感謝
(なんって、失態だ……っ)
『裏返し』のエサイアスと名乗ったヒトガタの呪詛が逃亡した瞬間、レオナルドはすさまじい焦燥に襲われた。
あれは絶対に、今ここで倒しておかなければならないモノだった。
人間の愛情を、その大きさに比例する殺戮衝動に変換する力だけではない。
その性質――個性ともいうべきありようが、あまりに異常だ。
気まぐれに、なんの脈絡もなく『面白いから』、『大好きだから』、『ゾクゾクするから』などというふざけた理由で、戯れのように人間を呪う。
何より――。
「ギル!」
振り返れば、完全に血の気の失せた顔をしたギルが、目を見開いたまま震えていた。
声もなく、エサイアスの消えた方角を瞬きもせずに見つめている。
その青色の瞳に、涙の気配はない。
けれどレオナルドは、今までの人生でこんなにも傷ついた人間を見たことがなかった。
彼に掛ける言葉を見つけられず、エサイアスが出現したときから、司令本部と繋いだままだった通信魔導具に触れて口を開く。
「司令本部。風使いだ。ヒトガタの呪詛、『裏返し』のエサイアスは逃亡。こちらの損害はなし。リューディア領の状況はどうなっている?」
『……こちら司令本部。リューディア領では、呪詛の拡大は停止している。ただし、すでに呪詛の影響下にあった地区の状況は変わらず。現在、リューディア領及び、近隣から緊急召集した魔導兵士たちが対応中だ』
レオナルドは、くっと眉をひそめた。
呪詛の本体が離れたことで、その拡大こそなくなったようだが、迷惑極まりない置き土産はそのままということか。
発生源が消えた精神干渉系の呪詛の被呪者は、放っておいても時間が経てばいずれ正気に戻る。だが、それまでの間、彼らを放置すれば無惨な被害者が増えるだけだ。
理性を失った人間の力というのは、決して侮れるものではない。呪詛の影響がかなり広範囲に広がっている以上、おそらく現地は大規模な暴動じみた騒ぎになっているだろう。
――愛する者を、その想いの深さに比例した殺意をもって、殺そうとする人々によって。
「了解。現在、水使いが戦闘不能。これより風使いと炎使いが……っ」
ガツ、と。
強い力で、戦闘服の胸元を掴まれた。
「……報告を訂正。水使いは戦闘可能。これより風使い、炎使いとともにリューディア領に向かい、被呪者の鎮圧行動に入る」
「ギル! おまえは……っ」
まだ、その手が震えているくせに。
なぜ彼は、今度は人間が相手の悲惨な戦場へ赴こうというのか。
「作戦行動中だ。水使いと呼べ」
「駄目だ。冷静とはほど遠い今のおまえを、危険な現場には連れていけない。手を離せ。おまえは、ここから一番近い支部に置いていく」
レオナルドとギルの呪詛対策機関における地位は同格だが、作戦行動中は先に着任しているレオナルドの判断が優先される。
それを、ギルも理解しているのだろう。
いまだ細かく震えている手に、ぐっと力がこもる。
俯いている彼の、表情は見えない。
「……いやなんだ。風使い。アイツの呪詛で、今も苦しんでいる人たちがいるのに。また、何もできないままなんて」
低く、掠れた声だった。
「さっきも、おれは、何もできなかった。父さんと母さんを食い殺した敵が、目の前にいたのに。おれが、あいつを殺さなきゃいけなかったのに」
その言葉に、胸が詰まる。
「頼む。おれの水なら、殺戮衝動に呑まれている人たちを、強制的に止められる。とても、苦しませてしまうけれど……。それでも、大切な相手を殺そうとし続けるよりは、マシだと思う。リューディア領には、まだおれのできることがあるんだ」
なぜ、こんなときにまで泣こうとしない。自分ではない誰かのために、戦おうとする。
レオナルドがきつく奥歯を噛みしめたとき、ユージィンが声を掛けてきた。
「わかった、水使い。俺の権限で、おまえを現場に連れていく」
「ユージィン!」
反射的に怒鳴り返したレオナルドには構わず、ユージィンはギルに告げた。
「ただし、おまえが水使いとして充分に働けないと判断した場合には、すぐに撤退指示を出す。いいな」
「……了解」
ギルの手が解ける。
顔を上げないまま、ぽつりと彼は言った。
「わがままを言って、すまない」
「……ばぁか」
今の自分たちに、長々と悩む時間は許されていない。
着任が先のユージィンの判断には逆らえないことを言い訳にして、再び風を操りリューディア領へ向かう。
自分とユージィンの、どちらが正しいのかはわからない。
傷ついているギルをこれ以上の危険から遠ざけたい自分も、彼の願いを叶えてやりたいユージィンも、きっとどちらも正しくて、どちらも間違っている。
ただ、どうしようもなく胸が痛む。
同じマスターとして生まれながら、なぜギルばかりがこれほど辛い思いをしなくてはならないのか。
――はじめて会ったときのキミはとても小さくて、まるで月の精のように可愛らしかったね。平和な街の平凡な家庭で、美しく善良な家族に心から愛され、キミも同じように彼らを愛して、幸せそうに笑っていた。
エサイアスの語った、残酷な言葉を思い出す。
ギルの両親があの呪詛に目を付けられるようなことがなければ、彼は今も愛する家族とともに、幸せに笑っていたのだろう。
表情をなくし、意識しなければ笑顔を浮かべられないような悲しい人生など、送らずに済んでいたに違いない。
(……もしそんなふうだったら、今みたいにオレたちと一緒に戦うことなんて、なかったのかもしれねェな)
この大陸にかつて存在していた水使いたちは、誰ひとりとして自ら武器を手に戦うことはなかった。
呪詛による穢れを浄化する存在として、ひたすら人々から尊ばれ、求められ、守られていたのだ。
本当に、なんという違いだろう。
たとえギルが、自ら呪詛と戦う道を選んだのだとしても――。
(あ、れ……?)
自らの最高速度で北へ向かいながら、とりとめのない思考に浸っていたレオナルドは、ふと違和感を覚える。
エサイアスは、はじめて会ったときのギルが、とても小さかったと言っていた。
平和な街の平凡な家庭で生まれ育った幼い子どもが、目の前で呪詛に両親を食い殺されたからといって、自ら武器を手に取って戦う人生など選べるものだろうか。
その悲劇の直前まで、優しい両親に愛されていたばかりの、無邪気な子どもに。
(……っ)
まさか、と思う。
自分の考え過ぎならば、それでいい。
けれど――。
(ギルは……どうして、オレやユージィンと互角に戦える?)
彼は、はじめて自分たちの前に現れたときから、水使いであり兵士だった。
大勢の犠牲者を出した『館』タイプの――しかも、複数の核を備えたそれを、たったひとりで破却した、前代未聞にして歴代最強の水使い。
その実力の理由について、彼の養い親であるレノックス伯爵は語っていない。戦闘経験に関しても、『元自警団見習い』などというたわごとを、堂々と公表してきた。
あんな真似を恥ずかしげもなくできたのは、この国の重鎮である彼の言葉を否定することが、誰にとっても非常に難しいからだ。呪詛対策機関のトップであるキャロラインでさえ、ギルの本当の経歴をいまだに確認できずにいる。
(レノックス伯爵家から提出された情報が、すべて虚偽だと仮定する。もし……ギルが、孤児院で育ったということさえ、嘘だったとしたら?)
ぞわり、と背筋が粟立った。
もし、レノックス伯爵が孤児院で育ったギルを見つけ、すでに呪詛と戦える力を持っていた彼の事情を知らないのではなく、すべてを知ったうえで隠蔽していたのだとしたら。
(呪詛の爪痕は、膨大な魔力を持って生まれた証……)
レノックス伯爵家は、代々優秀な水系魔導士を輩出してきたことで、王宮での発言権を強めてきた。
だが、現在その後継者と目されている嫡男も、そのスペアである次男も、学生時代の成績は至って平凡なものだったはずだ。少なくとも、歴代の優秀な学生たちのように、在学中に彼らがなんらかの表彰を受けたという事実はない。
それどころか、華やかな容姿を持って生まれた嫡男は、その頃から女性絡みの問題をよく起こしていたと聞く。
にもかかわらず、三年ほど前からレノックス伯爵領における呪詛の討伐数は激増している。
(……三年前)
ギルが両親を喪った正確な時期は、わからない。
それでも、もしその直後に呪詛の爪痕保持者――即ち、膨大な魔力を持つ子どもである彼を、レノックス伯爵家が密かに確保していたなら。
幼い彼に徹底的な戦闘訓練を施し、頼りにならない嫡男次男の代わりに、領地で発生する呪詛の討伐任務に就かせていたなら。
そしてその後、水使いの能力に目覚めた彼を、権力闘争の駒として利用しようと思ったなら――。
(いや……いくらなんでも……)
そんな非人道的なことを平気でできる人間がいるなど、信じたくない。
呪詛に両親を食い殺されたばかりの哀れな子どもを、都合のいい道具として育て上げ、自分たちの果たすべき責務を押しつけ、その成果をもって王宮で大きな顔をしている、だなんて。
「見えてきたな。現場のこれほど近くに湖があるなら、そこの水を直接操るほうが早い。風使い、おれを適当な湖の近くに下ろせ」
「あ、ああ。了解」
胸が詰まりそうないやな思考を、いつも通りの淡々としたギルの声に断ち切られる。
ユージィンが続いて言う。
「風使い。状況が対人の市街戦に変わった以上、俺はよほどの事態にならない限り動けない。水使いの護衛に入るから、おまえは先に行って被呪者の動きを牽制していろ」
「了解」
ギルが湖の水を直接操るのであれば、その際無防備になる彼の護衛は必要だ。
――黒い靄状の瘴気が色濃く渦巻いているのは、普段であれば観光客向けの宿泊施設や遊歩道を人々が楽しげに行き交う、美しい街だった。
大きな湖からほど近いそこのあちこちから、火の手が上がっている。
美しい外観の建物の多くは破壊され、荒れ果てた路上では、大勢の人々が獣じみた様子で激しく動き回っていた。
チッと舌打ちしたユージィンが軽く腕を振ると、黒煙を噴き上げていたいくつもの炎が瞬時に消える。
しかし、さまざまな凶器を手に殺し合いをしている人々は、そのことに気付く様子もない。非殺傷魔導武器を手に、懸命に彼らの動きを抑制しようとしている魔導兵士たちも同様だ。
ふたりを手近な湖畔に下ろそうとしたレオナルドに、ギルが言う。
「この距離なら、被呪者の動きを止めるのにさほど時間は掛からない。おれが任務を遂行するまで、街に入るな」
初対面のとき、レオナルドとユージィンを水浸しにして文句を言われたことを思い出しているのだろうか。
いずれにせよ、服を着ているときに頭から大量の水を被って喜ぶ趣味はないレオナルドは、素直にその指示に従うことにする。
静かな湖畔に降り立つと、ギルは迷わず小さな波がさざめいている湖に入っていく。
直後、彼の周囲から水が消えた。
渦を巻いて空へ昇っていった大量の水が、街の上に薄く広がっていく。
ほのかに金色を帯びた青い魔力が、ギルの髪を舞い上げる。
いつもより青みの濃くなった瞳で、じっと湖面を見つめていた彼は、やがてゆっくりと顔を上げた。
街のほうを振り返り、ぽつりと呟く。
「次は、必ず殺してやる」
無表情に彼がそう言った途端、街全体に水が落ちた。
それまで聞こえてきていた殺気混じりの喧噪が、一瞬で静まり返る。
あまりの静けさに、以前『共食い』の呪詛と対峙したときのような惨事を想像し、身構えていたレオナルドは、なんだかじわじわと不安になった。
「……おい、ギル。まさかおまえ、人間がぺしゃんこに潰れるほどの水を叩きつけていないよな?」
今の「殺してやる」という言葉が、エサイアスに向けたものだというのは、もちろんわかっている。しかし、魔力操作の精度というのは、本人の精神状態に依存するものだ。
両親を食い殺した呪詛と再会したばかりのギルが、多少その制御を誤ってしまっても不思議はない。
少しの沈黙のあと、ギルが答える。
「多少、制御が甘くなっていたのは認める。だが、人間を殺した感覚はなかった。……少し、疲れた。あとは、任せる」
そう言うと、湖から上がってきたギルは、大きな落葉樹の根元に崩れ落ちるように座りこんだ。その幹に背中を預けて、目を閉じる。
いろいろと、限界だったのだろう。
しかし、ユージィンが彼の体に自分のジャケットを掛けた途端、ギルはぱっと目を開いてそれを振り払った。
「おい」
むっとしたユージィンに、ギルが何度か瞬きをしてから周囲を見回す。そばに落ちたジャケットを見て、ひどく小さな声で言う。
「疲れたと、言っただろう。驚かせるな」
「人の優しさに、いちいち驚くんじゃありません!」
ユージィンが、拾い上げたジャケットを再びギルの頭から乱暴に被せた。もそもそとそれを引き下ろしたギルが、ぼんやりと口を開く。
「……同情なら、不要だ。呪詛に親を殺された子どもなど、いくらでもいる。おれだけが、こんな思いをしているわけじゃない」
「同情じゃねーし、単なる気遣いだし、ついでにさっき助けられた借りを返してるだけだ、バカ野郎。――行くぞ、レオ」
ジャケットを投げ返される前に、と考えたのか、ギルが何か言う前に早口で指示してきたユージィンとともに、レオナルドは上空へ移動した。
大量の水の供給源となる湖の畔で、多少体調不良であろうとも、水使いであるギルに危害を加えられる者などいないだろう。……だから、再び目を閉じた彼の周囲に、風の結界を三重に展開したのは、ただの自己満足の気休めだ。
鬱々とした思考に囚われそうな頭を軽く振り、到着した先で見えた人々の様子に、レオナルドは困惑した。
(なんだ……?)
――ギルの魔力を帯びた水は、呪詛や被呪者にとっては猛毒のようなもの。
その事実は、以前彼と共同任務で当たった『共食い』の呪詛の一件で確認している。
しかし今、眼下に確認できる人々は、被呪者も魔導兵士も揃ってずぶ濡れの姿ではあるものの、被呪者の誰ひとりとして苦しんでいる様子はない。
みな力なく座りこみ、自分の身に何が起こったのか理解できないかのように呆然としている。
どうやら、人々から呪詛の影響はすっかり抜けているようだ。
ふたりは、リューディア領の徽章を付けている魔導兵士たちのそばへ降り立った。
突然、空から現れた人間の姿に、反射的に武器を手に取ろうとした彼らだったが、特徴的な髪色を見てすぐにこちらの正体に気付いたらしい。
「炎使いさま、風使いさま……!」
「すまない、挨拶はあとにしてくれ。まずは、状況を確認したい。――先ほど、水使いが送った水を受けたとき、被呪者たちが苦しむ様子はあったか?」
レオナルドの問いかけに、束の間奇妙な沈黙が落ちた。
ややあって、最初に呟いたのは誰だったのか。
「水使いさまが……?」
ぽつりとしたその声が、静まり返っていた空気を小さく揺らし――その直後、雄叫びのような歓声に呑み込まれた。
口々に水使いの名を叫んでいるのは、魔導兵士たちだけではない。さまざまな凶器を手にしていた被呪者たちもまた、それらを放り捨てて号泣し、あるいは絶叫しながら、水使いに感謝の言葉を捧げている。
――ありがとうございます。もう少しで、取り返しのつかないことをするところだった。自分たちでは、止め切れなかった。まさか、こんな一瞬で呪詛の影響を消してしまわれるなんて。
水使いへの感謝ばかりを述べる人々の様子からしても、ギルの水が被呪者たちになんらかの苦痛を与えたという事実はなさそうだ。
ただひたすらに、恐ろしい呪詛から逃れられた歓喜ばかりが、そこにはあった。
(ひょっとして、呪詛の核から離れた状態であれば、ギルの水はなんの苦痛も伴わずに、被呪者たちを呪詛の影響から完全に解放させられるのか……?)
たとえ事実がどうであれ、少なくともこの街の人々が水使いに――ギルに対し、心からの感謝を捧げていることは間違いない。
「……多少無茶をさせてでも、ギルも連れてくればよかったな」
ユージィンの呟きに、レオナルドは黙って頷いた。
そして、近くにいた魔導兵士たちに言う。
「あなた方が懸命に被呪者を抑えてくれていたお陰で、水使いの対処が間に合った。感謝する」
「……っはい……!」
ありがとうございます、と。
人々から心からの感謝を向けられるべきは、今、たったひとりで疲弊しきった心と体を抱えている彼なのに。




