21
影とじゃれ合うみたいに、指先でつついたり、声をかけたりするうちに、少しずつ仲良くなれている気がした。
さっきまで逃げ腰だったのに、今では手を伸ばせば応えてくれる。何だか秘密の友達ができたみたいで、胸が弾む。
影と私だけの時間が、こっそり積み重なっていく。そんなひと時を楽しんでいた時——
巨大迷路の向こう側から——ゴウン、と重々しい音が響いた。直後に、低く唸るような魔械創駆の起動音が広がり、迷路全体の空気を震わせる。
私はハッとして、音の鳴る方へ振り返る。その瞬間、手にまとわりついていた影がふわりと消えてしまった。
(……誰か、練習に来たのかな?)
胸の奥に小さな緊張が走る。そろそろ交代の時間だろうかと身構えていると、巨大迷路の外から滑り込むように現れたのは—— 羽織を脱ぎ、ワイシャツの袖を肘まで無造作に折ったカナタだった。
小ぶりなバイクが私の目の前で軽やかに止まる。ヘルメットを外して頭を振ると、額にかかる髪がさらりと揺れ、その仕草がやけに大人びて見える。
『どう? 練習は』
「……あっ、うんっ! すごく順調だよっ!」
言葉を返しながらも、私は思わず息を呑んでしまっていた。
いつもと同じカナタなのに——バイクに跨った姿は、どこか別人のように見える。頼もしさと、凛とした雰囲気が全身から溢れていて、私は思わず胸の前で両手をキュッと結ぶ。
「……これ、カナタが作ったの?」
『ん……拓斗も一緒に作ったよ。まぁ、利玖が乗ってたやつを真似て作っただけだけど』
「あっ、やっぱり? 何か見たことあるなって思ったんだっ」
カナタが跨っているのは、映像で見た利玖のバイクにとてもよく似ていた。
目の前にいるカナタは、私が知っている“友達のカナタ”であるはずなのに、眩しくて少し遠くに感じてしまう。
『色々規約が変わって、小さめになっちゃったけど、まぁ……よくできた方だと思う』
「うんっ、すごいよっ! 売り物みたい!」
本心からの言葉だった。誇らしい気持ちが声に乗る。すると、カナタのチョーカーから、ふっと笑うような息遣いが伝わってきた。
その音を聞いた途端、胸の奥がくすぐったくなった。私の言葉でカナタが笑った——それが、嬉しかった。
「……ところで、どうしてバイクを持って来たの? 見せに来てくれたの?」
カナタがわざわざ創駆をここまで運んでくる理由なんて、私にはそれくらいしか浮かばなかった。
『いや、莉愛の練習を手伝おうと思って』
「えっ、もう十分手伝ってくれたよっ!」
思わず両手を胸の前でギュッと結び、声が大きくなる。ここまで丁寧に教えてくれて、気付きを与えてくれて、それだけでもう胸がいっぱいなのに。
それなのに、まだ私を助けようとしてくれるなんて——嬉しいのに、同じくらい申し訳なさも押し寄せてきて、胸の奥がじんわり熱くなる。
『でも、あそこから練習はしてないでしょ?』
カナタが操導者の部屋の方を指差した。
確かに……本番は、現場にはいられない。魔械創駆を通して魔法を展開しなきゃならない。そこが本当に難しいところだ。
「あ、そっか。……えっと、それじゃあお願いしてもいい?」
躊躇いながらも言葉が口から溢れた。カナタに甘え過ぎて怖いのに、どうしても頼ってみたくなる。
『もちろん』
カナタの声は変わらず穏やかで、目元には優しい光が宿っていた。
その眼差しに、さっきまでの躊躇いも不安も、少しずつ解けていくような気がした。
「ありがとう! それじゃあ、用意するねっ!」
胸の奥が高鳴るのを抑えきれなくて、私は駆け足で階段を登った。操導者の部屋に入って、窓の外に広がる巨大迷路をもう一度見下ろす。そこには、スタート地点へとバイクを運ぶカナタの姿があった。
跨ったまま移動し、到着するとヘルメットを被る。その顎紐を留める動作がやけに様になっていて、思わず息を止めて見入ってしまう。
カナタの準備が整ったのを確認できた私は、操導者の位置に着き、義手を鳴らしてプレート状の魔械機器に義手を乗せる。
「……カナタっ、聞こえる?」
『聞こえるよ』
スピーカー越しに機械混じりの声が耳に届く。ホッと胸を撫で下ろす。ちゃんと聴覚魔法は繋がったみたい。
義手を鳴らしてからプレートに触れていれば、触れている間は魔械創駆を通して魔法を展開できる。
「うんっ、それじゃあやってみるから、ゆっくり目で走ってくださいっ!」
『了解』
低く響いた声に合わせるように、エンジンがかかり、創駆の唸りが部屋の床まで震わせた。窓の外で動き出すカナタのバイクを目にした瞬間、心臓がドクンと大きく跳ねる。
詩乃ちゃんとの練習では感じたことのない迫力に、思わず息を飲んだ。胸の奥が、緊張と期待でギュッと縮む。
(……よろしくお願いしますっ)
心の中で小さく祈るように呟いて、私は深呼吸をひとつ。息を整えてから、視覚魔法を展開する。視線を滑らせて影を探し出し、そこに思い描いた道の形を重ねていく。
「いくよっ!」
声に出して気合を込めた瞬間、影が煙のように集まり、迷路の床に黒い線を描き出す。その線は案内する矢印のように、ゴールへ向かって伸びていく。
カナタは迷いなくその線に沿って、バイクを気持ちゆっくり目に進めていく。私の影と、カナタの創駆がひとつになって迷路を進んでいる——そう思うと、胸が熱くなる。
だけど、影の線は長く伸ばそうとすると途中でプツリと途切れてしまった。
(創駆から離れすぎると、届かないんだっ!)
気付いた瞬間、頭の中が熱く冴える。私は慌てて次の影を走らせ、カナタの進むスピードに合わせて道標を繋げていった。
影を置く度に胸が高鳴る。失敗できない、でも楽しい。
不思議と不安よりも、「できる」という確信の方が強くなっていくのを感じていた。
「カナタっ! 今迷路の真ん中辺りだよっ!」
『うん、分かった』
低く落ち着いた声が響くと、それだけで胸の奥がふっと軽くなる。最初は迷わせないように必死で、余裕なんてなかったのに、今はカナタに伝える言葉を選ぶ心の余白まである。
創駆の唸りと、タイヤが床に擦れる音。カナタが私の影を信じて、その上を駆けて行く。そのことが何より嬉しくて、影を繋ぐ指先に力が込もった。
「……あと少し。曲がり角を抜けたら、出口が見えるよっ!」
黒い線をなぞるように、カナタのバイクが迷路を抜けていく。そのスピードに合わせて、私の影もスルスルと道を描き足していく。
影は煙みたいに揺らめきながら、それでも確かに前へ導いて行く。
——見えた。
眩しいゴールの光が視界に飛び込んできた瞬間、喉の奥から熱い声が零れそうになる。
「カナタっ! もう直ぐゴールだよ!」
創駆が最後の直線を駆け抜ける。カナタはスピードを上げる。風を切る音と、影の線がゴールへと吸い込まれるように真っ直ぐ伸びる感覚。
そして——。
カナタのバイクがゴールを抜けた。タイムを測っていなかったから、創駆の音しか響かない、やけに静かなゴールだった。
それでも、私の心臓の音がやかましいほどに鳴っていた。自分にはできない、苦手だと思っていたことを克服できた喜びと、そのことへの驚きで、胸がキュッと熱くなる。
「やった……!」
呟いた瞬間、道を示していた影がふっと消える。残されたのは、全身に広がる達成感と、カナタと一緒にゴールまで辿り着けたという確かな実感だった。
呆然と立ち尽くしていると、カナタが迷路の外側から階段下へ滑るようにバイクを走らせて来た。ヘルメットから覗く鉄の黒いマスクがキラリと揺れ、カナタの姿がだんだん近付いてくる。
慌てて私も部屋を出て、階段を駆け降りる。
「カナタっ! どうだったっ!?」
興奮で抑えられず、声が大きく弾ける。頬も熱くなっているのが分かる。そんな私に、カナタはヘルメットを外し短く頷いた後、ふっと柔らかく目を細めると、いつもの優しい目で見つめてくれた。
『うん、何も問題なかったよ。……すごく、綺麗な影だった』
その言葉に胸が一瞬止まりそうになった。影を「綺麗」と言ってもらえるなんて、思ってもみなかったから。嬉しさと、くすぐったさと、照れが一度に押し寄せてきて「えへへ」と笑ってしまった。
『……すごいね。影を動かせるんだ……』
カナタは迷路の壁の下に落ちている影をジッと見ながら、小さく呟いた。その横顔は真剣で、まるで影そのものを確かめるように見つめている。
「そうなのっ! 手伝ってもらったんだっ」
『手伝う?』
カナタが小首を傾げる。真剣な表情が少し幼く見えて、思わず笑いそうになった。私は右手を伸ばし、左の義手を軽く鳴らして見せる。
「おいでっ」
合図に応えるように、壁の下で揺れていた影がスルリと形を変え、私の右手にまとわりついてきた。
黒い煙のような質感なのに、無いはずの温かさを感じて、思わず指先で撫でてしまう。
カナタの目が見開かれ、その影を凝視していた。
「ふふっ、可愛いでしょっ」
『か、かわいい……?』
眉を寄せて戸惑う様子が少し可笑しくて、だけど私はどうしても「可愛い」って思ってほしくて、さらに見せてあげようと心が弾んだ。
「うんっ、見てて……」
両手で空気を混ぜるように振ると、それに呼応するように影が動き出す。影は形を変え、ふわりと立体的な猫になった。
猫は影の体を軽やかに跳ねさせ、カナタの周囲を飛び跳ねながら一回りすると、最後に私の肩にふっと乗る。
指先を伸ばして撫でると、影猫は擦り寄るように体を揺らす。その様子に胸がじんわり温かくなった。
「ふふっ、こんなこともできるんだよっ」
『へぇ……』
カナタは言葉を失ったまま、目が猫に釘付けになっている。普段落ち着いたカナタが、子どもみたいに驚いた顔をするのが何だか嬉しかった。
「あとねぇ、こんなのもできるよっ」
再び両手を混ぜ合わせると、猫はスルリと解け、今度は鋭い翼を持つ鳥へと形を変えた。
鳥は素早く飛び立ち、壁際の高みに届くと、風を切るように急降下してカナタの目の前へ。
『……これは……ツバメ?』
「うんっ! そうっ、ちゃんと似てるかな?」
『……どうして、ツバメ?』
「えっ、だって、如月寮のシンボルの子でしょ?」
『!』
その一言に、カナタは目を見開き、肩が僅かに揺れる。私は少し誇らしげに笑った。
如月寮のシンボルは燕。本物は本でしか見たことがない。だけど、大昔は燕が巣を作った家には幸せが訪れるって言われていたみたい。
如月寮の人たちは、優しくて、そっと寄り添ってくれる。その優しさはきっと、たくさんの人を幸せにするんだと思う。
燕は、まさに如月寮にピッタリの象徴だった。
カナタが左手を静かに差し出す。影燕は羽ばたきをやめ、吸い寄せられるようにその手に留まった。
その瞬間、私の胸がふっと温かく膨らむ。カナタの手の甲に燕が収まる仕草があまりに自然で、思わず頬が緩んでしまった。




