医療棟の主
呪詛対策機関本部の医療棟には、複数の医師が常駐している。
そのトップとして医療棟の全権を握っているのが、ブラッドリー・サザーランドという人物だ。
公爵家の三男でありながら医療の道を志し、四十二歳の若さでこの国随一の救急医療のエキスパートと認められている彼は、淡い金髪にブルーグレーの瞳の若作り――もとい、優男である。
医者などより、役者でもしているほうがよほど似合いそうな細身の中年男だが、ときに戦場以上の戦場と言われる医療棟のトップを務めているのだ。その体力も根性も、歴戦の魔導兵士のそれに、まったく引けを取らないに違いない。
レオナルドが、マスターたちの専属医師でもある彼の世話になったのは、まだほんの数回のことだ。それでも、ブラッドリーが呪詛対策機関本部の医療棟で最も有能で、最も怒らせてはいけない人間であることだけは、経験ではなく本能的に理解していた。
「すまない、ブラッドリー。オレとユージィンの命が懸かってる。後生だから、コイツの傷を絶対に痕が残らないようにしてやってくれ」
医療棟で最も大きな診察室へギルを連行するなりそう言うと、医学書を片手に優雅にティーカップを傾けていたブラッドリーが振り返る。
そして、一瞬目を見開いたあと、剣呑な眼差しでレオナルドを見た。
「おい、レオナルド。僕の目がおかしくなってるわけじゃあないなら、その坊主は新入りの水使いサマだよな? なんだおまえら、まさかの新人いびりでもやってんの?」
「ちっげーわ! 人聞きの悪いことを言ってんじゃねえ!」
反射的にぎゃあと喚いたレオナルドを無視し、立ち上がったブラッドリーが腰をかがめてギルの顔をのぞきこむ。
「……ああ、こりゃあ結構いってるな。水使い――ギル・レノックス、だったな。傷を洗浄するから、こっちに来い」
ブラッドリーの指示に、医療棟へ来る間も妙にぼんやりとして黙ったままだったギルが、素直に従う。
キャスター付きの小さな丸椅子に座らされ、それなりに染みたり痛んだりしているだろう治療行為にも、一切反応することなくじっとしている。
「右頬の傷は、保護テープで固定しておいた。完治するまでは、毎日ここに来ること。勝手にテープを剥がすんじゃないぞ」
「了解した」
こくりと、妙に幼い仕草で頷いたギルに、ブラッドリーがにっと笑って続けた。
「よし。口の中の傷については、まあ……しばらくはメシを食うたびに染みるかもしれんが、放っておいても大丈夫だろ。左頬は、これから少し腫れてくるかもな。落ち着くまでは、冷却テープで冷やしておけ」
粗雑な言葉遣いとは裏腹に、丁寧な手つきでギルの顔にあれこれ処置をしていったブラッドリーが、ふと驚いたように目を瞠る。
「へえー? ……おい、レオナルド。ちょっと、こっちに来いや」
「あん?」
ちょいちょいと手招きされてふたりに近づくと、ブラッドリーはギルの左目を手のひらで隠すようにしながら、彼の座っている椅子を軽く回す。
(………………は?)
この医療棟で使用されている医療テープは、どんなタイプのものでも貼った瞬間から本人の肌色と同色に変じるため、一見して何も貼っていないように見える優れものだ。
それらを貼られたギルの頬は、呪詛の爪痕が完全に見えなくなっていた。そのうえで、ブラッドリーの手により左目を隠された彼の顔は――。
(………………美少女?)
なめらかな輪郭を描く白く小さな顔に、まっすぐな細い鼻筋と淡い色合いのふっくらとした唇が、バランスよく配置されている。水使いの証である鮮やかな青色の瞳は、長く濃い睫毛にびっしりと縁取られ、まるで最高級の宝玉のようだ。
そこまで認識したレオナルドは、思いきり眉根を寄せて、うわあ、と潰れた低い声を零した。
「おまえ……。そのツラで、なんで男なんだよ……」
「は?」
その愛らしい唇から出てくる声は、相変わらず冷ややかの一言だ。
顔だけ見れば、大変ものすごくどストライクに好みの超絶美少女だというのに、実際は可愛げもへったくれもない男の同僚。
なんだかものすごくやさぐれた気分になったレオナルドは、半目になってブラッドリーを見た。
ギルの左目を隠したまま、くっくっと肩を揺らして笑っているところからして、こちらの反応を見て楽しんでいたのは間違いあるまい。
「おい、ブラッドリー。遊んでんじゃねェぞ」
「いやー……。悪い、悪い。ちょっと、面白かった。それにしても、風使いと炎使いは見た目がゴツいのが多くて、水使いと土使いは華奢でキレイなタイプが多いってのは聞いていたが……。こうなると、女性の風使いや炎使いってのは、やっぱりゴツめのマッチョタイプだったりするのかねえ?」
何やら真顔でどうでもいい考察をはじめたブラッドリーに、レオナルドは顔を顰めてツッコんだ。
「おい。誰がゴツめのマッチョだ」
「おまえだおまえ。脳みそまで筋肉でできていそうな、猪突猛進マッチョ野郎が」
ブラッドリーが、ヒラヒラと片手を振る。相変わらず、医者とも公爵家の人間とも思えない口の悪さだが、ここは断固としてもの申しておかねばなるまい。
「はあ? マッチョってのは常に最前線勤務の魔導兵士レベルの、ぶっとい腕や分厚い胸板がなきゃ名乗っちゃダメなやつだろう。オレレベルの貧相な筋肉でマッチョ名乗りなんてしようモンなら、真のマッチョたちに笑われるじゃねェか。誤解を招くような物言いはやめてくれ」
「…………えー」
至極まっとうな主張をしたはずなのに、なぜかブラッドリーがドン引きした目でレオナルドを見た。
「なんだよ?」
「いやー……。おまえが思っていた以上に脳筋ボーイで、おじさんはちょっぴりショックなのです」
どこか遠いところを見ながら、わけのわからないことを呟いたブラッドリーが、ひとつ咳払いをしてからギルに向き直る。
「じゃあ、ギル。その傷を残したくないなら、絶対に日光に当てるな。傷が塞がったら、保湿は毎日サボらずしっかりすること。いいな」
「おれは別に、傷が残ろうがどうでもいいんだが」
ぼそりと呟いたギルの頭を、ブラッドリーががっしりと掴んで物騒に笑う。
「おい、ガキ。この医療棟では、僕がルールだ。僕の言葉はありがたい神の言葉だと思って、畏れ敬いながら黙って従え」
「……了解した」
そのときレオナルドは、ブラッドリーがこの医療棟の最高責任者であることに、心の底から感謝した。
(クローディアやユージィンは、呪詛の爪痕が見えている状態でも、コイツの超絶美少女ヅラを正しく認識できてたってことか……。それはそれでスゲェが、クローディアが気に入ってるギルの顔に傷が残ろうもんなら、本気でオレらを絞め殺しにきそうで、ちょっと怖いな)
土使いであるクローディアは、どんな植物だろうと種さえあれば、自在に成長させることができる。そのうえ、サイズと強度についても思いのままであるため、蔓系植物の種がひとつあれば、彼女にとって人体の拘束など赤子の手をひねるのに等しいのだ。
つまり彼女は、リアルに触手プレイができてしまう女王さまなのである。なんと恐ろしい。
「それで? なんでまた、ウチの期待のルーキーが、顔に傷なんて作るようなことになったんだ?」
魔導タブレットでギルのカルテを作りながら、ブラッドリーがギルに問う。
「マスターたちと話をしていたら、突然レオナルドに殴られた。その後、ユージィンに喧嘩を売られて、傷が増えた」
「……はぁん?」
「ちょっと待てー!!」
間違ってはいないが、ものすごく人聞きの悪すぎるギルの説明に、ブラッドリーが半目になり、レオナルドは声をひっくり返した。
「おまえなあ! いや、そりゃあいきなり殴ったのは、オレが悪かったが……っ」
「……大声を出すな。頭に響く」
わずかに眉根を寄せたギルの顔色を見たブラッドリーが、カルテに何やら書き込みながら口を開く。
「ギル。おまえは、そっちの仮眠室で少し休んでいけ。今日の任務は、ドクターストップだ」
「了解した。だが、待機任務を解かれるのであれば、帰宅させてもらう」
そのまま立ち上がろうとしたギルに、ブラッドリーが目の笑っていない笑顔を向ける。
「おい、バカガキ。たった今教えたばかりのことを、もう忘れたか? ――ここでは、僕の言うことには、黙って従え」
抗い難い圧を持ったその言葉に、ギルが一瞬言葉に詰まったように見えた。
少しの間逡巡したあと、彼は硬い声でブラッドリーに問う。
「ここの仮眠室には、内側から鍵を掛けられるか?」
「ああ。おまけに完全防音、空調完備の、ありがたーい仮眠室だぞ」
そうか、と頷いたギルが、指示された仮眠室へ入っていく。その施錠音が聞こえるのを待って、ブラッドリーはガシガシと後頭部を掻いた。
「まーた、厄介なガキが来たもんだなあ。……で? レオナルド。なんでおまえらはいい年をして、あんなちっこいガキをよってたかってボコったんだ?」
「だから、言い方ぁ……」
思わずどんよりと肩を落としてしまったが、ギルのメンタル面がどうにも不安であるのは間違いない。
それまでギルが座っていた椅子に腰を下ろしたレオナルドは、頭の中を整理しながら、ギルがコンラッドと対面したときからのことを、順を追って話していく。
ギルがコンラッドに――コンラッドと同じ髪と瞳をしているという何者かの面影に、異様なほど怯えていたこと。
彼の経歴と実際の戦闘能力との間にある、不可解すぎる齟齬。
それをコンラッドが指摘した途端、ひどく攻撃的な拒絶の言葉を吐き出しはじめたこと。
――呪詛を相手に戦って、まともな死に方をできるなんて思っていない。それが、早いか遅いかだけだ。おれの能力は、すでに提示している。それをどう使うかは勝手にしろ。命令に逆らうつもりはない。死ねというなら、こんなくだらない命くらい、いつでもおまえたちにくれてや――
……あまりにもギル自身を軽視する言葉を、それ以上言わせては駄目だと思ったときには、勝手に体が動いていたこと。
「アイツは、ルドミラ王国で『共食い』の呪詛と戦ったときにも、似たようなことを言ってたんだ。――自分の力は、ここの人間に生き地獄を与えただけだ、って」
「ふむ。強すぎる自己否定の傾向は元々顕著、と」
レオナルドの言葉を、ブラッドリーは淡々とカルテに記入していく。
「そのあと、ユージィンがアイツに喧嘩を売ったっつうか……。ただあれは、本気のユージィンに攻撃されて逃げ回るアイツに、本当に死んでもいいと思っているならなんで逃げる、そうじゃねェだろ、って体でわからせようとしてたんだと思う」
「はあ? なんでそこでいきなり、そんな脳筋思考に走るかねえ?」
ブラッドリーが呆れかえった顔でこちらを見るが、あのときのギルにはどんな言葉も通じるようには思えなかった。
「……話を、全然聞いてくれなかったんだ。元々無表情で、何考えてるかわからねェし、ろくに口も開かないようなヤツだけど。あのときはいつも以上に、駄目だった」
凍りつくような目で、声で、すべてを拒絶するギルを見て、本当に駄目だと思ったのだ。
ここで彼から目を逸らしたら、決して失ってはいけない何かが消えてしまう気がして、ひどい焦燥に息が詰まった。
この背筋が粟立つような感覚を、どう言葉にすればいいのかわからないまま俯いたレオナルドに、ブラッドリーが深々とため息を吐く。
「あのなあ、レオナルド。おまえたちにも、いろいろと言い分はあるんだろうが。――今回は、おまえたちが悪い。全員揃って、地の底に潜る勢いで反省しろ」
え、と顔を上げたレオナルドに、思いきり顔をしかめたブラッドリーが言う。
「そもそも、アイツは呪詛の爪痕を食らっているんだ。それだけでも、相当のトラウマを抱えていて当然だろうが」
「あ……ああ」
その通りだ。
ギルがあまりにも淡々と日々を過ごしているから、ついこちらも意識しなくなっていたけれど、呪詛の爪痕を刻まれた者の過去というのは、常に血塗れの悪夢に等しい。
レノックス伯爵家から提示された情報では、対象の呪詛に関するギルの記憶は曖昧とのことだが、すでにこれほどの矛盾が溢れているのだ。その前提も、疑って然るべきだろう。
「で、コンラッドの顔を見て、まともに呼吸もできなくなるほど怯えていたって? 孤児院育ちってことだし、まあ……いじめや虐待の類いはされていただろう。それも、そこまで顕著な反応をしていたってことは、相当キツいもんだったはずだ。たとえ周りの人間に呪詛の爪痕が見えていなくても、よけいなことを言うやつってのは、どこにでもいるもんだからな」
「……そう、か」
レオナルドには、孤児院に関する知識はさほどない。
それでも、幼い子どもというのが、時に『自分たちと違うもの』に対して、残酷なほどの排他性を見せることは知っている。
「おまえたちが、焦る気持ちはわかる。呪詛の爪痕を消してやるためには、アイツの過去に関するどんな小さな情報だって欲しいよな。任務に関わることであれば、アイツも少しは話しやすいかもしれないって判断するのも、当然だと思う。……ただ、今回ばかりは、完全におまえたちの勇み足だ」
ブラッドリーの声が、一段低くなる。
「心にデカい傷を抱えたガキが、過去の記憶に怯えて不安定になっているときに、追い打ちをかけて過去の話をさせるなんてのは、素人がやっていいことじゃあない。絶対に、二度とするな。このことは、あいつらにも伝えておけよ」
「わ……かった」
両手をきつく握りしめて頷いたレオナルドに、ブラッドリーは小さく笑ったようだった。
「素直でよろしい。――あのなあ、レオナルド。いろいろ言ったが、おまえたちのアイツを理解したいって気持ちは、何も間違っていないんだ。同じマスター同士、どうしたって相手のことは気に掛かるだろう。それが、あんなふうに荒んだ目をしたガキなら、尚更だ」
だから、とブラッドリーが穏やかな声で言う。
「焦るな。おまえたちだって、僕から見ればまだまだ世間知らずのクソガキだ。世の中には、時間が解決してくれることなんていくらでもある。それを待つのは、全然悪いことじゃない。呪詛の爪痕の主だって、マスターがこれだけ揃っていて何を怖れる必要がある? おまえら全員で、ボッコボコの返り討ちにしてやればいいんだよ」
「……そうだな」
自分たちは、傷ついている相手に正しく寄り添うこともできない、世間知らずのクソガキだ。
そのせいで、ただでさえ傷ついているギルを、これからますます傷つけてしまうのかもしれない。
それでも、とレオナルドは思う。
「オレは……アイツが、大勢の人間を救ったことを知ってる」
たとえ本人が、その結果を救いだとは思っていないとしても。
ギルの力と行動は、間違いなく数え切れないほど多くの人々の命を救っている。
「アイツに救われた人間の全部が、そのことを喜んでいるだなんて、言わねェよ。死んだほうがマシだったと、泣いているやつらだっているんだろう。それでも……あいつに救われて、喜んで、感謝してる人間だって、絶対にたくさんいるんだから」
だから――それだけは。
「そのことだけは、ちゃんとわかっていてほしいんだ」
「そうか」
ブラッドリーの手が、ぐしゃぐしゃとレオナルドの髪をかき混ぜる。
「がんばれよ、若者」
「……オッサンくせえ」
その手をべしっとはね除けると、ブラッドリーがふと表情を改めた。
「あのな、レオナルド。もし今後、ギルが体調を崩すようなことがあれば、どんなに症状が軽そうに見えても、すぐに僕に報告しろ」
「え? そりゃあ、構わねェけど……?」
視線だけで理由を問うレオナルドに、ブラッドリーが珍しく何かを言いよどむようにして腕組みをする。
「いや……なんだ。アイツのメンタルケアについて、いろいろと考えているんだけどな。ああいうタイプは、自分の不調に気付かないまま動き続けて、いきなり限界が来てぶっ倒れる、なんてことが珍しくないんだよ」
「あー……」
なんだか、ものすごくあり得そうだ。
レオナルドは、頷いた。
「わかった。ほかの連中にも言っておく」
「ああ。頼んだ」
ブラッドリー:「骨格は、完全に女なんだよなあ……。半陰陽なんだとしたら、自己申告があるまでは下手に触れないほうがいいか。そもそも、自分でも本当の性別に気付いていない可能性のほうが高いわけだし。でも、もし月の障りが来るようになったら、メンタルケアとかどうすっかなあ。本当なら、そっち方面の専門医がいたほうがいいんだろうが……。今のうちに、よさげな人材を探しておくか」
※ ブラッドリーの常識の中に、短髪で、身体強化魔術を使える細マッチョな野郎どもとタイマン張れて、顔の傷に対して無頓着な十代女子は存在しません。
ギル:「医者に触られたけど、女だってバレなくてよかった」




