第2話「欠けた記憶の輪郭」
朝の光は、教室の隅々まで届かない。黒板の粉の匂いと、机の角に残る指紋の冷たさ。私は座席に腰を下ろし、昨日のことを思い出す。屋上で蒼に言われた言葉、路地で拾った小石の感触——どれも体の奥で微かに震え、でも、どこか欠けている。
「乃依、今日もまた自販機行くの?」 隣に座るクラスメイトの声が遠く響く。私は咳をひとつ、空気を飲み込むようにして答えない。言葉を出すたび、昨日の小石の重みが胸に蘇るのを感じる。誰かを救うことと、自分を守ることは、いつも背中合わせだ。
放課後、私は人通りの少ない路地に足を運ぶ。街灯の下で、痛みの自販機は昨日より冷たく、孤独に輝いていた。今日差し込まれた紙片はひとつだけ。小さな字で「私はもう誰も愛せない」と書かれている。震える文字。私の手が自然に伸び、紙を投入口に滑らせる。
金属のボタンがきしみ、白い小石がひとつ、静かに落ちてくる。触れると、やはり冷たく、でも確かな存在感があった。掌に収め、息を吐くと同時に、記憶が流れ込む──中学生の頃の教室、窓際に座る少女の孤独な視線、机の上に残されたノートの落書き。私がその痛みを引き受けるたび、彼女の悲しみが私の血肉の中に染み込み、同時に私の記憶がひとつ欠ける。
小さな記憶の断片──幼い頃、母が作ってくれた朝ごはんの匂い、初めて手にした絵筆の感触、蒼と笑った放課後のベンチ——それらがぽろぽろと消え去り、空いた空間を彼女の痛みが埋める。胸の奥で、穴がふさがれる感覚。だが、代償の痛みもまた、胸の奥で疼く。
その夜、私はスマートフォンを手に取り、病み系SNSで名を馳せる匿名ユーザー、ユリの投稿を追う。「誰か、私を見て。誰か、私を必要として。」 画面の文字が震えている。彼女は顔も知らず、名前も知らない。でも、文字を通して私に訴えてくる。私は指先でスクロールを止め、息を整えた。私が救うべき痛みは、まだここにある。
翌日、教室で蒼が私の机の上にノートを置いた。「乃依、昨日の夜、また路地に行ったでしょ。わかるんだ」 彼の言葉は静かで、でも鋭い。私の胸の奥がきしむ。彼は私の変化に気づいている。それは嬉しくもあり、恐ろしくもあった。
「……うん、ちょっとだけ」 私の声は小さく、掠れた。嘘ではない。でも全ては言えない。私が抱える痛みと、拾う痛みの境界線を説明できる人はいない。
放課後、私は再び路地へ。今日の紙片は「もう誰にも頼らない」とだけ書かれていた。簡潔すぎる文字。私はそれをそっと投入口に滑らせ、小石を受け取る。冷たい掌の中で、小石は重くなり、そしてまた記憶が押し寄せる──父親に無視され続けた夜、友達に笑われた教室の窓際、誰にも聞かれなかった泣き声。
代償がまた来る。私の中で大切にしていた、幼い頃の猫のぬくもりが、色と形を失っていく。手のひらの感触も、名前も、かすんで消える。でも誰かの肩の力が抜けると、穴は埋まった気がする。少しだけ、満たされる。
夜の帰り道、私は月を見上げる。痛みの代償で、自分の名前さえも少しずつ薄れていく。手に残る小石は冷たく、でも確かな重みがある。それは私が誰かを救った証。だが同時に、私自身が誰なのかを忘れていく感覚も、確かに存在する。
「必要とされることは、救うことと同義じゃない」 蒼の言葉が、頭の奥で反響する。私は小石を握りしめ、静かに笑った。その笑いはどこか他人のもので、自分の名前は風に溶けていった。
冷たい石
胸に溶ける他人の涙
私の名前は消えていく