顔の傷
(おまえこそ、なぜわからない)
世の中には、自分自身を大切にすることを許されない人間がいるのだと、なぜ理解できない。
自分よりも遙かに体の大きな相手から、顔の形が変わるほど殴られたことがないからか。
泣き声が鬱陶しいという理由で、丸一日食事を抜かれたことがないからか。
旧式の魔導武器だけを与えられ、たったひとりで呪詛の前に放り出されたことがないからか。
……あるわけがない。
ここにいるのは全員、生まれたときから世界に愛されてきたような者たちばかりだ。
「さすが……苦労知らずのお貴族さまは、言うことが違うな」
レオナルドの手が、固まった。
「離せと、言ったぞ」
「……っ!」
真下からレオナルドの顎を狙った掌底は、そのまま空を切る。
自分の襟元を掴んだままの左手を掴み、側頭部に叩きこもうとした足は、相手の右腕に阻まれた。
その瞬間、ほんの少し力の緩んだ彼の手を強引に引き剥がし、距離を取る。
「ギル!」
「……少し、残念だ。レオナルド」
「アァ!?」
何がだ、と肩を怒らせるレオナルドに、淡々とギルは告げた。
「おれは今までおまえのことを、簡単に他人に暴力を振るうような貴族連中とは、違うやつだと思っていた」
「……っ!」
激昂していたレオナルドの顔から、表情が抜ける。
血の滲む口元を手の甲で拭い、ギルは冷ややかな視線を彼に向けた。
「貴族だろうが平民だろうが、暴力を振るう人間を信頼するつもりはない。さっさと失せろ、ゲス野郎」
「ギル……!」
苦しげに顔を歪めたレオナルドの肩を、それまで黙っていたユージィンが軽く叩く。
「おまえは、間違ってねーよ。レオ」
いつもどこかヘラヘラした態度の彼が、口元だけで笑って言う。
「知ってるか? ギル。――大事なことを何もわかってねえくせに、他人の言うことをこれっぽっちも聞かない、阿呆なガキはなァ。殴ってでも、躾けてやらなきゃなんねーことがあるんだよ!」
直後に飛んできたのは、容赦なく正面から顔面を狙ってきた大きな拳だ。
反射的に体を捻って避けたものの、頬を掠めた篭手の金具が薄く皮膚を裂く。クローディアの悲鳴が聞こえた。
どうやらユージィンは、本気でこちらを潰しにくるつもりらしい。
ギルは、小さく息を吐いた。
「先に手を出したのは、そちらだからな」
「言ってろ!」
幸いと言うべきなのか、マスターたちに与えられている待機スペースは、かなり広々としており天井も高い。
互いに身体強化魔術を使いながらの応酬に、その余波を受けたソファやテーブルが次々に破壊されていく。
(……なるほど。今までの合同訓練では、随分手加減されていたわけか)
ユージィンが向けてくる拳も蹴りも、ギルが見知っているものとはまるで圧が違う。今のところは受け流せているが、まともに食らえば骨折は免れないだろう。何しろ、相手は一見細身に見えても、全身を鍛え上げているぶんだけ体重もある。
筋肉の重さは、攻撃の重さに比例する。
どれだけ鍛えても、体質なのかあまり筋肉がつかないギルにとって、正面からの殴り合いを続けるのは避けたいところだ。
「オラオラ、どうした!? 逃げてんじゃねえ! テメェの命なんざ、どうでもいいんじゃねーのかよ! テメェは、いつ死んでいいんだろ!?」
「おまえこそ、おれを殺すつもりもないくせに、何をばかなことを言っている」
大怪我をさせるつもりはあるかもしれないが、まるで殺意のない攻撃など、こけおどしもいいところだ。
「あー……そうかよ?」
ユージィンの気配が、変わった。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
「死んでも、文句は言うんじゃねーぞ。……この、クソガキが」
拳の重さが、蹴りの鋭さが、また一段上がった。
これはたしかに、食らえば命はないかもしれない。
だが、ギルに許されている死の形は、自分の力では決して敵わない呪詛に殺されることだけだ。
マスター同士の私闘で死ぬなど、あまりにもばかばかしすぎて、頭に血を上らせたレノックス伯爵が姉に何をするかわからない。
的確に急所を狙ってくる攻撃を躱しながら、相手の動きの癖を読む。
「ったく、よく逃げるなァ! お望み通りに、殺してやるっつってんのによ! なあ! テメェは今、なんで逃げ回ってんだ!?」
「殺してくれと、おまえに頼んだ覚えはない」
パワーでは圧倒的に不利でも、スピードはこちらが上だ。
鳩尾を狙ってきた拳を軽く躱して床を蹴り、そのまま相手の顔を膝で狙いにいく。
それをのけぞることで避けたユージィンの首に腕を絡め、背中から真下に叩きつける。
すさまじい振動に部屋全体が揺れたが、これくらいで沈んでくれれば苦労はない。問題なく受け身を取っていたらしく、すぐさま自分を捉えにきた手を、バックステップでギリギリ避ける。
(あんなものに掴まれたら、そこで終いだな)
魔術で強化された男の手は、立派な凶器だ。
おまけに、ギルが見上げるほどの上背がある体そのものが、身体強化魔術の効果と相俟って、いやになるほどタフだった。スピード勝負でそれなりに攻撃を当てることはできても、なかなかダメージが入らない。
勢いをつけて立ち上がったユージィンの余裕のある表情からして、彼のスタミナはおそらくこちらの想定以上だ。
さてどうしたものかと思ったとき、呆れかえった響きのアルトの声がした。
「ふむ。この惨状は、どうしたことだ?」
振り返ると、呪詛対策機関の最高責任者であるキャロラインが、腕組みをして立っている。
げ、と声を零したユージィンの気配が緩むのを感じ、ギルは戦闘態勢を解く。
黙って説明を待つキャロラインに対し、最初に口を開いたのはコンラッドだった。
「お騒がせしてしまい、申し訳ありません。司令。ですが、マスター同士が少々本気のコミュニケーションをしていただけですので、ご容赦いただければ幸いです」
「……ほほう?」
キャロラインの眉が、面白いことを聞いたと言わんばかりに、くっと上がる。
「たしかに、きみたちに交流を命じたのは私だがな。さすがに、もう少し平和的なものを想定していたぞ」
「はい。今後はこのようなことのないよう、配慮いたします」
そうか、とキャロラインが頷く。
「では、今回の騒ぎについては、最年長のきみに責任を取ってもらうとしよう。本日中に報告書を提出し、破壊された備品の再配備申請もしておきたまえ」
「了解しました」
それでいいのか、という会話のあと、キャロラインはあっさりと去っていった。
とはいえ、ギルはレオナルドとユージィンから売られた喧嘩を買っただけだ。今回の騒ぎに関して責任を取るなら、そちらのふたりだろう。
(まあ、コンラッドが最年長者として現場の責任を取るというなら、それでいいのか)
たしか、クローディアが現在二十歳、コンラッドは二十三歳だったはずだ。
いつの間にか、クローディアの姿は消えていた。
おそらく、ギルとユージィンの『コミュニケーション』がはじまった時点で、危険を察したコンラッドに避難させられたのだろう。優秀な護衛魔導兵士どので、羨ましいことだ。
そんなことを考えていたギルに、レオナルドが声を掛けてきた。顔色が、ひどく悪い。
「ギル。オレは……おまえのばかな発言を、殴って止めたことについては、今も悪いと思っていない。でも、どんな理由があっても、暴力を振るっていいわけじゃねェとも思うから、それについては謝る。……本当に、すまなかった」
「言っていることが、めちゃくちゃだな」
矛盾の塊のような主張に、思わず呆れる。
レオナルドが、苦しげに目を伏せた。
「おまえにゲス野郎って言われたの、すげェキツかった」
「そうか」
たしかにあれは、少し言い過ぎだったかもしれない。
「おれも、おまえを侮辱したのは悪かったと思う。――ゲス野郎と言ったのは取り消す。すまなかった」
「……おう」
レオナルドの肩から、力が抜ける。どうやらこのお坊ちゃまは、ギルが思っているよりも遙かに繊細な生き物のようだ。面倒くさい。
そんな彼の背中に、いつも通りのヘラヘラした笑みを浮かべたユージィンが、勢いよくのしかかる。
「重てえ、離れろ!」
「えー? 俺をのけ者にして勝手に和解するとか、ズルくねえ? 俺、こーんなに体張って頑張ったのにー!」
和解したわけではないし、ユージィンは間違いなく本気でギルを潰しにきていた。
それをなかったことにして笑っているとは、ひょっとして彼はサイコパスの類いなのだろうか。
「無傷でピンピンしてるくせに、何を言ってやがる!」
「ヒドイ! ギルの動きが速すぎて、一方的にボコられてた可哀相な俺を、少しは慰めてくれてもいいと思う!」
それを言うなら、どれだけ攻撃を当てても、まるでダメージを入れられなかった自分のほうが可哀相だ。あのまま『コミュニケーション』を続けていたなら、いずれスタミナで劣るギルのほうが先に潰れていただろう。
ぎゃあぎゃあと言い合っているふたりを見て、コンラッドが深々とため息を吐く。
「おまえたちは、揃って少しは反省しろ。それから、ギルは顔の傷の手当てをしてこい。痕が残っては大変だ」
「こんなかすり傷、放っておいてもすぐに治る」
当然の反論をしたギルに、コンラッドはやたらと綺麗ににこりと笑った。
「ギル。クローディアは、ユージィンがきみの顔を傷つけたところを見て、ショックのあまり気絶してしまったんだよ」
「……は?」
相手が何を言ったのかわからず首を傾げていると、ユージィンがダラダラと額に汗を滲ませながらコンラッドに言う。
「え……? でも、俺より先に、レオがギルを殴ってたじゃん……」
「あのときレオがギルを殴ったのは、ばかな発言を垂れ流していたギルを止めるためだ。情状酌量の余地あり、というやつだな。……まあ、突然すぎて何が起きたかわからなかった、というのもあるかもしれんが」
後半は何やらぼそぼそと言ったコンラッドが、わざとらしくため息を吐く。
「その点おまえは、わかりやすくギルを恫喝したうえに、顔から血を流させてしまったからなあ。クローディアがショックを受けるのも当然だろう」
(……レオナルドに殴られたときも、きっちり唇の端が切れていたんだが。それはカウントされないんだろうか)
そう思いながら、ユージィンの篭手が掠めた右頬に触れてみると、思いのほかスッパリと切れていたらしく、指先が赤く染まった。たしかにこの出血量では、流血に慣れていない令嬢には衝撃的だったかもしれない。
ユージィンが、ひっくり返った悲鳴を上げる。
「ああぁああ! 触るな、ギル! 医療棟! 今すぐ、医療棟に行ってこい!」
「やかましい。これくらい、自分で処置できる」
幸い、最低限の医療物資が収められている棚は、あの騒ぎの中でも無事だった。
そちらへ向かおうとしたギルの襟首を、レオナルドがむんずと掴む。
「何をする」
振り返ると、強張った顔をした彼が口を開いた。
「そっちが、何してんだよ。適当な処置をしておまえの顔に傷が残ったら、オレたちがクローディアに殺されるんだぞ」
「……本当に、何を言っている?」
ギルは心底困惑したが、ユージィンは真っ青な顔で何度も頷いているし、コンラッドはレオナルドの言葉を否定することなく、淡々と指示を出してきた。
「レオ。そのままギルを医療棟へ連れていけ。ユージィンは、壊した備品を外に搬出しろ。俺は、おまえたちのやらかしについての報告書を作成してくる」
了解、とレオナルドとユージィンが同時に答える。
ギルに、拒否権はなかった。
ギル:「久し振りに全力で暴れたら、なんだかちょっとスッキリした」
レオナルド・ユージィン:「ヤバいヤバいヤバいヤバい」




