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魔械掲示板には、最速タイムランキングの最新のトップ10が浮かび上がっていた。淡い光の粒が宙を舞い、やがて形を結ぶ。
そこに映し出されたのは、私たちがさっきまで挑んでいた巨大迷路コースのランキング。だけど、その一位から十位までを埋め尽くしていたのは——
詩乃ちゃんと私の名前だった。
「…………えっ」
あまりに現実味がなくて、声が喉に引っかかった。さっきまで夢中で走っていた時のタイムが、全部ランクインしたらしい。
「ええぇぇぇぇぇぇぇ!?!?」
隣から爆発みたいな声が響き、思わず体が反る。視線を向けると、詩乃ちゃんは目をまん丸にして口をパクパクさせていた。
「えぇー!? 私たちが一位っ!? っていうか全部私たちじゃんっ!」
「そ、そうだね……」
詩乃ちゃんの慌てっぷりを見ていたら、胸のざわめきがスッと引いていった。
誰かが大騒ぎしていると、不思議と自分は冷静でいられる。そんな言葉を本で読んだことがあったけど、本当にそうだなって思った。
「すごいねっ! すごいよ莉愛ちゃんっ!」
興奮した声と一緒に、両肩をブンブンと揺さぶられる。だけど、私はその揺れの中でも掲示板から目を離せなかった。
一位から十位まで、ほんのコンマ数秒の違いで並んでいる。
そして、一位のタイムには大きく「2分02秒41」と刻まれていた。この記録は、巨大迷路コース歴代最速記録に並びそうな記録だった。
「……二分台……」
思わず小さく呟く。ついこの間まで、ゴールどころかタイムアウトが当たり前だったのに。あの時の自分からは想像もできない数字が、そこに確かに存在していた。
「もう少しインコースを狙えば、二分台も切れるかも……っ莉愛ちゃん?」
詩乃ちゃんが不思議そうに覗き込んでくる。そこで気付いた。自分の目から、熱い雫がポロポロと零れ落ちていることに。
「莉愛ちゃんっ、どうしたの? 大丈夫?」
「……うん、大丈夫」
——あの日まで、私はただ不安でいっぱいで、できない自分が悔しくて、迷惑ばかりかけて……それでも泣くのは甘えだと思って、我慢していた。
でも——
そんな私に、カナタは手を差し伸べてくれた。
詩乃ちゃんは、私を信じて目一杯走ってくれた。
新しい発見に、新しい魔法とも仲良くなれた。
その全部が繋がって、今こうして数字に現れている。
胸の奥から溢れ出すのは、苦しかった日々の記憶と、やっと前を向けた自分への小さな誇り。
そして、支えてくれた人たちへの、どうしようもないくらい大きな感謝だった。
止めようと思っても、涙は零れるばかりだった。胸の奥が熱くて、呼吸も上手く整わない。私は両手で口と鼻を覆って、小さくしゃくりあげながら泣いた。
「ヒック……ヒッ……グスッ……」
視界は滲んで、掲示板の光がぼやけて揺れる。自分でも情けないくらい止まらない涙に、心の奥では「こんなところで泣いちゃだめだ」って必死に思うのに、身体がまるで言うことをきいてくれなかった。
「莉愛ちゃん……」
隣から聞こえる声は、驚きじゃなくて、優しい響きだった。その優しさに触れた瞬間、胸に込み上げる想いが抑えられなくなる。
「詩乃、ちゃん……グスッ、ありがとう……」
「ちゃんと言いたい」と「今すぐ言いたい」が頭の中でせめぎ合って、結局、言葉は涙に濡れながら飛び出した。カッコ悪くても、泣きながらでも、どうしても伝えたかった。
詩乃ちゃんは、そんな私を笑ったり責めたりしない。ただ背中をゆっくり撫でながら、優しく微笑んで答えてくれた。
「こちらこそだよっ。莉愛ちゃんっ」
その笑顔に胸がじんわり温かくなって、涙の奥から笑みが零れた。泣き笑いしながら見つめ合う。二人で同じ気持ちを共有できたことが、何よりも嬉しかった。
——でも、その瞬間。
耳に飛び込んでくるざわめきが、不意に現実を思い出させた。
(そうだ。私たち今、人集りの真ん中にいるんだ)
その事実に気付いた途端、胸の奥が熱くなって、恥ずかしさがドッと押し寄せてくる。
「と、取り敢えずここから出ようかっ」
詩乃ちゃんがそう言って、私の肩を抱いて人集りをかき分けてくれる。私はまだ涙の名残を袖で抑えながら、俯きがちに歩いた。
でもその心の奥には、泣いてしまった自分を後悔する気持ちよりも「一緒に笑ってくれる人がいる」ことの安心感が、しっかりと根を下ろしていた。
人集りから少し離れた廊下は、窓から差し込む光で眩しいほどに明るかった。私と詩乃ちゃんはそこで足を止め、しばらく深呼吸をしていた。
「カナタくんにも、お礼を言わないとねっ。私も言いたいっ!」
詩乃ちゃんが、いつもの調子で明るく笑ってくれる。
「うんっ……言いたい……」
涙を袖で拭い、しゃくりあげもようやく落ち着いてきた。声に出した途端、その気持ちはどんどん大きく膨らんでいく。
——カナタに言いたい。
——カナタに伝えたい。
……カナタに、会いたい。
そう思った瞬間、胸の奥がドクンと鳴って、顔が熱くなるのが分かった。涙を拭いた袖口をそのまま口元に押し当てて、思わず顔を隠す。
何でだろう、胸がこんなに苦しいのに、同時にすごく温かい。悲しいんじゃなくて、カナタのことを考えると、不思議と心がじんわり満たされていく。
でも、どんな言葉で言えばいいんだろう。この感謝を、この想いを。考えれば考えるほど、胸がギュッとして、余計に言葉が見つからなくなる。
だけど——どうしても伝えたい。この気持ちは、ちゃんと。
「……んっ? あっ!」
不意に声を上げた詩乃ちゃんに目を向けると、廊下の先に視線を向け、パッと手を振っている。
その視線を追った瞬間、私の心臓は跳ねた。晶くんと拓斗、そして——カナタ。制服姿で並んで歩いてくる三人。カナタは着替えた後だからか、ワイシャツの腕を捲って羽織りを脇に抱えていて、少しラフな雰囲気だった。
(カナタ……っ!)
さっきまで「会いたい」と胸の中で繰り返していた人が、今そこにいる。現実と気持ちが重なった瞬間、込み上げるものを止められなくて、涙で視界がまた滲んだ。
カナタは私と目が合うと、その目を大きく見開き、すぐに小走りでこちらへ駆け寄ってくる。その真っ直ぐな動きに、胸の奥がギュッと締めつけられた。
気付けば、私も駆け出していた。
『っ莉愛! どうしたのっ!? 何で泣いて——』
「……っ」
もう考える余裕なんてなかった。言葉より先に、私はそのままカナタに思い切り抱きついた。
私はカナタの肩に顔を埋めた。カナタの温もりと、男の子の体特有の骨張って硬い感触が混ざり合って伝わってくる。鼓動が近くて、安心するのに余計に涙が溢れる。
『っっ!?』
カナタのチョーカーから、驚いたように声を詰まらせる音が聞こえる。それでも次の瞬間、慌てたように伸ばされた腕がしっかりと私の体を受け止める。グラついた体が一瞬で落ち着いて、温かさに包まれた。
『……えっと……莉愛?』
カナタが、いつもの機械混じりの落ち着いた声でそっと私に話しかけてくる。まだ胸の奥がじんわり熱くて、涙の余韻も残っているけど——
言わなきゃ。伝えなきゃ。あの日ずっと、私に寄り添ってくれたカナタに。いっぱい考えてみたけど、やっぱりこれしか思いつかない。
「カナタ……ありがとう……」
『!』
言葉にした途端、胸の奥がじんと熱くなる。私の意図を理解したのか、カナタの腕が僅かに動き、支えてくれている手の平が背中を優しくポンポンと叩いた。
その仕草が、言葉よりも大きく「分かってるよ」と伝えてくれる。
『莉愛が頑張ったんだよ。僕は少し手伝っただけ』
あまりに真っ直ぐに言われて、思わず笑みが零れてしまう。カナタらしい。いつも自分のことは後回しで、私を肯定してくれる。
——その優しさに、私は何度も救われてきた。
だから、もう一度、伝えたい。
私はカナタの肩に預けていた顔をゆっくり上げる。視線が重なった瞬間、カナタの目が私を真っ直ぐに見つめてくれているのが分かった。
深い色を帯びた瞳は、いつものように優しくて、だけど、どこか私の心を見透かしているようで。
「それでも、ありがとう」
感謝の言葉を重ねると、カナタの瞳がふっと緩む。口元は分からないけど、目元だけで今カナタが微笑んでいるのが分かる。
『……どういたしまして』
その小さな一言が、胸の奥にじんわりと染み渡っていった。
「ふふっ」
自然と頬が緩む。カナタが私の「ありがとう」を確かに受け取ってくれたことが、ただそれだけで嬉しくて。心の中に、温かな灯がまたひとつ灯った気がした。
「ねぇねぇ、三人共っ! 私たち、すごいんだよっ!」
詩乃ちゃんが弾む声で叫ぶと、拓斗の腕をグイッと引っ張り、掲示板の方へと勢いよく走って行った。
「分かった分かったって……」
口ではそう言いながらも、拓斗は抵抗せずに詩乃ちゃんに引かれていく。もう詩乃ちゃんの性格を分かってきたのかもしれない。
その様子を、私とカナタと晶くんの三人で見守っていた。
「……二人の邪魔をしたくないけど、人が見てるしそろそろ行こっか〜」
晶くんの穏やかな声に、私はハッとして周囲を見渡す。掲示板の前ほどではないけど、いつの間にか私たちの周りにも小さな人集りができつつあった。
(っっ!? 見られてる……!)
慌てて、抱きついていた手をパッと離す。温もりが一瞬で遠ざかり、急に冷たい空気が腕に触れた。
「ごごごご、ごめんねっ、カナタっ! つい気持ちが昂っちゃってっ!」
思わず早口で謝ってしまう。顔が熱くて、耳まで真っ赤になってる気がする。
『……ううん、大丈夫だよ』
カナタは落ち着いた声でそう答えると、抱きつかれた拍子に落とした羽織を拾い、何事もなかったように魔械掲示板の方へ歩いて行く。
その後ろ姿を見つめながら、胸に手を当てて変に高鳴る鼓動を必死に抑え込もうとした。
すると——晶くんが不意に、私の耳元に顔を近付けて囁いた。
「莉愛ちゃん、莉愛ちゃん」
「ん? なぁに?」
小さな笑みを含んだ声。素直に問い返すと、晶くんは笑いを堪えるような表情のまま続けた。
「カナタの耳、見てごらん」
「……耳?」
思わず首を傾げる。晶くんはコクリと頷いたが、その頬は笑いを堪えきれずに僅かに震えていた。
私は言われるままに、カナタの耳へ視線を移す。髪に隠れてはっきりとは見えないけど——。
窓から入った風に小さく靡いた髪からチラリと覗いたその耳は、火がついたみたいに真っ赤だった。
「っ!」
息が止まり、思わず晶くんの方を見る。晶くんはもう堪えきれず、ニヤニヤと笑いながら囁いた。
「カナタ、めっちゃ照れてるでしょっ……」
言葉に合わせて小さく笑う晶くん。その声に釣られて、胸の奥が急にくすぐったくなる。
もう一度カナタの背中を見る。真っ直ぐ歩いて行くその姿は、いつもの冷静さそのものなのに、耳だけが赤くて。
(カナタが……照れてる……)
私が抱きついたから? それとも、みんなの前だったから? 理由は分からない。でも——
その照れが、伝染したみたいに胸の奥までじんわり広がっていく。気付けば、私まで頬が熱くなっていた。




