第1話「痛みコレクター」
この作品は抑うつ、不安、孤独感、自己同一性の喪失といった「病み」要素を扱っています。自傷・自殺の具体的な手段描写はありませんが、精神的に重い描写が含まれています。読むのがつらくなった場合は一旦休むことをお勧めします。
風が舗道の白線を擦るたび、紙ごみが踊った。夕暮れの残照は、いつもの帰り道を薄いビニール傘のように包み、商店街の明かりはぼんやりと灯っている。私は足を止め、路地を覗いた。そこに置かれているのは──誰かが置いた小さな自販機風の箱。真鍮のボタンがひとつ、月を仰ぐような角度で光っていた。
「痛みを入れれば、かけらが出ます。」
風に揺れる張り紙の文字は、私に挑戦しているように見えた。いたずらか、都市伝説の新しい噂か。けれど私はもう、ここを素通りできない。ポケットに入れた紙切れを取り出す。先週、蒼に言いそびれたこと。『放課後、屋上に来てくれたら話がある』——ぎこちなく取り繕った文字。握ると指先にだけ微かな震えが走る。
かつて私は、誰かのためになりたかった。テストの筆算を直したり、忘れ物を届けたり。小さな親切で心の空洞を埋める。だが親切はすぐに乾き、誰かの笑顔が一瞬で終わると、また穴が空く。だから私は知った。穴は、他人の痛みを預かれば埋まるのだ、と。
自販機の投入口に紙を滑らせる。金を入れる代わりに言葉を差し出すと、機械はきしみ、白い小石が一個、静かに出てきた。指で触れると、ぬくもりも冷たさもない。ただ、とても古い音が耳の奥で鳴る。
「拾って。」
説明書きはそう言うけれど、その小石は私の手の中で震え、小さな記憶の断片を吐き出した──見知らぬ夜の匂い、制服についたガム、誰かの声が「もう終わりにしたい」と呟いた瞬間。ほんの一瞬、私はその人になった。胸が絞られ、足の裏が砂の上に沈むような感覚。息を吸っても空気が薄い。
そして代償が来る。握っていた記憶の縁がぽろり、と欠ける。小学生のときにあった桜の木の位置、その公園のベンチの軋み。思い出すとき、そこに亀裂が入っている。私はそれを「貼り替え」と呼ぶ。誰かの痛みを貼るたび、自分の薄い記憶を一片ずつ剥がす。だが穴は埋まる。誰かの「ありがとう」は、私の欠けたピースの代わりに差し込まれる。
翌朝、蒼が私に言った。「乃依、昨日の話──忘れたの?」 私は瞬間、胸が疼いた。授業中の私の手は、黒板のチョークの粉で白くなっていた。彼の目が真剣で、期待しているように見える。私は嘘が下手で、それでも目をそらさなかった。
「ごめん、ちょっと……」 短い嘘。短い欠落。
放課後、蒼は本当に屋上に来た。彼は何かを言おうとして唇を噛み、やがてため息を吐いた。「最近、乃依が変だって先生も言ってた。前より笑わないってさ」 胸の奥で何かが冷たくなる。笑いが薄れる。私が人のために抱えたものは、私の笑いを代替していたのかもしれない。
「必要とされることと、存在することは違うんだよ」 蒼が言う。やさしい言葉の切れ味が心に刺さる。私は答えに窮した。必要とされたい。だが、それは自分を消費することではないか。私は何を間違えたのだろう。
その夜、私はもう一度あの路地へ行った。風に乗って、今度は別の告白が箱に差し込まれていた。「私の母はもう、私を必要としていない」とだけ書かれた紙。文字は震えている。私はそれを拾い、かけらの小石を受け取ると、別の記憶が私の体を通り抜けた──幼い頃の母の笑い声、匂い、そしてある日の夕食の沈黙。
代償がまた来る。祖母がくれた茶碗の破片の位置。思い出すとき、柄の色が微かに違う。小さな世界の輪郭がぼやけていく。それでも誰かの肩の力が抜けるのを見ると、心の穴は埋まった気がして、少しだけ満たされる。
けれど、満たされているのは「私」であって、「本当の私」ではない。私は自分の輪郭をなおざりにして、他人の輪郭だけを鮮やかにしている。誰かが救われるたび、私の中の私が薄くなる。それを見逃していた。
路地の空は黒く、月は紙に書いた告白の文字を照らすように冷たく光っていた。私は小石を懐にしまい、静かに笑った。その笑いはどこか他人のもののようで、私の名前は風に溶けていった。
夜の路地
君の欠片を拾うたびに
私の影は薄れていく