07
教壇に立った日向先生は、教室をゆっくりと見渡してから、穏やかな声で話し始めた。
「本日やることは、この後の一時間目の時間に、皆さんの自己紹介。そして、二時間目から四時間目までは学園の案内になります。案内が終わったら、これから使う教科書を受け取る予定です」
さらりと告げられたそのスケジュールに、教室のあちこちで小さなざわめきが起きた。
(学園案内って……三時間もあるんだ……)
思ったより大がかりな内容に、思わず心の中で溜息を吐く。
(覚えるの、大変そうだなぁ……)
早くも不安が頭をもたげる。
先生はそのまま続けた。
「自己紹介は、先生が名前を呼んだらその場で立ち上がってください。そしたら出身地と所属している寮を教えてください。人数も多いので、簡単な挨拶だけで大丈夫です。」
クラスは五十人。持ち時間一人一分でも、一時間目が丸っと潰れてしまう。
(うわぁ、何て言おう……)
心臓が少しだけ、落ち着かなくドキドキしていた。
日向先生は壁かけの時計を見て、小さく「うーん」と唸った。
「……時間が、少し余りましたね。では残りの時間で——私の自己紹介をしましょうか」
そう言って軽く背筋を伸ばすと、先生は静かに話し始めた。
「私の名前は日向です。教職歴は、今年で十年になります。出身は山吹街。得意な魔法は『視覚魔法』です」
無駄のない簡潔な紹介だったが、どこか自信に満ちていた。不意に先生が教卓から一歩、スッと身を引いた。
そして、魔械義肢の音が聞こえると、その姿がふっと掻き消えた。
「……!?」
あまりにも自然過ぎて、誰もが息を呑んだ。クラスの空気が一気に揺らぐ。あちこちで戸惑いの声が上がるなか——
「……こんな感じです」
その声が、教室の後ろから聞こえてきた。
思わず振り返ると、そこには、後ろで手を組みながら微笑んでいる日向先生がいた。ついさっきまで、前に立っていたはずのその人が。
「えっ、えっ!? いつの間に……!」
「凄い……どうやって……?」
生徒たちの間に驚きと興奮が広がる。だが、そのざわめきの中、日向先生はふと視線をある一点に止める。
そして口元に、ほんの少し意味深な笑みを浮かべた。
私も釣られてその視線を辿る。
——そこには、カナタがいた。
みんなが振り返って先生を見ている中で、カナタだけは、ずっと前の教卓を見たままだった。
(……どうして?)
小さな疑問が胸の中に芽生える。でもその問いの答えは、カナタの静かな瞳の奥に隠されたままだった。
《キーン、コーン、カーン、コーン———》
澄んだチャイムの音がスピーカーから響いてきた。まるで張りつめていた空気をそっと解くように、その音は教室全体に広がっていく。
「丁度、チャイムが鳴りましたね」
そう言った日向先生は、いつの間にか教卓にいた。
「では、一時間目は八時四十分からです。皆さん、時間までに席に着いていてくださいね」
教卓に立てかけていた魔械機器の板を持ち、先生はそのまま教室を後にした。ドアが静かに閉まると、張り詰めていた教室の空気が一変する。
椅子の軋む音、笑い声、小さな歓声。みんなが一斉に立ち上がって、あちこちで談笑が始まった。
そのざわめきに乗じて、私も立ち上がり、詩乃ちゃんの席へ向かう。
私に気付いた詩乃ちゃんは、顔をパッと明るくして迎えてくれた。
「莉愛ちゃんっ! さっきの、すごかったね!」
目を輝かせながら、少し興奮した声で言う詩乃ちゃんに、私も自然と笑みが溢れる。
「すごかったね。……いつの間に後ろにいたんだろう」
そう言いながら、何となく詩乃ちゃんの後ろの席へ目を向けた、その時だった。
視界の中に、見覚えのある姿があった。
頬杖をつき、足を組んで気怠げに座っているその人は——白銀の短髪に、浅く日焼けしたような色黒な肌。着ている羽織には、私と同じ、弥生寮の色の蔓模様が施されていた。
(この人……)
男子寮行きのエレベーターに、女子の制服で乗り込んでいった、あの人だった。
斜め後ろ姿しか見ていなかったけど、記憶は確かだった。胸の奥で、何かがピンと張る。
「……あっ!」
自分でも驚く程、思わず大きな声が漏れた。
その声に、カナタも拓斗も私の方へ視線を向けた。
そしてその人も、驚いたように私を見る。
「あっ……ご、ごめんなさいっ」
反射的に謝りながら、私は恐る恐る口を開いた。
「あの……弥生寮の人、ですよね?」
問いかける私の目を、真っ直ぐに見返しながら、その人は小さく頷いた。
「ん? あっ、本当だっ! 同じ色の模様だねっ」
詩乃ちゃんが後ろを振り返り、私たちの羽織とその子の羽織を交互に見比べて言った。
「えっと……」
少しだけ喉が渇くような緊張感を覚えながら、私は勇気を振り絞って声をかけた。
「私、あなたと話してみたいなって思ってたんです。 歓迎会では会えなかったから」
その人は、黙ったまま瞬きをして、私の顔を見つめていた。鋭いようで、どこか静かな眼差し。声を返す代わりに、その視線に浮かぶ小さな疑問が伝わってくる。
(——どこで会ったんだろう、って顔だ)
私はその意図に気付いて、少し早口になって話した。
「あの、私……寮の部屋に案内される時に、エレベーターであなたを見かけたんです」
その瞬間、その人の瞳が僅かに揺れた。驚きに目を見開き、私をもう一度よく見ようとするように、ジッと見つめ返してくる。
私は視線を逸らさず、静かに微笑んだ。
「ちょっとビックリしたけど……それ以上に、何て言うか。……仲良くなりたいなって、思ったんです」
言葉にしてしまうと、思っていたよりもずっと恥ずかしくて、胸の奥がソワソワする。
でも、嘘はひとつもなかった。
しばらくの沈黙が流れる。
その人は、それまで無表情だった顔に、ほんの僅かだけ唇の端を緩めた。
「……へぇ、あたしのこと知った上で、仲良くなりたいんだ?」
その声は、低くハスキーで、どこか乾いた響きを持っていた。だけど、言葉遣いは丁寧で、柔らかな女の人のような話し方だった。でもその声の芯には、はっきりとした男性の響きがあった。
私は少し驚いたけど、すぐに気持ちを立て直して、真っ直ぐに答える。
「っ……はいっ」
その子は目を細めると、小さく笑みを浮かべた。
「変わった子ね。自分から仲良くなりたいなんて、初めて言われたわよ」
そう言われた途端、詩乃ちゃんが勢いよく体ごとこちらを向いた。
「え〜っ! 私は会ったの初めてだけど、莉愛ちゃんから話を聞いた時、仲良くなりたいなって思ったよっ!」
「あら、嬉しいわ。大体は避けられることが多いのに」
その人はあっけらかんと笑った。まるで、気まずさも偏見もとうに受け流す術を身につけているように。
私は少し胸が痛くなって、そっと聞いてみた。
「あの……気を悪くしてませんか?」
「ん〜ん、大丈夫よ。寧ろ嬉しいくらい」
その人は、笑って肩をすくめた。その声には、不思議と軽やかさと強さが混ざっていた。
「TPOはちゃんと守るわ。その中で、自分の好きな服を着て、好きなように振る舞ってるだけ。……それって、悪いことじゃないでしょ?」
言葉は軽やかだったけど、その声の奥にはしっかりと芯があった。
「だからね、胸を張っていたいの。自分で選んだ自分なんだから」
その言葉は、ふわりと軽く放たれたのに、まるで心のどこか深いところに真っ直ぐ届いてきた。
彼の姿勢は、自分に素直でいることの強さをそのまま体現しているようだった。
「男子寮だと、その……ちょっと大変なこともある?」
詩乃ちゃんが、少しだけ声を落として尋ねた。その声には興味というよりも、どこか心配の色が滲んでいる。
その問いに、その人は一瞬だけ目を見開き——すぐに納得したように、ふっと表情を和らげて口を開いた。
「あぁ、なるほど。そう思うわよね。でもね、あたし、こんな格好してるけど、性自認は男なの。」
「そうなんだっ!?」
詩乃ちゃんが大きな目をさらに見開いて、驚きの声を上げた。
「そっ。だから寮では、振る舞いも格好も男モードって感じかしら。昨日の歓迎会の時もそうだったから、気付かなかったでしょ?」
その子は楽しげに笑った。どこか冗談めかしながらも、その言葉には誤魔化しのない、真っ直ぐな透明さがあった。
強さと柔らかさ、そのどちらもを含んだその笑顔に、私は胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
「でも、どっちもあなたなんですね」
私がそう言うと、その子はパチリと瞬きをして、少しだけ目を見開いた。だけどすぐに、ふっと頬を緩めて微笑んだ。
「……そういうこと。ふふ、ちゃんと見ててくれてるのね」
その笑顔が、どこか誇らしげで、でも少し照れているようにも見えて、私まで嬉しくなった。




