姉の面影
(失敗した……)
土使いの護衛魔導兵士だという青年の、癖のない長い黒髪と琥珀色の瞳を見た瞬間、世界が止まった。
胸の奥底に沈めていたはずの、遠い記憶。
柔らかく懐かしいその記憶の中で笑っている姉も、母譲りの癖のない黒髪と琥珀色の瞳をしていた。
彼――コンラッドは、とてもきれいな顔立ちをしていたけれど、決して女性的な容貌というわけではない。髪と瞳以外には、似ているところなどないはずなのに、一瞬で心が過去に引き戻された。コンラッドの姿に姉の姿が重なって、セシリア、と笑って呼ぶ明るい声さえ聞こえた気がしたのだ。
その直後にギルを呑み込んだのは、途方もない恐怖。
安全な場所で幸せに過ごしているはずの姉が、なぜこんなところにいるのか。レノックス伯爵は、ギルだけでは飽き足らず、姉にまでこんな血塗れの世界で生きていけと命じたのか。
激しい混乱と恐怖に呑み込まれかけたとき、コンラッドの呼びかけで姉の面影は霧散した。
よく見てみなくとも、背が高く鍛え上げられた体をした彼の姿は、ほっそりとたおやかだった姉とは似ても似つかない。
頭ではそう理解できても、一度恐怖に飲まれた体はなかなか言うことを聞いてくれなくて、ひどい焦燥ばかりが胸を灼いた。
初対面だというのに、こんなわけのわからない反応をされたコンラッドは、さぞ困惑したことだろう。
(明日からは、合同訓練にコンラッドも参加するかもしれないし。……迷惑をかけたことだけは、きちんと謝っておこう)
同僚たちと必要以上に馴れ合うつもりはないけれど、それとこれとは話が別だ。
……なんだか、妙に疲れた。少し、頭が痛い。
与えられた待機スペースで、ソファに横になって目を閉じていたギルは、控えめなノックの音に意識を引き戻された。
扉の向こうから、クローディアの声が聞こえてくる。
「あの……ギルさま。土使いのクローディア・リリーホワイトです。先ほどは、大変失礼いたしました。もしよろしければ、改めてご挨拶させていただきたく思うのですけれど、今お邪魔してもよろしいでしょうか?」
洗練された響きの、淑女の声。
先ほどはコンラッドの姿にばかり気を取られていたけれど、その声からだけでも彼女がとても美しい女性であることは伝わってくる。
(きっと、コンラッドも一緒にいるよな)
いやなことは、さっさと済ませてしまえるのならそれに越したことはない。
しかし、扉を開いたときクローディアの隣にいたのは、炎使いのユージィンだった。
(……なんで?)
鮮やかな赤い髪の美女と、華やかな朱金の髪の美青年が並んでいると、なんだか目がちかちかしてくる。
土使いの隣に控えているのが、その護衛魔導兵士でないことを不思議に思ったけれど、彼女ともいまだ挨拶はしていない。上官から彼女との交流を命じられている以上、最低限の義務は果たす必要があるだろう。
ギルは、淡々と口を開いた。
「先ほどは、挨拶もせずにすまなかった。先日、水使いとして呪詛対策機関に配属された、ギル・レノックスだ」
「改めまして、土使いのクローディア・リリーホワイトと申します。ギルさまは、ルドミラ王国で大変なご活躍をされたばかりとか。我が国の国民のひとりとして、心より感謝申し上げます」
優美な微笑とともに告げられた言葉に、困惑する。
「おれは、自分の仕事をしただけだ」
感謝など、当事者でもないクローディアに述べられる必要はない。
しかし彼女は、ふんわりと笑って言った。
「たとえそうであっても、わたくしがあなたに感謝の気持ちを抱くことには変わりませんわ。ところで、ギルさま。こちらをご覧になっていただけますか?」
ギルが答える間もなく、クローディアが手のひらにのせて差し出してきたのは、何かの種のようだ。小指の先ほどの大きさで、いかにも硬そうな見た目をしている。
その種が、なんの前触れもなく突然割れた。
あっという間に新芽が伸び、シュルシュルと蔓がうねり――ほんの数秒の間に、艶やかな赤い果実がたわわに実って、ギルの目の前で揺れていた。辺りに漂う甘い香りからして、食用植物なのかもしれない。
(なるほど。これが、土使いの能力か)
はじめて見るが、農業関係の方々がとても喜びそうな力である。
見ろと言われたので黙って揺れる果実を眺めていると、クローディアが問うてきた。
「あの……いかがでしょう?」
(え?)
少し低い位置にある緑の瞳が、何かを期待するようにキラキラと輝いている。
どうやら見るだけではなく、感想も述べろということらしい。
「これが戦闘糧食代わりになるなら、便利だと思う」
正直に答えたというのに、なぜかクローディアががっくりと肩を落とす。
そんな彼女を慰めるように、ユージィンが慌てた様子で口を開く。
「クローディア。この残念な反応は、コイツの標準仕様だから。おまえに対して、特に残念度が増しているわけじゃねーから、安心しろ」
失礼な。
むっとしたギルは、ユージィンに視線を向けた。
「なぜ、おまえがここにいる? 土使いを守るのは、護衛魔導兵士の仕事だろう」
コンラッドがここに来ていれば、面倒ごとは一度で済ませられたものを。
そんな八つ当たりも含めて問いを向ければ、ユージィンとクローディアが驚いた顔で見つめてきた。
いったいなんだ、と思っていると、ユージィンが恐る恐る問うてくる。
「えっと……な? おまえ、コンラッドが怖くねーの?」
質問に質問で返され、ギルはますますむっとした。とはいえ、先ほど彼らの前で晒した醜態を思えば、彼らがそう考えるのも無理はないかもしれない。
「彼の髪と瞳が、おれの会いたくなかった人間と似ていただけだ。今は、別人だとわかっている。おれが彼を忌避する理由はない」
「そ……そっか。うん。そうだよな。――だってよ、コンラッド」
背後を振り返りながらのユージィンの呼びかけに、物陰から少し気まずそうな顔をしたコンラッドが現れる。
彼が何か言うより先に、ギルは軽く頭を下げた。
「水使いのギル・レノックスだ。先ほどは、大変失礼した。驚かせてしまったことを詫びる。申し訳ない」
「……土使いの護衛魔導兵士、コンラッド・ジェフリーズだ。いや……うん。きみが大丈夫なら、よかった」
低く穏やかなその声は、やはり姉のそれとは似ても似つかない。
当たり前のそんな事実に、ほっとする。
コンラッドが、少し迷うようにしてから口を開いた。
「ギル。ひとつ、聞かせてもらいたい。きみが呪詛対策機関に配属されてからの記録を見た。本当にルーキーとは思えない、素晴らしい活躍だと思う」
ただ、とコンラッドの声が一段低くなる。
「レノックス伯爵家から提出されたきみの経歴と、きみの対呪詛戦闘における練度は、どう考えても合致しない。きみは、呪詛との戦いに慣れすぎている。いったい、どこでそんな力を身につけた?」
その問いかけに、ギルは困った。
これは、どうしたものか。
レノックス伯爵家も、おかしなところで詰めが甘い。
肝心なところで適当な仕事をするから、こちらがよけいな苦労をすることに――。
(……ああ、違うか。連中が適当な仕事をするのは、いつものことなんだった)
ここ一年ほど、レノックス伯爵領で呪詛が発現するたび、思っていた。
伯爵家の人々は面倒な戦闘行動をすべてギルに押しつけ、完璧にお膳立てされたうえでの最後の一手ばかりを、まるで遊びか何かのように笑いながらこなしている。
そんなことを繰り返していれば、彼らの実戦経験がひどく偏ったものになっていくのは当然だ。
状況判断は甘くなり、何をするにも見当外れなものになっていく。
本当に、ばかばかしい。
呪詛討伐の勇名をもって、人々の前でふんぞり返っている連中が、今や素人集団に毛が生えた程度のものに成り下がっているのだから。
(対呪詛戦闘スキルが下がり放題だからといって、こんな事務仕事の詰めまで甘くならなくてもいいだろうに。……上が無能だと、下の苦労が増えるばかりなんだぞ)
……なんだか、疲れた。
このまま呪詛対策機関に在籍していれば、いつかは自分を殺してくれる呪詛に巡り会える。それまでのさほど長くもない時間が、多少居心地の悪いものになったとしても知ったことか。
自分でも自棄になっているな、と思うけれど、どうでもいい。
「おまえたちには、関係ない」
ひどく、冷たい声だった。
自分の口から、こんな声が出てくることが不思議なくらいだ。
「おれは水使いとして、報酬ぶんの働きをするだけの力がある。何も問題はないはずだ。他人の事情に、首を突っ込むな。不愉快だ」
「ギル!」
ユージィンが、声を荒らげる。
いつもなら簡単に聞き流せるはずのその声を、ひどく不快に感じた。
頭が、ぐらぐらする。
そんな名で呼ぶな、と叫んでやりたい。
「おまえなあ……!」
「落ち着け、ユージィン」
今にもギルにつかみかかりそうだったユージィンを、眉をひそめたコンラッドが制する。
その隣では、クローディアが今にも倒れそうな顔色になっていた。
丁寧に手入れされた長い髪。完璧な化粧を施された美しい顔。一目で質の良さがわかる豪奢なドレス。絹の手袋に包まれた繊手は、きっとカトラリーより重いものなど持ったこともないのだろう。
……同じマスターとして生まれながら、優美の粋を極めたような彼女と、みすぼらしい男の姿をした自分との違いに、いっそ笑ってやりたくなる。
ズキズキと痛むのに、妙に冴えた頭でそんなことを考えていると、コンラッドが剣呑な目つきで口を開いた。
「ギル。今後の呪詛との戦闘行動において、チーム戦が増えるというのはきみも知っているはずだ。にもかかわらず、そのような態度は大変いただけないな」
「なぜだ? 信頼関係の構築というやつか? ばかばかしい。戦場で仲よしごっこをしてなんになる」
気持ちが悪い。吐き気がするほどイライラして、視界が狭まる。
言葉が、止まらない。
「呪詛を相手に戦って、まともな死に方をできるなんて思っていない。それが、早いか遅いかだけだ。おれの能力は、すでに提示している。それをどう使うかは勝手にしろ。命令に逆らうつもりはない。死ねというなら、こんなくだらない命くらい、いつでもおまえたちにくれてや――」
「ギル!」
そのとき、この場にいなかったはずの男の声と同時に、頬に衝撃がきた。
瞬く。
妙に暗く狭まっていた視界が開け、クリアになる。
殴られたのか、と理解したときには、すさまじい怒気を孕んだ紫の瞳が目の前にあった。少し、息苦しい。ギルの戦闘服の襟元を掴んだレオナルドが、低く押し殺した声で言う。
「テメェ……。自分が何言ってんのか、わかってんのか」
「……離せ、レオナルド」
口の中が、切れたらしい。血の――命の、味がする。
「なんで、テメェはそうなんだよ! なんで、テメェの命を大事にしない! オレたちが呪詛と戦ってんのは、自分が死にたくねェからだし、誰も死なせたくねェからだろう! なんで、そんな簡単なことがわからねェんだ!」
頭が痛い。
ああ、本当に。
この男が、大嫌いだ。




