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01

 試験も無事に終わって、今日は待ちに待った金曜日。


 張り詰めていた一週間の最終日。みんなの顔に小さな安堵の色が灯っていた。


 ——それでも、窓の外は相変わらずの梅雨空。


 そのせいか、嬉しさの中にも、どこかしら静けさがあった。


 窓から見える浅葱鼠色(あさぎねずいろ)の空の向こうで、光がぼんやりと滲んでいる。


 梅雨の日はいつも少し薄暗い。だけど、その薄らとした光の中に漂う雨の匂いは、不思議と心を落ち着かせてくれる。


 少し開いた窓から、外の湿った空気がゆっくりと入り込んでくる。


 梅雨の雨は、どこか甘い匂いがする。冷た過ぎず、優し過ぎず、ただ静かに教室の空気を濡らしていた。


 外からは、雨が中庭のレンガ道を叩く音と葉っぱに当たる音が聞こえてくる。


 規則的なその音に耳を澄ますと、まるで世界全体が静かに息をしているみたいだった。


 柔らかな雨が、校舎の壁を伝い、窓越しに私たちを包み込む。


 机の上に伸ばした左腕が、窓の外の雨模様をほんのりと映していた。


 金属の表面が、しとしとと降る雨の光を拾って淡く輝く。


 義肢と体の繋ぎ目は、こんな日は鈍く疼くと聞いたことがある。


 だけど、間に埋め込まれた命律結晶のお陰で、今はただ静けさの中に身を委ねることができるけど——


 この義手は、本当に自分の一部なんだと言われてる気がして、少しだけ、複雑な気分になる。


 視線を落とすと、胸元の菊理が目に入る。それは教室の明かりを受けてキラリと光った。


 指先でそっと触れると、ほんの一瞬、あの日の映像が脳裏を掠めた。


 ——自分のものを利用された気持ち悪さ。


 ——怒鳴り声。


 ——汚された思い出。


 胸の奥に、微かな痛みが走る。


 だけど、もう涙は出なかった。


(あぁ……日常が、戻ってきてるんだ)


 まだ胸の奥に小さな棘みたいな痛みが残っていて、「そんなこともあったな」と笑えるほどには遠い過去じゃない。


 それでも今は、いつも一緒にいてくれるみんなのお陰で、ちゃんと“今”を歩いていける気がした。


 キーン、コーン、カーン、コーン——。


「はい、では授業を終わります」


 日直の号令に合わせて全員が立ち上がり、先生に頭を下げる。


 雨の音が、机のざわめきに溶けていった。


 午前中最後の授業が終わると、私は教科書とルーズリーフとバインダーをまとめて、静かに席を立つ。


 廊下へ向かいながら、義腕の関節が微かに音を立てた。


 廊下にあるロッカーに右手で取手をそっと握ると、僅かな間をおいて「カチャッ」と音がした。


 小さな解錠音が、廊下のざわめきに溶けていく。


『莉愛』


 ロッカーを開けた瞬間、背後から機械混じりの声が聞こえた。


 独特の響き方をするその声を聞けば、誰なのかはすぐに分かる。


「なぁに? カナタ」


 私はなるべく明るく返事をした。せめてその声にだけは、元気を届けたかったから。


『大丈夫? 元気ないように見えて……』


 振り向いた先で、カナタはいつもの無表情に近い顔をしていたけど、眉尻が少しだけ下がっていた。


 心配そうにそう言ってくれるその声が、雨で冷えた空気の中を優しく震わせた。


(相変わらず優しいなぁ……)


 冷えた体が、温かくなった気がした。


 それだけで、窓の外の色が少し薄まったように感じた。


「ううん、そんなことないよっ。こういう天気の時って、何か気が滅入らない?」


 私はそう言って、できるだけ自然に微笑んだ。


 今度はちゃんと、本物の笑顔だった。


『うーん……』


 カナタは少し納得のいかないような声を出して、チラリと教室の方を見た。


「優ちゃーん!! 見てみてー!」


「本当に元気ね、詩乃は……」


 教室の方から、元気いっぱいな詩乃ちゃんの声と、それにやや呆れたような優ちゃんの声が響いてきた。


 外の雨音よりもずっと賑やかで、どこか安心できる響きだった。


 私とカナタは思わず顔を見合わせる。


「……そうでもないみたいだね」


 私はふふっと笑ってしまう。


 カナタのチョーカーが、僅かに息を漏らす


 まるで一緒に笑ってくれたみたいだった。


「そういえばロッカーの鍵、カナタの案が採用されたんだねっ」


 ロッカーの表面を撫でると、ひんやりとした金属の感触が指先に伝わった。


 あの事件の後、新しいものに取り替えられたばかりのロッカー。


 魔械(マギア)義肢を鳴らさずに開けられるようになったのは、カナタの提案が採用されたからだと聞いた。


 嗅覚魔法、指紋認証、魔力感知、そして魔力の波長照合——


 四重のロックが掛けられた新しいシステムは、重厚で、それでいてどこか安心できた。


『そうみたいだね。……でも、開くまでの間がやっぱり気になるなぁ』


 カナタはそう言いながら、ロッカーの前で顎に手を当てる。


 その仕草がどこか職人気質で、少しだけ笑ってしまう。


「また改良しちゃうつもり?」


『かもね』


 そう答えるチョーカー越しの声は、雨音よりも柔らかく響いた。


 静かな梅雨の午後。


 少しずつ、確かに日常が戻ってきている——そんな気がした。

 「何だか高等部の先輩たち、ピリピリしてるね……」


 詩乃ちゃんが小声で呟いた。


 スプーンとフォークでミートソーススパゲッティをクルクル巻き取りながら、周囲をチラリと見回す。


 今は食堂。窓の外では、雨上がりの曇り空がまだ重たく、昼下がりの光を鈍く反射していた。


 私たちはいつものメンバー、詩乃ちゃん、優ちゃん、カナタ、拓斗、玲央くん、そして私の六人でテーブルを囲んでいる。


 言われてみれば、確かに周りの空気は張りつめている。


 隣のテーブルでは、資料を広げて真剣に話し合っている先輩たちがいて、向かいの席では、何かのデータを睨みながらスプーンを動かしている人もいる。


 みんな表情が険しい。食堂なのに、まるで静かな戦場みたいだった。


翔環祭(しょうかんさい)が近いからね。先輩たちはみんな必死よ」


 優ちゃんが味噌汁を一口すする。


 その何でもない口調に、いつも通りの落ち着きがあって、私の胸の辺りにふっと小さな安心が灯る。


翔環祭(しょうかんさい)って、そんなに大事なのか?」


 拓斗が箸を止めて首を傾げると、優ちゃんは苦笑しながら答えた。


「成績次第でオファーが来るの。推薦も、賢者への弟子入りの話も。……実質、就職活動みたいなものよ。だから高等部の先輩たちは、もう戦闘モードなの」


「へぇ〜……そりゃ怖い顔にもなるわけだ」


 それを聞いた拓斗は、わざと小さく肩をすくめて笑った。


 私も釣られて微笑む。少しずつ、こうして笑えるようになっている自分に、心のどこかでほっとしていた。


 翔環祭(しょうかんさい)——

 天律学園の年に一度の大きな行事。中等部の私たちは出場しないけど、会場の準備や装飾、応援など、祭を支える役割を担っている。


「玲央くんは、利玖の手伝いしてるんでしょ?」


 私が尋ねると、玲央くんは誇らしげに胸を張った。


「おうっ! 練習の準備とか、片付けとか任されてるぜ!」


 利玖のアプレンティスである玲央くんは、いわばマネージャーのような存在だ。


 練習の手伝いだけでなく、道具の整備や水分補給の管理まで、全部自分から引き受けているみたい。


「優ちゃんも、瑛梨香先輩の手伝い?」


 詩乃ちゃんが尋ねると、優ちゃんは少しだけ肩を竦めた。


「えぇ。……でもお姉様が完璧過ぎて、私の出番は荷物持ちと片付けの時くらいね」


 そう言って、優ちゃんは沢庵を一切れそっと摘む。


 音も立てずに口へ運ぶ仕草が妙に丁寧で、どこか絵になる。


 その横顔には、少しだけ寂しそうな色が浮かんでいた。


 だけど、それ以上に“誇らしさ”が滲んでいて、瑛梨香先輩の背中を見つめる優ちゃんの気持ちが、その一瞬に全部詰まっている気がした。


 そんな優ちゃんが微笑ましくて、私はつい小さく笑ってしまった。


 利玖と瑛梨香先輩が出場するのは、翔環祭の目玉競技『双輪疾駆(そうりんしっく)レース』。


 私たちがやった課題の双輪試走をさらに大々的にしたもので、操導者も創駆に乗り、複数ペアが同時に疾走する大規模レース。


 街中を走るコースもあって、赤の賢者が防壁魔法を施していて、一般の人たちも応援に来られる。


「利玖、去年も出たもんね。私とカナタも、街中で応援したことあるよ」


 言いながら、ふと懐かしい景色が脳裏に浮かんだ。初夏の陽射し、ざわめく歓声、そして風を切って走る創駆たち。空気ごと震わせるような音に胸が高鳴ったあの日。


 私の向かいの席でカナタが、小さく頷いた。


『利玖たち早過ぎて、ほんの一瞬しか見えなかったけどね』


「そうなんだよね〜」


 私は笑ってしまった。本当にあっという間で、応援というより、ただ目で追うだけで精一杯だった。


 でも利玖は後日、嬉しそうに「見えてたよ」って言ってくれたのを覚えている。


 あの時の笑顔が今も心に残っている。


 誰かに見守られているって、あんなにも力になるものなんだ。


「涙先輩は出ないんだよねぇ。お手伝い、したかったなぁ」


 詩乃ちゃんの言葉に、私は意外に感じて少し眉を上げた。


 双輪疾駆(そうりんしっく)レースには、操縦者と操導者の他に、戦略を立てる“参謀者”と創駆を設計する“メカニック”がいる。涙先輩なら、メカニックで活躍しそうなのに。


「そうなんだ? 意外だね」


「そうなの〜。何か思うことがあるみたいっ」


 涙先輩の中には、出られない理由があるのか。


 それとも、出たいけど——何かを待っているのか。


 私は食堂の大きな窓の外を見た。


 雨上がりの中庭が、少しぼやけて見えた。


 どこかで、みんなそれぞれに色々な思いを抱えている。


 それでも、こうして笑って話せる時間が戻ってきたことが、何より嬉しかった。

ここまで読んでくださりありがとうございます。もし少しでも面白いと思っていただけたら、感想や評価で応援していただけると嬉しいです。

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