『共食い』の呪詛(前編)
マスターたちとの共闘を命じられたとき、面倒だな、と思った。
――彼らは、強い。
ギルよりも遙かに多くの実戦経験を積み、さまざまな呪詛に対応してきた彼らは、おそらくそれぞれ単独であっても、大災害級の呪詛でも問題なく破却できる。
それはつまり、彼らとともに戦う限り、ギルが呪詛との戦闘中に死ねる可能性が著しく低くなる、ということだ。
(土使いの護衛魔導兵士は、自分自身がマスターじゃないだけに、魔導武器や攻撃魔術をガンガン使ってくるらしいし……。もしかしたら、このふたりより厄介かもな)
しかし、組織の方針がそのように定まってしまったのであれば、一構成員であるギルには黙って従う以外の道はない。
大変多忙だというキャロラインに、「では、ここからは若者同士で」という言葉とともに執務室から追い出されたギルは、ユージィンとレオナルドを見上げて口を開く。
「合同訓練は、いつからできる?」
命じられた以上、面倒ごとはさっさと済ませてしまいたいのだ。
そう考えたギルの問いかけに、ふたりは一度目を見合わせたあと、揃って深々と息を吐いた。
風使いのレオナルドが、見事な白銀の髪をガシガシと掻く。
「あー……。その、なんだ。合同訓練をするのはいいんだが、その前にいくつか質問してもいいか?」
「構わない」
知らないことは、答えられない。
そのため、ギルがレノックス伯爵家から与えられている情報は、世間の誰もが知っているようなことばかりである。
……いや、伯爵家の嫡男が、未成年の少女に発情するような変態だということは、あまり知られていないかもしれないが。
ともあれ、レオナルドが何を聞きたいのかは知らないけれど、こちらに隠さねばならないようなことなどない。強いて言うなら、ギルが女性であることだけは、何があっても隠し通せ、と命じられているくらいだ。
そうか、と頷いたレオナルドが、アイオライトのような瞳でまっすぐに見つめてくる。
「おまえ、メシはちゃんと食ってるか?」
(……は?)
想定外の質問に、一瞬戸惑う。
「食べている」
なんだその質問は、と内心首を傾げつつ答えたが、レオナルドは納得できないという顔で眉をひそめた。
「そうか。今朝は、何を食ってきた?」
「戦闘糧食」
人間が生きていくために必要な栄養がすべて入っているビスケットタイプの戦闘糧食には、最近はフルーツやチョコレート、紅茶にカフェオレなどさまざまなフレーバーがあるのだ。
以前は味もなくパサパサとして、水がなければとても飲み込めない代物だったことを思うと、技術の進歩とは素晴らしいものだと思う。
しかし、なぜかレオナルドとユージィンの顔が揃って引きつった。
レオナルドの声が、一段低くなる。
「……おまえな。戦闘糧食は、メシとは言わねェんだよ。寝坊でもしたのか?」
「していない」
今朝もちゃんと定時に起きて、指定された時間に合わせて本部入りした。
眉間を軽く揉んだユージィンが、呆れた顔で見つめてくる。
「あのなあ、ギル。おまえ、言葉が足りなさすぎるわ。……まあ、いきなりどうにかしろとは言わねーけどさ。もうちょい、言葉のキャッチボールをちゃんとしような?」
聞かれたことには答えているのに、何がいけないのだろうか。
面倒だな、と思っていると、レオナルドが睨みつけてきた。
「おまえ、今面倒くせえって思っただろ」
なぜわかった。
ひとつ息を吐いたレオナルドが、改めて問うてくる。
「寝坊したわけでもねェのに、なんで朝っぱらから戦闘糧食なんて食ってきたんだ?」
「それの何が問題なのか、理解できない。食事は、呪詛との戦闘行動に耐えうる肉体を維持するための作業だろう。おれは、きちんとその義務をまっとうしている」
がんばって長めに返したギルの答えに、ふたりは一瞬ものすごく複雑な表情を浮かべたかと思うと、再び揃って深々と息を吐いた。
ユージィンが、ぼそぼそと低い声でぼやく。
「えー……。マジかよ。レノックス伯爵家、何やってんだ。コイツには戦闘訓練より、食生活の改善のほうを先にやんなきゃダメだろうよ……」
「まさか、自分たちの手に負えなかったからって、こっちに丸投げしたわけじゃねェだろうな……」
彼らはいったい何を言っているのだろう、と思ったとき、本部建物全域にけたたましいベルの音が響き渡った。
どこかで、危険度の高い呪詛が発現したのだ。
ベルの音がやむなり、キャロラインの声がわずかな緊張を孕んで状況を説明する。
『傾注。北のルドミラ王国より、緊急支援要請。王都アレンカにて、大規模な呪詛が発動。報告された状況から、『共食い』の呪詛、もしくはそれに類したもの思われる。市街戦となるため、炎使いは本部で待機。風使い、水使いは、直ちに現場へ急行せよ』
『共食い』の呪詛――たしか、その影響を受けた人々は、人肉が唯一の食料に見えるようになる、というものだったか。
発動初期で核を破壊できればさほどの被害は出ないものだが、人々が通常の食べ物を口にできなくなり、身近な他人に食欲を覚えるようになると、その時点で発狂しはじめる者もいるらしい。
ただ、自然魔力に親和性のある者は、呪詛に対する高い耐性がある。そのため、警戒に当たる魔導兵士たちが、呪詛の発動に気付くのが遅れるのは珍しいことではない。
呪詛対策機関を通じて、マスターへの緊急支援要請が来たということは、すでにかなりよくない状況なのだろう。
そんなことを考えながら風使いを見上げると、彼は横目でこちらを見ながら通信魔導具に向けて口を開いた。
「こちら、風使い。命令を受諾。これより水使いとともに、ルドミラ王国王都アレンカへ向かう。――行くぞ、水使い」
そう言うなり手近な窓を開けたレオナルドの体が、ふわりと浮く。
直後、柔らかな風に巻かれた自分の体が浮くのを感じた。はじめての感覚に、ギルは一瞬、体を強張らせる。
この世界で風使いのみに許された『空を飛ぶ』という経験を、まさか呪詛討伐のぶっつけ本番ですることになるとは思わなかった。
(……まあ、風使いがうっかり上空から落としてくれたら、それはそれで死に方としてはいいかもしれないな)
何しろ、完全な不可抗力だ。
滅多にできない経験でもあることだし、ここはありがたく世話になろうと思っていると、ユージィンが驚きの声を上げる。
「えー、この状況でも無表情をキープしちゃうの? おまえ、どんな肝っ玉してんのさ?」
「ビビって暴れられるよりは、全然マシだけどな。まあいい、とにかく行ってくる」
気をつけてなー、と手を振るユージィンの姿は、あっという間に見えなくなった。
通常では考えられない速度で、景色が背後へ飛んでいく。
少し気まずそうなレオナルドの声が聞こえてきた。
「あー……。水使い。今更だけど、怖かったら目ェ瞑ってろよ?」
「問題ない」
こうして通信魔導具に頼らず会話ができているのも、風の魔術によるものなのだろうか。
音と風は、空気の振動という点で同じものだとどこかで聞いた。
風の壁で完璧に守られているためか、たしかに上空を高速で移動しているはずなのに、まるで現実感がない。
すごいものだな、と思っていると、レオナルドが再び話しかけてきた。
「なあ。さっきの話だけど。おまえ、普段から戦闘糧食ばっかり食ってんのか?」
「ああ」
レノックス伯爵家の奴隷となった日から、ギルがそれ以外のものを口にしたことはない。
「なんでだ?」
「効率がいい」
効率、とレオナルドが復唱する。
鋭い舌打ちが聞こえてきた。
「レノックス伯爵領の孤児院、どうなってんだよ。今時、孤児院のメシが戦闘糧食オンリーなんて、ありえねェだろ」
(孤児院? ……ああ、そういえばそういう設定だったな)
レノックス伯爵領の孤児院経営に詳しいわけではないけれど、おそらくそこで出されている食事はごく一般的なものであるはずだ。
自分のせいで、罪のない孤児院経営者がおかしな誤解を受けてしまったようで、申し訳ない。
レオナルドが、忌々しげな声で言う。
「あのなあ、水使い。メシってのは、普通は楽しいモンなんだよ。美味いもん食ったら、それだけでその日あったいやなこととか忘れられたりするしな」
だから、と彼はちらりとギルを見た。
「おまえも、今日からちゃんとしたメシを食え。いいな?」
「断る」
「アァン!?」
レオナルドの額に、青筋が浮く。
いったい、何を怒っているのだろう。
「なんでだよ!」
「おれはここ数年、戦闘糧食と水以外のものを摂取していない。いきなり通常食を口にしたら、おそらくすべて吐いて使い物にならなくなる」
単なる事実を説明すれば、レオナルドがハッとした顔になる。
「……そっか。すまない、配慮が足りなかった」
ギルは、驚いた。
「貴族が、謝った……?」
思わず零した呟きに、レオナルドが勢いよく振り返る。
「そこに驚くのかよ!?」
「貴族は、平民には謝らないものだと思っていた」
「どこの常識だよ! 相手が貴族だろうと平民だろうと、悪いと思ったら普通に謝るわ!」
ぎゃあ、と喚くレオナルドは、どうやら本心からそう思っているようだ。
「それは、すごいな」
「いや、だから別にすごくねェし。……つーか、レノックス伯爵家の連中って、領民に対してそんな態度なのか? やべェな、引くわ」
これくらいで引いているようでは、もし彼がレノックス伯爵家のギルに対する扱いを知ったなら、卒倒してしまうのではないだろうか。
(……なるほど。今まで貴族というとレノックス伯爵家の連中しか知らなかったけど、世の中にはこういうまっとうな感覚を持った貴族もいるんだな)
もっとも、戦闘職に就いているせいか口調も仕草も荒々しいレオナルドが、一般的な貴族とはかけ離れた人物であることは間違いあるまい。
とはいえ、少なくともレオナルド個人が、レノックス伯爵家の人々とはまったく違う種類の人間だということは理解した。
もし――もし、彼のような貴族が治める土地に生まれることができたなら、自分は今もセシリアとして生きていられたのだろうか。
水使いとして戦う人生からは逃れられなくても、姉と離ればなれにされることもなく、髪も切られることなく長いまま、十五歳の少女として幸せに――。
「おまえ、さ。なんで、レノックス伯爵の養子になったんだ?」
その問いかけに、とうに痛むことなど忘れたはずの胸が、ずくりと疼いた。
「……断れなかった」
あの状況で、世間知らずの姉妹に己の要求を呑ませることなど、海千山千のレノックス伯爵にとっては、赤子の手をひねるよりも容易いことだったのだろう。
たとえ両親が生きていたとしても、結果は同じだったかもしれない。
「はあ!? なんだそりゃ、無理矢理養子にさせられたってことか!?」
レオナルドが、素っ頓狂な声を上げる。
なんだろう。腹の底が熱くなって、ひどく苛つく。
「うるさい。おまえには、関係ない。身寄りのない孤児が、領主の要請に抗えると思うのか?」
「いや、そりゃあそうかもしれねェけど……っ」
彼の慌てた、裏のない表情を見て、この焼けつくような苛立ちの理由を理解する。
本当に、腹立たしい。
なぜ、こんなにもまっとうな貴族がこの国にはいるというのに、自分たちはよりによってレノックス伯爵領などに生まれてしまったのか。
……こんな男になど、会いたくなかった。知りたくなかった。考えたくなかった。
何かがほんの少し違っただけで、もしかしたら今とはまるで違う人生を送れていたのかもしれない。
そんな意味のない仮定になんて、気付きたくなかった。
こちらの拒絶を感じ取っているのか、レオナルドが居心地悪そうに声を掛けてくる。
「あー……。あのな? ギル。もしおまえが本当にいやなら、養子縁組なんていつでも解消できるんだぞ」
「そうか」
できない。そんなことは。
姉があの土地に住んでいる限り、ギルがレノックス伯爵家に抗うことは許されない。
だから、そんなことを言うな。
どれほど望んでも叶わない希望など、見せつけるな。
(……痛い)
こんな胸の痛みなど、思い出させないでほしいのに。
「オレも、ユージィンも、司令もだ。おまえが何か困ることがあったら、いつでも手を貸す。だからあんまり、ひとりで抱えこむなよ」
「ああ」
本当に、やめてほしい。
胸が苦しくて、息がうまくできなくなりそうだ。




