残る香り、続く想い
夜の空気が、少しだけ変わっていた。
昼の熱を残していた風は、
いつの間にかやわらかく冷えていて、
頬を撫でるたびに、
静かに季節の終わりを知らせてくる。
私は自室の窓辺に寄りかかって、
ぼんやりと外を見上げた。
空には、いくつもの星。
あのとき見た一番星は、
もうどれだったのか分からない。
代わりに、
いくつもの小さな光が、
まるで重なり合うみたいに瞬いていた。
(……終わっちゃったな)
ぽつりと、胸の奥で呟く。
楽しかった時間ほど、
どうしてこんなにあっという間なんだろう。
手を伸ばせばまだ触れられそうなのに、
振り返った瞬間には、
もう少し遠くに行ってしまっている。
机の上に置かれている
香袋へと視線を落とす。
藍染の布に、白い模様。
黒に見えて、光で緑を返す組紐。
指先で持ち上げると、
あのときと同じ重みが、
静かに手のひらに収まった。
そっと撫でる。
くしゃり、と小さな音がして、
ふわりと香りがほどける。
茉莉花の優しい甘さと、
白檀の落ち着いた香り。
吸い込むたびに、
胸の奥がゆっくりほどけていく。
「……いい匂い」
小さく零して、
目を閉じた。
あのときの光景が、
ゆっくりと浮かび上がる。
少し驚いた顔。
困ったみたいな声。
それでも、
まっすぐに向けられた言葉。
——ずっと、続けようね。
思い出した瞬間、
胸の奥が、くすぐったくなる。
(……ずるいな)
そんなふうに言われたら、
大事にしたくなるに決まってる。
香袋をそっと胸元へ引き寄せて、
少しだけ抱きしめる。
布越しに伝わる感触が、
ほんのりと温かい気がした。
その温もりのまま、
ふと——
詩乃ちゃんのことを思い出す。
お祭りの後の、帰り道。
あの笑顔の理由も、
あの少しだけ照れたような声も。
(……もう、大丈夫なんだね)
自然と、口元がゆるむ。
誰かのことを想って、
誰かに想われて、
それがちゃんと届いている。
そんな当たり前みたいなことが、
すごく大事なことなんだって、
少しずつ分かるようになってきた気がする。
気づけば、
私の周りには、たくさんの想いが増えていた。
言葉にしなくても伝わるもの。
ちゃんと伝えたもの。
まだ、少しだけ胸の奥にしまっているもの。
どれも形は違うのに、
どれもちゃんと、ここにある。
それでも——
どれも、大事にしたいと思えた。
窓の外に目を戻す。
遠くで、灯りが揺れていた。
祭りの名残みたいに、
まだどこかが、かすかに賑やかで。
でもその音も、
少しずつ、夜の中に溶けていく。
さっきまでそこにあったものが、
静かに消えていく感じ。
寂しいのに、
嫌じゃない。
むしろ、
次が来るんだって分かるから。
夏休みが終わる。
この空気も、
この時間も。
全部、
少しずつ次へ変わっていく。
手の中の香袋を、
もう一度見つめる。
今日のことも、
あの時間も、
ここにちゃんと残っているみたいで。
少しだけ、安心する。
新学期が始まる。
どんなことがあるかな。
少しだけ、不安。
でも——
入学前のときみたいな、
ひとりで抱える不安じゃない。
ちゃんと、
隣にいる人たちの顔が思い浮かぶ。
(……楽しみだな)
自然と、頬がゆるんだ。
私はそっと、
香袋を引き寄せる。
ふわりと広がる香りが、
背中を押してくれるみたいだった。
窓の外では、
星が瞬いている。
あの日よりも、
少しだけ増えた光の中で。
私はゆっくりと目を閉じた。
胸の奥に残る余韻と、
これから始まる時間を抱えながら。
静かに、
次へ進む準備をするみたいに。
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