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06

 玄関を開けると、淡い花の香りが空気の中に溶けていた。


 本の紙とインクの匂いが僅かに混じっていて、それがこの家の静けさを形造っている。


「……ただいま」


 誰もいないと分かっているのに、つい小さく呟いてしまう。


 ブーツを脱ぎ揃えた後、スリッパに足を滑り込ませる。布越しに伝わる床の冷たさが、外の空気の名残をそっと消していった。


 リビングの灯りをつけると、柔らかな光が広がり、(けやき)の床が穏やかに艶めいた。


 猫脚のテーブルがその光を映し、花模様の布を張ったソファが静かに並んでいる。


 そのままダイニングへ行くと、壁際の棚には和紙張りの引き戸とガラス戸が混ざり合い、ステンドグラスのランプがほんのりと橙色の光を投げかけていた。


 どこか懐かしい木の香りと、キッチンからくる紅茶の残り香のような甘い匂いが混ざり合う。


 西洋の洒落た装飾と、和の落ち着いた木の匂いが静かに溶け合っている。


 その調和が、この家の時間をゆっくりと進ませているようだった。


(……変わってない)


 心の奥で、そんな言葉が静かに浮かぶ。


 何も変わっていない風景に、胸の奥がじんわりと温かくなる。この家に帰って来たのだと、ようやく心が遅れて実感した。


 お父さんもお母さんも、きっと一緒に帰ってくる。それまでに着替えておこうと思い、私はスリッパの音を響かせながら階段を上った。


 二階の端から二番目の扉。ドアノブを回して部屋に入ると、ふわりと茉莉花の香りが迎えてくれた。


 部屋の空気は少し湿っていて、外の雨上がりの気配がまだ残っている。


 羽織紐を外して机の端に置き、羽織を脱いでクローゼットの中の羽織掛けへ。


 制服のタイトスカートとワイシャツを脱ぎ、代わりに緩いカットソーとショートパンツに着替える。


 肌にひんやりとした空気が触れて、ふっと力が抜けた。一日中張っていた緊張の糸が、音もなく解けていく。


 脱いだタイトスカートは畳み、ワイシャツを手にして階段を降りて、お風呂の脱衣所にある洗濯カゴへそっと入れる。


 そのままリビングへ向かうと、カーテンの隙間から薄金の光がテーブルの上に差し込んでいた。


 夕陽の名残が、家の輪郭を柔らかく照らしている。


 壁の時計が、コトリ、と小さく音を立てて針を進めた。その音が、家の静けさを一層際立たせる。


 ソファに腰を下ろすと、柔らかい感触がじんわりと背中に伝わる。


 外では風が梢を揺らし、雨粒を払うように葉の音を立てている。私はその音に耳を澄ませながら、ゆっくりと息を吐いた。


 私は目を瞑り、二人が帰ってくる車の音を、ぼんやりと待った。



* * *



「——いま。あらっ——?」


 誰かの声が、遠くから響いてくる。


 柔らかくて、温かい。どこか懐かしいその声を耳が覚えていて、心の奥がふわりと揺れた。


 だけど、瞼が重い。いつの間にかソファに横になって眠ってしまったみたい。身体の奥まで眠りに沈んでいるようで、思うように動かせない。


 世界はまだ夢の続きのように、ぼんやりと滲んでいる。


「寝てるんだ」


 低く優しい声。今度ははっきり聞こえた。


 ——お父さんだ。


 毛布の布擦れの音がして、誰かがそっと近付いて来る気配がした。


 淡い花の香りに、夜の冷たい空気が少しだけ混ざる。その香りを吸い込むと、不思議と安心する。


 ——お母さんの匂いだ。


 頬に、ふんわりとした温もりが落ちる。きっと毛布が掛けられたんだと思う。


 その瞬間、瞼の裏に小さな光が差し込んだ。世界がゆっくりと輪郭を取り戻していく。


(……お母さんだ)


 半分だけ目を開けると、ぼやけた視界の中でお母さんが私を見つめていた。


 その表情がふっと和らぐ。少し驚いたように目を丸くした後、優しく笑った。


 その隣には、お父さん。


 安心したような笑顔で見つめ返してくれている。


「起こしちゃったね。ごめんね、莉愛」


 お母さんがそっと囁きながら、私の頭を撫でた。


 その手の温もりは、毛布よりもずっと柔らかかった。撫でられる度に、心の奥までポッと光が灯るような気がする。


 私はゆっくりと身体を起こした。


 眠気の残る世界の中で、お父さんとお母さんの笑顔がやけに温かく見える。


 リビングの灯りがその輪郭を優しく縁取って、光が家の空気に溶けていく。


「ううん……おかえりなさい」


 少し掠れた声でそう言うと、お父さんが目を細めた。お母さんも微笑んで、私の頬を軽く撫でる。


「ただいま。莉愛も、おかえりなさい」


 その言葉が、胸の奥に静かに()みていく。


 夢と現の境目が溶けて、夜の温もりと共に世界が戻ってくる。


 その瞬間、家という場所の優しさを、改めて知った気がした。

 眠気をスッキリさせたくて、お風呂に入った。久し振りの我が家のお風呂は、やっぱり落ち着く。


 学校の大浴場にも慣れたけど、こうして少し体を縮めて入る小さな湯船の方が、心の奥まで温まる気がする。


 壁に反射する湯気の揺らぎを眺めながら、ほうっと息を吐くと、知らないうちに緊張が解けていった。


 家の空気が、身体の隅々まで馴染んでいく。


 湯から上がり着替えると、髪の水気をタオルで(ぬぐ)いながら脱衣所の鏡の前に座った。


 鏡の中の自分は、もうスッキリした顔をしている。


 右手で保湿クリームを顔に塗りながら、ドライヤーを手に取ったその時——


 コンコン、とドアがノックされた。


「莉愛。お母さんだけど、入ってもいい?」


「どうぞっ」


 明るく返事をすると、そっとドアが開いて、お母さんが中を覗いた。私はそれを、鏡越しに見る。


 私の姿を確認してから、静かに足を踏み入れる。その丁寧な仕草に、胸の奥がじんとした。


 「どうぞ」って言ったのに、それでも確認してくれる。そういうところが、お母さんらしい。


「髪の毛乾かすところ? お母さんがやってもいい?」


 声のトーンが少し優しくなった気がして、自然と笑みが溢れた。


「本当っ! 嬉しいっ」


 そう言って振り返ると、お母さんはもうドライヤーを受け取る姿勢で手を差し出していた。


 私はそれを渡すと、義手が小さく音を立てた。ドライヤーから温かな風が流れ出すと、お母さんは手の感覚で温度を確かめ、そっと私の髪に風を当てた。


 温風が首筋を撫でて、思わず肩がすくむ。でもすぐに、その柔らかなリズムに身を任せる。


 髪の間を風が通り抜ける度、乾いた音と一緒に、お風呂上がりの石鹸の香りと、お母さんの淡い香水の香りが広がった。


 ドライヤーの柔らかな風が、髪の間をゆっくりと通り抜けていく。その音に紛れるようにして、お母さんが穏やかな声で尋ねた。


「学校はどう? 新しいお友達、できた?」


 その問いに、私は鏡越しにお母さんを見上げた。温かな笑顔がそこにあって、胸の奥が少しふわっとした。


 私は口を開かずに、にこりと笑って頷いた。


「そう、よかった」


 お母さんも優しく微笑み返してくれる。その笑顔に背中を押されるように、私は話し始めた。


「あのねっ——」


 言葉が弾んでいく。


 弥生寮の友達のこと、クラスの子たちのこと。それから、カナタや詩乃ちゃん、拓斗のことも。利玖のお陰で知り合えた先輩たちのことも。


 話しているうちに、楽しかった時間の断片が次々と蘇ってくる。


 お母さんは「へえ」「そうなの」と相槌を打ちながら、私の話をひとつも溢さずに聞いてくれた。


 その表情はずっと柔らかかった。


 やがて、ドライヤーの音が止まる。静けさが戻ると同時に、温風の余韻が頬に残った。


 お母さんはヘアオイルを手に取って、生身の左手にオイルを垂らして、温もりを馴染ませるようにして広げる。


 それから私の髪に指を通しながら、穏やかに囁いた。


「このヘアオイルの香り、何の花だったか覚えてる?」


「えっと……詩乃ちゃんに聞かれたんだけど、ド忘れしちゃって……」


 お母さんはクスッと笑って、手を止めずに答えた。


「これはね、『ジャスミン』。莉愛の好きな香りでしょ」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。


 そうだ、ジャスミン。茉莉花。


 緑の教会の図書室で、カナタが植物図鑑で教えてくれた。白くて、星のように小さい花。


 ——莉愛の花だよ。


 そう教えてくれた機械混じりの声が、ふと耳の奥に蘇る。


 お母さんの指が髪を撫でる度に、ふわっと甘い匂いが広がった。その柔らかい香りが鼻をくすぐると、胸の奥にあった何かがそっと緩む。


 頭の中に、小さな光がぽつりと灯って、そこから思い出がゆっくりと溶け出してくる。


 カナタと図鑑を抱えて教会の温室へ行った日のこと。扉を開けた瞬間の、温かい空気と草と土の匂いを、今でもちゃんと思い出せる。


 「どれかな〜」なんて、カナタと小声で話しながら歩いたっけ。温室の光は柔らかくて、ガラス越しの明るさがちょっとだけ特別に見えた。


 途中で真耶と司にも会って、司が見つけて走って行って——その先に、白い花がたくさん咲いていた。


 あの時の甘い香りが風に乗ってふわっと広がって、思わず息を止めちゃったほど綺麗で、胸がギュッとなるくらい感動した瞬間の映像が、脳裏を掠めた。

ここまで読んでくださりありがとうございます。もし少しでも面白いと思っていただけたら、感想や評価で応援していただけると嬉しいです。

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