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05

 私と拓斗は、ゆっくりと詩乃ちゃんたちの元へ歩み寄った。雨上がりのアスファルトがまだ少し湿っていて、足音に水気が混じる。


「おばさん、こんばんはっ」


「……こんばんは」


 私と拓斗が挨拶をすると、詩乃ちゃんのお母さんは私たちに微笑んだ。その笑顔は、いつも私たちの空気を明るくしてくれる、あの詩乃ちゃんの笑顔とそっくりだ。


「こんばんはっ、おかえりなさい」


 その声も、詩乃ちゃんにそっくりで——聞いているだけで胸の奥が柔らかくなる。


 おばさんの視線が、詩乃ちゃんへ移る。


「軌車、混んでなかった?」


「大丈夫っ! ずっと座れたよ!」


「それなら、良かったわね」


 二人の笑顔が向かい合う。雨上がりの空気の中で、まるで陽だまりがそこだけに生まれたみたいだった。


 そんな光景を見ていると、心の奥がふわりと温まる。


「さてと、それじゃあ莉愛ちゃんと、えっと……拓斗くんは、どうやって帰るのかな?」


 おばさんは優しい声でそう言って、私たちに視線を向けた。


「あっ、おれ……僕は迎えが来てます」


 拓斗の視線はロータリーの方へ向く。そこには一台の黒い車が見えた。


 たくさんの魔械車(マギアカー)が並んだ列の中で、それだけがどこか上品な雰囲気をまとっている。


(……やっぱり、音楽家の家って、ちょっと特別なんだな)


 そう思いながら、ほんの少しだけ距離を感じた。だけどそれは、羨ましさよりも、どこか眩しい憧れに近かった。


「そう? それなら安心ね。莉愛ちゃんは?」


「私は……歩いて帰ります」


 自分の声が、少し小さく響いた。


 お父さんもお母さんもまだ仕事中。いつものように鍵はポストの裏。静かな家に帰る光景が、頭の中に浮かんだ。


「あら、そうなの? じゃあ、送っていってあげるっ」


 おばさんの言葉に、思わず目を見開いた。胸の奥で、小さな波が立つ。


 久し振りの家族の時間に、私なんかが入り込んでしまっていいのだろうか——そんな遠慮の気持ちが、心の隅で静かに広がっていく。


 だけど、その空気を打ち消すように、詩乃ちゃんがパッと笑顔を咲かせた。


「そうだよっ! 莉愛ちゃん、乗ってって! たっくんも、莉愛ちゃんと帰りたいよね〜?」


 その声は、まるで太陽が雲を突き抜けるように明るかった。


 詩乃ちゃんがたっくんの顔を覗き込むと、たっくんは詩乃ちゃんの髪をいじっていた手を止め、私をジッと見つめた。


 まん丸の瞳に、柔らかい光が映っている。ぷっくりしたほっぺが少し揺れて、その可愛らしさに思わず息を呑んだ。


 そしてたっくんは私に手を伸ばして、小さく唇を動かした。


「……りぁちゃー」


「っ……!」


 一瞬、世界の音が遠のいたように感じた。


 あの小さな口から、自分の名前が溢れた。


 それだけのことなのに、胸の奥がふっと解けて、温かいものが広がっていく。


 私はたっくんと目線を合わせながら、伸ばされたその手を右手でそっと包み込む。


「そうだよっ、莉愛だよ。覚えててくれたの?」


 自然と声が弾んでいた。


 たっくんはニコっと笑って、私の指ギュッと握り返してくれる。


「莉愛ちゃん、遠慮しなくていいのよっ。乗ってってくれると、おばさんも安心できるんだけどなぁ」


 その瞬間、心の中の遠慮がスッと溶けて、代わりに柔らかな光が灯った気がした。


「……ありがとうございます。じゃあ……お願いします」


 私は素直に言うことができた。まるで梅雨明け前の風が、優しく背中を押してくれるようだった。


 詩乃ちゃんはぴょんぴょん跳ねて喜んでくれて、たっくんはその揺れを楽しんでいるように笑っている。


「……では、僕は失礼します」


 拓斗が礼儀正しくおばさんへ挨拶をした。おばさんも「気をつけてね」と声をかけると、拓斗はペコリと頭を下げる。


「拓斗くんっ、また日曜日にここで待ち合わせようね!」


 詩乃ちゃんの誘いに、僅かに口角を上げながら頷く拓斗。そのまま自分の車へ歩いて行った。


 おばさんに促されて、私たちはロータリーに停められた車へ向かった。


 濡れたアスファルトから立ち登る雨上がりの匂いが、初夏の光に混ざって鼻をくすぐる。


 詩乃ちゃんは歩きながら、たっくんのムチムチほっぺに頬擦りをしている。


「たっくん、今日カボチャさん食べたでしょ〜? 甘い匂いがする〜」


 頬擦りが終わると、片手で両ほっぺを挟むようにムニムニする。されるがままのたっくんが可愛くて、自然と緩んでしまう顔を隠すように口元に手を添える。


 さっきまで軌車の窓越しに見えていた夕陽が、今は建物の隙間から光を落としていて、車体の曲線を柔らかく照らしている。


 おばさんが義足を鳴らすと、軽い機械音と共に車のドアが開いた。


「さあ、どうぞ。莉愛ちゃん、後ろの席に座ってね」


「ありがとうございます」


 頭を下げてから、私はドアを開けた。シートに体を預けると、ほのかに甘い香りが鼻先を掠める。


 車内は静かで、外の喧騒がガラス越しに遠のいていくようだった。


 後ろの席の真ん中には子供用のシートがあって、詩乃ちゃんはたっくんを座らせると、器用にシートベルトを装着させる。


 たっくんは私と目が合うと、嬉しそうに小さく笑って「りぁちゃー」と呟いた。


 その声に胸の奥がふわっと弾み、また頬が緩む。


 おばさんが運転席に座りまた義足を鳴らすと、低い振動音と共に車内のライトが淡く灯った。


「じゃあ、帰りましょうか」


 その言葉と同時に、車が静かに走り出した。タイヤが濡れた路面を滑る音が、柔らかく耳に届く。


 窓の外では、街の景色がゆっくりと後ろに流れていく。夕陽に照らされた舗道に溜まった水溜りが金色に輝き、その反射が車内を優しく染めた。


 フロントガラスの向こうで、陽の光がまた一際まぶしく揺れる。たっくんの顔に西陽が当たると、目をギュッと瞑り眩しそうな顔になる。


「たっくん、大変だっ! おひさまがいたずらしてるよっ」


 詩乃ちゃんが、クスリと笑いながらたっくんの目元に手をかざした。


 その仕草は、姉の愛情でそっと包み込むような優しさに満立てるように感じた。


 たっくんはその手を小さな右手で掴むと、肩先までしかない左腕を伸ばして、詩乃ちゃんの指先を掴もうとした。


 その仕草があまりにも一途で、思わず胸がキュッとなった。


 私はその左腕にそっと視線を落とし、運転席のおばさんに尋ねる。


「……たっくんは、今年、義手を付けるんですか?」


 おばさんは運転しながら、少し考えるように答えた。


「ん〜、早生まれだからどうしようか迷ってるの。でも、右手だけでも上手にご飯を食べられるし……やっぱり今年かなぁ、って思ってるの」


 その声には、母親らしい温かさと、どこか小さな不安が混じっていた。


 私は静かに頷く。魔械(マギア)義肢を付ける時期。義足はどうかは分からないけど、義手の場合は生身の手が利き手として器用に扱えるようになったタイミングで義手を付ける。


 たっくんも、タイミングで言うと大体今くらい。もうその時が近いんだ。


「義手でお目目、擦らないようにしないとね〜」


「ね〜」


 詩乃ちゃんの語尾を、たっくんが真似して返す。


 声はまだ幼くて、言葉の端がふにゃりと丸い。


 お姉ちゃんとのお喋りが嬉しいのか、小さな足をパタパタと動かすたっくん。


「魔法はお父さんとお母さん、どっちがあげるんですか?」


 そう尋ねると、おばさんは柔らかく微笑んだ。


 魔法をあげる——


 それは、この世界で一番優しくて、そして神聖な儀式。


 私たちは、生まれた時から魔法が使えるわけじゃない。


 魔械(マギア)義肢を扱うには、魔法使いでなければならない。だから、義肢をつけるその日、大人から子へと魔法が“受け渡される”。


 正確には、あげる人の魔法を“模写”するのだ。


「たっくんにはお父さんかな〜? 詩乃ちゃんには私ががあげたからねっ」


 そう言っておばさんは笑うと、夕陽に照らされた髪が橙色に煌めいた。


 魔法をもらった子は、体に少しだけ変化が起きる。


 まず、その黒髪に光が当たると特定の色で煌めく。それは、魔法をくれたその人の髪の煌めきが反映される。


 もう一つは瞳。視覚魔法を使う時に、私たちの瞳は同じように淡く光る。


 私はお母さんからもらったから『青』、利玖はお父さんからもらったから『赤』に煌めく。


 『青』は、青と言っても水色に近い色に煌めく。だけど、なぜか私の髪の煌めきは濃い青に見える。


(髪質の問題かなぁ?)


 私は自分の毛先を摘んだ。夕陽を受けて微かに青く光る。


 癖のない、真っ直ぐですべすべな髪。寝癖がついても、すぐに取れるから助かる。


「じゃあ、たっくんは黄色に煌めくんだねっ! 絶対かわいい〜!」


「きゃ〜」


 詩乃ちゃんがたっくんの頬を指先でそっとつつくと、たっくんはくすぐったそうに声を上げて笑った。


 その笑い声が、車の中の空気を一瞬で明るく染める。そんな光景を見ているだけで、胸の奥が優しく解れていく。


(きっと詩乃ちゃんは、どんな色でも「可愛い」って言うんだろうな)


 魔法とか義肢とか、難しいことなんて関係なくて——ただそこにある「家族」という温もりが、こんなにも綺麗に感じられるなんて。


 そんなことをぼんやり考えているうちに、車は静かに減速した。


 窓の外には、見慣れた通り。いつも通っている角を曲がったところで、おばさんがブレーキを踏む。


「あ〜ん、もう着いちゃった〜……」


 詩乃ちゃんが名残惜しそうに息を吐く。その声に思わず笑みが溢れる。


「たっくん、莉愛ちゃんにバイバーイってしよ?」


「ばっばーい!」


 たっくんは右手首を一生懸命くるりと捻って、私に手を振ってくれる。その小さな指の動きに、ギュッと心を掴まれた気がした。


 私は笑顔で手を振り返す。


「バイバイ、たっくん。また今度、遊ぼうね」


 手を振りながら言うと、たっくんは嬉しそうに何度も頷いた。


 ドアを静かに押し開けると、そこには見慣れたはずの我が家が、どこか懐かしい色をして広がっていた。


 車の中に残っていた温もりが、背中からそっと離れていく。鞄と傘を忘れずに手に取って、一歩、地面を踏みしめた。


 車を降りてドアを閉める前に、おばさんへ顔を向ける。


「おばさん、今日は本当にありがとうございました」


 おばさんは運転席から振り返り、優しく目を細めた。


「いいえ〜、こちらこそ。詩乃ちゃんと仲良くしてくれて、ありがとうねっ。お母さんとお父さんにもよろしく伝えてね」


「はいっ」


 車のドアを軽く閉めると、ほんの少し名残惜しい静けさが訪れた。

 

 車の窓越しに見える詩乃ちゃんとたっくんが、まだ笑顔で手を振ってくれていた。その光景を胸に焼きつけるように、私は小さく手を振り返した。


 それを見送るように、風が髪を揺らした。少しずつ遠ざかっていく車の影を、私はしばらく見つめていた。


(ああ……やっぱり、詩乃ちゃんの家って、温かいな)


 そう思いながら、私は家の玄関まで続く小道を歩き出した。


 足元に伸びた影が、風に揺れる木々の影と重なって、金色の中でゆらゆらと溶けていった。


ここまで読んでくださりありがとうございます。もし少しでも面白いと思っていただけたら、感想や評価で応援していただけると嬉しいです。

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