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霧雨

作者: 西沢恩

ヘッドフォンの向こう側で歌が聞こえる。いつの間にか本来ならその時期ならでは、の甘酸っぱさとかあっていいはずだったのに、いつの間にか駿馬のごとく、ここまで来てしまっていた。黄昏るビーチ、遠くに寂れたパラソルが一本たっているだけで、夕暮れる太陽があたりを金色に染めていた。胸元のロケットには彼の写真。彼はまだ25にもならない青年だった。一気にここまで連れてきてしまった。彼にはもっとその時期ならではの青い日々とか楽しみたかっただろうに、有無を言わさずここまで連れてきてしまった。そのことがなんとなく影踏みをされたようにずるずると鈍く引きずられる。

世間ではいつの間にか愛だの絆だのを急に口にし始めた。そんな世間の空気にまた、どこかでそんな空気とは微妙に齟齬を感じてもいた。世間との違和感なんて今に始まったことじゃないのだけど。


音楽が変わった。一転して灯り一つついていない寂れた夜の街並みに霧雨が降っている。誰かが叫んでいる。あちらこちらで、街の雰囲気には馴染まない悲鳴が上がっている。わたしは必死で声のする方向に五感を研ぎ澄ませながら、声のもとへと慎重に駆けた。だんだんと足が速まり、息が切れるのも忘れていた。駆けながら考えた。なんで、声の主を探しているのか、と。頭の中でテノールの悲鳴がこだまする。稲妻のような激しい頭痛で頭が割れそうになる。それまで無意識だったこともあってか、急に酸欠がぶり返し、目眩がした。


茨の向こう側の悲鳴の主を見て驚いた。よく見知った、ロケットの中の彼だったから。

「遅いよ…もう、声ガラガラ」

「って、なにやってんのよ、こんなところで」

「なんだろう、気づいたらこんなところに来ていて、気づいたら隣にいたはずの由里が消えて…必死で探しまわっていたら、茨に足を取られた」


呆れた。


私を探して何千里…とか?随分走り回ったのか、黒いシャツとジーンズはところどころ破れ、綻んでいた。スニーカーは泥にまみれている。彼の横に腰を下ろし、何も言わず霧雨がうっすら見えるのを眺めていた。彼は何も言うことなく、隣の彼女の柔らかな肩に左頬をうずめたかと思うと、そのまま崩れるように倒れ込んだ。

「ちょ、ちょっと!?」

慌てて彼の顔を伺うと、特段悪くはない。聞こえてくるのは規則正しい寝息。

「こんなところで寝るんかい!」

思わず品のない声をあげてしまった。霧雨が降りしきる森の中、これじゃ身動きもできない。仕方なく、膝枕をして、彼を寝かせた。

「風邪ひいても知らないからね」


音楽を止めた。そこは見知ったもとの部屋。音楽を流していたパソコンのアプリケーションを閉じた。ディスプレイに張られたセピア色の風景写真が目に飛び込む。最初に入った、あのビーチの風景。パラソルが1本と少し離れたところには鬱蒼としたジャングルが広がる、プーケットのありふれたビーチ。

「おい」

「何?」

「そろそろパソコンやめろよ。また月曜からの仕事に障りかねないぞ?お前、一度生活リズム狂うと、そのままずるずる引きずるからな」

一足先に早くベッドに入っていた彼、生まれつき持っているものが微妙に違ったわたしに最後までついてきて、今は夫となった。時計はもうすぐ深夜の1時を指そうとしていた。パソコンをシャットダウンして、机の上のライトの明かりを落とした。

ベッドに入ると、彼が抱きしめてきた。想像していたより柔らかい胸板が頬に押しあてられる。

「あのさ、俺、夢を見たんだ」

「何の夢?」

「怖い夢」

「え?」

「さっきまで隣にいるはずの君が突然霧に包まれるように消えて、気づいたら俺、宇宙空間みたいなところに一人放り出されていた。由里に逢いたい一心であちこち走り回って、その内に疲れて、少し休んでからまた歩き出して、どのくらい歩いたのかわからないくらい歩いた。そんな中茨におおわれた黒い森に辿りついて、これ以上ないほど暗い気分になった。それでも君の姿には辿りつけなくて、由里、どこにいるんだ!と叫んで、そこで目が覚めた。そういうお前は何のことなくパソコンでぼーっと音楽聴いていたんだけどな」

彼女は何も言わなかった。私はと言うと、音楽をヘッドフォンの中で流しながらほんの少し不安になっていた。その年ならではの青春の青い日々も味わうことないまま、二度とない青春を自分のせいで不意にしたのでは、なんて不安になっていたクチだから。言おうかどうしようか、でも、言うのはなんとなく味気なくなりそうだった。ほろ苦いジレンマ。

「由里?」

訝しげに彼女の顔を暗闇の中探る。深夜、カーテンの隙間から入り込むわずかな残光だけを頼りに。あまりに静かな深夜、外で降りしきる霧雨の音が室内に響く。静かさを際立たせるサイレント・ノイズ。カーテンからはわずかな昼の残光を通しているものの、マスクのように外の霧雨の姿までは見せなかった。目を閉じて、眠ったふりをした。彼はそのまま何も言わず、背に廻していた腕にさらに力を込めた。身体に押しあてられる力が電撃のように駆け巡るのに静かに耐えた。その内に身体の方が麻痺してしまったのか、意識はそのまま眠りの世界にフェードアウトしていった。


翌朝、今日は土曜日。彼も会社は休みだった。

「って、ちょっともう9時半過ぎてるの!?寝すぎた!」

身体を麻痺させた腕はほどかれていて、それをいいことにベッドから飛び出し、カーテンを勢いよく開けた。ペールブルーの夜着が通された腕は、ベッドの上に無防備に放り出されていた。一方の彼女は昨夜脱ぎ散らかしたままの服に着替えて、髪をとかす。

「なんだよ、いきなり大声出して、って、もう9時半か。随分寝たな」窓から景気よく差し込む陽光に目を眩ませながら目覚まし時計を確認した。デジタルのそれには9:37。

「朝ごはん作ってくるから、早く着替えて顔洗ってよ!」

「わかったよ。って、お前こそパジャマ脱ぎっぱなしにするなよ」と、脱ぎ散らかされたペールピンクの夜着の上をつまみ、呆れ半分といった気だるい口調でたしなめた。

「あ、あとで畳むから!」

彼女は寝室を飛び出し、下のキッチンへと駆けこんだ。ひとり残された彼はまだ彼女の匂いが色濃く残る夜着をたたみ始めた。


グリーンのエプロンに袖を通しながら天気を確かめた。庭の紫陽花の葉に露が溜まり、はじけるように落ちた。夜降りしきった霧雨はあがり、まだ曇ってはいるものの雨は降っていなかった。冷蔵庫から卵を数個とバジルを出した。小さめのボールで卵を割って、菜箸でほぐして千切ったバジルと混ぜ合わせた。あたりにバジルの香が漂う。コンロの火をつけ、フライパンを熱し、うっすら煙がたち始めたところにオリーブオイルを馴染ませた。ボールの中の卵を半分ほど一気に流し、すばやく菜箸で形を崩さないように注意しながらかき混ぜ、形を整え、盛り付けた。残りも同じように焼いて、盛り付けると、あらかじめ洗っておいたミニトマトや貝割れ大根を添えた。オーブントースターでパンを軽く焼き、ジャムとオレンジを出した。

ちょうどそのころ、彼がVネックとチノパンというラフな格好で降りてきた。

「あ、朝ごはんできたよ」

「おう、今顔を洗う」

彼は洗面所にいったん身を隠した。振り向けば、窓の外の紫陽花の葉の露がもう一つはじけながら落ちていた。

映画のワンシーンを、ほんのちょっと大人のスパイスで。

そんな感じで書きました。

こういうのを寄せ集めて、また長編小説にまとめたいです。

それでは。

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