
「図書委員の仕事で残ってたから、一緒に帰ろうと思って」
「どうせ家でも学校でも顔を突き合わせんだから、登下校の時くらい離れてた方がお互い気が楽だと思うぜ?」
丹は一緒に下校しようと呼びかけるが、来栖はつれない態度で丹の脇を素通りしていく。
「…やっぱりわたしはクーくんの迷惑なの?」
丹が来栖に背を向けたまま小声でそう問いかけてくると、来栖はその場に立ち止まる。
「そんな訳ねぇだろ、もしそうだったらわざわざ悠々自適の独り暮らしを止めてお前の家に居候なんかするかよ」
来栖は丹の気を害してしまったことに罪悪感を覚えた様子で、さきほどの無神経な発言の弁解を図ろうとする。来栖の弁明を聞いて丹は彼の方に向き直った。
「本当に?」
「むしろ赤の他人の俺があんたの家族の迷惑になってるんじゃないか? 実際斎さんやあんたの妹はあからさまに俺のことを煙たがっているし……」
「ご、ごめんね…2人ともその、思ったことがすぐ顔に出ちゃう正直な性格だから」
「いいさ、厄介者扱いされるのには慣れている」
吸血鬼である丹に血を与える一方で彼女の監視をするために来栖が丹の家に下宿していることを、丹の家族は快く思っていないことを聞かされると丹は父親と妹に代わって来栖に不快な思いをさせていることを謝罪する。
来栖は西洋人の先祖に由来する彫りの深い顔立ちや大柄な体格からクラスメイトには敬遠され、あちこちの不良たちから因縁をつけられ、降りかかる火の粉を払い除けては警察や生徒指導の教員に説教をされる自分の境遇を自嘲して、丹に余計な気遣いをしないように言葉を返した。
「クーくんは人間だけじゃなくてわたしたちウツセミのためにも一生懸命頑張ってるのに、みんなから誤解されっぱなしでいるのはおかしいよ!」
来栖が身を粉にして人間だけでなくウツセミを自称する御門市内に潜伏する吸血鬼の社会の安寧に務めていることを充分承知している丹は、彼の苦労も知らずに憶測や上辺の行いだけで来栖に偏見の眼差しが向けられることに憤慨した。丹は形のいい眉を吊り上げてやや怒張して来栖に詰め寄ってくる。
「お、落ち着け丹……」
「盛田先生やカンナちゃんもどうしてクーくんがいい人だってことを分かってあげようとしないんだろう? ちょっと言葉遣いは乱暴だし、ひねくれたところもあるけれど、自分の運命から逃げずに正面から立ち向かおうとしている真っ直ぐで責任感の強い人だってことに気付かないんだろう?」
丹は語気を荒らげながら担任や友人が来栖の本当の姿を見抜けないことのもどかしさに愚痴をこぼす。自分以上に自分の不当な境遇に憤っている丹のことを来栖は宥めようとするが、丹の怒りはしばらく冷めそうになかった。
「…丹、悪いけどやっぱ先に帰ってくれないか?」
丹への接し方に戸惑っていた来栖の顔が突然厳しいものになる。来栖は低い声で丹に帰宅を促すと彼女に自分の通学鞄を押し付けた。
「クーくん、急に怖い顔になってどうしたの?」
「奴らが近くにいる、赤霧を焚いて川原に引き寄せるから近寄るなよ」
来栖は制服の上着のポケットから煙草の箱を取り出すと、中から煙草を1本取り出し年季の入ったオイルライターで火を点ける。来栖が着火した煙草から赤黒い煙がたなびきはじめ、辺りに血に似た鉄錆の臭いが漂い始めると来栖は火の点いた煙草を持ったまま校門の方に全速力で走り出した。
「ちょっとクーくん?!」
自分の背負ったリュックサックと来栖が通学に使っている薄いショルダーバッグを胸に抱えたまま丹がその背中に呼びかけるが、来栖は振り返らずに走り続けて校門の外へと飛び出していった。
「さあお前らの好物である血の臭いに惹かれて出てこい……」
構内から外に駆け出した来栖は学校の傍を流れる鱧川の土手まで一気に駆け抜ける。来栖は薄暗い私鉄の橋桁までやってくると、全力疾走をして多少弾んだ息を整えながらその周辺を行き来して何かが現れるのを待ち構える。だが来栖が指に挟んだ煙草がフィルター近くまで燃え尽きようとしていても、彼の前に待ち望んでいるものは姿を見せなかった。
「おかしいな、近くにいる気配は確かにするのに出てこないなんて。風で血の臭いが流されちまって奴らの鼻に届いていないのか?」
これ以上持っていると指を火傷してしまうと来栖は煙草を地面に投げ捨てて、靴の裏で火を揉み消す。一瞬足元から噎せ返るような血の臭いが立ち上ってきて、来栖はその胸焼けがするような臭いに顔をしかめた。
来栖はもう1本煙草に火をつけようと上着のポケットから煙草を取り出そうとして視線をそちらに向ける。煙草の入った箱の角を指で数回叩き、来栖は煙草を引き抜こうとするが彼の注意のほとんどは煙草の箱を握った手元に向けられていた。
「クーくん危ない!」
「喝!」
土手の上から丹の叫び声が聞こえた瞬間、頭上の線路を電車が通った訳でもないのに来栖の視界にふっと陰が差す。何かが唸り声を上げて来栖に飛び掛ってきたが、襲い掛かってきたものの鋭い爪が来栖の体を引き裂くよりも先に来栖の裂帛の気合が周囲にこだまし、雷のような青白い光が瞬く。すると来栖を襲撃してきたものは突風に煽られたように仰け反って後方へと吹き飛んでいった。
「誘いをかけてみたら案の定出てきやがった。それにしても丹、ナレノハテと戦うことになって危ないから川原に来るなって言ったよな?」
数m先の地面でのたうち回っている襲撃者が予想通りの動きをしてきたことに口の端を吊り上げて来栖は不敵な笑みを浮かべるが、自分の背中に近寄ってきた丹が忠告を守らなかったことへの不満を棘のある眼差しで一瞥することで表す。
「いくらクーくんが強くてもやっぱり心配だよ、それにわたしが注意しなきゃナレノハテが襲ってきたことに気付かなかったでしょう?」
「馬鹿、あれは奴を燻りだすための罠だよ。お前に言われなくたってあんだけ殺気がビンビンしてちゃ気付いていたさ」
「本当に?」
「来るぞ、俺の後ろに下がってろ!」
来栖の危機を救ったのは自分の助言だと丹は主張するが、来栖は敵を油断させるための罠を張っていただけだと彼女に言い返すと、肩で彼女を自分の後ろに押しやる。丹が来栖に押された勢いで数歩後ずさると、向かいから来栖を不意打ちしようとしたものが体勢を立て直してこちらへ突進してくるのが見えた。
黄昏の薄暗闇の中にギラギラと輝く金色の目玉をするそれは、若干人間の平均的なプロポーションよりも腕が長く手が大きくその先の指が鋭く尖っていることを覗けばほぼ人間と変わらない形態をしていた。しかし海老茶色の体には衣類を一切身に着けておらず、顔の造作も崩れ去り、歯茎を剥き出しにして大きな口を開いている姿からはまるで理性を感じられない。
来栖たちがナレノハテと呼ぶ大地を力強く蹴って疾走する海老茶色の肌をした怪物は、闇に紛れて人を襲いその生き血を啜る忌むべき存在であり、端的に言えば西洋の伝承に登場する吸血鬼の眷族である。
海老茶色の肌をした吸血鬼がナレノハテと呼称される由縁は、元を糺せば彼らも人間であり人でなくなり魔性の存在に変貌した者の哀れな末路ということに因んでいる。丹のように人間だったの容姿と自我を保っていられる吸血鬼たちはウツセミと自称しており、ナレノハテはウツセミが血の渇望に支配されて理性を失い、完全にひとではなくなってしまったものとして人間だけでなく同じ吸血鬼のウツセミとも区別されている。
そして来栖はウツセミたちが現世と接点を持つ異空間の居住区の外に出ない事を条件にその存在を認め、ウツセミたちが誓いを守っているかどうかを監視しているウワバミと呼ばれる存在であった。来栖の遠い先祖に当たるウワバミがウツセミと交わした締約の中には、ウツセミたちの居住地から現世へと追放されたナレノハテをウツセミに代わって駆除するという役目も含まれており、来栖はその約定に従って今ナレノハテと戦っている。
来栖は突進してくる異形のものから目を逸らさずに正面から対峙しながら、膝を軽く曲げて腰を落とし、腰の位置に右の拳を構えてその上を左の掌を覆う。決闘に望んだ武士が必殺の瞬間に居合い斬りをするような気迫を丹は来栖の背中から感じた。
「喝!」
来栖は離れた場所にいる丹の耳朶を揺さぶる大音声と共に腰溜めに構えて右の拳を鋭く前方に突き出した。来栖の正拳突きの先から青白く輝く光の槍が飛び出していき、ナレノハテの胸を射抜いて穂先が背中から突き出る。
怨嗟の咆哮をあげながら胸元を光の槍で貫かれた異形の存在ナレノハテは背中を大きく仰け反らせ、刺し止めている光の槍が消失すると共にその醜い身体を粉々に飛散させる。だがナレノハテの体は爆ぜると同時に地面に落ちるとなく空気中に霧散する。肉片が消失して体内から現れた黒い影のように輪郭のぼやけた球体、ナレノハテとウツセミ共通の吸血鬼の核となる精気の真空地帯の蝕も瞬く間になくなった。
来栖はナレノハテが跡形もなく消失すると掲げていた右の拳を下げて肩から力を抜き、大きく息を吐き出す。
「クーくんお疲れ様」
「いつも通り撥で牽制した後、斂の一撃でナレノハテを吹き飛ばしただけだ、大して疲れちゃいない」
丹の労いに対して来栖はぶっきらぼうな返事をすると、ナレノハテが消え去った場所に背を向ける。
「じゃあ鞄は自分で持って帰ってね」
「なに?!」
「疲れているんなら家まで鞄持ってあげてもいいけど、まだまだ余裕みたいだから大丈夫だよね?」
「いや、たった2発でも剣気を撃ち出すのは結構体力使うんだよなぁ」
丹に預けた鞄を差し出されて来栖は決まりの悪そうな顔で丹を見返した。ナレノハテとの戦闘時に、人間の活動に不可欠で吸血鬼の養分でもある精気を攻撃用に転換した剣気を発散した疲れがあるので、鞄を持つのを億劫に感じ丹にそのまま持たせ続けようとする。
「あれ、さっきと言ってること違うよ?」
「うるさい、とにかく俺は仕事をして疲れたんだ。鞄は家まで頼むぞ」
来栖は自分の鞄を丹に持たせたまま自分は手ぶらで帰ろうとして、川原を走り出す。丹は来栖の背中を追うが2人分の荷物を抱えているために思ったようにスピードが上がらず、その差は広がる一方だった。
「クーくんの我儘、クーくんの意地悪!」
丹に邪魔な鞄を押し付けて身軽なまま来栖は家に戻ろうとするが、彼の後ろで丹が大声であまり他人には聞かれたくない渾名で憎まれ口を叫んでいるのが聞こえると、来栖は顔を引き攣らせて彼女の方に振り返る。
「おい丹、あんまりその渾名を言うな!」
「なによ格好つけちゃって、クーくんはクーくんなんだから仕方ないじゃない!」
「だから止めろって、頼むからもう黙ってくれよ。自分のだけじゃなくてお前の鞄も持ってやるからそれで勘弁してくれ」
小学校時代の渾名でいまだに丹が自分を呼ぶことを来栖は内心嫌がっており、2人きりの時には我慢することにしていたが他人にその渾名を聞かれるのは耐えられなかった。来栖は元来た道を戻って丹に詰め寄ると、彼女に口を噤ませようとする。
来栖がこれまでどれだけ脅しても宥めても丹はクーくんの呼び名を使うことを止めようとはしなかった。彼女の強情さに根負けした来栖は鞄を押し付けた償いに彼女の分の鞄も持つことを条件に丹を黙らせようとする。
「わかった、それで許してあげるよクーくん」
「くっ…早く鞄を寄越せ」
丹が少し意地の悪い感じで微笑んでくると来栖は鞄を渡すように催促した。ルーズリーフの束とそれを収納するバインダー、ペンケースくらいしか入っていない自分の鞄と比べて、きっちり6時間分の教科書やノートを収めている丹の鞄は来栖が想像しているよりも遥かに重かった。
丹のリュックサックの重さを少々負担に思いながら来栖と丹は並んで夕暮れの街を歩いていく。部活動を終えて帰宅する中学生や習い事から帰る小学生、母親に手を引かれた小さな子どもや会社帰りの会社員など大勢の人と彼らは擦れ違う。
「ねえクーくん、わたしたち他の人にはどう見えるのかな?」
「哀れな荷物持ちの男子とそいつを扱き使う意地悪な同級生ってトコじゃないか?」
ふと丹が行き違う人々の目に自分たちがどう写っているのかと来栖に訊ねると、来栖は冗談半分に彼女の問いに答える。
「もう真面目に答えてよ。でもクーくんの言った通りに見えるのなら、少なくとも吸血鬼と人間、捕食者とその餌には見えないってことだよね?」
「俺たちの関係なんて同級生以外の何でもないだろ。強いて変わったことを言うなら、普通よりは強い持ちつ持たれつの関係ってトコか?」
丹は自分たちの関係が食物連鎖の食うものと食われるものという殺伐したものではないことに見えていることに期待を寄せる発言をするが、来栖は素っ気無い調子で自分たちの関係は世間一般の同級生とそうは変わっていないと切り返す。来栖の発言を聞いて丹は隣を歩く彼の顔を反射的に見上げた。
「なんだよ、それじゃ不満か?」
「ううん…ちゃんと同級生に見てもらえれば充分」
来栖が丹の訴えるような視線に気付いて同級生の間柄では不服かと訊ねると、丹は首を横に振った。自分たちが吸血鬼と人間、人の生き血を啜るものとその悪鬼を駆逐する者という特別な関係ではなく、普通の高校生に見てもらえることのならば、それはとても幸せなことだと丹は本心から思っているようだった。
もうすぐ夕日が西の山の向こうに沈もうとしている世界を、来栖と丹は同級生の男女以外の余計な肩書きはないまま歩いていく。そうして家路に就いている2人を見て、彼らが御門の街の闇に数百年間隠されている秘密に関わっている上、丹に至っては人間ですらないとは誰も思わないだろう。そして来栖も丹も普通の人間として暮らせることが、他の何よりも望んでいることであった。
第1回、光と陰をまたにかけて 了