雷雨
その日は、朝から雨だった。
未明にはパラつく程度だったものが、いつも通り本部建物の待機スペースに入った頃から、すっかり本降りになっている。
――エサイアスとの邂逅から、十日が経つ。
あれ以来、待機任務が続いているギルは、窓から薄暗い空模様を眺めて小さく息を吐く。
(雨は、嫌いだ)
両親が食い殺されたあの夜も、激しい雷雨が世界を覆い隠していた。
姉と最後に別れた朝も。
泣きながら彼女に会いたいと懇願したせいで、無理矢理髪を切られた日にも。
はじめて呪詛との戦いに投入され、傷だらけになって死にかけたときも、不吉な雨が降っていた。
こんなにも雨との巡り合わせが悪いのに、水使いなどと名乗っている自分が、なんだか滑稽だと思う。
できることなら、雨の日には出撃したくない。間違いなく、よくないことが起こる気がする。
そんなことを考えながら、愛用の魔導剣を持って屋内鍛錬場へ向かうと、今朝はレオナルドとユージィン、コンラッドだけでなく、クローディアも顔を揃えていた。
普段の合同訓練に、彼女は参加していない。
土使いとして呪詛対策機関に在籍しているものの、戦闘要員としては登録されていないため、基本的に自由に過ごしているのだ。
もっとも、この本部施設はクローディアが構築した土の防御魔術で幾重にも守られているそうで、そのチェックやメンテナンスは彼女の大切な仕事らしい。
不思議に思ったのが伝わったのか、クローディアはにこりと笑って口を開いた。
「おはようございます、ギルさま。今日は、キャロラインさまから私たちにお話ししたいことがあるそうですの。そのお約束の時間まで、みなさまの訓練のご様子を拝見させていただこうと思いまして……。お邪魔にならないよういたしますので、少しの間だけお許しください」
「そうか」
コンラッドだけでなく、わざわざ彼女まで呼び出すということは、土使いの力が必要な呪詛の討伐依頼でもはいったのかもしれない。
壁の棚に魔導剣を置き、訓練用の模擬剣を取り出す。
コインを投げて対戦相手を決めると、初戦の相手はレオナルドだった。
「いくぞ」
「ああ」
こうして彼らと合同訓練をするたび思うのだが、マスターやその護衛魔導兵士というのは、つくづく身体強化魔術の練度が高い。
レノックス伯爵家で、その基礎をギルに教えた者たちなど、彼らの足下にも及ばない。通常時の身体能力と、身体強化魔術を発動したときの差を認識しきれず、せっかくの術の効果を無駄にする者も多かった。
(おれは問答無用で実戦に放りこまれているうちに、いつの間にか身体強化魔術もそこそこ使えるようになっていた感じだしな。レオナルドたちと比べると、雑というか適当というか……)
こうしてきちんとした訓練を受けた人間を相手にすると、つくづく自分の未熟さがよくわかる。
とはいえ、これで今まで困ったことがあるわけでもないし、さほど気にすることもない、と思うのだが――。
「おい、レオナルド。この間から、いったいなんなんだ。手抜きだか手加減だか知らんが、やる気がないにもほどがあるぞ」
「え? あ……うん? いや、そんなつもりはないんだが……」
打ち合っていた模擬剣を止めて言うと、レオナルドがあからさまに目を逸らす。
エサイアスの一件があった翌日から、彼だけでなくユージィンも、合同訓練で妙に力を抜いてくるようになった。
それまでは、素手の対人格闘訓練でも普通に顔や急所を狙ってきていたのが、腕や足ばかりを攻撃してくる。
両親のことを知られたせいで、おかしな同情でもされているのだろうか。
どうでもいいが、こんなことではろくな訓練にならない。
小さく息を吐いたギルは、すいとコンラッドに視線を向けた。
「コンラッド。コイツと代わってくれ」
「ああ……うん。そうだね。――レオ、交代だ。おまえといいユージィンといい、本当にどうしたんだ? まったく、おまえたちらしくもない」
苦笑したコンラッドが模擬剣を手にやってくるのに、レオナルドは何かもの言いたげな様子だったが、黙って下がる。
(……やっぱり、少しだけ姉さんを思い出すな)
正面から相対したコンラッドの長い黒髪も琥珀の瞳も、ギルの胸の奥に小さな痛みを呼び起こす。
もう二度と会うことは叶わない、たったひとりの大切な家族。
――雨の音に、引きずられているのだろうか。
妙に、昔のことを思い出す。
「ギル。おそらく無意識の動きなんだろうが、踏み込みの寸前に少し左肩が下がっている。可能なようなら、修正するといい」
「わかった」
コンラッドはこの中で最年長であるからか、後輩指導が最も上手い。
まるでお手本のような美しい剣技に、訓練場の隅でクローディアがうっとりと見とれている。
彼らは、相愛の婚約者同士だという。
姉と婚約者が幸せそうに寄り添っていたように、このふたりにも幸せな未来が訪れればいい。そんなことを密かに願うくらいは、許されるだろうか。
想い合う相手を心から大切にしている彼らの姿が、ギルが願う姉の幸福に、少しだけ重なる気がするから。
一通り模擬剣を打ち合ったのち、コンラッドが笑って声を掛けてくる。
「うん。随分、よくなったね。きみの柔軟な対応力には、いつも驚かされるよ」
咄嗟に、なんと返せばいいのか戸惑う。
指導されたことには、即座に対応しなければ殴られる。それが当たり前だったから、訓練中に殴られないことにいまだに慣れない。
とりあえず、丁寧な指導に礼を述べるべきかと思ったとき――。
昼だというのに真っ暗だった窓の外が、突然鋭く輝いた。
その直後、すさまじい轟音とともに建物が揺れる。
照明が、落ちた。
(え?)
突然激しく乱れた鼓動に、戸惑う。
こんな暗闇程度で驚くような繊細さなど、とうに失っているはずなのに。
何度か点滅したのち、照明はすぐに復旧した。
いっそう強く雨が叩きつけられるようになった窓へ、視線を向ける。
心臓が、うるさい。
震える唇を噛んだとき、暗闇を切り裂くような稲光が、空全体を走り抜けた。
(……あ)
目の前が、すぅっと暗くなる。
聴覚ばかりが異様なほどに研ぎ澄まされて、激しく降り注ぐ雨の音が、やけにはっきりと聞こえてきた。
膝から力が抜けて、その場にすとんと座りこむ。
暗い。
轟く雷鳴。
建物に叩きつけられる驟雨の、音。
「ギル? どうした?」
誰かが、何かを言っている。
目の前に伸ばされた、大きな手。
ぞわり、と全身が総毛立った。
赤い赤い、血の色の記憶。
鼻を突く、鉄のにおい。
雷光に浮かび上がる、大きな男の黒い影。
「あ……ぁ、あぁあ……っ」
――あの、雷雨の夜に。
「いやあぁあああああああっっ!!」
セシリアの両親は、生きたまま呪詛に食い殺された。




